映画『うらぎりひめ』より
映像作家・舞踏家の岩名雅記の第3作目となる映画『うらぎりひめ』が10月26日(土)より渋谷アップリンクで公開される。舞台女優/文筆家として成功を収めた86歳の女性のモノローグを起点に、日本が経験した戦争の歴史そして東日本大震災後の日本社会の空気を重ね合わせ、独自の物語を紡いでいる。自身の原風景について、そして「声に出して言う」ことのエネルギーについて、岩名監督が語った。
第二次大戦中と今の相似と対比を描く
── 前作の『夏の家族』は、プライベートな生活を含めて岩名さんが現在生活しているノルマンディの空気感と物語自体の境界が曖昧に描かれているところが特徴でしたが、今回の『うらぎりひめ』は、撮影の場と作品の間に然るべき「距離」があって‘より’独立した物語を感じました。どのようなきっかけで制作がスタートしたのですか。
最初はベテランのカメラマン、たむらまさきさんに次にやる長編(今のところ宙に浮いていますが)の相談にのってもらっていました。そのうち『うらぎりひめ』というタイトルで書き上げてあった40分くらいの中編をその「準備作品として先ず撮りたいのですが如何でしょう」と伺ったところ、OKしてくれたので、撮り始めたわけです。準備作品という意味は両作品ともEOSを使うということが頭にあったわけです。
映画『うらぎりひめ』の岩名雅記監督
この中編については、フィクションで、初めてカラーで撮るということが念頭にありました。僕は敗戦の年(昭和20年)に生まれた人間で、昭和27、8年という戦後まもない東京がスピリチュアルな原風景として自分のなかにあるんです。『夏の家族』にはあまり出てこないですが、第1作の『朱霊たち』にもそうした戦後の風土みたいなものがあって、それが今回の「うらぎりひめ」では座敷牢をめぐる「過去編」に込めてあるわけです。
そこからこの映画の制作は出発したのですが、撮影をした2011年6月の丁度3ヵ月前に311の事故が起りました。もちろんアーティストとして、それを振り返らないで創作するという姿勢もあるでしょうし、事故を精神的なショック(衝撃)として受けとめた為に、それにタッチせずには、その先に行けないという人も多かったでしょう。僕の場合は後者でした。そこで同じ年の冬に今度は現在編を撮ったわけです。
二つの異なる時間を結びつけたこと、これは一種の正当化ではあるのですが、自分のなかでの理由付けはありました。というのはフランスにいて感じるのですが、今の日本の革新は、いわば「社会民主主義的」です。革新を標榜しながらその行動は後退もしくは保守化しているのです。一方で保守の動きはわかり過ぎるほど右寄りになっている。戦中から敗戦までの時間と、今の時代に於ける革新の沈黙と、保守の大政翼賛的、右翼的なムードはどこか符合するところがある。
その一方で、かつてのモノのない時代と、今のようにモノが溢れている時代の大きなコントラストがある。以上のような異なる時代の相似と対比をこの映画で描けないかと思ったのです。そこで、中編としての内容は殆ど変えず、過去編となるパートを撮った後で、現在編となる部分を撮影し、結果的にちょうど45分ずつの構成になりました。
── 長編に構想が変わっていく段階で、岩名監督なりの歴史を俯瞰する視点が加わったということですか。
どちらかというと、過去編の風土は僕のなかのノスタルジーでもあるし、過去編撮影の時点ではそうした夢みたいな原風景に興味があったのです。けれど、長編にすると、それだけでは済まなくなります。僕はたいへんな政治音痴なのですが、二つの時代が背負っている社会的な構造をいわば縮図として取り出して考えていかなければいけないのだ、と、だんだん追い詰められていったわけです。
── 狭い座敷牢のなかで、便器の穴だけが世界に通じる窓である、という閉塞した過去編と、成功を収めた老作家が主人公で、外に向って開かれたオープンな現在編が単純な過去と現在ではなく、パラレルになっているような、不思議な距離感を持っています。
この映画の過去と現在が[閉塞と解放]といった切断された異なる時空ではなくて、結局僕自身のなかにその両方がある。どちらかというと僕は閉塞型なのですが、過去編では窓口というか、外と通底する境界としてせっちんの穴がある、自分のなかではその内と外の関係や比重はいつもクリアにあるのです。そうした世界と別に、現代編における[現在]のように、完全に開いている世界があって、その世界のなかでみんなが生きているようにみえる。ところが、現在という時空間は実際にはそんなにオープンではなく、内的にはむしろそれぞれが座敷牢をかかえ持っているような関係なのでしょう。
映画『うらぎりひめ』より
── 台詞に「ポジティブな孤独を共有したい」というような言葉がありますが、同時に、「これはテロの映画ではない。この映画自体がテロである(美術家・石川雷太氏)」というチラシのコピーにあるとおりの「うらぎり」をこの映画に感じました。
現代編でおばあさんが孤独やコンパッション(慈悲)といった概念的な言葉を展開していきますよね。実はその言葉も、一方では正しいことかもしれないが実は主人公の生きるための方便というか、ステイタスを得るための方法と僕はとらえています。「孤独は悪いことじゃないんだよ」と言うことで、弱者を勇気づけていく。それを社会として肯定的にみんなが受け入れる。ところが、この人は実はテロリスト(正確には逆テロリスト)的な行為で、いわば社会的にはみ出したカタチで権力を暴いていく。そうした構成になっている。
観てくださる人によって解釈が違ってくるのでしょうけれど、僕自身はどちらかというと、精神的なテロリストです。個人の思考や尊厳の原点としての孤独は否定しないけれど、だからといってそれを持ち上げたりもしない。つまり社会的な評価の対象になるような孤独や慈悲は嫌いです。 この「うらぎり」というのは、もちろん外に向けては老婆の成功者としての社会的評価を自身でうらぎっていく、ということと、自分自身のなかでプラス思考になって成長していくものを真反対のベクトルで内的にうらぎっていく、という意味もあるんです。
映画『うらぎりひめ』より
映画と自分との関係を語らざるをえない映画
── 渋谷アップリンクでの公開に先駆け、キッド・アイラック・アート・ホールで先行上映されましたが、反響はいかがでしたか?
一般的に他の監督さんの作品では「面白かった」「もう一回行きたい」という感想がたくさん出てくるじゃないですか。僕の映画にはそういう、いわゆる映画鑑賞として感想を書く人はいないのです。つまり、直に映画と自分とを直対応させて、自分にとってこの映画はどういうものだったか、ということをしゃべってくださる。 『夏の家族』は公私混同みたいなところが面白い、と言ってくれた人もいましたが、今回の映画はフィクションとしての距離がある。それでも、僕自身では非常に個的な映画だと思っています。お客様も上映中は自分自身をドラマの渦中において、最大の救いや共感を感じて観てくださったのでしょう。もっとも僕の映画に関心のなかった人たちは沈黙しているわけですが(笑)。
── 311を経て完成したということもあり、岩名監督が現在の社会をこう見ている、というのを突きつけられ、じゃあ観ているお前はどう捉えていくのか、自分と映画の関わり、自分と社会の関わりをというのを容赦なく考えさせられる作品でした。
僕が政治音痴であると申しましたが、それはどういうことなのかと長年考えてきたのです。具体的には、いろいろな事件や事象を記憶できなかったり記憶する努力を怠ったり、そうしたことを土台にして物事を構成して考えていく思考力にも欠けている、と思っていた。でも、311以降、自分でも驚くほど自分が変わりました。この2年半、社会に向ける自分の時間の過ごし方がとても大切でした。世の中のことについて勉強するようになり、それだけで済ませず、この映画に台詞や構成というかたちで「流動する現在」を客観的に入れこんでいくときに、それなりに社会をどう把握するかという自分の再構成がありましたから。それこそが、いちばんの成果だったのかなと思います。
映画『うらぎりひめ』より
今いちばん問題なのは道具化してしまった言葉
── 岩名監督の作品は、身体性が重要な要素ですが、この『うらぎりひめ』ではこれまで以上に言葉の力を意識した、と言えるのでしょうか。
言葉もまた大きな意味で身体でしょうね。現代編の老婆の長広舌は賛否両論でした。「おまえが言っていることは誰もがが言っていることで、うるさいし飽き飽きする」という人もいましたし、「よくぞ言ってくれた」という人もいました。僕はこの台本を書くときに、これだけの大事に自分の意見だけを言えるものではないから、311とそれにまつわる東京電力や政府の対応などに対してのさまざまな言葉を、著名な作家から一般の方々の言葉までとにかく書き出していって、そのなかでこれはぜったい落としてはいけない、というものを組み合わせてひとつの台詞にしました。だからこれは、僕の言葉でもあるけれど、まさにみんなが言っている言葉でもある。 しかもそれをギリシャ悲劇のディクラメーション(朗唱)のスタイルで演出してみたのです。言葉を声に出して言う、ということはまた別のエネルギーが働くので、「言い尽くされた言葉だ」としても必然的に身体を伴ってくる。現に老婆の長広舌は『プラトン描くところのソクラテスと二重写しになっていて、そもそも言説とは耳あたりの良いことを並べ立てるのではなく、耳を塞ぎ目をつむりたくなるような現実を曝け出すことにこそその本領を発揮する』と書いてくださった方もいます。
僕はこれからも映像作品を作るときには、できるだけ言葉自身ではなくて画や色や動きや、物質の肌理(きめ)といった違う言語に従いたい、その考えは変わりません。ただ、繰り返しますが、この脚本に関しては、劇中劇の部分は朗唱で、完全に演劇的な高まりをもって表現しています。老作家が喫茶店で話しているシーンと、劇中劇のデクラメーションはエネルギーのレベルが違います。こうした熱の高い言葉が、果たして今の若い人にどう受け取られるか分からないですけれど。
吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』のなかで、自分自身に対するつぶやき、という次元の言葉こそが原初の、本来的な言葉だというようなことを言ってますが、それを含めればこの世には様々なレベルの「言葉」がある。今いちばん問題なのは、しかたなく事務的で機能のためだけにしゃべる言葉、本来的な「言葉のゆらぎ」のなくなった、道具化してしまった言葉です。
映画『うらぎりひめ』より
時間性をはらんでいればカラーである必然性はない
── 今回、初めてデジタル一眼レフ(EOS)で撮影されたということで、仕上りについては満足されていますか?
たむらさんともずいぶん話しましたが、そう易しくはなかったです。16mmの手応えとはぜんぜん違いました。ズーム時に絞りの変化が出るなどの機械的な問題や、クリアになって出てくる画が果たしていいのかどうか、とか。これは当然照明とも関わってきますが。
とにかく、僕はデジタル的な輪郭がはっきりしたものに対して消極的な意識があるんです。そして、色に関して言えば現実の時間でも、色が多すぎるな、としばしば感じるときがあります。映像や絵画だったら、色が少ない方がコトの深度が出るのではないか。ただ、この映画は色彩の持つ時間性とか特定の色がテーマとしてあったので、カラーで撮ってみたいという気持ちがありました。
でも、果たしてこの映画がカラーである必然性があると言い切れるかどうかは正直分からないです。今回、鏡台や火鉢などの日本の古い家具や古い時代の着物を使いました。僕の踊りのテーマでもあるのですが、時間性をはらんでいれば、ひとつの赤なら赤という色がどこにでもある一般の赤ではなくて、それぞれの[風景]を背負って異なるものとして出てくるはずだし、それならばカラーであるとかモノクロであるとかに関わらず時間性が出てくるんじゃないかと。そして、優れた映像作家であれば、人間の体やモノなどのテクスチャー(肌理)を、時間性をはらんだものとして、モノクロ2色の微妙な階調の中だけでも表現することができるんじゃないか、そうした問いかけがいつも、これからもあるのです。
(インタビュー・文:駒井憲嗣)
岩名雅記 プロフィール
1945(昭和20)年2月東京生。'75年演劇から舞踏世界へ。'82年全裸/不動/垂立の‘非ダンス’で注目される。'88年渡仏、現在まで40カ国/100都市で舞踏ソロ公演。'95年フランス南ノルマンディに拠点をつくり、2004年から映画製作を開始、2007年初監督作品『朱霊たち』の東京上映ではレイトショーとして異例の63%の稼働率をあげる。また同作品は英国ポルトベロ国際映画祭で最優秀映画賞を受賞したほか、ロッテルダム(蘭)、ヒホン(西)、タリン(エストニア)ほか4国際映画祭に公式招待される。第二作『夏の家族』はロッテルダム、ヨーテボリ(スエーデン)ほか4国際映画祭で公式招待。映像舞踏研究所・白踏館主宰。
映画『うらぎりひめ』
渋谷アップリンクにて10月26日(土)より2週間限定レイトショー公開
監督/脚本:岩名雅記
出演:たうみあきこ、大澤由理、七感弥広彰(ななみこうしょう)、他
プロデューサー:岩名雅記
撮影:たむらまさき、岡田信也
編集:井関北斗
音楽:チャイコフスキー/弦楽セレナーデ ハ長調 作品48(ナクソス版)
制作:映像舞踏研究所 白踏館
2012年/日本/91分/カラー/16:9、NTSC
公式サイト:http://www.iwanabutoh.com/ja/pb.php
現在、motion galleryにて岩名雅記監督の『うらぎりひめ』に続く、劇映画第4作目『シャルロット/すさび』の製作資金を募集中。2015年夏の撮影開始予定となっている。
https://motion-gallery.net/projects/susabichar
▼映画『うらぎりひめ』予告編