©石川竜一
2015年に沖縄県を訪れた観光客数は、過去最多の776万人に達した。多くの観光客が足を運ぶ首里城にも、美ら海水族館にも、美しいビーチにも行かず、那覇市内で日々働き、毎週末(あわよくば平日にも)飲み歩いている。那覇に移ってきて1年経ったが、相変わらず私と一般の観光客との溝は埋まりそうにない。私は観光を知らないが、観光客は沖縄のリアルを知らない。観光地として名高い沖縄だからこそ、地の沖縄はなかなか見えてこない。特に泥臭いカルチャーシーンにおいては、今まで語られなさすぎた。そんな地を這うカルチャーシーンに出会う度に、私は少しずつリアルな沖縄に魅せられ、しばらくここに居ることにした。
ある日、行きつけのバーで見かけた石川竜一氏は賑やかな店内の床でぐたっと寝落ちていて、あたりをごろつく不良っぽい兄ちゃんにしか見えなかった。今まで読んだインタビューから感じたイメージとずいぶん違っていた。写真家・石川竜一氏の素の顔が見えるそのバーで、彼の半生をあらためて聞いてみることにした。
(取材・文:山本佳奈子)
P2って中学生の頃は憧れの場所だった
──他のインタビューとかも読んだけど、だいたい、昔ボクシングやってて、辞めてからカメラと出会って、舞踊家しば正龍さんを撮って、っていう話をしてるよね。その流れに、沖縄の他のカルチャーや状況も絡んでるんじゃないかと私は勝手な予想をしてて。まだ1年しか住んでないから沖縄で知らないこといっぱいあるけど、周りの環境とどう接しながら写真で表現してきたか教えてください。米田くんにも入ってきてもらっていいし。あと、私は写真にまったく詳しくない。
(米田くん…米田哲也。取材場所のバー兼ライブハウス「ファンファーレ」のオーナー。石川竜一の旧友)
インタビューを行った「ファンファーレ」店内にて 左:石川竜一、右:米田哲也、手にしているのは「正露丸マン」の被り物。撮影:山本佳奈子
石川:俺も写真詳しくないですよ。米田が入る場所たくさんあると思う。その辺じゃあ一回話します。まず、写真を始める前は、周りには音楽やってる奴ら、スケボーやってる奴とかが多かった。
──今何歳だっけ?
石川:今年32歳です。米田とは同い年。中学校の頃はボクシングやってたんですけど、遊びでは、ヤンキーと遊ぶか、スケボーしてました。溜まり場に行ったら米田とかがいて、CDみんなで貸し合ったりしてました。米田たちはそのまま音楽やり始めて、高校でバンドとか組んでました。でも俺はボクシングやってるから楽器とか触らなくて、でもめっちゃ音楽に憧れてたんです。CD聞きながらボクシングの練習してました。
──どんな音楽聴いてたの?
石川:中学生の頃はハードコア。それから小島とかマイナーリーグとかを聴いてました。高校になって、俺はライブとかも行ってみたかったけど、米田たちはもう音楽のグループに入っててあんまり俺とは話さなかった。音楽やってる奴らとは、なんか壁があったんです。
米田:違うさ。高校が違うから会う機会がもうまったくなくなった。高校では、彼は宜野湾側で俺は浦添側だったから、高校で全く接点がなくなってたんですよ。
(宜野湾市は沖縄本島中部に位置し、南西に浦添市、北に北谷町、東に中城村と面している。また、浦添市は宜野湾市と那覇市の間にある。宜野湾市、浦添市とも、那覇市内へ通勤・通学する人たちが多く住む)
石川:でも俺、あざまっち(石川、米田共通の友達)には「ライブとか行きたい」って言ってみたんだけど俺は呼んでもらえなくて、「さみしいなー」って思ってた。高校卒業して大学生になったときにそういう複雑な感じがなくなっていって、みんなP2(ピーツー)っていう名前のA&Wの横の駐車場に溜まるようになったんです。俺が中学生でスケボーやってた頃は、年上のスケーターのかっこいい人が溜まってた場所。P2って中学生の頃は憧れの場所だったんです。
(A&W…エーアンドダブリュー。”ALL AMERICAN FOOD”がキャッチコピーのファストフード店。日本国内では沖縄県内のみに展開する。ルートビアが有名。沖縄県内の人々のあいだでは「エンダー」と呼ばれる)
P2で鍋 ©石川竜一
──あの58号線沿いの浦添牧港にあるでっかいA&Wだよね。その隣のP2って、駐車場の正式な名前?
米田:正式な名前です。いや、わかんない。溜まり場の名前がP2。
石川:そう。20歳ぐらいのときに、俺、もう行けるんじゃないか、と思って行ってみた。
米田:俺たちは高校生の頃からずっと溜まってたから。
絶景のポリフォニー ©石川竜一
──先輩に気を使うような場所?
米田:いや、僕らが高校で行ってた頃はもう上はいなかった。毎日のように夜中までいて、もう完全に僕らの溜まり場でした。
石川:俺は中学生の頃にスケーターの先輩とかがたまってたのを知ってて、政治的なイメージだったんですよ。めっちゃイケてた先輩のスケーターとかが溜まってた。20歳ぐらいで俺もP2に行くようになって、米田ともまた絡むようになりだした。そこでいろんな話をしてました。音楽の話もしたし、「アートとは」みたいな話も。いろんな話題をあざまっちが企画するんですよ。俺の中では、そのときに聞いた名言とかがいまだに頭に残ってて、核になってる。あのときの精神ってめっちゃ大切だなって今も思ってます。
──例えば?
石川:俺がよく覚えている話題は、あざまっちが言い出した、亡くなった人の誕生日を祝う話。亡くなった偉大なアーティストをあざまっちがググって、「今日は亡くなった誰々の誕生日です」って言う。「それはこういう人、こういうことをやった人です」って。そこから話を広げる。
現在のP2。右奥がA&W牧港店。 撮影:山本佳奈子
──亡くなったアーティストって、例えばどういう人?
米田:誰でもよかったんですよ。ただ飲む口実が欲しかったんです。
石川:毎日飲むためにどうするか、って考えて。
米田:気休めです。少しでもためになる話でもしてないと、不安なんですよ。島で狭い世界だから。ただただ呑んだくれてるような気持ちになってしまう。けど、友達と飲みたいし、さみしいから仲間同士で集まるんですけど、ちょっと面白くなるように酒のつまみでそういう話題を用意する。何も話題がないとどんどん暗くなっていくんですよ。その頃って、気持ちは高ぶってるけど、何もできてない。何も。夢だけ大きいから。沖縄狭いから、刺激も出会いもないじゃないですか。勇気もないし。
石川:それもあったかもしれないけど、俺は、僻みもあった。叫んでも、何か発しても、誰も聞いてくれないって思ってた。「俺なんか」って。
──でもその頃、大学生でしょ?もっと夢いっぱいじゃないの?
石川:俺は大学生だけど、米田たちはフリーター。俺は大学に友達いなかったし、悩んでて、暗かった時期。「どんなして死のうかな~」って思ってた。P2で溜まるようになって、米田たちとそういう話をしてたその時期にカメラを買った。初めは、みんな「写真?なんで写真だわ?」って言ってて、写真に興味なかった。
絶景のポリフォニー ©石川竜一
──写真は繋がってなかったんだ。アートとか表現の話を延々とP2でしてたの?
石川:ずっと、ずっとしてた。その辺のコンビニで酒買って。それで、P2で溜まってた頃、米田に「面白い人がいるからgrooveに写真撮りに来い」って誘われた。
(groove…2016年に25周年を迎えた浦添市のライブハウス。米田哲也が働いていた)
米田:僕はその頃、grooveを手伝い始めたり、バンドでライブさせてもらって遊びに行ってた。急にガチャピンさん(grooveオーナー)に「しば正龍さんのライブでピアノ弾け」って言われたんです。どんな音楽をするのかよくわからんまま弾かされて、「来週から月一でやるから来い」って言われて。客呼ばないといけないから、同級生に声かけてて、竜一にも「遊びに来い」って言った。そうしたら竜一がしばさんに気に入られたんです。
石川:何回も言うけど俺は気に入られてない(笑)。くらーい感じでどうしようもない飲み会をP2でしてた、大学卒業するぐらいの頃です。「アイツらクソだ」みたいな感じで、周りの批判とかもしてた時期。俺なんか何やってもダメだ、とも思ってた。
写真を始めてすぐ、音楽禁止令を自分に出した
──しば正龍さんがgrooveで定期的にイベントやってた頃だ。でも、そのときの石川くんの暗い感覚で行っちゃうと、「なんなんだこれ?」ってネガティブに思わないの?素直に面白いと思えた?
(しば正龍:琉球舞踊、インド舞踊、タイ舞踊、コンテンポラリーダンスなど幅広い身体表現で踊る。grooveでは1995年頃より踊り、後期は「しば正龍トランス舞踊」という定期イベントを行なっていた。イベントは2013年頃から休止。しば正龍の踊りと、即興音楽によるイベントだった)
©石川竜一
石川:ぜんぜん。「何やってんの?」と思った。
──しかも、ああいう即興音楽とかにも耐性がなかったんじゃないの?
石川:音楽に関しては20歳ぐらいでああいう音楽も聴いてました。そういえば俺オンキンしてたこともあるんです。
──オンキン?
石川:写真を始めてからすぐ、20歳から21歳ぐらいのときに音楽禁止令を自分に出してました。音楽聴いたり映画観たりすることで自分の中で消化される気持ちがもったいない、それを写真に変換できないか、と思って、自分の意思で音楽とか映画を選択しないということをやってました。7000曲ぐらい入ってたiPodを土に埋めて、パソコンの音楽も全部消して。その後、大学卒業してめっちゃ鬱だったときは、時間はあったからひたすら音楽をググってて聴いてました。好きだったのはジョン・ゾーンとか、シュトックハウゼンとか。
©石川竜一
──すごいとこ聴いてたね。
石川:だから、しばさんのイベントの音楽に関しては、「あ、こういうのか」と思って違和感はなかった。でも、しばさんがやってることについては興味がわかなくて、あんまり面白いと思ってなかった。イベントの打ち上げでみんなが帰ろうとしたときに、しばさんが「帰らない」って言いだしたから、みんなで朝方まで一緒に飲んだんです。最終的にしばさんが「誰か家まで送って」って言うから、あざまっちと俺と米田の3人でタクシーで送ることになった。でも、あざまっちと米田が裏でコソコソやってて、俺が先にタクシーに乗って、しばさんが乗った後に、米田とあざまっちがドアをパンって閉めて「バイバーイ」ってしたわけさ。俺はもう、マジやばいと思って。しばさんの家まで送って、家で茶飲んで、しばさんに迫られたけど、「俺まじで無理、帰る」って言って帰ろうとした。でもお金がなかったから「タクシー代ください」ってしばさんに言ったら、「何もしない奴にはあげん」って言われて。一人で外に出て、タクシーの運ちゃんに事情を説明して、「1,000円で行けるところまで行ってください」って言ったら、タクシーの運ちゃんがわかってくれて、家まで送ってくれたんです。俺はもう、それからしばさんに会いたくないと思ったんです。それから、季節行ったのかな。
──季節?
石川:出稼ぎ、季節労働のことです。全部で160万円ぐらい貯めて、写真撮るためにいろんなものを揃えました。朝はパンだけ、昼は味噌汁と米だけ、夜はパスタ塩茹でを食べる、っていう生活を1年続けて。それから沖縄に戻ってきて1年ふらふらしてる時に、米田が「しばさんがお前に会いたいって言ってる、来いって言ってる」って言ってきたんです。嫌だと思ってたけど、とりあえず行ってみたんです。つまらんイベントだと思ってたけど、頭には残ってたんですよ。あれってなんなのかな?って、変な感じ。だから、写真撮らせてもらったら何かわかるかもしれないと思って、「写真撮らせてください」って言ったんです。そうしたら「一緒に踊れ」って言われて。「まじかー……」って思いました。
──自分で踊りたいと思って一緒に踊ってたのかと思ってた。そうじゃなかったんだ。
石川:うん。でもその頃は、季節とか行ってキツかったから、もうなんでもやってやると思ってました。キツいことやっても形にならないし。なんもないんですよ。なんもないまんま、拠り所もないし、ただ写真撮ってて。先も見えないし。
──がむしゃらだね。
石川:誰にも相手にされんし。とにかくなんでもやろうと思って「写真撮らせて」って言いました。しばさんは「踊りやれ」「付き人しながらだったら撮らせる」って。俺は「じゃあやりますよ」って言いました。それで、しばさんの写真撮りながら付き人やって、夜中はP2行って、ハードな時期でした。米田たちに、しばさんのところであったことの愚痴を聞いてもらって酒飲んで、速攻P2で寝てた。
──本当に付き人だったんだ。
石川:毎日行ってました。休みは週2とか。
©石川竜一
──踊りを習ってたの?
石川:踊りは習ってないです。主にしばさんの話し相手をやってました。まず行ったら茶をたてて出して、茶飲みながらしばさんと話して、それから昼飯食いに行って、稽古場を片付けて。それで稽古して、帰る。月に1回はgrooveのイベントに出てました。
──とにかく撮りたいからずっと付き人やってたの?
石川:そう。他になにもできないから。
──表現続ける人って、発表の機会とかがないとモチベーションを保つことが難しいだろうと思ってた。そういう発表の機会がちょっとでもあったんじゃないかなと思ってた。でも、ひたすら、がむしゃらに撮るものを撮り続けてたんだ。
石川:金もないし、場所もないし、なんかやっても誰も見てくれない。もうわからなかったんですよ。だから作り続けるしかない。米田とCD作ったり、アレ(指差して)つくったりとか、いろんなことやった。
──アレ、ぶらさがってるやつね。
石川:アレ、「正露丸マン」って言う名前なんです。とにかく思いついたらやってみた。でも、俺は芸術の教育を受けてないから方法がわからないし、芸術関係の繋がりもないから誰も相手にしてくれない。吉濱翔くんにはちょっと嫉妬みたいな感覚もあった。翔くんはちゃんと教育を受けていて、ぜんぜん違う環境だった。そういう教養のある人からしてみたら、「あいつらアートの勉強もしてないくせに、何やってんだ」って思われてたんじゃないかな。かっこよく言えば、俺らはストリートだった。道端。
(吉濱翔…1985年沖縄生まれ、石川竜一と同世代のアーティスト。サウンドアートの分野で主に活動し、沖縄では音楽イベント企画や、音源制作も積極的に行っている。現在は京都市在住。石川竜一とは2015年に「野生派」シリーズでイベントやトーク、展示も開催していた)
──去年、沖縄コンテンポラリーアートセンターで石川くんの個展があって、沖縄県立美術館の学芸員と、吉濱翔くんと、石川くんで、トークがあったよね。あのときの会話がすごく気になってる。確か石川くんは、しば正龍さんがgrooveでイベントをやっていた時の話をしてて。それで石川くんが学芸員に質問したでしょ?「当時の美術館では何が起こってましたか?」って。学芸員は、一切何も答えなかった。あの質問の意図ってなんだったの?
石川:俺は、そういうところと繋がれなかった。相手にされてなかった。俺なんかがもがいてた時に、「お前ら何してたんだよ?」っていうようなことなんです。
──そこに、怒りみたいなものはあるの?
石川:そんなものだと思えばそんなもんなんだけど、あの頃は本当に辛かった。もう何も見えなかった。それがadrenamixっていうシリーズになっていて、毎日あんな状況だったんです。何やればいいかわからんから、ひたすらいろんなことをやりまくって。暴走族行って、酒飲んで、ゲイバー行って。この感じを写真にしておこうとは思ってましたけど、それでも、何も先は見えなかった。ただ自分で作り続けてるだけで、どう形になるかもわからないし、写真誰かに見せても何か言われるわけでもないから。俺は、あのとき翔くんに対しても言ってたんです。「お前は芸大行ってたし、そういう環境が近かっただろ?」って。俺のことに対してじゃなくて、翔くんは俺の周りの環境に対して否定的だったから。だから、翔くんとか美術館の学芸員に、そのときどういうことが美術のシーンでは起こってたのか、聞きたかった。それが、「こういうこと」って具体的に出てきたら、「だろ?俺のほうが面白いだろ?」って言おうと思ってた。でも何も答えないから、「あー、そうっすかー」って感じだった。
こういう奴らにも目を向けてもらえたら
──自分で売り込みに行ったりはしなかった?展示したい、ってギャラリーに行ってみるとか。
石川:友達に誘われて、写真のポートフォリオレビューに自分の写真を見せに行ったことがあるけど、誰も俺の写真について何も言わなかった。「ああ、がんばってね~」みたいな。その頃はP2で「あいつらクソだよな」ってすぐ人を批判してた時代だったんですけど、友達が誘ってくれたから、とりあえずポートフォリオレビューには行ってみた。他の人の写真を見て、口悪いけど、臭い写真だなと思ったんですよね。はいはい、って思ってた。俺の写真を出したら、今度は俺が相手にされない。こっちが相手にしてないのと同じぐらい相手にされない。そのときに「もうこいつらに絶対写真見せない」って思って。それでまたどんどん外れていくんですよ。クソみたいだ、って。
──その、どこに行っても相手にされないような時期って、何年ぐらい続いたの?
石川:写真始めて7年ぐらい続きました。
──でも7年、絶対写真やめなかったんだ。
石川:他にやることないんすよ。米田もそうじゃないですか。こいつも、grooveで働いていたけど、拠り所がない。内地(本土)行って何かやろうとしてもできなくて戻ってきたりして。こいつはここ(バー「ファンファーレ」)を自分で始めて、めっちゃ柔らかくなったと思いますよ。米田は昔めっちゃトゲトゲしてた。俺よりもぜんぜん心開かない奴で、ふさぎこんでた。でも米田には、俺がしばさんの付き人をやってた頃、俺の顔がどんどん穴みたいになってきてた、って言われる。目がくぼんでいって。俺はもうなんでもいいと思ってて、こいつらに話聞いてもらったりしながら、なんとか自分を保ってた。ノイローゼになって、夢でしばさんが出てきたり、幻覚見たり。当時米田は「もうお前辞めれば?」って言ってたけど、俺は「辞めない」って。辞めたら写真撮れなくなると思ってました。
©石川竜一
──それが7年?
石川:しばさんについてからは5年、いや4年ぐらいかな。ほんとめちゃくちゃな時期でしたよ。夜中2時ぐらいになったら暴走族が走り出すから、一緒に行ってバイク乗ったりもした。朝方になったらゲイバー行って酒飲んで。昼間は、しばさんのところに行って稽古して。ほとんど家にも帰らないし。
©石川竜一
──その生活が終わったきっかけは?
石川:しばさんの付き人始めて3年目ぐらいのときに、俺の写真の先生である勇崎哲史さんに会ったんです。勇崎先生のとこに転がり込んで、写真のこと何か勉強したいと思った。勇崎先生がパソコンで作業してる周りをうろちょろして、勝手に片付けやったりしてました(笑)。「なんかできることないですかー?」って勇崎先生の後ろで作業見てたりして。少しずつ勇崎先生に「これやって」って言ってもらって、手伝いさせてもらった。勇崎先生は、俺がこんなに通ってるからお金ある奴なんだと思ってたみたいです。何もしないでずっといるから。俺はもう金も何もなかったし、ひたすらそれしかできなくて。それで、手伝いながら写真を勉強して、勇崎先生のつながりで写真関係のいろんな人にも紹介してもらいました。勇崎先生が「今日誰々と会うけど来れますか?」って聞いてくれて「行きます」って言って運転手して。そうやってるうちに、写真関係者とのつながりができた。でも、それからまだ3、4年ですよ。
──そうか、まだ32歳だもんね。
石川:俺の中では写真の人たちとの関係ってまだめっちゃ浅い。それよりも米田とか、グズグズやってたときの奴らとのほうがめっちゃ長いし仲いいから。
──そうなんだ。米田くんとか周りがどう思ってるかわからないけど、当時の状況からすると、すごい駆け上がったでしょ?社会的には。
石川:うん。社会的には。
──それ客観的に自分で見てて、気持ち悪さとかあるの?
石川:ありますね、めっちゃ。
──一気に他人が自分を見る目が変わっちゃったでしょ?
石川:うん。あるんですけど、俺と一緒に遊んでた奴ら、米田、あざまっちとかは、今もものをつくることについて考え続けてるんですよ。別に何かにアプローチしなくてもいいとも思うんだけど、でも、みんな心の中では「何か形にしたい」っていう気持ちはある。何かを形にするっていう点では、今俺が一番その状況に近い。俺がどうにか早めに状況をつくる。俺ができることはそれだな、って。結局は、こいつらと一緒に何かやりたい。こいつらが表に出たり、形にできるような状況をつくるところまで、俺はいきたい。だから俺はひたすらやり続けてる。こいつら本当にすごいな、って思うんですよ。あのときの気持ちを持ち続けたまま、今でもやり続けてる奴らが俺の周りにいる。すごいパワー持ってて、やってること面白いし。自分のこと曲げないから今でもこういう感じ。俺も曲げきれない部分はあるけど、社会的にコミュニケーションを取れる状況にはある。adrenamixを出したのは、俺の中ではそういう意味もあるんです。こういう奴らがいて、俺はやってる。こういう奴らにも目を向けてもらえたらと思ってる。こいつらは「大きなお世話」って言うけど。
──(笑)言いそうだね。全国的に写真家の中で自分はこういう立ち位置だから、こういう風に振舞おう、とか、そういうことは特に考えてないんだ。
石川:ぜんぜん考えてないですね。いつでもここに戻ってきていいと思ってる。そういう時期の方が、まだ今は長い。いまだに金がある仕事とか考えてないし、別に俺は金なくてもやっていけると思ってる。また季節行ってもいいし。ただ、受けた仕事はしっかりやらないといけないと思ってる。
──もう不安とか何もないよね、そんな経験してたら。
石川:不安は、周りの人を裏切らないか、っていうことだけが不安だけど、自分のことに関しては、ぜんぜんないっす。みんな一緒にP2で悩んでたあの時って、絶望だったから。
森の音楽隊 ©石川竜一
自分が自分の環境の中で、小さい細かいことに気づけるかどうか
──すごい良い話聞けたな。自分が生半可だった、ってすごい今反省してます。
石川:いやいや、でも、人って抱えてるものが違うし。みんなその人なりに一生懸命やってるじゃないですか。それに差はないと思う。やってる奴はやってる。サラリーマンも自分ができることを一生懸命やってる。それなりのつらいこともたくさんあるし、楽しいこともあって、頑張ってる。ものつくるときに思うのは、そういう人たちに伝えようとすると、本当に頑張らないと伝わらない。全力でやらないと。中途半端なことやったら、見透かされる。それだけっすよね。気抜いたらやられるよ、っていう。人になんかを伝えようとしてるわけだから。
──これからもずっと沖縄に住むの?
石川:決めてないです。全然こだわりなくて、どうでもいいですね。特に外に出る必要とかないと思ってる。要は、自分が自分の環境の中で、小さい細かいことに気づけるかどうか。ものごと、感覚的なこと、実は全部自分の中にある。世界との刺激、接触によってその気持ちを感じる感覚って成り立ってると思ってます。自分がどんなちっちゃいことに気づけるか、って考えたとき、住む場所はどこでもいい。だから外に出る必要って別にないと思う。自分がいる場所で一生懸命、細かくやっていけばいいと思ってます。でも外から来たものを断る必要はないから、外にも全然行く。きっかけがあれば引っ越ししてもいいと思うし、自分がいる場所でしっかりやっていくっていうだけの話で。こいつ(米田)はもっと極端で、外にも出ようとしない(笑)。
──ありがとう。P2はまだあるの?
石川:あります。もう暴走族ぐらいしか溜まってないけど。
──じゃあP2の写真も入れなきゃね。沖縄の人にとっては有名な場所?
石川:中部のストリートの人にとってはメジャーですけどね。知らない人もいっぱいいます。ストリートにいる人だけかな。そうそう、P2にカセットコンロ持ってきて鍋もしてたんですよ。
──そこまで?キャンプだね。
石川:めっちゃいろんなことやってましたよ。
(2016年5月15日、「ファンファーレ」にて取材)
石川竜一
1984年沖縄県生まれ。沖縄国際大学社会文化学科卒業。在学中に写真と出会う。2010年、写真家 勇崎哲史に師事。11年、東松照明デジタル写真ワークショップに参加。12年『okinawan portraits』で第35回写真新世紀佳作受賞。私家版写真集に『SHIBA踊る惑星』『しば正龍 女形の魅力』『RYUICHI ISHIKAWA』がある。「絶景のポリフォニー」 「okinawan portraits 2010-2012」で2014年度「木村伊兵衛賞」を受賞。
山本佳奈子
アジアの音楽、カルチャー、アートを取材し発信するOffshore主宰。 主に社会と交わる表現や、ノイズ音楽、即興音楽などに焦点をあて、執筆とイベント企画制作を行う。尼崎市出身、那覇市在住。