骰子の眼

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2014-03-11 15:30


本来の自分はまっさらです☆メディスン・カード・リーディングによる「自分で選ぶ運勢ガイド」3月11日~

みなさまどうも。
いかがお過ごしでしょうか。

さて、今回は3月11日ということで更新することにしました。

たぶんみんな誕生日や何かの記念日とか、この日がくると、みたいに、なんとなく日々のどこかにピンが刺さっているような日があるんじゃないかと思うんですけど、わたしも3月11日がそのひとつになりました。

何度か書いたと思いますが、ちょうどあのとき、まさにここに掲載する原稿を書いてましたし、あの直後からの友人知人とのやりとり、揺れの最中、そして翌日の外の様子と空気感は、それまで体験したことのないものでした。いまも思い出すと、よくもわるくも思考が止まります。

絶対に忘れてはいけない、という考えがあります。誤解をおそれずに言えば、わたしにはわかりません。忘れたいことは忘れていいのだと思うし、覚えていることは勝手に覚えているし、ただ思うのは、目をそむけてしまうこと。それがよくない、というよりも、むしろ自分のなかに残り続ける。みないようにする、ということはつまり、“それ”は歴然と在るのだということ、そしてほんとうは自覚していることにほかならないからです。

もっといえば、それは3.11に限ったことではないし、忘れたいという思いはどこからくるのか、そして忘れてはいけない、という考えはどこからくるのか、なぜそうでなければならないのか、その根源をみつめることなんじゃないですかね。

わたしがあの日に感じたさまざまなことでいちばん大きいのは、不安でいようと楽しんでいようと何をしていようとも、一瞬ですべてが変わるのだ、ということです。「目を閉じて開いた瞬間、何が起こるかわからない。だから…」のあとに続く考え、行動はなんだろう。

ひとって、何かを失って後悔するでしょう、あのときああしておけばよかった、って。だったらいつもそうすればいいのに、とよく思います。その瞬間瞬間の自分の在り方が、肉体のある限り続く世界としてあらわれてくるのだから。。

ちょっと厳かな感じになってきましたけれども、どんな世界を体験したいのか、その体験を生み出している自分というものの在り方、その根本を知ることをテーマに、今月もワークショップを行います。よかったらいらしてみてください。

では、いきましょう。

今回は、いつも通りにひとつ選んで、よければ左から順番に読んでみてほしいです。前回もそんなことを書きましたけど、今回はちょっとつづきものとして読めるみたいな感じでやってみたので。
もちろん、読まなくっても全然問題ないんで、好きなようにやってください(笑)。

画像は、去年ひさびさに訪れた伊勢神宮、五十鈴川の水面にしてみました。いいっす、今年も行きたいっす。

では、Let's medicine☆.。.:*・゚゚



使い方は、あなたの自由!!

使い方ガイド

*ベーシックな使い方
ぴん、ときた画像をひとつ選んでクリックしてください。
そこに書かれているテキストが、あなたのガイドになります。

*自由な使い方
・いま、知りたいことをイメージしてクリック!
・恋愛、仕事、健康など、自分で決めたテーマごとにクリック!
・毎朝、起きたときに今日1日をイメージしてクリック!
・全部クリックして、好きなテキストを選ぶ!
など、自由に、フレキシブルにつかってください。

また、「全体のメディスン」も組み合わせてみてください。

▼直感でクリック!(1クリックでテキストが開き、再度クリックで閉じます)

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▽この画像を選んだあなた

どっちをみるか、ただそれだけなんですよね。
この世界は、正/誤、善/悪という具合に、ひとつのものごとに対して相反する面をもつ二元の世界。それは別に法則として動いているわけでもなく、頭、つまり“思考”の世界。これについてはこっちが正しい、そっちはよくない、というように “ジャッジ”し、それを選んでいるんです。そうしたラベルを貼る、自分で。

けれども、ひとつ道を隔てただけで、正と誤、善と悪が反転する場所が現実にある。これは精神論みたいな話ではないです。そもそも“論”は推察に過ぎない。そして争いが起きます。なぜか。それらはそれぞれの“判断”であって、“真実”ではないから。

あらゆるものごとはほんとうにたくさんの判断とラベルで分けられ、どんどん分離していく。幸福と不幸、満足と不足、安定と不安定等々等々、けれどもそのふたつを比較しジャッジを加えず、ニュートラルにみる視点というものがある、というか、意識していないだけで実はものごとを前にしたとき、最初は必ずその視点でみてるんです、そうでなければどちらかに分けるなんてことはできないじゃないですか!

どっちをみるか、ただそれだけなんです。そして、みたいほうをみていいんです。
みてもいい/みてはいけない、って、ここからすでに分けることができるんですから。


▽この画像を選んだあなた

沈黙、静寂に開く、という感じでしょうか。
わたしたちは無意識にものごとにラベル、レッテルを貼って日々暮らしている。これはいい、これはよくない、もっともらしくみえますがどこかに矛盾があり、誰かにそれを指摘されると「いいの、自分がそう思うんだから!」と、つまりそれらが真実ではなく、あくまでも自分の判断で決めているのだと白状したりします。

その前の一瞬です。
ほんとは時間ではとらえられません。分でも秒でもはかることのできない瞬間です。とても静かで、言葉だけでなく、すべてがそこからあらわれてきます。頭のなかはおしゃべりでいっぱいですが、そこはいつでも静かです。

「こうかもしれない」という推察、「そうに決まっている」という判断、その前の瞬間、湧き起こった思いと判断の間、わたしたちはほんとうは隙間だらけなんですよね。その背後にはただただ静寂がひろがっている。

ためしに、言葉が湧き起こる様子をみていてください。そして次にあらわれてくるもの、それを自分がどう捉え、どんなラベル、レッテルを貼って分けているのかを。


▽この画像を選んだあなた

わたしたちは常に何かになっているんですね。
たとえば、やりたいことができない自分、とか、もてる自分、とか、○○だから△△な自分、という具合にプロフィールが連なり、結構壮大なストーリーに成長し、それを生きはじめる。

プロフィール、つまりラベル、レッテルはとてつもなくたくさんあり、しかも自由に選べるにもかかわらず、なぜかあまり気に入らないものをせっせと貼ったりして、あまり好ましくない物語を自ら生きようとする。ひとはほんとうに不思議です。

もしも、自分の望んでいない物語を生きていると感じるのなら、一度すべてのラベル、レッテルをはがし、その役柄を返上してみてください。監督も脚本家も、あなたの外にはいません。いや、もしかすると、誰かの顔が浮かんだかもしれない。その誰か、あるいはもっと漠然とした何かに動かされているような気がしているかもしれないし、そこで気づくことがあるかもしれない。

それでも配役、その役のプロフィール、そして物語をつくっているのはあなたであり、つくれるのはあなただけなんですね。


▽この画像を選んだあなた

自分を探ってみてください。
これが自分、と思っているものを。
思考と思考の間、感情が生まれる前の一瞬、隙間。
その静けさのなかに、すべてがあります。


▽この画像を選んだあなた

「男は力で物をもつが、女はバランス(中心)で物をもつ」。
もう20年以上も前、バリ島に旅行したときにみつけたあるTシャツの図柄が気になって、意味を教えてもらったのが上の言葉です。Tシャツには確か円、三角形(星だったかも)のなかに人間がいるイラスト、その周囲にBODY-MIND-SPIRITと書かれていました。あのTシャツ、ひとにあげたんですよねーとっておけばよかった。

「BODY-MIND-SPIRIT」、まさしく三位一体、そのすべてが連携しバランスされること、これが本来の動力というものなんじゃないでしょうか。そしてこの三位は、別のことに置き換えられると思います。ひと、もの、できごととの関係性。肉体、物質というものの世界においては、この原理が動力となっているはず。火事場の馬鹿力、みたいな現象が起こるのもこれによるでしょう。

バランスって、すべてにおいて同じだけのちからが働いているようにみえるかもしれない。けれども、全体をみてみると、実はそうでもなかったりする。どれが正しいわけでもなければ、劣っているわけでもない、直ではなく、ジャッジを経たフィルターを通す、という性質がそのように優劣を決定するだけ、だからバランスを崩すのさえ(ほんとうは崩れてはいないのですが)、やはり自分。

自分の中心にとどまってみてください。
たぶん、何か湧き起こる感覚、常に存在していたとても強く、あたたかく、すべてを受け容れる大きなうごめきのようなものに気づくのではないかと思います。


▽この画像を選んだあなた

ものごとは、あなたがみているようにあります。だから、ほんとうはその通りではありません。まず、このパラドックスに気づいてみてください。

ほとんどのひとが、自分にも誰かにもものにもできごとにもラベル、レッテルを貼り、それらをみています。それはオリジナルのレンズ越しにみているようなものです。だから、その通りにみえます。

不思議なことに、自分の望んでいることが視界に入ってきたというのに、拒絶してしまったりする。そのレンズには合わないからなんですね。いやじゃないですか? そのレンズ。

はずしたらいいですよ。そもそも、そのレンズを通す前のあなたは常に直でみている、というかただ勝手にそこここに起こる現象を“目”というものがとらえている、起こっているのはそれだけ。そこにああだこうだと手を加え、常に無意識に無自覚に解釈を入れて都度都度メガネをかけてる。あんまり好きじゃない風景の映るものをわざわざ選んだりなどして。そもそもそのメガネは、たいへん視界がせまい、限られたものしかみることができないです。

はずしたらいいですよ。
というか、かけなければいいんですよね、そのメガネを。
だって、すでにみえてるのだし、すべてはそこに在るのだから。



■「全体のメディスン」(2014年3月11日~)


去年は引っ越し前の家探しや何かで更新しなかったんですけど、震災の次の回、そして2012年の3/11分に、今回出たカードが入ってました。面白いですよね。

ときどき、やり直したいとか、生まれ変わりたい、と思うことがあるかもしれません。それはいままで綿々と続いてきた日常みたいなものから解放されたいとか、自分自身のふるまいなどの性質、あるいは肉体や顔の造作もあるかもしれない、それは自分を含む現状の否定、つまり受け入れたくないということなんですよね。

眠っているとき、嫌なことを思い出しません。明日を憂うこともなければ、何かしなければ、と焦ったり何かの対策を練ったりすることもない。夢をみることはあっても、目を覚ませば終わります。

そう、起きて、その瞬間に背負います。眠る前までの自分のプロフィール、その役に沿ったストーリーを。
自分はこういう人間で、これからあそこへ行き、いまこんな問題を抱え等々、ほんとうはまっさらであって、新しい物語をはじめたってかまわないのに、自ら古いお話を生き続ける。

前回、ひとは常に生まれ変わっている、と書きました。
本来、わたしたちはまっさらです。
読み解ける未来などないし、過去の物語は参考になれど、すでに頭のなかにしか存続させられる場所はありません。
いまどう在るか、それ以外に必要なことはあるのだろうか。

新しく生きるための条件、なんてものはないです。
わたしたちは何かの基準に自分を合わせ、それをクリアしなければ、極端にいえば存在するに値しない、とまで追い込まれたりする。それこそまやかしだ。

全部はずしてみる。
本来、わたしたちはまっさらです。
生まれ変わる、という必要さえない。
それでも新しく生きたいというのなら、眠る前のすべての自分をボタンを押すようにリセットして、ほんとうに体験したい物語を、いまはじめてみてください。

読んでいただき、ありがとう。
結局、自分っすよ。

ワークショップ、よかったらきてみてください。
またね☆


ananya

■ANANYA(アナンヤ)PROFILE

'93年にネイティヴ・アメリカンの智慧を集約した「メディスン・カード」に出会い、それを元に自らカードを作成、ライフワークとして都内カフェ、雑貨店およびイベント等でリーディング・セッションをはじめる。「SONIC PLATE」暫定運営。タケ・ロドリゲス&ヒズ・エキゾチック・アーケストラにヴォーカリストとして参加。その他、チベットのマントラなどをモチーフとした手芸作品「prana」など。

ANANYAのサイト
・webDICEのANANYAのページ


個人セッション受付中です

メディスン・カードをつかったリーディング・セッション行っています。
仕事、恋愛、人間関係等々、あなたが、いまいちばん知りたい情報をお伝えします。
大切なのは、「これからどうなるか?」ではなく、自分自身が「どう在りたいか」。
ここを起点として、ゴールに向かうためのポイントを一緒に探っていきたいと思います。

◆場所/時間/料金

※お問い合わせおよび詳細につきましては、ANANYAのサイトでご確認ください。


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