骰子の眼

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東京都 渋谷区

2014-07-19 23:00


己のリズムで踊ったらいいじゃないか☆メディスン・カード・リーディングによる「2014年後半の何か☆」

みなさまこんにちは。
いかがお過ごしでしょうか。
ちょっと遅くなりましたけど、今回はいちおう恒例の、今年後半のやつです。

その前に、先日来日した映画監督であり、サイコセラピストのホドロフスキーさんのことを少し。

まずわたしはホドロフスキーさんの単純にファンです。「ホーリー・マウンテン」を日本初公開のときに観て、当時はよくわからなかったのですが、とにかくすごいという衝撃が残っていて、デジタルリマスター版公開時にひさしぶりに観て以来、特に「エル・トポ」は自分のいろいろなことの確認のために、年に一回観るようにしています。

そんなわけで、思うことは諸々あるんですけど、ものすごく長くなるので、5月に行われたイベント「人間タロット」の感想を書きますね。

たとえばわたしは戦場や殺人の死体や動物の死骸の写真が、クリックひとつで過剰に流布されることに正直とても嫌悪感をおぼえるし(そこにどんな意図があろうとも、ましてや現状を伝えたいのならなおさら、その現状ごと目を背けてしまう可能性のほうが高い気がします)、残虐シーンが強調されるような作品は好きではないですが、あれだけ死体や死骸や腐敗やスクリーン絞ったらどんだけ出るんだと思われるほどのおびただしい血肉があふれていようとホドロフスキーさんの作品を受け容れることができるのは、皮膚を破れば血が流れ臓器があり、傷つけられれば怒り、度を超えれば暴れる、他者あるいは自分をせめる、なぐる、ころす、というシンプルな事実、それは人間である限りやるやらないは別として、どんなひとでも備えている根本的な性質感情、と同時に無、空といった禅の教え、エンライトメント、さらに根源的な癒し(これも生き物としての本来的な性質、全体性)が軸にあるからだと思うのです。

だから、カルトとか難解とか不思議とかキワモノという印象はあまりぴん、とこなくて、たとえるなら六道絵とか曼荼羅のような趣を感じます。

そんなことから、ホドロフスキーさんが、占断や鑑定や運命診断、みたいな形式、二元論をベースにしたいわゆる“占い”をしているとは思えず、どんな風にやっているのだろうと興味がありました。

で、イベントの様子ですが、こちらに超ダイジェストで掲載されてましたが、実際のところ、カードを媒介としたプロファイリングの感覚に近いなと思いました。ご本人も、未来をみることはできないと言ってましたけど、体系化された象意をもとにインスピレーションをおろし、質問者を腑に落とすことでセラピーとして成立させるというか、禍々しさや妙な神秘性をわざわざ演出することもなく、とてもクール、それでいて劇的で、やっぱこのひと魔術師だろ、という感じ。

なかでも最後の質問の方のときは、まるでラテン・アメリカの小説の実写をみているようで、その場で誰か消えようが、肉体が塩の像に変わろうが突然男のひとのぼんのくぼがぱっくりと開いて中から白い鳥があらわれ飛び立とうが、なんら不思議ではない、すべては起こるべくして起こるのだ、ということを、あたりまえのように受け容れさせてしまう、やっぱこのひと錬金術師だろ、という感じでした。

タロットにもいろいろ種類がありますけど、ホドロフスキーさんのつかっているカモワン・タロットは、いわゆる一般的にタロット・カードとして使用されているものとは別物といっていいと思います。もっといえば、ある意味西洋医学のように対処療法的に問題を扱うのではなく、もっと根本的なこと、幼少期の体験、トラウマといったそれが引き起こされたルーツにさかのぼるように。

いわゆるリーディングというよりセラピーの要素が強く、そういった意味でも、作品の根底にあるものと同じなのだなあと納得しました(作品に関していえば「サンタ・サングレ」が「エル・トポ」、「ホーリーマウンテン」の後、というのがまたすごい! けれども、新作「リアリティのダンス」はその対というか別ヴァージョンというか、すごい飛躍したリメイク的集大成といえないこともない気も…)。

日本だけでなく世界、地球、いや宇宙規模ですけれども、ニュースを知るたびにもう関節が一個ずつ外されてくような衝撃の続くこの時期に、ホドロフスキーさんが来日して映画が公開されるというのは意義深いなあと思いました。特に新作とドキュメンタリー、つまり本人自身とその作品の両方を同時にみられるというのも、もってこいなんじゃないですかね、別によいしょでもなんでもなく(そもそもこの連載、当初からギャラ出てないですし・笑)、ほんとに大好きなのでうれしい限りです。

やっぱりさー、自分が何を発していきたいかだよね、とあらためて思います。 別になんか作品つくるとか不特定多数に向ける、ってことじゃなく、ごくごく日常のやりとり、結局は自分というものの存在の。

というわけで、結局長くなりましたがいきましょう。

今年前半、結構ダイナミックだった気がするんですけど、後半の動きもこれまた、という気がしてます。そういった意味でも、今後の変化を踏まえ、まわりがどう在ろうと、自分というものとしてどう在っていくつもりなのか、みたいな感じでやっていただければと思います。
画像は、「ホドロフスキーのDUNE」の戦士たちにしましたYO!

では、Let's medicine☆.。.:*・゚゚



使い方は、あなたの自由!!

使い方ガイド

*ベーシックな使い方
ぴん、ときた画像をひとつ選んでクリックしてください。
そこに書かれているテキストが、あなたのガイドになります。

*自由な使い方
・いま、知りたいことをイメージしてクリック!
・恋愛、仕事、健康など、自分で決めたテーマごとにクリック!
・毎朝、起きたときに今日1日をイメージしてクリック!
・全部クリックして、好きなテキストを選ぶ!
など、自由に、フレキシブルにつかってください。

また、「全体のメディスン」も組み合わせてみてください。

▼直感でクリック!(1クリックでテキストが開き、再度クリックで閉じます)

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▽この画像を選んだあなた

自分のペースでいけばいいじゃん、といったりしますが、果たしてそれはどんなペースなのか。
すでにある言葉と概念を特に吟味検証することなく、なんとなくあてはめてこんな感じかな、でいってみる感じ。それも確かに何かのペースなのでしょう、けれどそれは、あなた独自のペースではたぶんない。

いまの自分の動き、言葉、考え方、ある起点から起こり来るそれらとその連なりを、ちょっと立ち止まってみてみてください。そう、もう無理かもしれない、とやむなく止まらざるをえなくなる前に。

自分のペースというのは、すべてが調和して流れていく速度、のことじゃないかと思います。
つまり、どこにいてもどんなときも、無理なく、自分がここちよくいられる速度。少なくとも、つらくても苦しくてもなんとか耐え続けることではないとおもいます。


▽この画像を選んだあなた

しんでしまいたい、という思いと、生まれ変わりたい、という思いは対になっているかもしれません。生は死をささえ、死は生をささえている。

頭のなかのやりとりです。
こんな状況、こんな環境、こんな自分に対する嫌悪。なぜこうなったのかと過去を悔い、未来を憂い、このままで存在することを困難に思う。
けれど変わらない、を現実として固定し、このままではだめ、変わらなければならない自分、で居続けているのは、ほかの誰でもない自分。そう結論づけて、そのような自分を自分として固定している自分。

頭のなかのやりとりです。細胞は生きるために新旧の循環、生き死にを繰り返します。もっといえば、生きよう、という意思さえもたずにただ自分の性質、機能のまま、そのままに動いているだけ。

変わらない現実に生き続けるのは頭のなかの自分、死にゆくべきはその思考です。
固定しなければ、循環は勝手に起こり、不必要なものは死に、必要なものは生まれます。

というか、こうしているいまも常にそれは起こっている。いや、いまの自分はそうではない、といったやりとりを、もうしないでください。


▽この画像を選んだあなた

たとえばひとのいない森の奥、泳ぐ魚がはっきりとみえるくらい透明度の高い静かな川の流れ、あるいは海辺、岩場にひっそりと口を開けた洞窟の奥に、エメラルドグリーンの水をゆったりとたたえた湖。
どちらも手や足を浸すとひんやりとして、肉体はもちろん、不安や思い、記憶、もう役に立たなくなった不必要なすべてが、細胞ごとすっかり新しいものと入れ替わるような循環をもたらしてくれるイメージ。まるでその水に泳ぐ魚のように、外からでも自分の臓器が透けてみえるような。

キーワードは「クリア」。
そんな体感をもてるような時間を、どうぞつくってみてください。
静かに、ゆったりと、たゆたうように。
自分本来の“軽さ”を取り戻して。


▽この画像を選んだあなた

よく、ちょうど過渡期、とか、変化の時期、といいますが、いってみればあらゆるものは常に移り変わっている、あるものごとの過程を脳が「これが現状」と固定し、それは概ね自分にとって好ましくないことがなぜか圧倒的に多いのですが、そこを起点として「次の現状へ向かう」というプロセスを自分でつくり出しているだけなのだけれど、変わらない変わらないと言い続ける。
ほんとうに何も変わっていないのか、といえば、そのプロセスを外れることを恐れる脳がそう結論づけているだけで、変わりゆく様を積極的にみないようにしているのだと思います。

そんなわけで、「次の現状へ向かう」準備はできているんです。
あらゆることは常に動き移り変わっている、ということを踏まえたうえで、なおちょうど過渡期であり、変化の時期であり、なんというか、いま変わらなくてどうする? といったときなんじゃないでしょうか。

抵抗をやめて、流れゆくその軌道に、まかせていく感じですかね。


▽この画像を選んだあなた

火事場の馬鹿力、書いてみるとあらためてすごい言葉だなと思いますが、この馬鹿、というのは考えてない、常識的じゃない、想像を超えてるみたいな、いってみれば奇跡的な力のことですよね。
けれど、ふってわいたように一瞬与えられて失ってしまうわけではなく、どんなひとにも等しく潜在している。そしてピンチのときや、たまたまとかではなく、ほんとうは常に出すことのできる力。

合気道に近いんじゃないかと思います。力づくでは倒せない、腕力ではないんです、攻撃でも抵抗でもなく、計算でも論でもない、説明はいつでも後付けであって、的確にあらわせる言葉はないでしょう。

受け容れることと預けゆだねまかせることは、同じだと思います。これはわたしの印象ですが、合気道は相手を受け容れ、自分を預け、ゆだね、場にまかせる感覚。火事場ではなくとも、身長150cm足らずのわたしが170cm以上の男のひとを、ふわりと宙に浮かせることができるのです。

意図と共振、響き合い、動く、という感覚。
力、というよりもそれは、愛、に近いんじゃないでしょうか。


▽この画像を選んだあなた

ひとは一生懸命ものを考えますが、結局のところ、自分の知覚できる範囲内のことしか思考できないし策もみつかりません。どんなにがんばってもです、だって知覚外のことは知覚できないのだから。

頭のなかのおしゃべりは、いつももっともらしいことをいい、まるでそれらが新しい何か、うまくいく何か、ものすごい何かを生み出しているようにみえますがそうではないです。
ひらめきや直観と呼ばれるものは、少なくとも思考のなかにはありません、知覚の外からやってくる、頭のなかのおしゃべりとおしゃべりの間、その沈黙の隙間から。

おしゃべりをやめてみてください。
考えのなかに、こたえはありません。
静かな呼吸の中になら、あらわれるかもしれません。


■「全体のメディスン」(2014年後半)

なんかね、もうむやみやたらと動いてけばいいんじゃね? とか思ったりするんですよね、やけっぱちでいけ、とか暴挙に出ろ、ということではないんですけど、ごちゃごちゃ考えたり綿密な計画とか予想とか懸命な努力とか、それは大事なことかもしれないけれども、結局はどれも一か八かなんですよね、保証なんかないんだもん、がんばったりときに犠牲的な行いをして苦痛に耐えたところで報われるわけでもないことをみんな知ってる、それは“よいこと”と定義されたりはするけど根拠がないどころか特に世界がよくなってる気もしないし、本の通り新聞の通り誰かえらいひとのいう通り常識の通りに動いたって自分がそのようになるわけではない、苦労は買ってまでする必要なんてなかった、なのにまだ“そういうものだから”に従ってく意味って、なんなんでしょ。

むやみやたら、って、漢字では無闇矢鱈と書くみたいなんですけど、いくつかの辞書では「無闇を強めた言い方」とあるので「無闇」を調べてみると、goo国語辞書では「1. 結果や是非を考えないで、一途に物事をすること 2. ものごとの状態が度を超えて甚だしい。ひどい」とあり、家にある旺文社の国語辞典では「1. 前後を考えないで、物事をする 2. 度を越すさま」となっていて、前者の2においては意味の提示を多少超えて感情が入ってしまってる気がします。

で、「矢鱈」においては諸説あるとのことで、辞書は各自調べていただくとして、ここでは諸説のほうを紹介しますが、ひとつは「鱈がほかの魚にくらべて、いやになるほどよくとれるから」という説、また「雅楽の八多羅(夜多羅、八多良)拍子という2・3・2・3と続く拍子が農耕民族である日本人には苦手な拍子だったため、めちゃめちゃになってしまうことからついた」などがあるようです。

ちなみに「矢鱈」は夏目漱石が字を当てたとのことだし、八多羅拍子もちょっと調べましたが、そんなにめちゃめちゃになるかな? という印象で、どちらにしてもなんか曖昧なんでわたしも勝手に一説繰り出してみます。

まず「無闇」は、闇が無い→つまりものすごい明るい、ドピーカン→視界全方位フリー、「矢鱈」は、2拍・3拍・2拍・3拍→リズムがとりづらい合わない→同時演奏すると全員ちがう拍子→つまりポリリズム→それぞれのリズムによる共鳴、ということで、わたしの辞書における「無闇矢鱈」は「太陽の光燦々と降り注ぐ視界全空き翳りなしの真っ只中、己のリズムでルーツを踊れ、さすれば食うに困らん(鱈はたくさんとれるのだから)」みたいな感じかなと思います。

というわけで、本来の自分、原初、というか源泉にかえって動いたらいいんじゃないですかね。
そこはまさに全方位自由、というか、そこからすべてが生まれ来る。
そもそも、ほんとうはそのようにしかできないんだし、なにしろ源泉、ソースなのだから。。

それではまた☆

読んでくれてありがとね!


★お知らせ★
試験的に「動物通信」という読み物をやりはじめました。
よかったら読んでみてください。


ananya

■ANANYA(アナンヤ)PROFILE

'93年にネイティヴ・アメリカンの智慧を集約した「メディスン・カード」に出会い、それを元に自らカードを作成、ライフワークとして都内カフェ、雑貨店およびイベント等でリーディング・セッションをはじめる。「SONIC PLATE」暫定運営。タケ・ロドリゲス&ヒズ・エキゾチック・アーケストラにヴォーカリストとして参加。その他、チベットのマントラなどをモチーフとした手芸作品「prana」など。

ANANYAのサイト
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