映画『もしも建物が話せたら』より (左)ベルリン・フィルハーモニー ©WimWenders (右)ヴィム・ヴェンダース監督 ©Donata Wenders 2005
ヴィム・ヴェンダース製作総指揮のオムニバス・ドキュメンタリー『もしも建物が話せたら』が2016年2月20日(土)より渋谷アップリンク他にて劇場公開される。本作は、もしも建物が話せたら、私たちにどのような言葉を語り掛けるのだろうかをテーマに、ヴィム・ヴェンダース、ロバート・レッドフォードを含む6人の監督が、思い入れのある建築物の心の声を描きだす作品だ。
webDICEでは、『建築と日常』編集発行者の長島明夫さんが、監督たちが選んだ建築、そして建築の「語り口」から、建築と文化の関係性について考察するレビューを掲載する。
建築と文化をめぐる短い考察:
長島明夫(『建築と日常』編集発行者)
6つのストーリーのうちの1番目、ヴィム・ヴェンダースはハンス・シャロウン設計のベルリン・フィルハーモニー(1963)を、その建築のあり方に共鳴しながら描いている。指揮者や演奏者、技師、観客、設計者など、複数の世代にわたる様々な属性の人々との関わりのなかで1つの建築の姿を浮かび上がらせるこの映画は、複雑に分岐して様々にずれを含んだ多様な場をつくりながらも、全体を有機的に関係づけ、人々を1つの空間に位置づけようとするこの建築と、構造上の類似が見いだせる。人々はそれぞれ固有の存在であるとともに、なにかを介して共存している。あるいはこれは単に1つの建築と1つの映画との類似に止まらないのかもしれない。同じくシャロウン設計のベルリン国立図書館(1978)も登場した『ベルリン・天使の詩』(1987)に代表されるヴェンダースの諸作品が、都市に生きる人々の孤独と共存を描いてきたとするなら、この映画のなかでベルリン・フィルハーモニーの建築が語る言葉、「私は社会の全階層によるユートピアのイメージだ」には同時にヴェンダース自身のユートピアが重ねられているのだと思う。
映画『もしも建物が話せたら』より ヴィム・ヴェンダース監督 ベルリン・フィルハーモニー©WimWenders
2つの作品ないし2人の作家の共鳴を生む源泉となるもの、もしかしたらそれを文化と呼べるのかもしれない。しかし“Cathedral of Culture”たる建築自らがそのことについて明晰な言葉で説明してくれることはない。なぜなら文化とは、それを対象化して客観的・論理的に語りうるものではないからだ。「文化は、まったく意識化されうるという性質のものではない。われわれが文化をすっかり意識的に捉えているとき、その文化は文化全体を決して表してはいないのである。生きた働きをする文化は、文化と
この意味で、ベルリン・フィルハーモニーを含む近現代の建築が饒舌に自分語りをするのに対し、2番目のストーリーで描かれるロシア国立図書館(1801)が不特定多数に向けて主体的に語る言葉を持たないのは興味深い。そこで発せられる詩的・断片的な言葉は、図書館自身の言葉というよりも、図書館が象徴する、ある文化を生きた人々による言葉であり(エンドクレジットで出典が示される)、そこで建築は文化であるとともに文化を媒介している。文化はそれを生きる人々との関わりのなかでこそ現れる。
映画『もしも建物が話せたら』より ミハエル・グラウガー監督 ロシア国立図書館©Wolfgang Thaler
ところでどうしてロシア国立図書館は、他の建築のようにそれ自身の主体的な言葉を話さないのだろうか。ここに建築と文化を考える上での大切な点があるように思える。とりわけ西洋の石造りの建築の場合、建築は人間の幾世代にもわたり、しばしば国家よりも長く同じ場所に在り続ける。それがいくら合理的な言葉に基づいて建てられたとしても、数百年後の人々や社会にとって、そのような言葉はほとんど意味をなさない。むしろ自分たちよりも先にすでにそこに在った実体としての建築こそ向き合うべき現実である。キリスト教の教会堂を建てている人たちの誰が、後にその建築がイスラムのモスクとして使われることを想像するだろうか。けれども建築は、それを建てた人々や社会の意志を超えて、大らかに人間の生を包含しうるものなのだ。その本質は単一の言葉で括られるものではない。ロシア国立図書館は他の5つの建築よりも古い時代に建てられたぶん、建築のこうした質を顕著に見せるのだと考えられる。
ただし、時に矛盾さえ含む建築のそのような多義性は、すでにそれが建てられた時点から建築に備わってもいる。たとえば3番目のストーリーにおいて真新しいハルデン刑務所(2010)が語る〈私〉は、壁であり監房であり独房であり礼拝所であり家であるというような、多重人格的な様相を呈している。なおかつこの〈私〉は、そこにいる人物が囚人であるか看守であるかによっても、まったく表情を変える。いや、むしろその内向的で情緒不安定を思わせる〈私〉の声は、囚人と看守とでまったく表情を変えるべきかさえ迷っているように感じさせる。矛盾し分裂する性格を単一の言葉に落とし込むことに無理が生じている。
映画『もしも建物が話せたら』より マイケル・マドセン監督 ハルデン刑務所 ©Heikki Färm
映画の最後、鉄格子の向こう側からじっとカメラを見つめるべき若い囚人が、たまらず笑みをこぼしてしまうシーンが印象深い。囚人と看守の違いはそれほど明確なものではなく、ある社会でそれぞれの役割を演じている役者同士であるようにも思えてくる。刑務所とは、社会から隔絶された場所であるとともに極めて社会的な場所でもあるだろう。ハルデン刑務所の建築は、それを生み出した社会の縮図として、その社会全体の有り様を観客に想像させる。しかしその建築がその社会の有り様を確かに想像させるのは、私たちの社会にもまた刑務所という同じビルディングタイプの建築が存在するからだ。その一致と差異によって、お互いの社会ないし文化を理解することができる。建築は固有の社会や文化に根ざしたものでもあり、それを超えて人間を媒介するものでもある。
▼引用出典=T・S・エリオット『文化の定義のための覚書』照屋佳男・池田雅之監訳、中公クラシックス、2013年、p.198
長島明夫 プロフィール
編集者。2009年より個人雑誌『建築と日常』を編集・発行する。2011年には雑誌『NOBODY』の結城秀勇との共編で『映画空間400選』(INAX出版)を刊行。
公式サイト:http://kentikutonitijou.web.fc2.com/
映画『もしも建物が話せたら』
2016年2月20日(土)より渋谷アップリンクほか全国順次公開
映画『もしも建物が話せたら』より ロバート・レッドフォード監督 ソーク研究所 ©Alex Falk
もし建物が話せたら、私たちにどのような言葉を語り掛けるのだろうか。建物は文化を反映しており、社会を映し出す鏡でもある。一昔前、欧米ではその街を代表する建物は教会であり、教会を見ることによってその街の文化も人々の暮らしも垣間見えた。現代におけるその街を象徴する建物とは?世界の名監督6人がそれぞれの街で人々と思い出を共有する、思い出の詰まった文化的建物のストーリーを描き出す。
監督:ヴィム・ヴェンダース、ミハエル・グラウガー、マイケル・マドセン、ロバート・レッドフォード、マルグレート・オリン、カリム・アイノズ
2014年/ドイツ、デンマーク、ノルウェー、オーストリア、フランス、アメリカ、日本/165分/英語/Color/16:9/DCP
製作・提供:株式会社WOWOW
配給・宣伝:アップリンク
公式サイト:http://www.uplink.co.jp/tatemono/
公式Facebook:https://www.facebook.com/1695540063993360/
公式Twitter:https://twitter.com/iftatemono
知らなかった!もっと知りたい建築の世界
建築映画特集
2016年2月27日(土)~3月中旬
会場:渋谷アップリンク
公式サイト:http://uplink.co.jp/tatemonofes2016/
上映スケジュールの詳細は下記ページにて
http://www.uplink.co.jp/movie/2016/42730