映画『ドストエフスキーと愛に生きる』より
ドストエフスキーの新訳でドイツ文学界に旋風を起こした女性翻訳家の数奇な半生を追ったドキュメンタリー映画『ドストエフスキーと愛に生きる』が、2月22日(土)から公開となる。翻訳家を題材とした本作の公開にちなみ、日本で活躍する文芸翻訳家9名に「翻訳」という営為の魅力について訊ね、仕事風景を捉えた連載の第三回。
第一回の柴田元幸さん(アメリカ文学研究者・翻訳者)、きむふなさん(日本・韓国文学翻訳家)、野崎歓さん(フランス文学者・翻訳家)、第二回の野谷文昭さん(東京大学名誉教授・ラテンアメリカ文学翻訳家)、松永美穂さん(早稲田大学教授・ドイツ文学翻訳家)、飯塚容さん(中央大学教授・中国文学翻訳家)に続き、今回は和田忠彦さん(東京外国語大学教授・イタリア文学翻訳家)、鴻巣友季子さん(翻訳家・エッセイスト)、沼野充義さん(東京大学教授・スラヴ文学者)が登場する。
なお、この連載に登場した翻訳家9名の写真展『言語をほどき紡ぎなおす者たち』が、2/19(水)~3/3(月)の期間、渋谷アップリンク・ギャラリーにて開催されている。また、現在発売中の『ドストエフスキーと愛に生きる OFFICIAL GUIDE BOOK』では、この連載をまとめた特集ページのほか、平野啓一郎さん、太田直子さん、伊藤聡さんらによる、お薦めドストエフスキー作品紹介などを掲載している。
[撮影/荒牧耕司 http://kojiaramaki.com]
[取材・構成/隅井直子]
イタリア文学
和田忠彦
わだ・ただひこ 1952年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。1999年より東京外国語大学教授。カルヴィーノ、エーコ、タブッキをはじめとするイタリア近現代文学の優れた翻訳者として定評がある。イタリア文化普及に貢献したとして、2011年度イタリア国家翻訳大賞を受賞。著書に『ヴェネツィア 水の夢』(筑摩書房/2000年)、『声、意味ではなく──わたしの翻訳論』(平凡社/2004年)、『ファシズム、そして』(水声社/2008年)がある。
東京外国語大学・研究室にて
Q.翻訳の仕事を始めたいきさつ
京大に入学した当初は、江戸時代の戯作研究を志していたのですが、三年生の学部進学に臨んでイタリア文学を専攻に選びました。ブッツァーティの『七人の使者』を訳す授業が、イタリア語翻訳の手ほどきという意味では最初でした。その時の恩師が、こちらのある程度の才能を認めて下さったことが大きいかもしれません。ただ、大学院の博士課程でイタリア現代詩とファシズムの研究のためにボローニャに留学していた頃も、まだ翻訳というものは、自分の選択肢として入り込んではいなかったように思います。翻訳の仕事を始めたのは、留学から戻ってきたあと、京都の松籟社という出版社に勤める知人から、イタリア叢書を出したいという話を受けて、ヴィットリーニの『人間と人間にあらざるものと』を翻訳刊行してからです。
Q.「翻訳」という営為の魅力はなにか
ある人が自ら何かを書くとなったときに、気がついたら私が訳した小説や詩の影響をこうむっていた、ということを発見する、あるいはそれがテクストを通してこちらに伝わってくることが、翻訳をする際の、ある種の自分のやりがいです。
Q.翻訳家を目指す人へのアドバイス
広い意味での翻訳についての議論と重なりますが、自分が持っている知識や言語的な運用能力が、母語である日本語でできること以上のことは、外国語では容易にはできない。となると、当然ながら日本語の世界を自分でどれだけ拡大し、なおかつその密度をどれだけ意識的に高めていけるか、それに尽きると思います。
Q.現在、進めている翻訳または著作
ウンベルト・エーコの『女王ロアーナ、神秘の炎』が岩波書店から近く刊行されるのと、準備を進めているものとしては、筑摩書房から刊行予定のカルヴィーノ論と、『國文学』の連載をまとめた『声、意味ではなく──わたしの翻訳論』の続編にあたるエッセイ集です。それから、今年イタリア文化会館で開催されるピノッキオについての連続的なイベントにあわせて、ピノッキオについての本を一冊出す予定です。
和田忠彦さんから『ドストエフスキーと愛に生きる』に寄せられたコメント
スヴェトラーナの年老いた背は丸まっているけれど、まなざしと言葉は凛としてうつくしい。ドストエフスキーの産んだ5頭の巨象に対峙する、カルヴィーノと同い年の女性翻訳者の、静かなたたずまいに漲る自信に、こちらの背筋が伸びる。 さて、それにしてもスヴェトラーナの内で響くのは、果たしてドイツ語なのかロシア語なのか。
英文学
鴻巣友希子
こうのす・ゆきこ 1963年生まれ。お茶の水女子大学大学院前期博士課程在学中の1987年から出版翻訳の世界に入る。J・M・クッツェー、マーガレット・アトウッドなどの翻訳を手がけるほか、文芸評論家、エッセイストとしても活躍。近著に『本の森 翻訳の泉』(作品社/2013年)、『翻訳教室──はじめの一歩』(筑摩書房/2012年)、『熟成する物語たち』(新潮社/同)、『孕むことば』(中央公論新社/同)、『本の寄り道』(河出書房新社/2011年)、『全身翻訳家』(筑摩書房/同)などがある。
自宅の仕事部屋にて
Q.翻訳の仕事を始めたいきさつ
翻訳家になろうと思ったのは、大学1年生だった19歳の冬で、週刊誌に翻訳学校の広告が載っていたのを見て、「これだ!」とピンときたのです。それまで何をやってもしっくりこなかったのが、欠けていたピースがはまったような瞬間でした。でも、当時は翻訳というものが今ほどポピュラーではなかったせいでしょうが、プロを目指す若い人たちが集うというより中高年の人たちが文学修業をする場という感じだったので、結局、学校には行かず、独学で原書をたくさん読みました。大学4年生ぐらいから産業翻訳のバイトをはじめたのですが、それで長いものを翻訳する基礎体力がついたように思います。その後7~8年間、柳瀬尚紀先生に弟子入りして、ものを書いていく上での心構えや、人にものを伝えるとはどういうことかを徹底して教えてもらいました。
Q.「翻訳」という営為の魅力はなにか
よく「役者と訳者」と言われるように、何通りもの他者の言葉を生きていけることです。原文という浮き輪が無ければ潜れない深海にまで行けるし、時には空を飛ぶこともできる、そんな心持ちを経験できるのが、翻訳者の醍醐味だと思います。
Q.翻訳家を目指す人へのアドバイス
やっておいてよかったと思うのは、文学史を勉強することです。私の場合は大学院入試のために、20巻ほどもある英米文学史の本ををがむしゃらに読んだのですが、あれは若い時にしかできなかったと思います。翻訳家をやっていく上では、歴史的なパースペクティブがあったほうがいいし、共時的な解釈だけでなく、通時的な世界観もあったほうがいいと思います。
Q.現在、進めている翻訳または著作
翻訳は、数年がかりで訳出している『風と共に去りぬ』(新潮社)と、クッツェーの『ザ・チャイルドフッド・オブ・ジーザス[原題]』(早川書房)です。著書は、小説家の片岡義男さんとの翻訳のディスカッションをまとめた、『翻訳問答──日本語の謎は解けない』(左右社)と、雑誌『文藝』の市川真人さんとの対談連載『国境なき文学団』(河出書房新社)が刊行予定です。
鴻巣友希子さんから『ドストエフスキーと愛に生きる』に寄せられたコメント
スヴェトラーナにとって翻訳とは命の息吹き。アイロンがけも、レース編みも、料理も、呼吸することすら翻訳なのだ。彼女の料理を見ればその哲学がわかる。色彩の深み、精密に決められた具材の大きさ、手ざわり、火の入れ加減、熟考の末の迷いのない手順……。こんな料理人が翻訳の達人でないわけがない。
ロシア・ポーランド文学
沼野充義
ぬまの・みつよし 1954年生まれ。ハーヴァード大学ティーチングアシスタント、ワルシャワ大学講師などを経て、現在、東京大学文学部教授。専門は19世紀~20世紀のロシアおよびポーランド文学。チェーホフ、ナボコフ、ブロツキー、シンボルスカ、レムなどの訳で知られる。著書の『〈徹夜の塊〉亡命文学論』で2002年サントリー学芸賞、『〈徹夜の塊〉ユートピア文学論』で2004年読売文学賞受賞。文芸評論および日本文学の海外への紹介にも積極的に取り組んでいる。
仕事場にて
Q.翻訳の仕事を始めたいきさつ
外国語で読んで気に入った作品は訳したくなってしまうのです。それで学生の頃からSFや詩の同人誌に、好きな作品を勝手に訳して載せていました。ブローティガンの詩も訳しました。ドイツのSFや映画論の翻訳でお金を稼いだこともあります。小説を一冊初めて翻訳したのは、ロシアの幻想作家グリーンの長編『輝く世界』です。まだ大学院に入ったばかりの僕に、荒俣宏さんが声をかけてくれたのです。次に、山野浩一さんの依頼で、ポーランドのSF作家レムの『枯草熱』をやりました(吉上昭三先生と共訳)。そんな風に、幻想文学やSF関係のつながりで、20代の頃から次々に仕事が来ました。翻訳と恋愛がパラレルにどんどん進行する、楽しい青春時代でした。
Q.「翻訳」という営為の魅力はなにか
最先端の科学のような難しい学問と比べて、小説を読むくらいどうってことない、と人は思いがちですが、文学の言葉の表現というのは、人間のつくり出した中で最高度に複雑なものです。その上、言語を越えて別の緻密な世界に入っていく翻訳という行為は、ワクワクするような冒険なのです。外国文学の秘宝を発掘するためには、やはり自分で翻訳をやらなければならない。自分が納得して理解できたと感じられるには、翻訳するしかないのです。つまり翻訳家は、自分が作品を一番楽しみたいと思っている、とてもわがままな人間なのです。
Q.翻訳家を目指す人へのアドバイス
最初から「翻訳家になりたい」などと思わないほうがいいかもしれません。文学を読むのも、外国語の読解も、好きでたまらないという人が、夢中で読みまくっていたら、いつの間にか翻訳もしているはずです。人が翻訳を選ぶのではなく、翻訳のほうが人を呼び込むのです。
Q.現在、進行中の翻訳または著作
翻訳はブロツキー『レス・ザン・ワン』(加藤光也氏と共訳)、シンボルスカ詩集『瞬間』、チェーホフ『六号室』など、著書は『英語で読む村上春樹』、『徹夜の塊・完結編 世界文学論』、編著『世界は文学でできている その3』を進めています。
沼野充義さんから『ドストエフスキーと愛に生きる』に寄せられたコメント
翻訳とは、コンマ一つの打ち方にこだわるような微細な仕事でありながら、同時に、癒やされない痛みと、断ち切ることのできない憧れを魂の内に抱え込んで生きることでもある。この映画が教えてくれるのは、言葉への愛だけではない。究極的には、私たちがよく生きるために、深く生きるためにどうしたらいいか、ということなのだ。
映画『ドストエフスキーと愛に生きる』
2014年2月22日(土)よりシネマート六本木、渋谷アップリンク他
全国順次公開
84歳の翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーの横には、華奢な姿に不似合いな重厚な装丁の本が積まれている。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『未成年』『白痴』──言わずと知れたロシア文学の巨匠・ドストエフスキーの長編作品。それらを"五頭の象"と呼び、生涯をかけてドイツ語に訳した。1923年ウクライナ・キエフで生まれ、スターリン政権下で少女時代を過ごし、ナチス占領下でドイツ軍の通訳として激動の時代を生き抜いた彼女の横顔には、戦争の記憶が深い皺となって刻まれている。一人の女性が歩んだ数奇な半生に寄りそう静謐な映像が、文学の力によって高められる人の営みを描き出す。
■監督:ヴァディム・イェンドレイコ
■撮影:ニールス・ボルブリンカー、ステファン・クティー
■録音:パトリック・ベッカー
■編集:ギーゼラ・カストロナリ・イェンシュ
■出演: スヴェトラ-ナ・ガイヤー、アンナ・ゲッテ、ハンナ・ハーゲン、ユルゲン・クロット
■製作:ミラ・フィルム
■配給・宣伝:アップリンク
(2009年/スイス=ドイツ/93分/ドイツ語・ロシア語/カラー・モノクロ)
映画公式サイト:http://www.uplink.co.jp/dostoevskii/
映画公式ツイッター:https://twitter.com/DostoevskiiJP
映画公式facebook:https://www.facebook.com/DostoevskiiMovieJP
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◆毎日の暮らしを丁寧に過ごすスヴェトラーナさんの家をイメージし、人気雑貨店Roundaboutのオーナー小林和人さんと、fog linen workの関根由美子さんが、いつまでも愛着を持って使い続けられる生活雑貨をセレクト
◆名翻訳家スヴェトラーナさんにちなみ、柴田元幸さん、野崎歓さんなど、日本国内で活躍中の気鋭翻訳家9名の仕事風景をとらえた貴重な写真とインタビューを掲載
◆ドストエフスキーの新訳が大反響を呼んだ亀山郁夫さんによるエッセイ
◆平野啓一郎さん、太田直子さん、伊藤聡さんらによる、お薦めドストエフスキー作品の紹介
◆小林エリカさんによる描き下ろしイラスト
【図書コード】ISBN978-4-90072-859-2
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▼2014年2月22日(土)公開『ドストエフスキーと愛に生きる』予告編