骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2015-04-25 19:20


1983年『ワイルド・スタイル』初公開の熱気と「文化の衝突」―葛井克亮さんとフラン・クズイさん語る

「ただ楽しむだけではなく、それを糧にして自分で何かやっていくほうがいい」
1983年『ワイルド・スタイル』初公開の熱気と「文化の衝突」―葛井克亮さんとフラン・クズイさん語る
『ワイルド・スタイル』のチャーリー・エーハン監督が「文化の衝突」と形容した、原宿歩行者天国でのビジー・ビー(中央)、ファブ・ファイブ・フレディ(右)そしてロックンローラーたちのショット ©1983 by Charlie Ahearn Wild Style The Sampler

1983年に公開され、ヒップホップ・カルチャーを全世界に広めた映画『ワイルド・スタイル』公開中の渋谷アップリンクにて、4月15日、映画上映&HIPHOP講座「Back to 1983 in TOKYO-あの年、東京で何が起きたのか‐」が開催された。

今作の1983年10月の日本公開時、総勢36名の出演者・スタッフが来日し東京・大阪・京都でパフォーマンスを披露、日本のヒップホップ・シーン形成に大きな影響を与えた。今回は『ワイルド・スタイル』の日本における最初の公開の宣伝をプロデュース(配給は大映インターナショナル)した葛井克亮さんと奥様のフラン・クズイさん、そして聞き手として荏開津広さん、ばるぼらさんを迎え、まだヒップホップという言葉すらなかった当時の熱気が語られた。

ニューヨークで体感した
強烈な熱気と見たことのないカルチャー

荏開津広(以下、荏開津):今日は、『ワイルド・スタイル』公開当時、東京で何が起こっていたのか、お話をうかがおうと思います。まずは公開までのいきさつをお願いします。

葛井:『ワイルド・スタイル』との出会いは、KUZUIエンタープライズという配給会社を設立する前、1982年でした。私とフランはニューヨークでアメリカのクルーが日本に来たときや、日本のクルーがニューヨークに来たときにコーディネートする仕事をしていました。そのときに、関係が深かった映画配給会社・大映の作品で、アメリカの配給先を決める手伝いをした『雪華葬刺し』(高林陽一監督)がニューヨークの「New Directors/New Films Festival」で上映されて、57丁目の劇場に観に行ったんです。

映画『ワイルド・スタイル』トークイベントより
渋谷アップリンクのイベントに登壇した葛井克亮さん(左)とフラン・クズイさん(右)

荏開津:葛井さんは1983年の前に、映画『人間の証明』(佐藤純彌監督)のロケでサウス・ブロンクスに行かれたそうですね。

葛井克亮(以下、葛井):助監督時代に『人間の証明』のロケのため毎日サウス・ブロンクスで、周りのアパートから朝から晩まで卵をぶっかけられながら撮影していて、非常に危険なイメージがあったので、二度と行きたくない、と思っていたんです(笑)。

その映画祭の会場で、普通の映画ファンでないお客さん、42丁目に来るブルース・リーの映画を観にくるような黒人がドッとやってきたので、何だろう?と思ったら、それが『ワイルド・スタイル』で、フランとこの作品を観ることにしました。

そうしたら、1982年当時珍しい、強烈な熱気と見たことのないカルチャーに驚きました。まだヒップホップという言葉もなかった時代ですが、その数年前にジャマイカに行ったときに、ジャマイカのレゲエのDJがスクラッチをするのを見たことがあって、ビーチに行くと私のことを「ブルース・リーだ!マーシャル・アーツを教えてくれ」と人々から言われて「カラテはそんなに簡単に教えられるものじゃない」とジョークで返したことがあったのを思い出しました。このカルチャーはジャマイカからやってきたものではないか、という印象を持っていたんです。

映画『ワイルド・スタイル』より ©New York Beat Films LLC
映画『ワイルド・スタイル』より、グランドマスター・フラッシュがキッチンでDJをする場面 ©New York Beat Films LLC

ところが、監督のチャーリー・エーハンと知り合って話していると、「今までサウス・ブロンクスのストリートのキッズには縄張りがあってケンカが絶えなかったのが、地下鉄にグラフィティを描いたり、ラップやブレイクダンスで競い合うようになることで、暴力沙汰がなくなった」ということを聞いて、素晴らしい!と思いました。その映画祭には大映の専務たちも来ていたので、「ぜひ買ったほうがいい」と伝えたところ「よく分からないけれど、葛井が言うなら買おうじゃないか」ということになり、私たちが日本での宣伝のプロデュース・コーディネーターを担当することになりました。

映画『ワイルド・スタイル』より ©New York Beat Films LLC
映画『ワイルド・スタイル』より ©New York Beat Films LLC

公開にあたって、まず私はこの映画に出ているキッズたちを日本に連れてきて実際に日本の人たちに見せるのがいちばんだろうと思っていたけれど、大映のほかにスポンサーをどう探そうかと思っていました。

そんなとき、チャーリーから、池袋と渋谷の西武百貨店で行われる「ニューヨーク展」プロデューサーである高田さんを紹介されました。高田さんは『ワイルド・スタイル』に出ているようなキッズをイベントに出演させたがっていたので、「ぜひ協力させてほしい、デパートでショーをしてもらえればお金を半分出しましょう」と言われました。ところが「ツバキハウス」「ピテカントロプス・エレクトス」といったクラブでイベントをやることは考えていたんですが、デパートでイベントを行うことを、出演者たちに納得させなくてはいけない。ビジー・ビーには「そんなのやれるわけないだろ、ふざけるな!(Kiss My Ass!)」と言われてしまいした。

しかし、彼らは条件として「会場でシャンパンのモエを飲ませてくれれば出てもいい」と言うので、西武にも交渉し、出演が実現しました。

みんなを連れてくることが決まって、日程も映画のプロモーションとして東京のほか京都・大阪のツアーと、池袋と渋谷の西武でのイベントと、ブレイクダンサーとラッパーを二手に分けました。西武はグラフィティ・アートの展覧会がメインで、他にもキース・ヘリングやフューチュラやバスキアを呼んでペインティングを行いました。

映画『ワイルド・スタイル』より ©New York Beat Films LLC
映画『ワイルド・スタイル』より ©New York Beat Films LLC

エロカセットのパッケージ・フォーマットを
流用したカセット・ブック

荏開津:さらに、公開にあたって、書籍とカセット・ブックをリリースしたそうですね。

葛井:配給が決まってから公開まで6ヵ月くらいあったので、公開前に全て間に合わせようと思っていました。このストリート・カルチャーをテーマにした映画をプロモーションするときに、どうしても「ブレイクダンス」「ラップ」「グラフィティ」「DJ」というヒップホップの4大要素を説明しなくてはいけない。そこで、JICC出版局(現在の宝島社)の金田トメ(金田善裕)さんから出版を依頼されて、チャーリーと素材を集めて、『ワイルド・スタイルで行こう』というタイトルで刊行しました。友人のアーティストにデザインを依頼し、ラップも当時は今のように洗練されておらず、「朝起きて、歯を磨く~」というようなリリックだったので、これは日本語で誰かがやればいい、ということも本文に書きました。

そして、グラフィティとブレイクダンスは写真である程度見せられますが、ラップは音楽を聴いてもらわないと分からない。映画のサウンドトラックをレコードで出したいとレコード会社に掛け合いましたが、東芝でもどこの会社でも乗ってくれなかった。そこで、KUKIというAVメーカーに友人がいたので、エロカセットのパッケージを流用することを思いつきました。喘ぎ声のカセットの代りにサウンドトラックのカセットを、ブックレット部分のヌードの代りに映画の画像をレイアウトすればコストが抑えられる。ということで、このカセット・ブックを出すためにビーセラーズという会社を立ち上げ、リリースしました。

このカセット・ブックはアメリカで大ヒットしたんです。大映が配給したときは、アメリカでもまだ配給会社が決まっていなくて、日本がワールド・プレミアだった。なので私たちが作ったポスターやカセット・ブックを資料として配布するために増産したんです。現在このカセット・ブックはMoMA(ニューヨーク近代美術館)のコレクションになっています。私のニューヨークのアパートにその在庫を置いていて、そこから配給会社に自転車で運んでいたのがスパイク・リーだったんです。そこから彼と知り合って、『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』をKUZUIエンタープライズで配給することになったり、ジム・ジャームッシュやコーエン兄弟、キース・ヘリングと知り合いになりました。

映画『ワイルド・スタイル』より ©New York Beat Films LLC
映画『ワイルド・スタイル』より、コールド・クラッシュ・ブラザーズとファンタスティック・フリークス ©New York Beat Films LLC

総勢36名の『ワイルド・スタイル』クルー
来日公演珍道中

フラン・クズイ(以下、フラン):では、どうやって彼らを日本に連れてきたかを話しましょう。

葛井:最初に、出演したブレイクダンサー、ラッパー、DJ、グラフィティ・アーティストのなかで、誰を連れていくかを、私のアパートでオーディションをしたんです。

荏開津:どのような基準だったのですか?

フラン:留置所に入ったことがないこと(笑)、それから、危険と思われる人物は落としました。

葛井:彼らは「俺を連れていけ」と脅すんですが、それにめげずに選ばなければいけなかった。

フラン:いつもオーディションの後に、クローゼットの中やドアの裏側とか、一見して分からない家のいろんなところにグラフィティが描かれているのを発見しました。

みんなパスポートを持っていなかったし、出生証明書も届けられていなかった子もいたので、まず病院に行って、この人は存在するのかという書類を集めてからパスポートの申請をしなければいけなかったんです。なので、サウス・ブロンクスのクラブに自由に出入りできたのはカズ(葛井さん)だけでしたでしょうね。

荏開津:どういったクラブに行っていたんですか?

葛井:「FEVER」とかですね。来日の準備は1ヵ月くらいかかりました。私とチャーリーは、先に日本に来てインタビューを受けたりしていたので、その他は、フランとチャーリーの奥さんのジェーンが一緒に飛行機に乗って連れてきました。

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映画『ワイルド・スタイル』より ©New York Beat Films LLC

フラン:全員を連れてくるのには、様々な問題がありました。サウス・ブロンクスから出たことがなく、飛行機にも乗ったことがない。飛行機に時間通りに乗らなければいけないという考えもない。なので、飛行場に連れていくために3台のストレッチリムジンを用意して迎えに行きました。するとブロンクスではお葬式の時しかリムジンを見る機会はないので、一軒ごとにお母さんが心配して家から出てきて、「私の子供をどこに連れていくの!?」と泣き出しました。

JFK空港に着いて、30分後に搭乗口で待ち合わせ、と伝えると、36人のキッズ全員が免税店でモエのボトルを2本買っていました。私は「モエを持ち込むのはいいけれど、ドラッグを持っているなら、ニューヨークに置いていきなさい。もし東京で捕まっても知りません」と言うと、「みんな処分した」と答えました。

無事搭乗が完了し、離陸後、食事が終わるとひとりが「あと東京まで何時間?」と聞くので、私は「12時間くらいかしら」と伝えると「12時間なにをしたらいいんだっていうんだ!?」と、ポンッポンッと次々とモエを開ける音がして、JALのエコノミー・クラス中にシャンパンの匂いが充満しました。そしてひとしきりモエを飲んだ後、みんな寝てしまいました。しばらくして「あとどれくらい?」と誰かが質問するので「あと6時間くらい」と答えると、今度は「お腹がすいた」と言い始めます。スチュワーデスに食べものをお願いすると、機内からおせんべいや食べものをかき集めてくれました。

到着2時間前に再度「みんなクスリは持っていないわね?これはほんとうに重大な問題だから」と確認しました。すると、みんなごそごそとトイレに行き始めるのです。戻ってきてようやく「何も持ってないよ」と約束してくれました。その後、ラジカセを持ち出して、機内で踊りだしました。他のお客さんは不快そうで、機長が出てきて「みんなを落ち着かせてほしい」と頼まれました。さらに着陸前になると、彼らが「ヤバイ!衝突する」と叫びはじめたので、スチュワーデスだけでなく他の搭乗客も泣き出してしまいました。

(※来日したのは、コールド・クラッシュ・ブラザーズ、ロック・ステディ・クルー、ダブル・トラブル、ビジー・ビー、Dストリート、ファブ・ファイブ・フレディ、パティ・アスター、ドンディ、ゼファー、フューチュラ、DJアフリカ・イスラム、ロック・ステディ・クルーのマネージャーのクール・レディ・ルーザ・ブルー、チャーリー・エーハンと彼の妻ジェーン、フレッド・ブラスウェイト、レディ・ピンクの計36名)
©1983 by Charlie Ahearn Wild Style The Sampler
東京に降り立ったドンディとフューチュラ ©1983 by Charlie Ahearn Wild Style The Sampler

大盛況のイベント、そして「文化の衝突」原宿でのロックンローラーとの邂逅

葛井:ようやく日本に到着し、一行の宿泊先は、青山のプレジデント・ホテルでした。1晩経ってからマネージャーが私のところに来て、「葛井さん、ちょっとご相談があります、浴衣がなくなってしまったんです」と言うので、「部屋の浴衣ぐらいお土産に持たせたらいいじゃない」と答えると、「そうじゃなくて、倉庫の浴衣が全てなくなったんです」と。驚いて彼らの部屋を探すと、浴衣の詰まったダンボールが見つかったので、みんなを集めて「どこの部屋にあるかは分かっているから、明日倉庫に戻っていなかったら、その人はすぐにブロンクスに帰ってもらう」と伝えました。すると、次の日にちゃんと倉庫に戻っていました。

©1983 by Charlie Ahearn Wild Style The Sampler
西武百貨店のイベントでパフォーマンスを行うロック・ステディ・クルー ©1983 by Charlie Ahearn Wild Style The Sampler

荏開津:クラブでのイベントの反響はいかがでしたか?

葛井:「ツバキハウス」でのイベントは、ブレイクダンスとラップで1時間くらい。すごい拍手で、終わってもお客さんが帰らない。マネージャーから「もっとやってほしい」と言われて、「モエを出すならやる」ということで彼らはモエを飲みながらパフォーマンスをはじめて、今度はなかなか終わろうとしなかったこともありました。

お客さんの反応は、「見たこともないものを見た」という感じで乗りに乗っていて、泣き出す女性もいて、すごかったです。

それから大阪と京都に行きました。私とファブ・ファイブ・フレディは京都に行って、大阪にはチャーリーとフランが連れていきました。新幹線で京都に着くと、駅で女性ファンがたくさん待っていたんです。「なぜこんなにみんな来ているんだ、日本って女性ばかりだな」とファブ・ファイブ・フレディは驚いていました。

©1983 by Charlie Ahearn Wild Style The Sampler
東京駅の新幹線ホームにて、葛井さん、レディ・ピンク、ファブ・ファイブ・フレディ、コールド・クラッシュ・ブラザーズ ©1983 by Charlie Ahearn Wild Style The Sampler

葛井:大阪で合流してから、泊まっていたホテルの部屋からファブ・ファイブ・フレディから電話がきました。「誰かがドアを叩いている」、ドアを少し開けてみると、ファブ・ファイブ・フレディがパンツ一丁で走り回り、その後に、バットを持った男がすごい剣幕で追いかけている。しばらくしてその男が帰ると、ファブ・ファイブ・フレディとロック・ステディ・クルーの部屋に日本人の女性がひとり隠れていたのがわかったんです。おそらく、クラブで彼女をお持ち帰りしたものの、それがヤクザグループの女だったということなんじゃないか、でも真意は現在も分かりません。とにかく、イベントは大盛況でした。

ばるぼら:テレビの取材も葛井さんが全て決めたんですか?

そうですね、私がすべてブッキングしました。「笑っていいとも!」に出たときに、タモリさんがラップのものまねを一緒にやったのですが、素晴らしかったです。

ばるぼら:日本では同じ年の7月に『フラッシュダンス』が公開されて、そこに出ている主演女優のジェニファー・ビールスも「笑っていいとも!」に出演したり、原宿でパフォーマンスをしたりしているのですが、それを参考にされたのでしょうか?

葛井:それは知らなかったですね。『フラッシュダンス』は『ワイルド・スタイル』とは全く違うものだと思っていたので、意識したことがなかった。たぶん宝島が私の本を売るときに『フラッシュダンス』とくっつけたのだと思います。

ばるぼら:ヒップホップの4大要素「ラップ」「DJ」「グラフィティ」「ブレイクダンス」が日本で唱えられたのは、『ワイルド・スタイル』の宣伝のときが初めてだと思うんです。それかどなたたが最初に、言い始めたのでしょうか?

葛井:それはたぶん、私がチャーリーや、彼やファブ・ファイブ・フレディから聞いて、『ワイルド・スタイル』について書いたところから始まったんだと思います。

ばるぼら:『ワイルド・スタイル』で初めてヒップホップという言葉が使われたんじゃないかというくらい、同時期なんですよね。

葛井:たぶんその時には使われていなかったと思います。

ばるぼら:葛井さん自身はこの4大要素のなかで個人的に惹かれたものはあったのですか?

葛井:ありましたよ、やっぱりブレイクダンスは踊りたいと思いました。教わったりもしたんです。でも、基本的には、ラップを歌いたいとか、グラフィティを描きたいというよりも、若者たちのエネルギー、生き様、こういうスタイルで自分たちを表現していくことに惹かれたんです。

ばるぼら:日本のブレイクダンスの歴史を調べていると、新宿・歌舞伎町のミラノ座で先行上映として行われた前夜祭で、日本側からは一世風靡が出演したほか、日本のブレイクダンサーや学生たちも手伝っていたということを読みました。その時は、ブレイクダンスに興味を持ちそうな若者たちをリサーチしていたのですか?

葛井:いえ、私たちがいちばん興味があったのは、原宿の竹の子族やロックンローラーに合わせたいということでした。それでメディアとともに彼らを代々木公園に連れていって、一緒に写真を撮りました。『ワイルド・スタイル』の連中もどこか共通するストリート・カルチャーであると思ったのか、非常に興味を持っていました。ただ、東京とサウス・ブロンクスの豊かさの違いは感じたかもしれないですね。

フラン:チャーリー・エーハン監督はこれを「文化の衝突」と呼んでいます。ロックンローラーたちのファッションがとても怖そうだったので、彼らが自分たちを脅かしている、ケンカが起こるのではとブロンクスのキッズは感じたようです。ビジー・ビーはTシャツをカットして、頭の上に載せて、ロックンローラーたちより自分が強く見せようと「ニューヨークのアーヤトッラー(イランの最高指導者)」だと言いました。そして、私たちが行った後、次の週から初めて原宿でブレイクダンスが始まったそうです。

©1983 by Charlie Ahearn Wild Style The Sampler
原宿の若者たちと踊るビジー・ビー、そしてクレイジー・レッグスとレディ・ピンク ©1983 by Charlie Ahearn Wild Style The Sampler

ばるぼら:1983年に『ワイルド・スタイル』が公開されて、1984年から原宿の路上で踊り始めるチームが出始めました。この頃は竹の子族とローラーはいちどピークを過ぎていたのですが、次の年からブレイクダンス・ブームが来て、歩行者天国でのダンスが再び盛り上がったようです。

フラン:東京に到着した最初の夜、みんなは遊びに行ったのですが、翌朝「どこに行ったの?」と聞くと「地下鉄に乗りに行った」と言うんです。「どうやって地下鉄が走っていると分かったの?」と返すと彼らは「地下鉄は地下鉄でしょ」と。誰にも何も聞かずに迷わず東京の地下鉄に乗ることができたというのは、ニューヨークと東京のストリート・カルチャーに何か共通点があるからではないかと思います。

荏開津:今日のお話をうかがって、『ワイルド・スタイル』が日本でのヒップホップでの始まりということで、映画が公開されたということはもちろん、クラブで出演者たちがパフォーマンスしたということも大きいのですね。

葛井:実は当時、『ワイルド・スタイル』に興味のある人は、イベントのほうに集まってしまったために、クラブは行列ができるくらい満杯でしたが、映画館は、出演者が舞台挨拶に登壇する時以外はガラガラだったんです。来日から3ヵ月後、ロードショーが既に終わっていた頃にメディアにイベントの写真が載りはじめたので、もしその後に公開されていたら、「彼らのことを映画で観たい!」と、もっと映画館にお客さんが入ったんじゃないかと思います。

ですから、こうやって32年後の東京で盛り上がっているのを見て、うれしいし、びっくりしていますね。何十年周期のサイクルなのかな、と知りたいです。

©1983 by Charlie Ahearn Wild Style The Sampler
ツアーバスの前のベイビー・ラブ、DJアフリカ・イスラム、ビジー・ビー、KKロックウェル ©1983 by Charlie Ahearn Wild Style The Sampler

ポーズではなく、自然な生き方から出てきた文化

──(客席より):葛井さんが『ワイルド・スタイル』を日本に持ってきてくれたおかげで、37年間、毎日ほんとうに楽しいです。何も夢中になれなかった自分ですが、生きる意味をもらいました。そのことを御礼を言いたいです。

葛井:チャーリーにも伝えておきます。それから、今の方のお話を聞いてぜひみなさんにお伝えしたいことがあるのですが、今日私たちがここに来ているのは、楽しいことに参加するというのが信条だから。楽しい映画、好きな映画を配給したり、好きなものに自分たちが関わっていく。ただ、好きなだけでは何もなくなってしまうので、それを同時にビジネスにできないか、という発想で我々は生きています。ぜひ、楽しむだけじゃなくて、それを糧にして自分で何かやっていくほうがいいと思います。

フラン:みんなほんとうに素敵な人たちです。当時はとてもナイーブな年頃で、ただ楽しみたかったんだと思います。

葛井:自然にワイルドにしなければいけなかった。ポーズではなく、自然な生き方から出てきた文化だった。それが『ワイルド・スタイル』の魅力だと思います。現在、同じような映画をラップ・ミュージシャンで作っても、こういう生き様が出てくることはないでしょう。

数年前、25周年で、エンディングに出てくる野外劇場でイベントが開催されたんです。ビジー・ビーをはじめ、当時ワイルドだったキッズがみんなお父さんになって、子供を連れて来ていました、彼らの子供がブレイクダンスをやっているんですよ。現在でもコミュニケーションが続いているビジー・ビーもファブ・ファイブ・フレディも、『ワイルド・スタイル』を通して、アーティストとして成長していった。それは、単なる不良ではなく、アーティストとしてきちんと生きているから。

フラン:会場の外のギャラリーに展示されていたラジカセを見ましたか?(「WILD “BOOMBOX” STYLE‐ラジカセで辿るHIPHOP30年の歴史‐」)当時のB-BOYは有名になると、自分でラジカセを担ぐのではなく、付き人にラジカセを担がせて街を歩いていました。私たちはまだこの文化のなかで新参者でしたが、そうした人たちを見ると「この人にステイタスがあるんだ」ということが一目で分かったのです。

「WILD “BOOMBOX” STYLE」より
渋谷アップリンク・ギャラリーで4月27日まで開催中の「WILD “BOOMBOX” STYLE‐ラジカセで辿るHIPHOP30年の歴史‐」より

当時はロック・ステディ・クルーもファブ・ファイブ・フレディも知られてはいましたが、そこまで有名ではありませんでした。現在のヒップホップは自分のステイタスを誇示するためにポーズをしますが、当時は自分を強く見せるしか生きる術がなかった。そこが違いです。ジャラジャラとアクセサリーを身につけるヒップホップのファッションも、自分がお金持ちなんだとアピールするためのものではなく、ただ楽しむためにやっていたのです。

Bボーイよ、楽しみ続けるんだ
(チャーリー・エーハン監督)

──(観客からの質問):最初の、ジャマイカでスクラッチがあったというお話で、ヒップホップの歴史だとグランド・ウィザード・セオドアがスクラッチを発明したということになっていますが、それ以前に、ターンテーブル上のレコードを巻き戻すだけでなく、擦って音を出していたことが行われていたということですか?

葛井:私たちが行ったのは1978年か79年くらいです。ジャマイカの青空クラブや、サンスプラッシュでも、キュッキュッとやっているのを見たので、そこから来ているのではないでしょうか。

フラン:DJがバトルをしていました。

荏開津:ヒップホップのルーツを作ったと言われるDJのクール・ハークもジャマイカ出身ですからね。

──(観客からの質問):今回のポスターもカセット・ブックでも、主演のリー・ジョージ・キュノネスが写っていないのが不思議で、来日もしていないですよね?それは何か理由があるのでしょうか?

葛井:私は彼に会ったことがないのですが、きっと気難しい性格なんじゃないでしょうか。来日についても、もともと興味がなかったのか、オーディションにも来ていないですし。今度チャーリーに聞いてみます。

映画『ワイルド・スタイル』より ©New York Beat Films LLC
映画『ワイルド・スタイル』より、グラフィティライター・レイモンド役のリー・ジョージ・キュノネス ©New York Beat Films LL

ばるぼら:リーはグラフィティを人前で描くというのがイヤで、今作に出てくる作品も実はリーが描いていないという話もありますよね。だから、自分がアンダーグラウンドという意識があったんじゃないかという気がします。それから、チャーリー・エーハン監督とはその後、新しい映画を作る予定だということが葛井さんの本に書いてあったのですが?

葛井:あの時はチャーリーと次の作品を作ろうかという話はしていましたが、なかなか難しかった。チャーリーは『ワイルド・スタイル』一筋ですから、今でもこれ一本で生きています。

フラン:チャーリーと彼の奥さんとは映画ができたときから現在までずっと友情を築いています。チャーリー・エーハンからメッセージを預かっているので、披露します。

「東京は1983年に行ってからずっと大好きな街です。サウス・ブロンクスから36名のヒップホップのパイオニアを日本に連れて行って、東京の魔法にかかりました。以前ツアー・ブックに書いたこの言葉をみなさんに送ります。“グラフィティはニューヨークで最も面白いことだ。Bボーイよ、楽しみ続けるんだ”」。
──チャーリー・エーハン

映画『ワイルド・スタイル』より ©New York Beat Films LL
映画『ワイルド・スタイル』のチャーリー・エーハン監督(中央)そしてファブ・ファイブ・フレディ(後列)、パティ・アスター(右)、レディ・ピンク(左) ©New York Beat Films LL
※来日時の写真は『チャーリー・エーハンのワイルド・スタイル外伝』より
(取材・構成:駒井憲嗣)



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(2015.3.13)
http://www.webdice.jp/dice/detail/4624/




『チャーリー・エーハンのワイルドスタイル外伝』
著:チャーリー・エーハン
翻訳: 伯井真紀
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映画『ワイルド・スタイル』
渋谷アップリンクにて公開中、
他全国順次公開

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1982年、ニューヨーク、サウス・ブロンクス。グラフィティライターのレイモンドは、深夜に地下鉄のガレージへ忍び込み、スプレーで地下鉄にグラフィティを描いていた。レイモンドのグラフィティはその奇抜なデザインで評判を呼んだが、違法行為のため正体を明かせずにいた。もちろん、恋人のローズにも秘密だ。ある日、彼は先輩のフェイドから新聞記者ヴァージニアを紹介される。これまでに何人ものアーティストを表舞台に送り出してきたバージニアから仕事の依頼が舞い込むが、仕事として描くことと自由に描くことの選択に思い悩む……。

監督・製作・脚本:チャーリー・エーハン
音楽:ファブ・ファイブ・フレディ(フレッド・ブラズウェイト)、クリス・スタイン
撮影:クライブ・デヴィッドソン キャスト:リー・ジョージ・キュノネス/ファブ・ファイブ・フレディ(フレッド・ブラズウェイト)/サンドラ・ピンク・ファーバラ/パティ・アスター/グランドマスター・フラッシュ/ビジー・ビー/コールド・クラッシュ・ブラザーズ/ラメルジー/ロック・ステディ・クルー、ほか
提供:パルコ
配給:アップリンク/パルコ
宣伝:ビーズインターナショナル
字幕:石田泰子
字幕監修:K DUB SHINE
1982年/アメリカ/82分/スタンダード/DCP

公式サイト:http://www.uplink.co.jp/wildstyle/
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