左より、菊地成孔、岸野雄一、ヴィヴィアン佐藤
フェデリコ・フェリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニの監督作を含む、イタリアのオムニバス映画『街の恋』が8月23日にIVCより、DVDとブルーレイ化され発売となった。この発売を記念し、豪華ゲストをむかえての上映&トークイベントが9月7日(土)、8日(日)にアップリンクにて、2日間にわたり行われた。
一日目はライナーノーツに「ヤッベえなあこれ。クッソ面白えわ」と絶賛コメントを寄せた音楽家で文筆家の菊地成孔をはじめ、スタディストの岸野雄一、ドラァグクイーンのヴィヴィアン佐藤の3人が登壇。「音楽とダンスと女」に行われたイベントは『街の恋』の紹介と、3者ならではの解釈だけに留まらず、女性のコスプレ願望まで、時折、大きく脱線しながら大爆笑で幕を閉じた。あまりの長さから掲載が見合わされていたこのレポート。webDICEではその中から『街の恋』作品について3者が語る部分をピックアップしてお届けします。
なお完全版は『美学校』のサイトにて、ご覧頂けます。
芸術運動は頭でっかちで実践というのは危なっかしいもの
菊地成孔(以下、菊地):では、まず私からは作品の概要を少し。イタリアでおおざっぱに言うと戦後すぐ、ネオリアリズモという芸術運動、というか派閥が出てきまして。
岸野雄一(以下、岸野):運動のひとつとして、ネオリアリズモが映画の方で起こった。ロベルト・ロッセリーニとかヴィットリオ・デ・シーカとかそういう人たちですね。
菊地:ドキュメンタリーなの? フェイクドキュメンタリーなの? どうなの?っていうところに可能性を求めた。でも、見ての通りで、ちょっと頭でっかちで、まだら八百っていうか。しかし、芸術運動一般というのはみんなそうで、イタリアには音楽と美術のほうで有名な未来派というのがあります。未来派もだいぶ頭でっかちというか、理念と情熱はすごいんだけど実践が微妙だった(笑)。もう一世代前ですがシュールレアリズムもあって。シュールレアリズムにおける理論的指導者がアンドレ・ブルトン。映画におけるネオリアリズム、ネオリアリズ…ネオリア…ネオリオ…ネオリアリズモ!の理論的指導者はチェザーレ・サバティー二という人で、この映画はその人のプロデュース作です。アントニオーニはタカ派じゃないので、自分なりの作品でネオリオ、ネアリア、ネオリアリズム解釈をやって、さっきから(ネオリアリズモってちゃんと)言えてないですけども(笑)。
(一同、笑)
映画『街の恋』より
菊地:フェリーニは、やんちゃですからネオリアリズモ一派と揉めてたんですよ。フェリーニの研究書にはすべからく『巷の恋』(旧題)という作品はフェリーニがサバティー二と喧嘩した映画だって書いてある。サバティー二の発言も残ってて、「フェリーニはネオリアリズモに迎合して一緒に作品を作ろうと言ってきたくせに裏切った」と。フェリーニが監督した『結婚相談所』は「実話だから、やらせてくれよ、ネオリアリズモだろ?」ということで撮ったわけですけど、これ、作り話ですから。だからやりかたとしてはひどいっていうか、「実話だからいいでしょ?」という感じでこの企画に参加しておいて、最初から実話じゃなかった(笑)。いかにも実話風の美談を入れたっていう。あの人は嘘つきですから。この話はシネフィルの間では有名ですよね。ロッセリーニをめぐるネオリアリズモ議論というのがあって、フェリーニはシュールレアリズムでいうとサルバドール・ダリみたいな立場で、インターナショナリストとして独立すると同時に除籍されるっつうか、具体的にダリみたいに除籍されないですけど、除名されるような流れの中で彼一人がインターナショナリストになった。この作品を観るとナショナリストだ。いや、イタリア人だ。と言われるフェリーニが実はいかにインターナショナリストだというのがよくわかりますね。だから芸術運動というのはいかに頭でっかちで実践というのは危なっかしいんだけど、情熱はあるから、必ず左翼集団化する。で、後に有名になる人は最初からそこと揉める要素を持っていて、揉めてその集団を飛び出したのちに有名になるっていう、よくあるケースの記録にもなっている作品だと思います。
ドキュメンタリーを撮ればリアリズムってわけじゃない
菊地:リアリズモっちゅうぐらいだから記録っていうかドキュメンタリーを撮ればもうリアリズムなのか? というと、ここが微妙で……。これはもうご覧になったみなさんはお分かりだと思いますが、かなりドキュメンタリックな虚構になっている。例えば『カテリーナの物語』に出ている、子捨てのお母さん。あれは本人ですよね。まあ、いわゆる本人出演の再現VTRのようなものですが、本人がやればリアリズムか?というと、それもどうかと。本人が出演しているからすごいでしょ?というような……安直さと言いますか。
岸野:そこがね。映画が色んな事やってみようという時代でしたから、「本人にやらせれば迫真性というか、現実との齟齬が起きにくいんじゃないか?」ということを考えた時期だったんだよね。
菊地:20世紀的なシネフィル的に言えばこの映画は、ミケランジェロ・アントニオーニとフェデリコ・フェリーニ、二大巨匠の未公開作品が入った短編集で、どちらの研究家も必ずそのことは、記録としては書いていますから。日本未公開で「一生、観ることないだろうなー」と思っていたものが出わけですから、ファンはコレクターズアイテムとして買うんでしょう。ちなみにフェリーニの日本語で読める書籍の中でこの作品を『街の恋』と訳しているのはひとつもなくて、当時は『巷の恋』と呼ばれていました。今回、リリースする際に元のニュアンスに近い『街の恋』と改題されたわけです。citta(チッタ)っていうのはcityですから。巷って訳すのは美文調っていうか、この昭和感(笑)。
岸野:好きだけどね。
ヴィヴィアン佐藤(以下、佐藤):色っぽい。英語版だと「Love In The City」ね。
映画『街の恋』より
病んだ女と恋愛と都市
岸野:ヴィヴィアンさんはこの映画をどう見ましたか?
佐藤:そうねぇ、基本的には恋愛。恋愛に至る映画だなあと。あとは、都市との関連が多かったですね。恋愛もいろんな恋愛が描かれているのですが、『3時間のパラダイス』ではダンスホールが舞台ですし、パブリックな場所での恋愛模様。家の中とかプライベートな場所が舞台になるチャプター、あまりなかったですよね。売春も外ですし。スペインの映画監督でペドロ・アルモドバルとかもそうですけど、広場で売春婦が立っててバイクとか車で買いに来る感じ。ああいうのって、日本にはないですよねえ。
菊地:ないですねえ。
佐藤:昔ほら、大久保のホテル街とかで車で入ってくと立ちんぼの人たちがたくさん出てきたり、90年代ぐらいまではありましたけど、ああいう広場でこう車でアクセスして交渉してっていうのはないですよね。ああいう「都市/街と乗り物」の関係が面白いなあって。
菊地:モータリゼーションについて描いてますよね。
岸野:大通りは稼ぎがいいけど危険だ、みたいな。
佐藤:ひたすら夜歩く売春婦……。
岸野:つぶしたシューズが二十足♪
菊地:(笑)。テーマも「売春」、「自殺」ときて、次のフェリーニの話はけっこう救われるような話だけど、さっきも言ったように作り話ですし……で、「子捨て」がきて、でまあ最後はイタリア人が女の人を見まくって、笑いにするって流れですよね。でも女性映画っていうかフェミニズムっていうか社会における女性の意味っていうものをたぶんサバティー二は、真剣に考えていたとは思えない(笑)。女性を題材にしておけばオムニバス映画のテーマは稼げるだろうくらいのノリで。その中で極めて突出した異物感を出しているのは、『3時間のパラダイス』のお見合いダンスの「時間が来たら終わりですよ!」っていうシーン。私、それなりにこの時代のパーティーカルチャーやダンスカルチャー、ジャズやラテンと結びついたものの研究している方だと思うんですが、あれは知りませんでした。
岸野:あんなシステムだったのかとかあんな丁々発止だったのかと。
菊地:お母さんがついてきてね。自分のイケてない娘にちょっとこう「お前行ってきなさいよ!」とか「あの人がいい!」とか(笑)けしかけるんですよね。
佐藤:男性を値踏みして「あいつはいいけど……」
菊地:「こいつはダメ!」とかね。
岸野:あと、女の子の「彼氏がいるんだゴメン!」みたいな時の、「いやいやまあまあまあ…」みたいな男の感じとか、あれいいよね。
菊地:いいですよね。あとは、わりと早くパーティーが終わるところとか(笑)。
岸野:「七時だわ!」ってね。
佐藤:はしごでもするのか?っていう。
菊地:夕方のパーティーですよねあれ。
岸野:でもあれ「七時だわ」って言ったのはフェイクでしょ?「私についてきなさいよ」っていう意味だよね。「一緒にここ出ましょうよ」っていう。ダンスが始まってさえぎるのがチャチャチャっていうのがまたね。
菊地:演奏しているバンドと音が全然合ってない。
岸野:イタリアンネオリアリズモっていうのが何によって成立していたかというと、アフレコなんですよ。リアリズムっていうと同時録音だと思うでしょ? だけど正反対で、街中でロケするからローマの「ガガガガガ」って工事の音なんかでとてもじゃないけど録音なんかできないですよ。この映画では、素人を役者に使っていますが、彼らはプロの俳優じゃないんでセリフなんて喋れない。だから、顔や表情で選ばれている。
菊地:顔!
岸野:いい顔の素人使って、台詞はきちんとプロの俳優がアテレコしていた。で、その辺が虚と実。虚を描くのか実を描くのか? ということの問題になってくる。フェリーニさんどうもいち早くそういう嘘に気がついていて、嘘をちゃんと実であるかのように、こう織り交ぜれば映画として見世物としておもしろいでしょ? イタリア的には、みたいなこと考えていたよね。その萌芽がちょっと見れると思いますよこの作品は。だって結婚相談所の道案内をするのが、あんな大勢の子供たちなんて。あれどう考えてもおっかしいし、フロイト的に分析してみても面白いでしょうね。
フェリーニを知るために
岸野:確かに当時のいろんな批評誌で、『街の恋』がフェリーニを解釈するのに重要な作品だと書かれてあるのは読みましたよ。でもそれ、簡単に観ることができないから、けっこう肥大化して書かれているでしょ?
菊地:ネオリアリズモ派との決別といったような。ネオリアリズモ派という徒党を組んで理論的な指導者がいてみんなで実践していこうとチームはだいたい廃れてしまうわけですけど。スターがそこから出てくるというような構造が構造的なこととしてありうるというか。
佐藤:ルキノ・ビスコンティもそうでしたね。
岸野:ビスコンティやフェリーニはそれぞれイタリアで、当時こういうことやっていて、後に「退廃」っていうような方向に向かったというのはものすごく興味ある。ロッセリーニやデ・シーカの評価が高過ぎた。世界的な評価になっちゃったから。そこから違うことをするにはどうしようかというと、ビスコンティやフェリーニが描いたような退廃的な表現を使った方法論しかなかったのかなっていう。
映画『街の恋』より
菊地:ニュース映画が一番盛んだったのは第二次大戦中で、今見直すとニュース映画のほとんどがドキュメント素材を利用したフェイクドキュメントですので。ここらへんは「にわとりが先か卵が先か」というアポリオ、難問ですから。いずれにせよフェリーニもアントニオーニもビスコンティも、ネオリアリズモから個人的なマジックレアリズモに移行するっていうか、卒業するっていうか羽ばたいていくようなイメージで出ていくわけで、そういったものの記録としてもこの映画は観る価値がある。最初からフェリーニが作り話で参入していたのは、実にフェリーニらしいですし。
佐藤:お三方ほんとに違う意味のリアリズムを行っていますものね。ビスコンティの延々に踊るシーンとかあるじゃないですか。後期の『山猫』とか。あれもリアリズムよね。
菊地:実際ああいうものを見てきた人にしかわからないリアリズム、回想のリアリズムがありますよね。
佐藤:変な話ですが、良い物を食べた後のウンコみたいなもんですよね。良い物を食べないと出てこない。
菊地:ははははは! 全部が斜陽ですからねビスコンティは。バスローブに「LV」って書いてあったんで「お前、ルイ・ヴィトン着ててすごいな」「いやいやうちの家紋だよ」みたいな。ルキノ・ビスコンティ、Luchino(ルチーノ)ですけども。
岸野:アラン・ドロンが『山猫』に出演した時に監督のヴィスコンティのカバンを見て「あ、映画監督になると凄くお金のかかった自分の名前がはいったバッグを持つことができるんだ!」と思ったっていう。
菊地:それは逆だった(笑)。ほんとにルイ・ヴィトンだった(笑)。エリッヒ・フォン・シュトロハイムとかもそうですけど、ある種の貴族的な経験をしたことがある人が「平民にはわかんないだろう?」っていう「こういうことが世に中にはあるんだよ」ってものすごい贅をかけて映像にしてみるっていうのはそれはもう経験の素描なわけだから一種のリアリズムだけれども、逆にフェリーニの有名な『甘い生活』の最後にスワッピングのパーティーが出てきますけども、あれはもう完全に空想。フェリーニはローマにああいう退廃的な富裕層がいてスワッピングのパーティーをやっているらしいって聞いただけで、撮ることにしちゃったんだけど、どう撮っていいかわからないから、やってそうな奴ってことでパゾリーニに聞いたっていう(笑)。ピエル・パオロ・パゾリーニのところに行って「マスコミ関係者がやってるスワッピングパーティーってどんなの?」って聞いたら「俺も知らない」って(笑)。だからあれは空想で作った。あれは完全な作り話なんですけどすさまじいリアリズムがある。レコードかけて離婚したばかりの色っぽいおばさんが今から脱ぐんだっていうような旦那が帰ってきて毛布ぱっとかけちゃうっていうようなシーンを考えた。あれは全部嘘なんでビスコンティとは逆っていうか。
(一同笑)菊地:これは解説にも書きましたが、フェリーニのマニアにとってはもう垂涎ですよ。結婚相談所の所長が何かわけのわかんないこと言うけど、擬音みたいなオノマトペみたいな。あれがおそらく「ASA NISI MASA(アサ ニシ マサ)」っていう『8 2/1』の擬音のものだろう、と。あそこに出てくるそもそも登場する天使的な女性が『甘い生活』の最後に出てくる女の子だ、とも言える。ジェルソミーナ的な。翌年が『道』なんで。聖少女的なキャラの原型もあります、といった見立てが山ほどできる。
岸野:一番最後のショットなんてね、前景が全然関係ない通行人のタバコ吸っているおじさんじゃない(笑)? 遠景に登場人物がいて、タバコ吸ったところでカットでしょ? あれなんかもね『フェリーニのローマ』っぽいよね。
佐藤:あれも都市がクローズアップされていたわね。
岸野:作品の作りとしてはフェリーニに限らず群像劇、点描になりますよね。どうしても都市を描くとなるとそうなる。いろんなとこが同時に進行している感じって描き方の力量問われますよね。『イタリア人は見つめる』の路面バスのシーンで、おっさんにちょっと目をつけられて後をつけられるシーンは、ほぼバストショットや手とかのクローズアップだよね。クローズアップだけであの関係というか運動を表現できているとこが基本的な技術が高いのがわかる。
菊地:主義が立ち上がってゆくと情熱とスキルが底上げされる。
ベスパに乗ったかわいい女の子は『ローマの休日』でアメリカ人が撮った虚構
菊地:解説の中で和田先生が指摘されていますが、52年というのは『ローマの休日』の年。『イタリア人は見つめる』では、ベスパに乗ってスカートがめくれあがる女の子が非常にかわいいですね。これはイタリア人が「イタリアの街を実際に走っている所を撮った」わけですけども「ベスパに乗ったかわいい女の子」というアイコンはアメリカ人が撮った虚構として52年に世界中に広まったという事は意識しておくべきだろうというのが、和田先生の書かれた解説の論旨ですね。
映画『街の恋』より
佐藤:(『イタリア人は見つめる』)は、『どっきりカメラ』よね。うふふふ。
菊地:自殺未遂とか売春とか当時の女の人のヤバい状況をあんなにえぐく描いているのに、最後が『どっきりカメラ』っていうね。あの流れもまさにイタリアっていうか(笑)。
佐藤:最後が軽くて救済されますよね(笑)。
岸野:セリフがさ「いい女を紹介しろ」っつって「さっそく現れたぞ」って。
佐藤:それしか考えてない。
菊地:一人か二人を追って、少しリアリズム的な視線になるのかと思ったら女の人がばんばんばんばん(笑)、次から次へと出てくる。
岸野:物量作戦ですね。
佐藤:でも、(イタリア人は)見すぎよね?
菊地:あのぐらい見たんですかね、当時は。
岸野:見る? 普段。
菊地:見ますよ? うん。僕は全然、見ますね!
佐藤:私はよく見られますね。
菊地・岸野:はははははは(爆笑)!
菊地:52年当時のイタリア的にはまぁ、おおらかだったっていう表現なのかな?
佐藤:なぜ、イタリア人なのかしら?
菊地:要するにスウェーデンやスペインの人は見つめないという事を意味しているのか……いないのか。
佐藤:ラテンぽい感じ?
菊地:あるいはもっとわかりやすく、フランス人はああいうことしないけどイタリア人は女の人をガン見しまくるよね? あれってどうなの? みたいなことなのかな。
岸野:あの作りを見るとさ、『オーソン・ウェルズのフェイク』あの冒頭のクレジットタイトルを思い出したよ。黄色いミニスカートで歩いている女をずっと男が見ている。女性は全部仕込んでいるけど、それを見ている男は場合によっては許可なしで撮る。それを細かいカット割り、編集で見せていく。
菊地:そうですね。まあ街にカメラ持っていって、後の、ほんとに後のですけど、前衛パフォーミングっていうか、市街パフォーミング? 街中で突然何かやるとみんなビックリするのをカメラでにんまり撮るのは、結局、狂狷に結び付けるわけじゃないですけど、『勝手にしやがれ』でゴダールが無許可で市街を撮影して、ガヤの人達がみんなカメラ見ているところを映し出したことは、ヌーベルバーグの与えた衝撃の中で、かなり大きいわけですけど、その戯画的な先駆というか。
岸野:そうね。だから収穫はヌーベルバーグに持ってかれちゃってますけどね、やり方の発見はネオリアリズモですね。『街の恋』というこの作品が映画史の中においても重要な作品であるといえるわけです。「映画ってほんとにいいものですね!」(淀川長治を真似て)。
(一同、笑)
(2013年9月7日、渋谷アップリンク・ファクトリーにて 写真・構成:春田幸江)
菊地成孔(きくちなるよし)
ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われる程の驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。2010年、世界で初めて10年間分の全仕事をUSBメモリに収録した、音楽家としての全集「闘争エチカ」を発表し、2011年には邦人としては初のインパルスレーベルとの契約を結び、DCPRG名義で「AlterWarInTokyo」をリリース。主著はエッセイ集「スペインの宇宙食」(小学館)、マイルス・デイヴィスの研究書「M/D?マイルス・デューイ・デイヴィス3世研究(河出新書/大谷能生と共著)」等。音楽講師としては、東京大学、国立音楽大学、東京芸術大学、慶応義塾大学でも教鞭を執る(04年~09年)。
http://www.kikuchinaruyoshi.net/
岸野雄一(きしのゆういち)
スタディスト。ワッツタワーズやヒゲの未亡人、スペース・ポンチなどのバンド、ユニットで活躍する中、レーベル”Out OneDisc”を主宰し、オオルタイチ、ウンベルティポなど多岐に渡るジャンルの音楽をリリース。また、東京藝術大学大学院にてサウンド・デザインの教鞭を執り、美学校の音楽コースではコーディネーターと講師を務め、坂本龍一監修の音楽全集『commmons:schola・映画音楽編」では浅田彰・小沼純一と共に座談会と解説に参加している。スタジオボイスやミュージックマガジン等での音楽/映画評論の執筆や、NHK-FM「日本ロック事始め一部始終」の選曲・出演、NHK教育テレビの道徳番組「時々迷々」のテーマソングの作詞・作曲・歌唱と番組全体の音楽プロデュース、黒沢清の処女作「神田川淫乱戦争」や様々な映画に俳優や音楽プロデュースとしても関わるなど、各方面のメディアにもその活動を広げている。
ヴィヴィアン佐藤(ヴィヴィアンさとう)
美術家、文筆家、ドラァグクイーン、プロモーター。ジャンルを横断していき独自の見解で「トウキョウ」と分析。自身の作品製作発表のみならず、「同時代性」をキーワードに映画や演劇、ライヴなど独自な芸術論でプロモーション活動も展開。野宮真紀、故山口小夜子、故野田凪、古澤巌など個性派のアーティストとの仕事も多い。2012年からVANTANバンタンデザイン研究所で教鞭をもつ。
http://www.facebook.com/vivienne.sato
ブルーレイ『街の恋 ~フェデリコ・フェリーニ×ミケランジェロ・アントニオーニ~』
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出演:アントニオ・チファリエッロ、リヴィア・ヴェントリーニ
監督:カルロ・リッツァーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、
ディーノ・リージ、
フェデリコ・フェリーニ、フランチェスコ・マセッリ
本編:104分
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