2015年9月2日に渋谷アップリンクで開催された映画『首相官邸の前で』先行上映のアフタートークに登場した、監督の小熊英二氏(左)、SEALDsの奥田愛基さん(中央)、SEALDsの梅田美奈さん(右)。
福島第一原発事故後の東京で、政府の原発政策に抗議するために起こった大規模デモを記録したドキュメンタリー映画『首相官邸の前で』が現在、渋谷アップリンクをはじめ全国で順次公開されている。
本作は、『単一民族神話の起源』『<民主>と<愛国>』『1968』などの著作で数々の賞を受けた、歴史社会学者の小熊英二氏による初映像監督作品である。
公開に先立ち、去る9月2日(水)に先行上映会が開催され、アフタートークに小熊氏と、SEALDsのメンバーである奥田愛基さんと梅田美奈さんが登場した。
現在大学生の奥田さんと梅田さんは、この映画に描かれている2011~2012年当時の脱原発デモを見てきた経験が、彼らが主催するデモに大きく影響していると言う。そのトークの模様を以下に掲載する。
「友達を誘って毎週、官邸前デモを見に行っていた。日本ですごいことが起きていると思った」(奥田)
小熊英二(以下、小熊):ご存じの方も多いと思いますが、今日のゲストのお二人が活動されているSEALDsは、Students Emergency Action for Liberal Democracy(自由と民主主義のための学生緊急行動)の略です。リベラル・デモクラシーの再興を謳っている。自由民主党(Liberal Democratic Party)がどこよりも尊重しなければならない相手ですよね(笑)。 では、まずこの映画を観た感想を聞かせてもらえますか
奥田愛基(以下、奥田):この映画に記録されている、2011年から2012年の間に起こったデモの意味や、社会がどう変わっていったかについて、自覚していなかったことがたくさんありました。今では千人単位が集まるデモは当たり前になってきていますが、映画を観ると当時は二百人集まっただけで「今までで一番多いです」と言っていたりもして、改めてこの3年でも大きく変わったと感じました。
このあいだの大規模デモ(主催者発表では12万人が参加した、8月30日に国会前で行われた安保法案反対デモ)の翌日、たくさんの新聞に、決壊(警察の規制線を越えて車道に人があふれること)した時の写真が載っていて、60年の安保闘争以来のことだとか書いてありました。でも、この映画を観れば分かるとおり、つい3年前にも決壊していたんですよね(笑)。この国の歴史、特に震災後の数年について、きちんと考えていかなければいけないなと思いました。
梅田美奈(以下、梅田):私は震災後の運動にも参加していました。自分が今まで見てきたものと見れなかったものを、やっと誰かがまとめる時期が来たんだと思いました。この映画は、今の自分たちの運動が出てきた文脈を示していると思うし、今はそういう意味付けをやっていかなければいけない時なんだと感じました。
小熊:私は学者として、このような形で社会の記録を作り、その記憶を足場にして次に進んでもらうことを考えていました。ですから、今、述べていただいたような感想は、とてもありがたいです。
この映画で描かれている2011~2012年は、お二人は何をされていましたか?
映画『首相官邸の前で』より
奥田:東日本大震災が起きたのは、高校の卒業式前日だったんです。大学入学後は、ずっと東北へ震災支援に行っていました。当時は原発よりも、東北の被災者のことが気になっていた。大学での専攻分野には政治史も含まれていたので、日本の行政機関のあり方や民主主義のプロセスについて学んでいましたが、デモにはあまりいいイメージがありませんでした。
初めて官邸前に行ったのは、2012年5月です。友達から「原発がどうしても許せないから官邸前にいます、一緒に声を上げませんか?」というメールがきたんです。当時、僕のデモに対するイメージは、ヘルメットをかぶって、ゲバ棒を持ってというもので(笑)。「一人で行くのは絶対に危ないから、僕もついてくよ」と返事をしたんですが、遅くなってしまい終わり際に向かっている最中、その友達から「財布を失くした」という連絡がきて、「ほら、やっぱりデモは危ない」と思いまして(笑)。その後、財布はちゃんと見つかりましたけども(笑)。
でも、着いてみたら僕が知っているデモンストレーションとは何か違う。比較的、若い人が多くて、この人たちがデモ帰りの人たちなの?と驚いて、「これは何か起こるかも」と思いました。それからは「原発に賛成でも反対でもどっちでもいいから、官邸前のデモを見に行こう。日本ですごいことが起こってるよ」と周りの友達を誘って、毎週見に行くようになりました。気がついたら、毎週金曜日の授業終わりに数十人が集まって、官邸前デモ見学ツアーみたいになってたんですよ。
原発について特に詳しく勉強したわけでもなくて、とにかく僕らは、あのデモを材料に、今、何が起きているかを話し合いたかったんです。それで、デモを主催していた反原連(首都圏反原発連合)の人に「デモを見学させてもらってもいいですか?」みたいな、よくわからないメールを送ったんです。そしたら、すごく怒られました(笑)。確かに、いま考えれば、官邸前で車座になって大学生が勝手に集会してたら、僕でも絶対に止(と)めると思います(笑)。
映画『首相官邸の前で』より
この映画に出てくる、官邸前が決壊した日の映像に、赤いパーカーを着た僕が映っています。みんなが「再稼働反対!」とコールしている中で、自分だけずっと携帯を見てる姿が我ながらおかしかったんですけど、その映像を観ながら当時のことをいろいろ思い出しました。心の中では原発に反対だったけど、だからデモに行こうとは、大学では言えなかった。「デモより賢いやり方がある」と、どこかで思っていたのかもしれない。だから、まさかデモを主催する側になるとは思っていませんでした。
それでも10月ぐらいまで、ほぼ毎週金曜に大勢の大学生と官邸前に行っていました。その中には賛成派も反対派もいて、デモの終わりに日比谷公園に集まってしゃべったりしてたんです。友達がみんな行くと言うんで、大飯原発にも行ったし、官邸前が決壊したときも最前列にいたんですが、なぜあのとき一線を踏み込んで自分も呼びかける側になれなかったのかはわかりません。それでも、ずっとその場で見てきたからこそ、今、国会前で毎週金曜日に抗議をしているんだと思います。
梅田:私は震災の時、大学2年生でした。震災以前から、いわゆる「高円寺的」なプレカリアートの運動に関心がありました。初めて本格的に参加したデモは、震災直後の第一回東電前抗議(2011年3月18日)です。
ただ、それ以前に「素人の乱」がやっていたサウンドデモとか、宮下公園のデモ(2008~2010年のナイキパーク化反対デモ)を見ていたので、その時の東電前抗議のやり方は旧来的に感じられて、なじめませんでした。それにその時は、家に帰って母に「今日、初めてデモに参加した」と伝えたら、「家がこんなに大変な時に、家族じゃなくて社会や他人に目を向けるのか」と文句を言われて、しゅんとなってしまいました。
でも、その後もこっそり、高円寺(2011年4月10日)や新宿(2011年6月11日)の「原発やめろデモ」にも行きました。それらのデモはこの映画にも描かれているとおりで、「あぁ、これが私の知ってるデモだ」としっくりきました。
ところが2012年になると、家族からの反対が強くて、運動に関わらなくなってしまったんです。私が外出すると、母が“全国のデモ情報”みたいなサイトを調べて、「今日はここに行ったでしょう」とつつかれたりして。怪しい活動家になるんじゃないかと、すごく心配されたんです。社会運動の参加歴は、SEALDsの中では珍しい方ではないかと思います。
奥田:SEALDsのメンバーで、2011年にデモに行っていた子は、ほとんどいないと思う。20歳ぐらいの子たちがメインなので、3~4年前は16~17歳の高校生ですもんね。
映画『首相官邸の前で』より
メディアの報道について
小熊:私自身は、2011年4月の高円寺での反原発デモから参加しました。私はめったなことでは驚かない方なんですが、あの4月10日の高円寺のデモは、ほんとうに驚いた。規模もそうですが、それ以上に雰囲気の点で、日本でこういうことが起こるのか、と思った。そして、これは日本社会が大きく変化していることを示している予兆だから、このあとも現場にいるべきだと思い、その後はこの映画に出てくる主要なデモにはほとんど行っていました。
定期的に行っていて、官邸や国会の前に立って抗議するという、独特のデモンストレーションの形の誕生に立ち会うことになった。あれは、それ以前の日本にはなかったし、また日本以外にはないものです。それが政治文化としてその後に定着して、現在に繋がっていると見ています。
お二人は、この映画に描かれた時期のあと、どのような経緯で、今の安保法制反対のデモを主催するようになったのですか?
奥田:毎週、脱原発デモを見学していたのは、原発が停止することを期待していたからでもあります。でも、その年の終わりに政権交代があって、原発ゼロ目標は取り下げられてしまった。社会があれほど原発反対の声を上げていたのに、原発を重要なベースロード電源と宣言する党が政権維持できてしまうことに唖然とした。
そこから1年間、海外に留学していたこともあって、政治にまったくコミットしなかった時期がありました。でも、留学先のモントリオールで、学費の値下げを要求する学生のデモに出会いました。それから、シリアやウクライナ、ギリシャなど政情が不安定な国の留学生たちと話をして、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動や、ウォール街占拠、トルコのゲズィ公園を守る運動とかの話を、彼らからたくさん聞きました。でも当時は、まさか自分がデモを主催するなんて想像してなかったし、「世界ではそういうことが起きているんだ」ぐらいにしか受け止めていませんでした。
日本に帰国してからは、勉強に専念するつもりでいました。ところが、2013年11月に特定秘密保護法案が通るかもしれないとなった時に、友人から「勉強会を主催するから手伝って」と誘われた。そうしたら、予想よりかなり早く可決することになり、12月に国会前の抗議を見に行ったら、その夜の11時近くに強行採決されたんです。「いったい民主主義って何なんだろう?」と疑問に思ったし、「こんな法律が合憲なのか、憲法そのものをもっとよく知りたい」とも思いました。それで、その日の夜、人生で初めて「デモやらない?」と自分から友達を誘ったんです。
映画『首相官邸の前で』より
今でこそ「若者が立ち上がってエラい」と言われますけど、メディアは当時、学生を政治参加しないものとして扱っていました。しかし僕は反原発デモを見ていたので、そこに若者がいたことを知っていました。ある日、新聞社の人に「どうして若者を写さないんですか?」と聞いたら、「新聞社は平均を撮ります」という。「なんの平均ですか?」と聞いたら、「参加者の平均です」。「じゃあ、20歳から80歳までの人たちがいたら、どのへんを撮るんですか?」と聞いたら「40歳から少し上くらいですね」と。だったら、僕らは永遠に写らないと思って(笑)。同じ思いの同世代の人たちが絶対いるはずだから、若者のくくりでデモをやってみようと始めたのがSASPL(Student Against Secret Protection Law/特定秘密保護法に反対する学生有志の会)でした。これが現在のSEALDsにつながっています。
この映画を観て改めて思ったのは、当時のデモと、僕らが今やってるデモの仕方が、ほとんど変わっていないということです。世代が違うから音楽性やデザイン性の差はあるかもしれないけど、ドラムを叩いて音楽を流す抗議のスタイルは完全に一緒で、自分たちが見てきたものが無意識に出ているんだと思います。だから、当時メディアが注目しなかったデモが、今こんなに取り沙汰されてるのは、むしろ社会の方が変わったんだと思います
梅田:私は官邸前などの脱原発デモに参加後、家族の反対があったり経済面や健康面で問題が多かったりで2014年の夏までデモは休んでました。野田さんの「近いうち解散」後の選挙結果を受けて、今では考えられないけれど「やっぱり何も変えられない」と嘆きモードに入ってしまったのも大きいです。さんざんデモに参加しておいて、デモは効果なしだと冷ややかだったし、すぐ諦めてしまうように「言うこと聞かせる番だ」という意識が育ってませんでした。
運動から離れてる間も、ヘイトスピーチへのカウンターを控えめに追いながら「思わず路上に出て声を上げる」体を養ったり、都知事選をきっかけに家族や友達と普段から政治の話を交わすための言葉や聞き方を探したり、肌感覚を重視して小さくトレーニングは続けてました。何かを守るためには自分が変わっていく必要性をどこかで感じてたんでしょう。
初めて奥田君たちと会ったのは2014年8月の「怒りのブルドーザーデモ」で、安倍さんを標的にしてパブリックエネミーと書いたプラカードを持って行きました。これは嘆きモード以前には考えられません。
大きく変えられていく社会で何も変わらないと嘆いてみせるのは、真の敵は見えにくいと言いながら、自分は個々の現場で闘わないということ。局面ごとに具体的な敵を名指さないと物事は自分に差し迫ってこない、つまり当事者になれない。目標を設定しないでだらだらとお題目を唱えるから続かないし、お題目の正しさに頼ろうとするから周りを巻き込めなかったんだと、その頃やっと気づいたんです。
負けを誇らずしつこく勝ちを求める真摯な態度に共感してSASPLに合流し、今に至ります。私が安保法制反対を強く訴えはじめたのは今年の5月14日。閣議決定にいてもたってもいられず朝の授業前に官邸前に行ったら他のメンバーもいて、夜に緊急で抗議しようと大学の空き時間にフライヤーを作ってツイッターで呼びかけました。
映画『首相官邸の前で』より
1960年代の学生運動との違い
小熊:今の二人のお話は、現代日本ならではの学生の運動形態として、大変興味深かった。学生がやっている運動ではあるんだけど、自分のいる大学の中で運動を作るのではなくて、学生という共通項のもとで広いネットワークを作っている。60年代の学生運動は、特定の大学の内部で、自治会や寮を基盤にしていたことが多いんですが、それとはかなり違うことがよくわかりました。
それから現在の運動は、60年代後半の運動のように、非日常的な革命の夢に脱却しようというものではないですね。その理由の一つは、生活が厳しくなってきているからです。60年代は日本がどんどん豊かになっていく時期だったし、学生は少しぐらい暴れても就職先があるという安心感のもとに運動をしていました。このままだと会社勤めの人生になるから、今のうちに暴れておこう、というメンタリティがあったんですね。今から考えれば、一つの会社に一生雇ってもらえるのが前提だった。
それと比較して今は、例えばSEALDsのメンバーの中にも、奨学金の借金を何百万円も負っている人や、電車賃がないからミーティングに来られない人もいるわけですよね。雇用も厳しくなってきているし、「革命で安定した日常を壊す」といった志向にはならないのでしょう。
奥田:なりたくても、なれないんですよね。デモのイメージはもともと悪いし、革命なんて起こるわけがないって思っているし、生まれた時にはすでにバブルが崩壊していて、日本経済は悪くなる一方で、変わらない日本に絶望しきって、だからこそできることをやろうという気持ちです。簡単に社会が変わるとは全然思ってないんだけど、思ってないがゆえに、何かやらなきゃと。
梅田:ポジティブなあきらめというか、「どうせ変わらないし」じゃなくて、「どうせ変わらないなら、やっちゃおう」と。
小熊:いや、日本はどんどん変わっていますよ。10年前、20年前の日本と同じだと思っている人はいないでしょう。良くも悪くも自由になり、不安定になった。あなたたちの運動は、そうした変化で危機に陥った自由と民主主義をとりかえそうという運動であると同時に、日常生活の安定を回復するための行動でもあるようにもみえます。
奥田:自由民主党党首の安倍さんは「日本を取り戻す」と言ってますが、僕たちは自由民主主義を掲げて、「安倍首相から日本を取り戻す」と宣言してます(笑)。
小熊:冒頭でも言ったように、SEALDsというのは「リベラル・デモクラシーのためのアクション」の略で、「レボリューション」だとか「ソシアリズム」だとかは、言ってないですよね(笑)。
奥田:「憲法くらい守った方がいいんじゃないか」とか、「常識を持ってデモに参加しましょう」とか、かなり普通のことを言ってます(笑)。自分でもたまに、「変なこと言ってるな」と思うくらい。
梅田:激しいことは言ってない。当たり前のことを言っているだけですよね。
小熊:憲法に定められた民主的な秩序を守るために、デモをやらなきゃいけない段階にまできているということですね。SEALDsの活動が広い共鳴を呼んだのは、そういう不安感や危機感が広がっているからでしょう。
奥田:社会の根幹的なところが死にかかっていると思います。
小熊:私は大学の教員をやっていますが、この10年の間に、学生がどんどん貧しくなっていることは、はっきり感じ取れます。2011年の震災と原発事故は、全体状況の変化に気づくきっかけを与えた。日本のある時期の運動というのは、遠くに問題があって、困っている人々がいるから助けに行かなくてはならないというものでしたが、福島事故後の反原発運動はそうではなく、自分の住んでいる地域に放射能が降ってきたから立ち上がらざるを得なくなったという運動だった。そういうきっかけで生まれた運動の政治文化が、社会状況の変化と、結果的に一致したのだと思います。SEALDsの運動は、そうした政治文化の変化の延長にあると同時に、社会全体の変化を象徴していると思います。
映画『首相官邸の前で』より
観客からの質問1
私自身も学生時代は毎週デモに行っていましたが、今は仕事でなかなかそうはいかず、職場でデモの話もしづらいです。奥田さんと梅田さんは、大学を卒業して社会に出てから、どう運動と付き合っていこうと考えていますか?
梅田:本当は、今の問題は私たちの世代がここで止めなきゃいけないと思っています。ただ、これだけの人数が(SEALDsに)集まってきて、分担がしっかりできていて、次の世代を作れてきたように思うので、自分が抜けても大丈夫だろうという安心感はあります。でも、やっぱり関わるべきところには関っていきたいと思っていますし、その人なりの関わり方が、それぞれあるのではないでしょうか。
奥田:就職していった人たちが今どうなってるかというと、金曜の夜や休日に時間を見つけては参加してくれています。彼らが職場でデモに関する話ができるかといえば、もちろんいつもできるわけではない。でもゼロというわけでもない。新聞を見て、「今日こういうニュースがあったね」ぐらいはしゃべれる。でも、それはSEALDsに限らず、社会の中では普通のことですよね。僕もバイト先でデモの話をわざわざしないです。だから少しずつ、できる範囲でやっていけばいいのではないでしょうか。
小熊:単純に仕事が忙しくて時間がないという問題と、その行動を他人に話して受け入れられるか不安だという問題は、区別して考えた方がいいと思います。前者はパートタイム参加でいいと思う。そして後者の問題は、これから変わっていく可能性が大きい。例えば20年ほど前までは、会社の宴会で酒を飲まない奴は社会人ではないとすら言われたものですが、今はそんなことはない。社会の雰囲気とか、暗黙のルールなんてものは、そのくらいには変化するものだと思います。
私個人のことでいうと、近所の人や、宅配の人などとは、気軽に話をするようにしています。そうすると、意外とデモに参加している人は多い。また創価学会の人や労働組合の人など、様々な人が近くに住んでいる。「そんな人たちは平均人じゃない」と思うかもしれませんが、実際に話してみると、絵に描いたような「ザ・平均人」なんてものは実在しないのがよくわかります。だから、デモや政治についても、オープンに近所や職場などで話してみてもいいと思います。
観客からの質問2
安保法案はおそらく可決されると思いますが、それはつまり、デモをする側が負け組になることを意味するのではないでしょうか。負けた後、どう頑張っていこうと考えていますか。
奥田:例えば、原発が再稼働されたことは、デモをしている人たちが負けたことを、本当に意味するんでしょうか? この先、たとえ川内原発以外の原発も再稼働されていったとしても、311以前の稼働数には到底及ばないだろう言われています。それに、今までデモなんか起きないと思われていた鹿児島で、何千という人が集まった。この意味においては、九州電力と政府が負けたのかもしれない。社会は変わっているわけです。
安保法案が成立したら、確かにその時点では負けかもしれない。ただ、何もしないまま次の選挙を迎えるのと、これだけ国民が行動を起こしてから迎えるのとでは、大きな違いがあると思います。僕たちは何に負けて何に勝ったのかということを、注意深く見ていかなければならない。至らなかったこと、できなかったことに対して、悔やんで反省をして、もう一度立ち上がれるかどうかだと思います。
梅田:嘆いている時間は本当にないし、(8月)30日の余韻に浸ってる暇もない。少しずつ負けても、大きく勝つのかもしれない。一番大事なのは、「すべてがひっくり返らないと、何もできたことにはならない」とは絶対に思わないことです。
小熊:歴史を研究した立場から言うと、運動の影響というのは、そんなに簡単には測れない。例えば、1960年の日米安保条約の反対運動は、条約改定が通ったのだから敗北だったと言われます。また保守派の人には、「反対派が言っていたように、安保が通ったら日本が戦争に巻き込まれるとかいうことは、なかったではないか」と言う人がいます。しかし、そうだろうか。
私は、もしあの反対運動がなければ、日本はベトナム戦争に派兵していただろうと思います。韓国はアメリカの要請に従って、ベトナムに派兵しました。少なくとも、日本であれほど大規模な反対運動がおきたことで、日本の自民党も、アメリカ政府も、日本をアメリカの国際戦略に軍事協力させるのは容易ではないと慎重になったことは確かです。
つまり、「安保条約が通っても、日本は戦争に巻き込まれなかったじゃないか、むしろ戦争を防止したじゃないか」という話は、放っておいて成り立ったのではない。むしろ、反対運動があった結果として、そういうことが成り立ったと考えたほうがいいのではないかと思うわけです。
またあの運動の結果、岸信介首相は退陣しました。岸が安保改定をステップとして改憲まで持っていくつもりだったことは、彼自身が明らかにしているとおりです。あの反対運動は、それを結果として阻止した。
もちろん安保反対の運動は、ベトナム戦争の参戦防止をめざしていたのでもなければ、憲法擁護を掲げていたのでもない。しかし運動というもの、政治というものは、そういうふうに、いろいろな影響がからみあって動いていくものです。
歴史上に実在した政治と運動の関係はそういうものであって、政治学の理論が描くような、インプットとアウトプットが一致していなければ無意味だというものではない。2012年の官邸前抗議も、大飯原発の再稼働反対を掲げた運動でしたが、結果的に出てきたアウトプットは「2030年代に原発ゼロ」という方針だった。それが選挙の結果で覆っても、中長期的にはいろいろな形で、その後の様々な動きに影響を与えている。事実として、福島事故前にあった54基の原発のうち、いま動いているのは1基です。いろいろ総合して考えれば、この先も最大で20基前後、おそらく10基前後しか再稼働できないでしょう。
また原発反対運動の参加者の中には、「政府が即時原発ゼロを宣言しない限り納得できない」と言う人がいます。しかし、実際にほとんどの原発が止まり、原発に関する世論が大きく変わり、そういう意味で社会は大きく変わった。それなのに、「政府や首相が宣言しなければ勝った気がしない」というのは、いかがなものでしょうか。私自身は、社会が実際に変われば、首相個人に「負けました」と言わせるとかはどうでもいいです。
また政治家や官庁というのは、ある政策決定をしても、絶対に「運動に負けた」とは言いません。党内事情や対抗野党、支持率の下落などのためであって、「運動のせいではない」と言います。これは、彼ら自身がそういうふうにしか自覚していないことが多いからでもありますが、客観的に見れば、実際は運動の影響であることも多い。ですから、私は「勝ち」とか「負け」とかは、世にいわれるほど単純には考えないですね。
観客からの質問3
8月30日のデモに行って、日本のデモが新しいステージに入ったのではないかと思いました。そのことについてはどうお考えですか?
奥田:僕は2012年の官邸前デモを見たときに、新しいステージに入ったと思いました。「このデモを経験した若い人たちは、次に何をやるんだろう」って思ってましたが、自らこんなことをやってます(笑)。今、僕たちがやっているデモは、何が新しいんだろう?と考えてみましたが、僕がこの映画を見る限り、当時の脱原発デモの時に全部出ていると思います。新しいことがあるとすれば、今のデモがまた次の世代につながっていくことですかね。小熊先生が数年後に、またドキュメンタリー映画を作ってくれているかはわからないですけど(笑)。
梅田:私たちの運動は、プラカードとかのデザインがおしゃれで新しいとよく言われますが、英語を使ったかっこいいプラカやかわいらしいデザインで敷居を下げて若者を呼ぶというのは、それこそべ平連(1965年発足の「ベトナムに平和を!市民連合」)の頃からあったもので、いわば伝統ですよね。
小熊:もし2015年8月30日のデモで新しいことがあったとすれば、2012年の官邸前抗議と違って、きちんと報道され写真になって、それを人々が目にしたことです。そのことによって、「日本でこんな動きがあった、何かあったら再びこの地点に戻ればいい」と、多くの人が認識したのは大きな変化だと思います。社会というのは、共通の記憶を基盤にしていかないと未来に進めません。私がこの映画を作ったのは、戻れる地点が2012年にすでにあったことを提示するためでもあった。一年前に映画を作り始めた時点では、2015年夏の映像が日本社会の記憶になることは、もちろん予測していませんでした。ですから、8月30日の光景が報道されたことは、私が作ろうとした変化が、マスメディアによって加速されたということを意味する。それは本当に、いい変化だと思います。
観客からの質問4
私はジャーナリストですが、この映画を観て、当時メディアがきちんと伝えていなかったことを非常に恥ずかしく思いました。ニュースバリューがない、学生など少数だろう、と決めつけて却下したからだ思います。現在、SEALDsのことは報道されるようになりましたが、メディアの伝え方について、何か感じることはありますか?
奥田:僕が声を大にしてメディアに言いたいのは、ラップで抗議したことは一度もないということです(笑)。リズミカルにコールをすることがラップだというのであれば、反原連の人たちの抗議もすべてラップになります。これは細かい話なので、どうでもいいんですが(笑)。
今はそうでもないかもしれませんが、少し前に、在特会(「在日特権を許さない市民の会」)のデモと安保法制反対デモの記事が並んで掲載されていることに驚きました。デモンストレーションという行為は同じでも、憲法を守れと言ってる人たちと、差別をしている人たちの記事が、どうして比べられないといけないのか疑問に感じました。それに、在特会の人へのインタビューはどうでもいいから、新聞社としての意見を記事に書いた方がいいのではと思いました。
小熊:日本のマスメディアは、政治的中立というのを非常に重んじます。その基準からいうと、デモの報道は一方的な主張を伝えることになる、だから報道しない、報道するのであれば両論併記でなければいけない、という縛りが強かった。
こういう「政治的中立」が広まっている理由は、二つあります。一つは、大手の新聞やテレビはあまりにも発行部数や視聴者数が多いため、社としての意見をはっきりさせるとそれを嫌う読者がいるのを恐れていることです。つまり、読者からの批判があったり、部数が落ちたりするのが怖いから、誰からも嫌われない記事しか載せない。しかしそれだと、たとえばテレビ局なら、政府広報と天気予報以外は流せなくなってしまいますね。
もう一つは、日本は明治期以降、政府の弾圧が厳しかったことです。そのため、これは政治的な記事ではなく文化的な記事ですとか、わが社は不偏不党で中立ですとか、そういう弾圧よけの言い訳をしないと、新聞が発行停止になってしまう歴史が長く続いた。またテレビ局は政府の許認可事業ですから、そういう傾向が新聞以上に強い。
安保法制関連の報道をみると、マスメディアの意識は、この3年でずいぶん変わったと思います。しかしこういう「政治的中立」の伝統というか、惰性的思考はなかなか消えません。
2012年の東京の脱原発運動は、香港の運動と同じくらい大きかったし、いろいろな点で香港の運動を超える成果を挙げたといえる。それなのに、世界にはあまり知られていない。たしかに、香港の学生はみんな英語を話すので、英語圏のメディアを通して世界に知れ渡ったという違いはある。しかし、なぜ日本のマスメディアは、ニューヨークや香港や台湾のデモは報道したり、ドキュメンタリー番組を作ったりするのに、どうして東京のデモは伝えないのだろうかと思っていました。そのことに腹も立っていたので、記録としてきちんと作ろうと考えました。
海外で上映すると、この映画を見て日本のイメージが変わったという感想があります。日本人は感情を表さない、何が起きても声を上げないと思っていたが、そうではないことがわかって親近感が湧いたと。この映画は、国籍や文化をこえた、人間としての強さが映っているからだと思います。日本だけでなく、世界の様々な地域の人々がみても、元気づけられる映画だと思うので、多くの人が観て楽しんでくれるといいなと思います。
映画『首相官邸の前で』 渋谷アップリンクほか全国順次公開中
2012年夏、東京。約20万の人びとが、首相官邸前を埋めた。NYの「ウォール街占拠」の翌年、香港の「雨傘革命」の2年前のことだった。
しかしこの運動は、その全貌が報道されることも、世界に知られることもなかった。
人びとが集まったのは、福島第一原発事故後の、原発政策に抗議するためだった。事故前はまったく別々の立場にいた8人が、危機と変転を経て、やがて首相官邸前という一つの場につどう。彼らに唯一共通していた言葉は、「脱原発」と「民主主義の危機」だった――。
はたして、民主主義の再建は可能なのか。現代日本に実在した、希望の瞬間の歴史を記録。
企画・製作・監督・英語字幕:小熊英二
撮影・編集:石崎俊一
音楽:ジンタらムータ
英語字幕校正:デーモン・ファリー
出演:菅直人 亀屋幸子 ヤシンタ・ヒン 吉田理佐 服部至道 ミサオ・レッドウルフ 木下茅 小田マサノリ ほか
配給・宣伝:アップリンク
2015年/日本/109分/日本語[英語字幕つき]
©2015 Eiji OGUMA
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