映画『過激派オペラ』より ©2016キングレコード
劇団「毛皮族」主宰の江本純子が自伝的小説「股間」を初監督作として映画化した『過激派オペラ』が10月1日(土)より公開。webDICEでは江本純子監督のインタビューを掲載する。
「女癖の悪い」女演出家・重信ナオコを主人公に、オーディションにやってきた女優・岡高春に一目惚れし、劇団「毛布教」の旗揚げ公演の主演に抜擢する。ふたりの愛憎を中心に据え、江本監督は小さな劇場で行われる演劇の密室性を映画に立ち上がらせる。ナオコと「毛布教」の女優が織りなす群像劇を、登場人物たちの感情の爆発を丁寧に、そして画エモーショナルに描いている。
俳優にいかにチャーミングな「自然動物のように」なってもらうか
──『過激派オペラ』は、江本監督が2006年に発表された小説「股間」が原作になっていますが、どういう経緯で映画化されたのでしょうか?
「『股間』を映画化しませんか?」というオファーがありました。発売された当時の本の帯には〈いちばん恥ずかしいこと、いちばん誇らしいこと〉と書かれてあるのですが、今も同じ気持ちです。しかも今は「10年前に書いたものである」という恥ずかしさもあれば、「半自伝である」と謳っていることでも恥ずかしい部分があって、自分の中では「世の中にはもう忘れてもらっていい」と思っていたくらいです。でも、新しい作品として映画になることで、この小説が少しは成仏してくれたらいいなと思ったんです。
私の中には断る理由がなかったです。私は映画が好きだし、単純に「作りたい!」と思いました。ジャンルは違うけれど、作品を作るということでは映画も演劇も同じだと考えています。
映画『過激派オペラ』江本純子監督
──原作の「股間」を読むと、描かれる年月だけでなく、登場人物の名前まで変わっていて、映画の内容とは全く異なっていることに驚きます。
映画化にあたっては2時間なりの尺におさめるために、「どの部分を抽出して映画的にするのか?」ということを考えながら脚本を作っていきました。小説は9年くらいの年月を描いていますが、エピソードがあまりにも細々としていることもあって、そのままでは不可能です。それでも当初は、3年間くらいの年月を描く内容でした。改稿していく中で、さらに縮まって1年くらいの年月に落ち着いたところで、この映画の予算や撮影日数などが見えてきて、その条件の中で「一番面白いものを作るにはどうすれば良いのか?」と考えた結果、最終的に“ひと夏”を描くことになりました。最初にプロットをあげた時から決定稿に到達するまで3年くらいかかりました。登場人物の名前が変わっているのは、映画と小説を切り離して新たな作品にしていきたかったからです。
──小説は主人公が過去を回想するような形式だったのですが、映画ではその点も変わっていますよね?
実は脚本を書くにあたって、小説を一度も読み直していないんです。小説に書かれているネタに関しては共同で脚本を手掛けた吉川菜美さんが拾ってくれました。なので、小説のように過去を回想するという構造をそのまま映画にするという想いはそもそもなかったです。
──現在進行形の物語になったことで、奇しくも「青春の輝きはひとときである」ということが導かれた作品になった気がします。
私の中で演劇は、毎回「ひとときの輝き」なんですね。この映画の中で描かれていることは、特別の中の特別ということではなくて、演劇の世界では“どこにでもある話”だと思います。私は、その“どこにでもある話”を彼女たちの個性によって、もっと熱のある状態として描きたかったのです。一方で、「どうやってこの物語を終わらせるのか?」ということは、この3年間ずっと悩んできました。その終結点として「みんなでやった舞台のことを、重信がいったん回想する」という形をとりましたが、それはこの映画を“青春もの”にしようと決めたことが影響したと思います。
映画『過激派オペラ』より ©2016キングレコード
──江本監督にとって、演劇を人に見せることと、映画を人に見せることとの違いはどこにありますか?
私は演劇を演出する時、主観的に作ってゆく方だと思います。映画をやって思ったのは、私はこれまで演劇で「いかにその場で生まれることを大事にしてきたのか」また「大事にし過ぎていたのか」ということでした。でも映画は、その場の出来事を繋げていかなければならないので、撮影や編集の段階でもっと客観的な視点が必要だと感じました。
映画『過激派オペラ』より ©2016キングレコード
──それは演出の中で、即興的なものを大事にしてきたということですか?
私の解釈だと、即興では俳優自身が“起こしてゆく”作業が必要です。でも私の場合は俳優に「起こさなくていい」と言っています。そういう意味では、即興とは少し違うのかなという気がします。ここ数年、私が追求している演出方法ですが、俳優には「何もしないでそこにいればいいから」と言います。「何かしたくなった時に何かすればいいから」とも言います。それは私が俳優に対して求める状態が、動物園にいる動物のような状態だからです。究極的には野生の動物になっていただき、傍観者が勝手にそれを見ている状態になるのが理想的ですが、動物園の動物に区切られた場所が用意されているように、俳優も、カメラの前に、あるいは劇場という空間の中に放たれて、観客に見せることを前提とした枠のことを否応にも意識しなくてはいけません。その中で、いかにチャーミングな「自然動物のように」なってもらうか、その姿になってもらうために精神や身体の誘導をしていく演出をしています。映画の場合、その俳優の状態をカメラで撮影するというシンプルなことができますが、演劇の場合は、それをどういう形態や環境でお客さんに見せていくのか? ということをいつも検証しています。
映画『過激派オペラ』より ©2016キングレコード
──映画は目の前で起こる出来事を、意図的にフレーム内にある一部分だけを切り取ることができる一方で、演劇は観客がステージ全体を観ることになるために視点を誘導できないと思うのですが、その違いについてはどうでしたか?
「映画は視点を誘導できるな」と思ったのですが、私は映画・演劇関係なく、どちらかというと「ここを見て下さい」と誘導をしたい方ではないですね。映画の場合も、可能であればずっとワンカットの〈引きの画〉で撮りたいくらいなので。そんなに違いは感じませんでした。
──それでは撮影自体も、ワンテイクでOKということが多かったのでしょうか?
そこは何回でも追究したいです。50回出来るなら50回やりたいくらい(笑)。その中で一番いいカットを選びたいということはあります。演劇の本番はその逆で、一回しかない。でも私は、演劇のたった一回の本番でミラクルが起こるということをあまり期待していません。演劇でも映画でも、何10回もリハーサルをやった中から生まれるものを信じたいです。今回は平均して3~4テイク撮ったと思います。一発OKということは、あまりなかったです。
映画『過激派オペラ』より ©2016キングレコード
今回は撮影の前にキャストを集めて6日間ほどリハーサルをさせて頂きました。本当はその時間をカメラテストなどの時間に当てることもできたのでしょうけれど、私は頂いた時間を俳優の稽古に当てました。
──ということは、リハーサルで仕上げたものを現場で撮ってゆくという感じだったのでしょうか?
リハーサルは数日、実際に「毛布教の稽古場」として撮影する工場跡地で行ったのですが、そこでは“本当にその場にいる人になってもらう”ための稽古をしました。具体的には、朝集合して監督のわたしが「じゃあ始めますよ」と言ったらリハーサルのスタートです。指示は何も出しません。あとは早織さんにナオとして、演出家として、その場を仕切ってもらい、その場にいる劇団員役の俳優たちと好きなように過ごしてもらうようにしていました。わたしが終了の合図「カット」と言うまでその時間が続きます。それが自然と、具体的に脚本に書いてあるシーンの状態が訪れる時もあれば、一向に何も起こらずに1~2時間経過している時もあります。もちろん「次は、このシーンの状態をやってみましょう」と指示を投げる時もありますが、その場合も脚本に書いてあるセリフはいったん忘れてもらい、自分たちの言葉で喋ってもらうようにしました。セリフだけではなく、演じてもらう役のことも台本から読み取れる先入観的な解釈は忘れてもらい、各自が一から構築していけるよう稽古していきました。
映画『過激派オペラ』より ©2016キングレコード
──演劇の場合はリハーサルが出来ると思うのですが、映画の場合は撮影現場で何度もリハーサルをすることはできないですよね?
例えば、中村有沙さん演じる春が毛布教に入団するシーンの稽古をした時は、脚本では春は10秒くらいで毛布教に入団が決まるのですが、リハーサルでは春が入団するまで何時間もかかっています。春が「私、主演女優をやりたいんです」と訪ねてきても、そこにいる俳優たちも「私だって主演女優をやりたくてここにいるんだけど?」という意思で春の言葉に応えるので、脚本の通りには進まないのです。実際本番では佐久間麻由さんが演じる寺山田が春と同じかそれ以上に「女優になりたい」という意思が高い状態で毛布教の稽古場に訪れているのは、このリハーサルを経て変化していきました。脚本上ではナオが春の強い熱意に心打たれて春を主演女優に選びますが、熱意があるのはみな一緒です。ナオが「なぜ春を選んだのか?」は、その場にいる周囲の人間も、それを見る観客にも不可解であってよいと私は考えています。ただセリフ通りにやって予定調和的に事が運ぶこと、それの何がおもしろいの?と、私が普段フィクションに対して抱いている疑念があります。今回はその疑念をとことん戦わせていこうと現場に臨んでいたので、リハーサル、撮影を通じて、脚本から飛躍して生まれ変わっていったシーンが沢山あります。
映画『過激派オペラ』より ©2016キングレコード
小説を書いた時は、客観視なんてできていなかった
──例えば、劇団員が下着姿になって水を撒く場面は、ワンカットの〈長回し〉で撮影したそうですが、〈長回し〉で撮影することは“連続性”という意味で、演劇をやってこられた江本監督の感覚に合っていたということでしょうか?
そうだと思います。「カットを割って部分的に撮っていく」ことが、嘘っぽくなってしまうのではないかと恐れました。それを嘘に見せない緻密な構成の技術があればよいのでしょうけど、私はそれを持っていません。リハーサルを通じて、劇団員を演じた俳優たちが「その場所にいること」を、それぞれ理解してくれたおかげで、いつカメラが回ってもいい状態になっていったと思います。カメラが回っている時も回っていない時も、彼女たちの姿はほとんど変わらない。私にとってそれが、やはり動物園の動物を見ている感じになり、おもしろいと思えるのです。
──“動物園”という言葉が江本監督から何度も出てきましたが、『過激派オペラ』はどこか箱庭的だと感じるところがありました。ある程度限定された空間で、劇団員たちの姿を観客が観察している感覚とでもいいますか。それは江本監督が意図されたものなのでしょうか?
「観客が観察的に見る」ということは、私がやりたいことでもあります。だから、観察に興味のない人は、この映画にピンと来ない可能性もありますよね。俳優のリアクションに関しては、私は何一つ演出していません。あの場にいる彼女たちの意思が集中している状態であれば「何をしてもいい」と考えていました。ただ、その意思を強めるために、動物を調教するのと近いレベルで厳しいことを俳優たちに言うこともあったと思います。
映画『過激派オペラ』より ©2016キングレコード
──この映画を観ていると、江本監督自身が小説を書いたときよりも、この時のことを客観視できているような感じも受けます。
小説の「この時のこと」を書いている時よりは、今の方が書くときや表現するときに人物や起こったできごと対しての客観視をできていると思います。小説を書いた時は、ぜんぜん客観視なんてできてませんから(笑)。
──例えば、ナオがラジカセを蹴って劇団員を叱咤する場面では、彼女が怒っているということだけでなく、その姿を見た劇団員側の気持ちも描いていますよね。
そちら側の気持ちというものを、私自身が知ったのだと思います。例えば、ナオがお金を借りに行く場面がありますよね?小説を書いた当時の私は、お金を借りられる側の気持ちというものを理解していませんでした。高田聖子さん演じる桜田が「働きなさいよ」と言いますが、10年前だったらそういう言葉は出てこなかったと思います。
映画『過激派オペラ』より ©2016キングレコード
どうすれば、彼女の中に傷が生まれるのか?
──これも小説と異なる点ですが、キャストをほぼ女性だけにしたという理由はありますか?
もともと男性が演じる役はあったんです。例えば、桜井ユキさんが演じた出水役は当初男性でした。なので、戦略ということではなくて、脚本を改稿していくうちに、自然な流れで女性ばかりになったというのが本当のところです。
──キャストはどうやって決めたのですか?
主演のふたりはオーディションです。条件として「脱げる」ということはありました。その気概のある皆さんの中で、早織さんと中村有沙さんは、「お芝居の話ができる2人だった」ということがあります。それから私の中では、最終的に残った何人かの中で、2人がカップルに見えたという点も大きかったです。
──早織さんはナオ役を演じるにあたって、どこか“放っておけない感じ”が出ていて、江本監督御本人とはかなり違うイメージがあります。
半自伝的な小説を映画化しているので、〈ナオ=江本〉と思われる方も多いと思うのですが、まず原作の小説もフィクションとして作品化しているので、〈小説『股間』の主人公ジュリ=江本〉ではないですし、そう思われるのは嫌なんです。そして映画化にあたり〈ジュリ=ナオ〉としても書いていません。映画のナオは、私とは全く別の人物です。だから早織さんが演じるにあたって、私自身と違うというのは当然なんですね。彼女に求めたのは、「劇団を引っ張ってゆく」そして「なぜ、そこまで劇団をやりたいのか?」という気持ちが欲しいということでした。そのことに関しては「ここまで人を動かして、人が集まって、他人の時間を使ってモノ作りをするのが、あなたにとってどういうことなのかを考えてください」と彼女に対して、リハーサル中も撮影中も厳しく言い続けました。ナオの抱える孤独や心の傷から生まれる激情的な部分は、早織さん御本人にはないものだったので、酷い言い方になりますが、彼女には傷付いて欲しかったのです。「どうすれば、彼女の中に傷が生まれるのか?」、「どうすれば彼女がこの映画の中で生きるのか?」ということを延々とやったので、早織さんは本当に大変だったと思います。
映画『過激派オペラ』より、ナオ役の早織 ©2016キングレコード
──タイトルにもなっている『過激派オペラ』は、劇中に演じられる舞台劇のタイトルでもある訳ですが、この劇中劇のような〈入れ子の構造〉は、これまでの江本さんの作品に散見できる要素ですよね?
そういう〈入れ子構造〉というものが、「世の中のどこにでもあるのだな」ということは常々考えていました。私は「人が生きていく中では、どこにでも劇がある」と思っているんです。人がそこに立って何かを始めたら、それは既に“劇”です。そこにひとりでも観客がいれば、ふたつの分断された世界が生まれます。その連続性の中でこの世界を見ている、というのが私の論理の中にあるんですね。
──その箱庭的なものとの〈境界線〉を、江本さんが“動物園”と例えていたのが、やはりしっくりきます。
究極の話ですが、境界線ということで言うと、私はこの映画を「スタッフが映り込んでもいいや」くらいの気持ちで撮っていましたから(笑)。
(オフィシャル・インタビューより インタビュー:松崎健夫)
江本純子 プロフィール
1978年千葉県生まれ。脚本家・演出家・俳優。 立教大学在学中の2000年9月、劇団「毛皮族」を旗揚げし、演劇活動を始める。09年より、毛皮族とは異なる作風と上演形態にて劇作品を発表するための場として「財団、江本純子」の活動を開始する。06年、処女小説『股間』を発表。09年『セクシードライバー』、10年『小さな恋のエロジー』が岸田國士戯曲賞最終候補作となる。12年、初の海外公演として、毛皮族『女と報酬(Le fric et les femmes)』をフランス・パリ日本文化会館にて上演する。08年~13年、セゾン・ジュニアフェローとしてセゾン文化財団からの助成を受ける。近年の主な演出作に『ライチ☆光クラブ』、あうるすぽっとと共同製作した『じゃじゃ馬ならし』、『幕末太陽傳』等。
映画『過激派オペラ』より ©2016キングレコード
映画『過激派オペラ』
10月1日(土)よりテアトル新宿にてレイトロードショー
“女たらし”の女演出家・重信ナオコ(早織)は劇団「毛布教」を立ち上げ、旗揚げ公演『過激派オペラ』のオーディションを開催。そんな中出会った一人の女優、岡高春(中村有沙)。春にひと目惚れしたナオコは、春を主演に抜擢し、学生時代からの演劇仲間や新たに加わった劇団員たちと旗揚げ公演に向けて邁進していく。同時に、ナオコの猛烈なアタックにより春との恋愛も成就。絶好調のナオコは旗揚げ公演を大成功に終わらせ、全て順調に進んでいるように思えたのだが……。
出演:早織 中村有沙 / 桜井ユキ 森田涼花 佐久間麻由 後藤ユウミ 石橋穂乃香 今中菜津美 / 趣里 / 増田有華 / 遠藤留奈 範田紗々 / 宮下今日子 梨木智香 岩瀬亮 平野鈴 大駱駝艦 / 安藤玉恵 / 高田聖子
監督:江本純子
原作:『股間』江本純子(リトルモア刊)
脚本:吉川菜美、江本純子
製作:重村博文
プロデューサー:梅川治男、山口幸彦
音楽:原田智英
撮影:中村夏葉
照明:大久保礼司
美術装飾:SAORI
録音:深田 晃
編集:小林由加子
企画・製作プロダクション:ステューディオスリー
製作:キングレコード、 ステュ-ディオスリー
配給:日本出版販売
宣伝:キャットパワー
ビスタ/デジタル/90分/5.1ch/2016年/日本映画/R15+
©2016キングレコード