骰子の眼

cinema

2015-12-25 14:20


IS中枢にも世界初取材した報道カメラマンが見た対テロ戦争

横田徹氏による「レストレポ前哨基地」DVD発売記念トーク
IS中枢にも世界初取材した報道カメラマンが見た対テロ戦争
『レストレポ前哨基地』アフタートークに登壇した、報道カメラマンの横田徹さん。

全米公開時に、その圧倒的にリアルな描写で、アカデミー賞やサンダンス映画祭をはじめ25もの賞に選ばれた戦場ドキュメンタリーの傑作『レストレポ前哨基地 パート1&2』のDVDが、12月2日に発売された。

本作は、『ローン・サバイバー』の舞台にもなった地上で最も危険な戦線といわれるアフガニスタンのコレンガル渓谷へ、2007年に派兵された米軍小隊を1年間追った記録である。

その発売を記念し、去る11月28日に渋谷アップリンクで、報道カメラマンの横田徹さんをゲストに迎え、上映トークイベントが開催された。

横田さんは日本人で唯一、レストレポ基地で米軍に従軍取材した経験を持ち、さらには2014年3月にジャーナリストとして世界で初めてISISをラッカで取材している。以下に、横田さんのトークの模様を掲載する。



報道カメラマンにとって麻薬のアフガニスタン


── 横田さんは、1997年に初めてカンボジアの内戦を取材して以降、インドネシア動乱、東ティモール独立紛争、コソボ紛争など、世界各地の紛争地に赴かれていますが、つい先頃10月30日に文藝春秋社から出版された著作『戦場中毒 撮りに行かずにいられない』の表紙は、横田さんがレストレポ基地で撮影した写真なんですね。

そうです。この映画が追いかけていた(第173空挺旅団戦闘団・第503歩兵連隊・第2大隊の)バトル中隊のカーニー大尉が、コレンガル渓谷を去る時に、後任の第一歩兵師団(第3旅団戦闘団・第26歩兵連隊・第1大隊のバイパー中隊)のハウエル大尉と引継ぎをしているシーンが、続編である『パート2』に出てきますが、僕はまさにそのハウエル大尉にお世話になりました。


『戦場中毒 撮りに行かずにいられない』著/横田 徹(文藝春秋)
『戦場中毒 撮りに行かずにいられない』横田徹(著)/文藝春秋刊

── コレンガル渓谷に横田さんが滞在されたのは、バトル中隊が2008年8月に去ってから3ヵ月後の、2008年11月の4日間ですね。

はい。この映画が撮影されていた時期には、実はクナール州の別の地域で従軍取材をしていて、その時たまたま基地に転がっていた雑誌「ヴァニティ・フェア」に、コレンガル渓谷での激しい戦闘を伝える記事が写真とともに載っていたんです。
[※本作の監督であるセバスチャン・ユンガー(文)とティム・ヘザリントン(写真)がヴァニティ・フェア誌に寄稿した2007年12月31日付の記事。ウェブ上で現在も閲覧できる]

その記事を見て、コレンガルにどうしても行きたいと思い従軍申請を出したんですが、激戦地であるがゆえに人気が高くて、なかなか行かせてもらえない状況でした。基本的に自国のメディアが優先されるので、私のような外国人記者が希望しても難しいんです。

アメリカ軍の広報担当に、しつこく「行きたい」と訴え続けていたのですが、絶対にダメだと言われました。その後、コレンガルからそれほど遠くない基地に一週間ほど従軍しました。そこも危険な場所と言われていましたが、僕が滞在していた間は戦闘は起こりませんでした。それで、また何度もコレンガルに行きたいと訴えていたら、広報責任者の少佐の部下の軍曹から「わかった。俺がなんとかするから行け。今夜、ブラックホーク(軍用ヘリ)が補給のためにコレンガルに行くから、それに乗るんだ。行ってしまったら本部もわからないだろうから、しばらく隠れていろ」と言われたんです。

その日の夜に、荷物をパッキングしていつでも行ける準備をしたんですが、今度は怖くなってくるんですよ。恐怖と闘いながら待っていたら、翌日の昼にヘリコプターが来て慌てて飛び乗りました。ヘリからコレンガル渓谷を見下ろすと、とんでもなく険しい光景が広がっていて、どこに着陸するんだろうと思っていたら、山の頂上を少しだけ切り開いたヘリパッドがあって。それを見たときには、来なければよかったと心底後悔しました。

責任者のハウエル大尉に「日本から来ました」と挨拶をしたら、「好きにやってください。ちょうど今、パトロールに出るところですが一緒に行きますか?」と訊かれました。だから、ヘリで着いてすぐパトロールに同行したわけなんですが、案の定、ただちに銃撃戦が始まるんです。「死の谷」という名前は大げさではないんだと実感しました。

── 横田さんは本国アメリカ版のDVDで、すでに本作をご覧になっていたそうですが、今日、改めてスクリーンで観ていかがでしたか?

自分が歩いた山やヘリから見下ろした光景と銃弾や砲弾が渓谷に響く音で、レストレポ基地に戻ったような気がしました。あの時の恐怖感がよみがえってきて、背筋がピンとなってしまいました。

── ここで、横田さんがレストレポ基地で撮影した写真を見せていただきます。

この写真(下)は迫撃砲の発射台で、ここから毎日、大量の砲弾を撃ち込んでいました。僕は着いた日に、この隣のテントで寝ていたんですが、翌朝、この音で飛び起きました。攻撃されたのかと思って。

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©Toru Yokota

この写真(下)は、戦闘が一瞬収まった隙に、みんなで集まって歓談している様子です。すぐにまた銃撃戦が始まるんですけど。

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©Toru Yokota

── 横田さんの本によると、レストレポ基地のほかにも小さい前哨基地が尾根に作られていたんですね。

そうです。コレンガル・アウトポストというのは、司令部がある一番大きな基地です。それを取り巻くように、レストレポ、ビモト、ダラスなどの小さい基地があって、敵が来たら食い止める役割をしていました。パキスタンとの国境に近いコレンガル渓谷は、アルカイダなどの武装勢力が入ってくる通り道なので、そこらじゅうで戦闘があって非常に危ない地域です。アフガン全土の戦闘の約7割はここで起きていました。

── コレンガル基地にヘリで到着されて、そこから尾根のレストレポ基地までは、どのように移動したのですか?

ちょうどコレンガルOP(アウトポスト)からレストレポ基地に、感謝祭(米国の祝日。11月の第4木曜日)の七面鳥を運ぶヘリが飛ぶとというので、それに乗り込みました。ヘリだと10分かからない程度ですが、歩きだと私の足では3~4時間はかかったと思います。歩いている最中に撃たれる恐れもありましたし。

── カメラのバッテリーなどで荷物も重いのでは。

ヘリコプターに乗るには防弾チョッキも必要で、着替えなども合わせると装備は結構ありましたね。兵士たちは、さらに重層な防弾チョッキや弾薬なども運びますから、僕の荷物よりずっと重いです。最初、僕はプラスチックのヘルメットを持っていったのですが、コレンガルはあまりにも銃撃戦が多いので、きちんとしたヘルメットに代えて、さらにプレートを前と後ろに入れていました。

── 従軍する手続きはどのように行なうのですか?

難しいようで意外に簡単です。(カブール近郊にある)米軍のバグラム空軍基地にISAF(国際治安支援部隊)の広報があり、まずそこにメールを送ります。パスポートやビザ、日本の国民健康保険のコピーなどの書類を提出すると、一週間くらいで許可の通知がきて、集合の日時と場所を指定されます。広報担当に会いに行って「撃たれても自己責任」などの分厚い書類にサインします。そこでやっと記者証を発行してもらい、各地の米軍基地へ自分で向かう形になります。

バグラム基地には空港のようなカウンターがあるのですが、そこに申請を出すとスペースが空いた便に従軍記者は乗せてもらえます。アメリカ軍の飛行機に乗れなければ民間軍事会社の飛行機、それもダメだとヘリコプター、ヘリにも乗れないと近場であればトラックで行くことになります。そうやって交通手段を自力で探して辿り着かなければならない大変さはありますが、自分次第で取材に適した危険地域に行くこともできます。

── 映画では、隣のペッシュ渓谷にいたチョーズン中隊が多数犠牲になった話が出てきますが、横田さんはペッシュ渓谷でも2010年に米軍に従軍取材されて、そこで九死に一生を得たそうですね。

コレンガル渓谷から米軍が(2010年4月に)撤退してしまったことにより、攻撃がペッシュ渓谷に集中しているような状況でした。僕は目の前に落ちてきたロケット弾で足を被弾しましたが、その攻撃によって2等軍曹1人が亡くなり3人の兵士が重傷を負いました。


©Toru Yokota
横田さん撮影のペッシュ渓谷。©Toru Yokota

── 横田さんは『戦場中毒』の中で、次のように書いていらっしゃいます。

「コレンガル渓谷の戦いは双方のどちらかがギブアップするまで続く、終わりの見えない我慢比べだ。アメリカ軍は“戦闘”では勝っている。だが、空からの爆撃と膨大な量の銃弾と砲弾を使い、途方もない資金を投入して数人を殺害しているだけだ。本当にアメリカ軍が優勢と言えるのか。一体、コレンガル渓谷にどれだけのアメリカの血税が消えているのか。」(P.101)

本作の監督セバスチャン・ユンガーも、「対戦車ミサイル一発が約一千万。1年かかってもこの金額を稼げない米兵が、一生かかっても稼げない人間に向かってそれを撃つことの不条理さ」を訴えていました。

実際に戦場に行って、その光景を見るとむなしさを感じます。それと、この映画は兵士たちのプライベートな時間や、米軍の失態もきちんと撮っていてすごいなと思いました。パトロール中に村民から「お茶を出す」と言われて断るのはマナー違反ですし、鉄条網に絡まって死んだ牛の代償に、同じ重さの小麦と交換するという発想も、アメリカ軍が現地でうまくいかなかった原因の一つだと思います。

彼らの土地にずけずけと踏み込んでいって、たまに誤爆で村民を殺してしまうのですから、地元から支持を得られないのも当たり前です。そのことをタリバンは十分わかっています。もしあの場に村民がいなかったら、あんな戦闘は起きていません。村民がいるからアメリカ軍が堂々と戦えないということをわかっていて、タリバンはあの場所で戦っているんですね。


タリバン従軍、そしてISISの取材


── 監督のティム・ヘザリントンは、この映画がアカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされ、その授賞式に出席した2ヵ月後の2011年4月に、リビアのミスラタで内戦を取材中に被弾して40歳で亡くなりました。横田さんも同じ年の7月にミスラタに取材に行かれたそうで、つまりそこでもティム・ヘザリントンとすれ違ったわけですね。

彼が行くところを私が追いかけているような感じですね(笑)。まったく同じところへ行きました。これはもう縁ですね。ここで彼が亡くなったことを聞いて、とても怖くなりました。カダフィが殺害される前の、戦闘が非常に激しいときだったので、生きて帰れるのか不安になりました。

── 次に、横田さんが制作した『戦場中毒』の紹介動画を観たいと思います。


── この動画にも出てきますが、横田さんはアメリカ軍に従軍するよりも先に、2001年のアメリカ同時多発テロ事件の数か月前、アフガニスタンでタリバン軍に従軍取材されていますね。

当時アフガンはタリバン政権が支配していたので、タリバン政府に従軍申請を出し、1ヵ月間、従軍取材をしました。そのときに従軍したのがまさにクナール州でした。後年、アメリカ軍に従軍した際もクナール州にこだわったのは、そのせいもあります。クナールはソ連がいた時代から激戦地でしたから。

── 実際に接したタリバン兵たちの印象はいかがでしたか。

すごく人間味のある侍のような気質で、日本人と気が合うと感じました。彼らから学ぶことも非常に多かったです。レストレポ基地いた際の銃撃戦では、そのときの連中が今撃ってきているのか、と考えたりしていました。

── イスラム国による後藤健二さんと湯川遥菜さんの拘束・殺害事件が今年(2015年)1月に起こった際に、マスコミから横田さんに取材が殺到したのは、横田さんが2度、イスラム国の中枢メンバーを取材したことがあったからなんですね。

1度目は2013年9月で、シリアの北部で内戦取材をしようとしていたのですが、まさかそこにISISの兵士がいるとは思っていませんでした。シリアに住むコーディネーターが、いろんなグループとアポイントを取ってくれるのですが、ついでにISISとのアポイントまで入れてしまったんです。行きたくなかったんですが、コーディネーターがキャンセルできないと言うので、仕方なく取材に向かいました。彼らは当時から外国人の誘拐を行っていましたし、あの場にいたら誰でも、今後この組織は大きくなっていくと思ったはずです。

2度目は去年(2014年)3月に、イスラム法学者の中田考先生がISISの司令官に会いに行くと聞いて同行しました。取材に関しては、イスラム国の本部から許可証を出してもらったので、何の問題もなく帰ってくることができました。

── 今、同じように許可はもらえるのですか?

今は(有志連合による)空爆が非常に激しくなっているので、簡単には許可を出さないとは思いますが、許可が出れば行って帰ってくることはできると思います。ただ、僕はもう絶対に行きたくないですね。スクープにはなると思いますが危険過ぎるので。移動中に空爆でやられてしまうんですよ。車がラッカから移動していたら、間違いなく撃たれます。

── 明後日からイラクに行かれるとのことですね。どれだけ危険な体験をされていても、再び戦地に行くのはなぜですか?

危険な体験をするのは、長い取材期間の中のほんの一瞬です。いつも危険な状況にいるというわけではないので、極力安全には気をつけています。一番怖いのは交通事故です。イラクは道もある程度舗装されていることもあって、住民が150キロのスピードで運転をするので本当に怖いです。

イラクといってもどちらかというと安全な地域に行きます。シリアのラッカとイラクのモスルというイスラム国の2つの要所があるのですが、中継地点のシンジャール6月に行った際は激戦地でした。しかし、アメリカの特殊部隊が入って空爆を精密に誘導したりした結果、この場所は陥落しました。なのでその場所はもう開放されていてイスラム国の兵士もいません。いつも情報を送ってくれているコーディネーターがいるので、いきなり拉致されることなどはありません。数日間滞在したら帰って来ようかなと考えています。

── 『戦場中毒』という本のタイトルどおり、アドレナリンが出てやめられなくなるのでしょうか?

やはり戦場を味わうと、それ以上の興奮はないですね。きっとドラッグなどの興奮でも比にはならないと思います。そういうところに行くと、「税金を払わなくちゃいけない」とか「家賃を払わなくちゃいけない」など、日々のしがらみから解放されて、自由になってしまいます。まあそれはそのときだけで、帰国したらまた家賃を払わなければならないのですが(笑)。兵士もそのようなことを言っていました。戦っていればいいという自由さというのがあるのだと思います。


会場からの質問1

従軍取材中、戦闘が起こったら兵士は記者を守ってくれるのですか?

それは恐らく、部隊にどれだけとけ込めるかにもよると思います。向こうも人間なので、こちらが失礼なくきちんと接していれば、どんどん仲良くなります。そうすると、いざというときに声をかけてくれたり、自分が盾になって守ってくれたりします。部隊という、非常に結束が強いグループに入っていくのは大変ですが、休憩時間などに彼らの輪に加わっていってコミュニケーションをとるなど、人間関係を築いていくのが非常に大事です。

観客からの質問2

こうした映画を観るたびに、政治的な信条や正義の持ち方などで両者はこの先も相容れないように思えますが、戦争の現場はそれとは違う力学で動いているわけですよね。兵士のモチベーションはどういうところにあるのでしょうか?

この映画を観てもわかるように、派兵される前はみんな「アフガンのために」と思っているのですが、実際に来てみたら住民はタリバンとアメリカ軍のどっちの味方なのかわからない。住民に物資を提供しても夜にタリバンが来たら横流してしまうのですが、そうしないと住民はタリバンに殺されてしまうので仕方ないのです。それが毎回続くと住民が信用できなくなり、自分の仲間が亡くなると復讐の気持ちがどんどん大きくなってしまいます。そして自分たちが生き残って帰れればいいという気持ちになるのだと思います。




横田徹(よこた・とおる)

1971年、茨城県生まれ。報道カメラマン。1997年のカンボジア内戦からフリーランスのカメラマンとして活動を始める。その後、インドネシア、コソボ、パレスチナ、アフガニスタン、リビアなどを取材。2014年3月にジャーナリストとして世界で初めてISISの首都ラッカを取材。紛争地を専門にスチール撮影、ドキュメンタリー番組の製作を手がける。著書『戦場中毒 撮りに行かずにいられない』(文藝春秋)写真集『REBORN AFGHANISTAN』(樹花舎)共著に『SHOOT ON SIGHT』(辰巳出版)などがある。2010年、世界の平和・安全保障に期す研究業績を表彰する第6回中曽根康弘賞・奨励賞を受賞。




『レストレポ前哨基地 PART.1』
『レストレポ前哨基地 PART.2』

『レストレポ前哨基地』PART.1&2ポスター_s

『レストレポ前哨基地 PART.1』

監督:ティム・ヘザリントン、セバスチャン・ユンガー
原題:RESTREPO : one platoon, one valley, one year
(2010年/アメリカ/93分)

『レストレポ前哨基地 PART.2』

監督:セバスチャン・ユンガー
原題:KORENGAL : this is what war feels like
(2014年/アメリカ/84分)

公式サイト:www.uplink.co.jp/restrepo
公式Facebook:www.facebook.com/restrepomovie.jp
公式Twitter:twitter.com/restrepo_jp


▼映画『レストレポ前哨基地(PART.1&PART.2)』予告編

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