映画『“記憶”と生きる』より、カン・ドクキョンさん © 安世鴻
元「慰安婦」たちが肩を寄せ合って暮らす韓国の「ナヌム(分かち合い)の家」で、2年にわたって6人のハルモニ(朝鮮半島のおばあさん)たちの生活と声をカメラで記録したドキュメンタリー映画『“記憶”と生きる』が7月4日(土)より渋谷アップリンクで公開される。2009年の『沈黙を破る』をはじめとするパレスチナ・イスラエル問題とともに、日本の加害責任をジャーナリストとしてのライフワークとしてきた土井敏邦監督が、2年間に撮りためた百数十時間の映像を1年をかけてまとめた作品だ。
今回は、6月7日に日比谷コンベンションホールで行われた完成披露記念上映会から、土井監督と作家の北原みのりさんによる対談のレポートを掲載する。
彼女たちの想いと体験、記憶を記録すること(土井監督)
北原みのり(以下、北原):1991年に韓国の金学順(キム・ハクスン)さんが自ら元慰安婦であると声を上げられ日本政府を提訴してからおよそ25年が経って、解決どころか、ひどくなるような状況のもと、こういう映画が公開されることにまず感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。
この作品は94年の冬のソウルから始まりますけど、あれから20年経ってずっとお蔵入りだったわけですよね。その20年間、編集しなかったということと、今年になって公開のために編集されたことについて、その経緯等聞かせてください。
土井敏邦監督(以下、土井):ずっとパレスチナ問題について取り組んできたのに、なぜ「慰安婦」問題と関わるようになったかというと、きっかけは本当に偶然でした。私が学生時代から20年くらい交流してきた広島の被爆者の富永初子さんは、自分の被害だけでなくて、アジアの人たちへの加害の意識を持っている人でした。その富永さんが「ハルモ二(朝鮮半島のおばあさん)に会いたい」と言ったんですよ。ところが80歳過ぎて白内障などさまざまな病気を抱え、とても渡航できるような身体の状態ではなかった。それで「じゃあ、私がビデオを撮ってきましょう。映像を通して出会ってください」と私が言ったのがきっかけでした。
映画『“記憶”と生きる』完成披露記念上映会から、土井敏邦監督(右)と作家の北原みのりさん(左)
ところが私自身がハルモニに出会うと、被爆者の人との出会いの場というよりも、やはり私自身が「お前自身はひとりの日本人としてこの人たちとどう向き合うんだ」ということを突き付けられました。私は日本人でしかも男性です。もちろん私は戦時中のことに直接責任はないのですが、日本による被害女性であるハルモニたちと出会ったときに、「私は関係ありません。知りません」とはとても言えなかった。私はジャーナリストですから、私にできることは彼女たちの想い、それから体験、記憶を記録することだと思ったのです。
北原さんがなぜ20年後かと聞かれましたが、実は1995年と98年にNHKの番組で一部出しています。ですがテレビは一回きりですから、それ以降はずっと倉庫に眠っていました。ところが3年前も橋下徹・大阪市長が「この問題はどこにもあった」と日本の責任を回避するような発言をしたとき、私は「この人はハルモニの顔が見えていない、痛みが見えていない」と思いました。私は幸いにもその人たちの声を、そして顔を撮ってきた。それならば私はそれを日本社会に出す責任があると思いました。
もう一つの動機は、いまこの会場で写真を撮っている安世鴻(アン・セホン)さんが、中国に残された元「慰安婦」のハルモニたちを撮った写真展をニコンサロンでやることが決まっていたのに、突然キャンセルされ、裁判所に訴えてなんとか実現することができました。しかし右翼からものすごい攻撃を受けた。被害国の写真家がこれだけ攻撃を受けて日本人ジャーナリストが黙っていていいのかと思ったのです。やはり全て被害国の人に任せちゃいけない。加害国のジャーナリストがちゃんと向き合わないといけないし、責任を取らないといけないと思いました。そう意味では安世鴻さんが私の背中を押してくれました。
映画『“記憶”と生きる』より、パク・トゥリさん © 安世鴻
どんなに長くなってもこの人たちの声を伝えなければいけない(土井監督)
北原:テープにすると100時間もあったわけじゃないですか。3時間半もかなり長いと思うんですけど、かなり大変な時間の編集があったと思うんですね。本当に一人ひとりの方に丁寧に向き合うように映画を作られたと思いますが、大分カットされたところが多いのではないでしょうか。この編集になったことについて、どういうことに気をつけ意図されてこのような映画になったのでしょうか?
土井:はい、百数十時間の映像です。ます映像テープが「ハイエイト」という旧式のもので、編集できるテープに全部移し替えなくはならない、その作業がまず大変でした。次に百数十時間の映像のハルモニたちが語る韓国語(朝鮮語)をどうやって翻訳するのかと悩んでいたのですが、ある韓国の女子留学生が「私がやります」と手を挙げてくれた。彼女とあと二人加わってくれて1年ぐらいで翻訳をやってもらいました。もちろん全部は無理ですから、私が使えそうな部分だけを選んで翻訳してもらいました。
北原さんがおっしゃったように「どう並べるか」なんですね。で、おそらくみなさん試写会をご覧になって「はあ、長かったな」と思われたと思います。でも思い出してください。ホロコーストの証言を記録した『ショア』というドキュメンタリー映画は9時間です。もしこのハルモニたちの証言がここで映画として記録されなかったら、もう永遠にこの人たちの声は表に出てこないと思いました。そのときに映画の「見やすい」とか、映画の「質」とかを重視するのではなく、どんなに長くなってもこの人たちの声を伝えなければいけないと思ったんです。
映画『“記憶”と生きる』より、ナヌムの家でのハルモニたち © 安世鴻
カメラを向けている土井監督の逡巡を感じた(北原さん)
北原:映画を観ながら、やっぱり日本人男性として、カメラを向けているときの土井監督の恐れとか、逡巡とか緊張のようなものを私は感じたんですけれども。
土井:特に姜徳景(カン・ドクキョン)さんは最初行ったとき、ものすごく私のことを嫌って、近づくとすぐ逃げてしまいました。他のハルモニは話をしてくれるのだけど、姜徳景さんだけは私が近づくと逃げていくんです。僕そんなに嫌われるのかと悩んだんですよ。ところが1、2週間、ハルモニたちと一緒に食事をしたり、床暖房が壊れたら一緒に修理したり、毎日朝から晩まで家の中で過ごしました。すると姜徳景さんが「話聞きたいなら話してあげてもいいわよ」とつっけんどんに言いました。最終的に、姜徳景さんが一番私に心を開いてくれたように思います。
映画『“記憶”と生きる』より、カン・ドクキョンさん © DOI Toshikuni
映画に登場するビョン・ヨンジュ監督が、実は同じ時期に映画『ナヌムの家』の撮影をしていていました。彼女は韓国人で女性です。一方、私は日本人で男性です。当初、どう接近していいか悩みましたね。ただこれはパレスチナ取材もそうですけど「もう誠意と情熱を見せるしかない」と思いました。「とにかく私は知りたいんです。あなたのことを伝えたいんです」というのを、私は、言葉ではなく、一生懸命、態度で示しました。それでハルモニたちも、私に日本人へのメッセージを託そうと思ったのではないでしょうか。姜徳景さんが亡くなる直前、私のカメラに最後の言葉を残しました。私が「日本人に伝えたいことはありますか」と言ったら、彼女は語り出しました。「あぁ、これは遺言だな」と思いました。だからこれは絶対伝えなければいけないと思いました。そういう意味では「日本人には伝えたい」という気持ちが私のカメラに向って語ったあの言葉になったのだと思います。
映画『“記憶”と生きる』より、キム・スンドクさん © DOI Toshikuni
北原:私が91年に慰安婦の金学順(キム・ハクスン)さんの声を知ったときは、まだ大学生で20歳くらいだったんですけど、そのときに一番衝撃だったのは、彼女の顔のしわの深さ。戦後50年近く、彼女たちに沈黙を強いてきたもの、そして50年経ってようやく言えたことの意味。そういうことを考えさせられました。でも今回この映画を見て……、ハルモニたちの若さにショックを受けました。あの時は、まだ、60代、まだ70代だった。
土井:北原さんの著書「毒婦」を読ませていただきましたが、女性にしか見えないものがあるんだなと思いました。北原さんは、ずっと主人公のしぐさをつぶさに観察し記録されている。そういう観察力をもっていらっしゃる北原さんから見て、この映画は女性の視点と違うなと感じましたか?
北原:女性の視点というよりも、すごく難しい取材をされたんだなと思いました。たとえばハルモニたちが喧嘩をしているシーンで、土井さんはどういうふうに関わったのかな、カメラをはずした時にどういう話を彼女たちとしたんだろう、彼女たちは土井さんに何か突き付けたんだろうか、といったことがすごく気になって見ていました。
文章にならない、映像でしか映されないものがある(北原さん)
土井:ドキュメンタリストの理想とする形は、映像を観たりルポルータジュを読みながら、観客や読者が現場にすっと入っていく、そして取り手・伝え手の存在がすっと消える、それが理想だと思っています。あの喧嘩しているシーンでは、彼女たちは僕がいることを意識していない。伝え手が透明人間になることが理想だと思っています。
映画『“記憶”と生きる』より、ナヌムの家 © 安世鴻
私の存在が当たり前になっていて、ただ目の前の日常生活にじっとカメラを向けておけばよかった。特別に私に対してお前はどう思ったとかということは一切なかった。あのときに私は「やっとナヌムの家の生活に入れた」と思いました。そのための人間関係を作っていく。それがドキュメンタリストの勝負だと思っています。
北原:ハルモニたちが「話したくない」といって言葉を詰まらせるシーンのように、文章にならない、映像でしか映されないものがあるのだと、映画を見て改めて実感しています。この映画をみて私たちが記憶を引き継ぐことの重要性を考えさせられました。私も90年代にナヌムの家に数回行き、ハルモニたちに話を聞きましたが、彼女たちは何度も何度も同じ話をして、きっと何度も何度も同じところ泣いてしまう。語らせてしまうことの重さ、何度も被害者に語らせてしまうことの惨さについても感じています。いま、証拠を出せとか、慰安婦はいなかったとか、強制連行はなかったいったことが大きな声で語られてしまっている中で、この映画の意味は大変貴重だと思います。
2015年6月7日、日比谷コンベンションホールにて
土井敏邦(どい としくに) プロフィール
1953年佐賀県生まれ。ジャーナリスト。1985年以来、パレスチナをはじめ各地を取材。1993年よりビデオ・ジャーナリストとしての活動も開始し、パレスチナやアジアに関するドキュメンタリーを制作、テレビ各局で放映される。2005年に『フヴルージャ 2004年4月』、2009年には「届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと」全4部作を完成、その第4部『沈黙を破る』は劇場公開され、2009年度キネマ旬報ベスト・テンの文化映画部門で第1位、石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞を受賞。2012年1月公開の『“私”を生きる』(2010年)では、2012年度キネマ旬報ベスト・テン文化映画部門で第2位を獲得。ビルマ(ミャンマー)から政治難民として日本に渡った青年を14年にわたって見つめた『異国に生きる 日本の中のビルマ人』(2012年)では、2013年度文化庁映画賞文化映画優秀賞を受賞、同年度キネマ旬報ベスト・テン文化映画部門で第3位となる。主な著書に「アメリカのユダヤ人」「沈黙を破る─元イスラエル軍将兵が語る“占領”─」(いずれも岩波書店)など。最新著書は「“記憶”と生きる―元「慰安婦」姜徳景の生涯」(大月書店)。
北原みのり(きたはら みのり) プロフィール
作家。1996年日本で初めて女性が経営するセックストーイショップ「ラブピースクラブ」を立ち上げる。「奥様は愛国」(河出書房新社)「アンアンのセックスできれいになれた?」(朝日新聞出版社)他多数。
映画『“記憶”と生きる』
7月4日(土)より渋谷アップリンクにてロードショー、
ほか全国順次公開
第一部 分かち合いの家 [124分]
第二部 姜徳景(カン・ドクキョン)[91分]
韓国の元「慰安婦」の女性たちが共同生活する「ナヌム(分かち合い)の家」を訪れた際、慰安婦だったと言うおばあさん(ハルモニ)たちに出会い、2年にわたって彼女たちの思いを記録する。「慰安婦」たちの“顔”と“声”を等身大かつ固有名詞で伝え残し、ハルモニたちの脳裏に深く刻まれ、戦後数十年間、消せない“記憶”を背負って生き抜いてきた思いを綴る。
監督・製作・編集:土井敏邦
編集協力:森内康博
整音:藤口諒太
写真提供:安世鴻(アンセホン)
2015年/日本/215分(第一部124分+第二部91分)
配給:きろくびと
■連日トークショー開催
詳細は下記より
http://www.uplink.co.jp/movie/2015/37458
公式サイト:http://www.alcine-terran.com/koutei
『“記憶”と生きる』公開記念
安世鴻(アンセホン)写真展「消せない痕跡」
併設のアップリンク・ギャラリーにて開催中
10:00~22:00
入場無料
詳細は下記より
http://www.uplink.co.jp/gallery/2015/38746