釜山国際映画祭のイ・ヨングァン映画祭執行委員長
韓国の釜山国際映画祭が行政より圧力を受けている問題について、映画作家、ライター、批評家で釜山国際映画祭のプログラム・コンサルタントを務めるトニー・レインズが1月27日、公開書簡を発表した。webDICEではこの公開書面の日本語訳全文を掲載する。
釜山市と政府は釜山国際映画祭に対し、2014年のセウォル号沈没事故について政府の対応を検証したドキュメンタリー映画『ダイビング・ベル(原題)』の上映中止の要請を発端に、運営の改善要求を中心とした映画祭への介入を試み、イ・ヨングァン映画祭執行委員長の退任を要求。これに対し、韓国の映画人と映画祭スタッフは政府の介入を断固として拒み続けている。イ・ヨングァン映画祭執行委員長はこの2月任期を満了するため、対立の動向が注目されている。
この問題については、現在開催中のロッテルダム国際映画祭もベロ・ベイアー委員長をはじめとするスタッフが「釜山国際映画祭をサポートする」と2月2日に表明した。
ロッテルダム国際映画祭公式サイトより、「WE SUPPORT BIFF」のプラカードを掲げたスタッフ
また昨年末から「#isupportbiff わたしはBIFF(釜山国際映画祭)をサポートします」というハッシュタグを用いたキャンペーンも行われており、レオス・カラックス監督、ホウ・シャオシェン監督、是枝裕和監督、モフセン・マフマルバフ監督、ツァイ・ミンリャン監督、バフマン・ゴバディ監督、ジャ・ジャンクー監督、そして黒沢清監督といった世界の映画人がこの支援キャンペーンに参加している。
「独立性と芸術の自由にイエスを!釜山国際映画祭への政治介入にノーを!」#isupportbiff のキャンペーン・ポスター
釜山国際映画祭、攻撃される
文:トニー・レインズ
釜山国際映画祭の外国人アドバイザーのひとりである私は、この一年間の事態の進展をロンドンで見つめながら、まさかという思いが募るばかりだった。
最初に、釜山市議会がセウォル号沈没事故についてのドキュメンタリー映画『ダイビング・ベル(原題)』を2014年の上映プログラムから取り下げるよう要求した時には耳を疑った。プログラム選定への介入行為に対し、映画祭側がしごくまっとうに拒否すると、市議会は攻撃の勢いを増して映画祭執行委員長のイ・ヨングァン氏の辞任を求めた。イ氏が再びしごくまっとうに辞任を拒否すると、今度は国が、韓国のすべての映画祭の助成内容を再考査する必要があると急に言い出した。その結果、釜山国際映画祭への補助金が大幅にカットされたのは、まったくの偶然だったに違いない。次に12月に入り、市議会は寄付金の仲介者に支払った手数料に「不備」があったとイ氏を詐欺罪で刑事告発した。しかも内部ルートではイ氏が退陣すれば市議会は起訴を取り下げる、と知らせてきたと映画業界誌『スクリーン・デイリー』は報じている。
トニー・レインズ
イギリスの古いことわざで「cutting off your nose to spite your face」(直訳は「自分の顔に腹を立てて鼻を切り落とす」)」という言葉がある。持論を通すために自分を傷つけてしまう愚かさを意味する。釜山市、そして政治のお仲間である大統領官邸(青瓦台)に驚くほど適確な、古くさい言い回しではないだろうか。
私が初めて釜山を訪れたのは1995年。当時、韓国で初の国際映画祭を作ろうとしていたキム・ドンホ氏(釜山国際映画祭前執行委員長)とそのチームによる招待だった。キムさんは私に、市長と市議会議員の数人との面会を依頼し、(映画と映画祭の仕事をしている外国人の視点から)映画祭がどういうものなのか、なぜ釜山国際映画祭の立ち上げを支持すべきかを説明してほしいと頼んだ。当時のムン・ジョンス市長から幾つかの厳しい質問を投げかけられ、私としてはできる限り明快に説得力をもって答えようと努力した。周知の通り、市はじきに映画祭の支援を決め、1996年に第一回目が開催された。
私はその後、毎年、ときには一年に2回以上、釜山を訪れ、映画祭と釜山市が成長する様を見守ってきた。軍事政権時代の終焉を迎えた韓国が変貌を遂げたこの20年間は、いずれにしても釜山市にとって成長と発展の時代だった。しかし釜山国際映画祭が市の成長のための主要なエンジンを担ってきたことに疑問の余地はないだろう。ヘウンデ地区を拠点とすることで、映画祭は地下鉄の延長、湾をまたぐ橋など市の公共交通網に重要な改良を促した。映画祭は多数の外国人訪問者を惹きつけ、みすぼらしい田舎くさい港町を目の見張るような国際的なメトロポリスに変身させたのだ。20年前、世界で「プサン」という地名を知る人は多くはなかったが、今では何百万人もの人に知られるようになった。それも、多くは映画祭のおかげと言えよう。このことが韓国経済に及ぼした効果は、韓国政府と釜山市が映画祭に助成した額をはるかに上まわるはずだ。
だからこそ、私はまさかと言わざるを得ない。韓国政府と釜山市は韓国の最も優れて費用対効果の高い、誇るべき成果を一生懸命つぶそうとしているのだ。そんなことをするために彼らは選挙で選ばれたのか? 選出された公務員の戦術と行動に、有権者は納得しているのか? 私には信じ難い。
地球の反対側にある西ヨーロッパからこの事態を眺める身として、私は法律上の問題については語るつもりはない。それらは韓国の文化官僚と弁護士が判断することだ。しかしこの一年の事件を振り返ると、実に普遍的な大きな問題がふたつ見えてくるので、私はここに謙虚な姿勢から自分の考えを表わそうと思う。
まずは、映画祭の運営における能力とプロフェショナリズムの問題だ。釜山市がイ・ヨングァン氏に抱く不満が政治的であることは火を見るほど明らかである。右翼的な現市政府は、イ氏を政治的な敵とみなす。その政治的な対立をイ氏の退陣を迫れる正当な理由とみなしている。市側はおそらく、自分達の気に入った人間と簡単に取り替えができると思っているのだろう。例えば、上映プログラムへの政治介入に抵抗しないような人と。私は、このことに驚かない。私は母国をはじめ、多くの国でこのように思考する役人に遭遇してきた。しかしこのような考え方は、映画祭がどのように運営されるべきか、内外の観客とどう交流すべきかということにあきれるほど無頓着なのである。
巨大な映画祭はじつに複雑な組織体だ。最低限でも、産業としての映画と芸術としての映画のバランスを保つことができなければいけない。映画産業と、各映画の持つ文化特異性のバランスと言ってもいい。これはつまり「映画業界人」(プロデューサー、出資者、配給会社)と「クリエイティブ人」(監督、ライター、俳優)の双方と話すことができる能力、彼らが理解し尊敬できる言語で語る能力がなくてはならないことを意味する。容易なことに聞こえるが、実はそうではない。映画美学を理解することは、映画を製作し上映していくノウハウと両立しないことが多い。映画祭のディレクターとプログラミング・チームが、両方の分野の相手と自由に会話できているというのは、実は稀なことなのだ。トップがキム・ドンホ氏と継承者のイ・ヨングァン氏であったのは、BIFFの幸運と言えよう。
映画祭に求められるバランス感覚には、このほかにも国内と国外、大衆好きのするポピュリズムと専門性の高い関心領域があげられる。「シネマ」がわかりやすかった時代は今は昔。ハリウッドが世界市場を独占していたのも一過性のものだった。いまの観客にとって「シネマ」とは、人によってさまざまな姿をもつ。感情的で体験的な刺激を与えてくれる輝ける娯楽を求める人がいれば、思慮深く洗練されたアートフルな作品を求める人もいる。ドキュメンタリー、アニメーション、実験映画に強い関心を持つ人もいるし、映画館とギャラリーを越境するような映画を見たい人もいる。釜山国際映画祭はその設立時から、多様な観客のそれぞれのニーズにきめ細やかに応じ、すべての映画分野に渡って肩入れし熱意をそそいできた。
一般性を保つゼネラリストでいながら専門性にも配慮する責任は、政治にも及ぶ。私は映画作家のパク・チャヌクと意見が一致することなんてありえないと思っていたが、彼の次の指摘には完全に同意する。すなわち、問題を政治化したのはセウォル号事故のドキュメンタリーを阻止しようとした市議会の行動であって、映画祭の上映プログラムへの選定ではなかった。この映画は2014年に映画祭が上映した300本余りのひとつであり、他のドキュメンタリーより強力に広報宣伝したわけでも、執行委員長やスタッフがこの作品の主張を支持したわけでもない。端的にはこういうことだ:映画祭の使命とは、多様な視点を提示することにある。たとえ論争を呼んだり人を不愉快にすることがあっても。それこそが民主主義というものだ。
釜山市のイ・ヨングァン氏に対する度重なる攻撃は、自己中心的で狭量な政治家たちが韓国の映画祭の運営に介入した過去の例を思い出させた。ソウルのソウル忠武路国際映画祭の災厄を覚えている方はおられるだろうか? 己の利益を講じた政治家たちが映画祭をハイジャックしてしまった例である。政党と自身のプロモーションに利用できると勘違いした幾人かの政治家の取り合いの的となり、短命に終わってしまった映画祭だった。
釜山市議会がイ・ヨングァンの強制辞任を実現させたら、次はどうなる? おそらくどこかのご都合主義なごろつきが、市議会への卑屈なゴマすりを始終強いられる、映画祭執行委員長の仕事を引き受けるだろう。一方、専門能力の高いプログラマーを含む多くの映画祭スタッフはイ氏に同調して退職するだろうから、見限られた新米委員長は新たな日和見主義者たちでチームを組まねばならない。また、世界中の釜山映画祭の数多い友人たちは映画祭をボイコットし、市議会の政治的浅はかさに抗議するキャンペーンを繰り広げるだろう。映画作家たちは自作の出品を拒否し、映画記者や批評家たちはプログラムを鼻で笑い、まもなくBIFFの行く末はソウル忠武路国際映画祭の後に続くだろう。これがまさに「cutting off your nose to spite your face」ということである。これが韓国の右翼政治家たちの望むところか? この作戦が国内外の映画業界に愛される方法か? 立憲民主主義国家としての韓国の立場を本当に大切に思っているのか?
このような問いかけから、釜山の近況について私が考えた第二の大きな問題が導かれる。故キム・ヨンサムが大統領に選出された1993年来、韓国の政治は大きく変貌した。韓国の映画・テレビ作品の世界的な人気から超高速ブロードバンド・ネットワークまで、私たちが現代韓国の表象として思い浮かべるすべてが1993年以降に発展したものである。その上、韓国は真に多元的な社会に変身した。かつてないほど女性とマイノリティの声は響くようになり、軽くなった貿易障壁がかつてないほど韓国の消費者に外国製品や文化へのアクセスを可能にし、政治論争はオープンに行われるようになった。これらはすべて近代民主主義の証しである。それは闘って勝ち得る甲斐のあるものであり、守るべき価値のものである。
私の経験から例をあげよう。私のもっとも近しい韓国人の友人のひとりが、映画製作を学んだロンドンの学校の指導水準に不満をもち、卒業製作作品で学校を批判することにした。同級生たちが教師を名指しで短所を指摘するドキュメンタリーのシークエンスを撮り、主人公が学校の建物をダイナマイトで爆破するというファンタジーで映画は終わる。そこで問題は:学校当局は、卒業製作作品の上映会に、この映画の上映を許すか? 結論は、イエスだ。何人かのスタッフから反対の声もあがったが、卒業する学生の声を聞かせることが大事だと思った、と校長から聞かされた。臆病者のように批判から逃避するのではなく、批判と向き合ったのだった。
私自身、軍事政権下の韓国の「暗闇の日々」の実体験は限られている(初めて訪れたのは最悪の時期がもう過ぎた1988年だった)が、ロシア、中国、シンガポールほか権威主義的な政権のやり方についてはいくらか知っている。彼らは論争の意義を認めず、異なる考え方を容認しない。反対意見は議論の前に黙らせようと反射的な反応を見せる。釜山市議会が政府を批判するドキュメンタリーを上映するな、と映画祭に命じるのは、表現の自由の蹂躙であり、反対意見をもみ消そうとする衝動の教科書的な範例である。どうやら韓国の右翼政治家は1993年以来の変化に気づいていないか理解していないらしい。検閲の「暗闇の日々」、不同意の声を消せた、厳しい社会統制の時代を懐かしく思っているらしい。私はこれまで韓国の未来を明るいものと思っており、公けの場で何度もそう発言してきたが、釜山市議会の強情な政治手段は過去への後退を示していると思う。筋が通っていないのだ。
(英文和訳:藤岡朝子、翻訳協力:中山治美・相原裕美/2016-2-2)
トニー・レインズ(Tony Rayns)
ロンドンを拠点に長年東アジアの映画に関心を寄せる映画作家、ライター、批評家、映画祭プログラマー。釜山国際映画祭では初回からプログラム・コンサルタントを務めている。