映画『ホース・マネー』より
『ヴァンダの部屋』『コロッサル・ユース』で知られるポルトガルの映画監督ペドロ・コスタの新作『ホース・マネー』が6月18日(土)より公開。webDICEでは、ペドロ・コスタ監督のインタビューを掲載する。『コロッサル・ユース』のベントゥーラを再び主演に起用し、1974年に発生した軍事クーデター、カーネーション革命を主題に、リスボンのスラム街フォンタイーニャス地区に生きる人々を描いている。この作品は、2015年の山形国際ドキュメンタリー映画祭大賞、2014年ロカルノ国際映画祭で最優秀監督賞を受賞した。
SF映画に見られる時間の中を旅するような感覚
──当初の構想ではより音楽に焦点を当てた映画となる予定であったと伺いました。その内容は本作『ホース・マネー』にも受け継がれているのでしょうか?
ギル・スコット=ヘロンという有名なミュージシャンがいますが、最初は彼と共同作業をして映画を作りたいという欲望だけがありました。当初は歌と台詞のある、一、二時間の、ある種の巨大な音楽であり祈りのような作品をつくる予定でした。その痕跡は最終的に出来上がった本作にも残っているような気がします。例えばこの映画が展開する場所の人々が次々と映るモンタージュ、歌そのもの、特にエレベーターのシーンで二人の後ろから様々な人物の声が聞こえてくるところなどがそうでしょう。
映画『ホース・マネー』ペドロ・コスタ監督
──各シーンは時系列に沿っておらず、まるでヴェントゥーラの記憶がランダムに蘇ってくるように配列されていましたがそのような意図はありましたか?
まさにそうだと思います。本作の撮影はエレベーターのシーンから始まったのですが、そのときに彼の話が直線的ではなく前に行ったり後に行ったりすることに気が付き、この映画の旅路というのもそうあるべきなのではないかと思ったのです。例えばそれはSF映画に見られる時間の中を旅するような感覚です。映画ほどこういった表現に向いた媒体はないと思うのです。なぜなら過去を舞台としているかのような映画であっても、そこに映っているのは常に現代であるからです。溝口健二はものすごく頭のいい人だからそれをわかっていて、一見過去を映しているように見せつつも、彼の『西鶴一代女』でのお春は現代の女であり、どの時代にあっても苦しみながら旅を続ける女なのです。
また、文学や絵画においては時間に対してより自由で複雑な接し方が行われているのに対して、映画は現代に至っても非常に直線的な、単純化されすぎた時間にとらわれているように感じます。時間は悲劇的です。私たちは過去に記憶を持ち、その一方で未来に計画をたてることも出来ますが、そのすべてには終わりがあるのです。そしてその終わりとはけっしてドラマチックではなく、悲劇的なのです。
映画『ホース・マネー』より
きっと希望はあるのだと思います
──映画の中で人々を悲劇から救うことはできないのでしょうか?ある意味でヴェントゥーラは、監督に撮られることによって少し救われたのではないかと感じました。
私自身はとても悲観的な人間なので、映画や芸術は人々、特に最も苦しんでいる人々に対して何も出来ないとつい思ってしまいます。しかしそう言ってしまうことは小津、溝口、チャップリンを攻撃することになる。私は彼らを批判したくありません。なぜなら彼らはそれをやり遂げたからです。人々は彼らの映画の中でとても美しい。勇敢で、傷つき、強く、弱い、これこそが人々なのです。現代の子供達にとってもチャップリンの映画は通用しますので、そういう意味ではきっと希望はあるのだと思います。
映画『ホース・マネー』より
──タイトルについて教えて頂けますか?
実はものすごく簡単な話で、ヴェントゥーラが昔飼っていた馬の名前が「お金」だっただけです。「お金」というのは我々の社会が発明した最も邪悪なものだと思ってしまいますが、一方で彼のように社会の片隅に追いやられてそこから出たいと思っている人々にとっては光り輝く夢のようなものに聞こえるのかもしれません。この映画のタイトルに「マネー」という単語を使うことで、我々の思っている醜い物としての意味合いからもっと違った響きに感じさせられないかと思ったのです。
(山形国際ドキュメンタリー映画祭2015 デイリーニュースより [採録・構成:稲垣晴夏、インタビュアー:稲垣晴夏、川島翔一朗、通訳:藤原敏史])
映画『ホース・マネー』より
すべては主人公・ヴェントゥーラの実際の記憶からきたもの
──『ホース・マネー』を見て、やはり95年の『溶岩の家』を思いだしました。あの映画ではイネス・デ・メディロスが白人の看護婦として、ポルトガルのリスボンの工事現場で怪我をした黒人移民をカーボ・ヴェルデへ移送するという、ヨーロッパ人から見られたアフリカの物語構造になっていました。『ホース・マネー』は黒人移民たちの側から、彼らの過去や記憶をふかく掘り下げた作品になっていますが、ここ20年で視点が変わった理由は何かあるのでしょうか。
ことの次第でそのようになったのであり、今後もどのようになっていくのかは自分でもわかりません。『溶岩の家』では黒人移民の男が工事現場の足場から落ちることで、体が傷ついて、意識を失っている状態でした。『ホース・マネー』では、ヴェントゥーラたち黒人移民の体は、長年の労働によって使い果たされており、今度の映画では彼らの精神が蝕まれていくところを描いています。そのなかで、彼らの記憶や思い出までが、侵蝕されている状態にあるわけです。
映画『ホース・マネー』より
──『ホース・マネー』を最初に見た印象は、とても黒人たちのアフリカ性が前面に出た映画ということでした。
この映画に白人がいないわけではないのですが、ほとんど画面には映らず、声だけが聴こえるようにしています。医者、刑務所の看守、役人といった権力構造によって与えられた役割のなかで、白人たちはロボットとして動くものにすぎないものとして、声だけで登場する。ヴェントゥーラと対話する黒人女性は映画のなかで大きな役割をもっているが、彼女はカーボ・ヴェルデから訪ねてきた人物です。ヴェントゥーラと彼女の過去の関係はわかりません。彼女は良いものも悪いものも含めて島のニュースを運んできます。彼女は最後にヴェントゥーラに手紙を渡すが、彼女はその手紙そのものなのではないかと私は考えています。子どもは想像上の友だちと話すことがあり、そのような存在がないと生き残れないときがある。それをヴェントゥーラのような大人がしているのかもしれず、彼女が現実なのか空想なのかはわかりません。
映画『ホース・マネー』より
──主人公のヴェントゥーラは、リスボンのスラム街で暮らした仲間、むかしの仕事仲間、戦争にいったときの戦友などと会います。これは彼の実際の人生に基づいているのでしょうか。
設定としては少し抽象的かもしれないけれど、ほとんどがヴェントゥーラの人生から来ています。彼は一度も文章というものを書いたことがありません。彼は自分の記憶と自分の話し言葉をもとに、それを様式化して表現しています。私たちがセリフを書いているわけではなく、チャップリンがやった手法の「カメラ付きリハーサル」に近いでしょう。カメラのスイッチを入れて、ヴェントゥーラが自分の思い出を語る行為を何度もくり返しながら、段々と変えていき、完全なものに近づけていくやり方です。その過程のなかで、いろいろなものが選びとられ、まとまったり発展したりして、最後には『ホース・マネー』で見られるような形になりました。そのなかで脚色されたり膨らんだりしたものがあるにせよ、すべては彼の実際の記憶からきたものです。
映画『ホース・マネー』より
──そうであれば、ヴェントゥーラたちが思いだしやすいように、ロケーションも実際に彼らが働いたレンガ工場や会社、病院など実人生と関係のある場所で撮っているのでしょうか。
レンガ工場は彼が働いてた場所ですが、今は廃墟になっています。石が転がって、建物が壊れてしまった元工場において、彼が自分の記憶を位置づけることはとても難しい。その廃墟の上に、自分の苦しみを位置づけていくのです。ヴェントゥーラに限らず、彼らカーボ・ヴェルデ人たちが今住んでいる場所は、病院でも刑務所でも社会復帰施設でも、同じようなトーンをもっています。映画に登場する病院のひとつは、実際にヴェントゥーラが入院した場所です。なるほど、そうやって段々とドキュメンタリー的な話題へもっていこうとしてますね(笑)。
映画『ホース・マネー』より
──そういうつもりでもないですが(笑)。ところで暗い背景のなかで、人物にスポットをあてるような照明も特徴的ですね。
現代の観客はあまり慣れてないかもしれないが、1940年代には当たり前の照明の方法でした。この映画のライティングをお金のかかった「映画」と比べるのは無理です。30年代から50年代くらいのB級映画、あるいは現代のゾンビ映画では似たようなことをやっています。私たちには30個の照明があるわけではなく、三個のライトしかないので、できることが限られたなかで発明をしなくてはならない。ジャック・ターナー監督や彼の撮影監督がやっていたことに近い。あの頃のB級映画は、大作をつくったあとのセット、衣裳、照明を使っていました。いわばちゃんとした「映画」の残り物でつくっていたのです。私たちは企業の社員食堂へ行って、食べ物の残りで映画をつくっているようなものです。私の使っているカメラはスーパーHDのプロフェッショナルな機種ではなく、古くて安いその辺のお店で変えるカメラにすぎません。
(ドキュメンタリーマガジン『neoneo』#06「黒人移民の共同的な記憶をたどる」より一部抜粋[質問・構成=金子遊、通訳=藤原敏史)] 続きはneoneo本誌でお楽しみください。ご購入はお近くの書店、映画館、または公式サイトまで。http://webneo.org/info/)
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ペドロ・コスタ監督、世界が抱えている問題を解決する手立てを考えるために今革命を語る:カウリスマキ、エリセ、オリヴェイラとともに参加の映画『ポルトガル、ここに誕生す〜ギマランイス歴史地区』(2013-09-11)
http://www.webdice.jp/dice/detail/3971/
ペドロ・コスタ(Pedro Costa) プロフィール
1959年ポルトガルのリスボン生まれ。1987年に短編『Cartas a Julia(ジュリアへの手紙)』を監督。1989年長編劇映画第1作『血』を発表。カーボ・ヴェルデで撮影した長編第2作『溶岩の家』(1994、カンヌ国際映画祭ある視点部門出品)、『骨』(1997)でポルトガルを代表する監督のひとりとして世界的に注目される。その後、少人数のスタッフにより、『骨』の舞台になったリスボンのスラム街フォンタイーニャス地区で、ヴァンダ・ドゥアルテとその家族を2年間にわたって撮影し、『ヴァンダの部屋』(2000)を発表、ロカルノ国際映画祭や山形国際ドキュメンタリー映画祭で受賞した。『映画作家ストローブ=ユイレ あなたの微笑みはどこに隠れたの?』(2001)の後、『コロッサル・ユース』(2006)は、『ヴァンダの部屋』に続いてフォンタイーニャス地区にいた人々を撮り、カンヌ映画祭コンペティション部門ほか世界各地の映画祭で上映され、高い評価を受けた。2009年にはフランス人女優ジャンヌ・バリバールの音楽活動を記録した『何も変えてはならない』を発表。また、マノエル・ド・オリヴェイラ、アキ・カウリスマキ、ビクトル・エリセらとともにオムニバス作品『ポルトガル、ここに誕生す〜ギマランイス歴史地区』(2012)の一篇『スウィート・エクソシスト』を監督している。最新作である本作『ホース・マネー』は、2015年山形国際ドキュメンタリー映画際でグランプリにあたる大賞、2014年ロカルノ国際映画祭で最優秀監督賞を受賞した。
映画『ホースマネー』
6月18日(土)渋谷ユーロスペースにてロードショー、全国順次公開
19世紀末~20世紀初頭に、アメリカのフォトジャーナリズムの草分けであるジェイコブ・リース(1849-1914)が撮影したニューヨークのスラム街の写真群をプロローグに、テオドール・ジェリコーによる、もの思わしげな黒人の青年のポートレイトが映し出される。ヴェントゥーラがまるで地下牢に続くような暗い階段を下っている。白衣の男が連れ戻しに来た。ここは病院のようだ。しかし廃墟のようでもある。ヴェントゥーラの手はずっと震えている。最期の時を待つように病室のベッドに横たわるヴェントゥーラ。甥や元同僚たちが訪ねてくる。ヴェントゥーラが記憶の迷路に迷い込むように建物の中を彷徨っている。
公式サイト:http://www.cinematrix.jp/HorseMoney/