骰子の眼

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東京都 新宿区

2013-09-06 18:23


ロマンチックで、恐ろしいほどリアルな「愛」の描き方。『わたしはロランス』グザヴィエ・ドラン監督

9/7(土)より公開の『わたしはロランス』そして自身の制作アプローチについて語る
ロマンチックで、恐ろしいほどリアルな「愛」の描き方。『わたしはロランス』グザヴィエ・ドラン監督
『わたしはロランス』のグザヴィエ・ドラン監督 ©Alexandre de Brabant

9月7日まで開かれている第70回ベネチア国際映画祭に最新作『Tom à la ferme』を出品、それ以外にもこれまでに発表した3作全てをカンヌ国際映画祭に送り込んだ、世界の映画祭の常連・グザヴィエ・ドラン監督。9月7日(土)より新宿シネマカリテで公開される『わたしはロランス』は、メルヴィル・プポー演じる「女になりたい」とパートナーに打ち明けた男性教師ロランスと、彼の恋人フレッドとの10年におよぶラブストーリーだ。フレッドを演じたスザンヌ・クレマンがカンヌ映画祭ある視点部門主演女優賞を受賞するなど世界的評価を獲得した今作は、監督・脚本・美術・衣装・編集・音楽をひとりでこなし、アンファン・テリブルの形容を欲しいままにするドラン監督の才気がみなぎっている。

僕の“全”作品は、自伝的で個人的だ

── 『わたしはロランス』は、モントリオールに住む男性教師が30歳になって、恋人に「自分は間違った体に生まれてきてしまった」と、女性になりたいことを告白するところからスタートします。この設定はどのようにして生まれたのでしょうか?

               

監督1作目の『マイ・マザー』の撮影のときのことだった。田舎のロケ地で最初の2日の撮影を終えて、モントリオールに戻っている途中、技術スタッフの何人かと車で移動しているとき、とりとめもない話をしているなかで、ひとりの女性スタッフが、ある過去の恋愛体験について打ち明け始めたんだ。彼女によると、ある晩、恋人が「オレは女になりたい」と宣言したんだそうだ。想像するに、その瞬間、彼女が受けた衝撃は、カップルや個人によって多少の違いはあるにしても、誰にとってもものすごくショックなことに違いない。僕らに打ち明ける彼女の声、動揺、誠実さに接しながら、僕は想像した。もし、友だち、親、あるいは伴侶から突然、面と向かって、晴天の霹靂をカミングアウトされ、これまで一緒に過ごした時間の全てをご破算にしないにしても、クエスチョン・マークをつけられることになったらどんな気分になるだろう、と。

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映画『わたしはロランス』より

── そのスタッフの話を聞いた後、どれくらいからシナリオを書き始めたのですか?

その晩、自宅に戻ってすぐに30ページを書きなぐった。その時はもう『Laurence Anyways』(原題)というタイトルも、ラストもわかっていた。大筋はあっというまに描けたが、シナリオ自体は、『マイ・マザー』と『胸騒ぎの恋人』という2本の映画の撮影のあいだに時間をかけて書いた。時には夜中に、とにかく時間のあるときに書き進めていったんだ。

── 1989年生まれのあなたが、子ども時代の80年代から90年代を舞台にしたのはなぜですか?

ジェンダーにまつわるストーリーを語るのに、20世紀最後の10年には理想的な背景としての特徴が全て含まれているように思えたんだ。ごく自然なことだだったよ。当時、ゲイ・コミュニティーに対する偏見も薄れ始め、エイズにまつわる排他的先入観もようやくおさまり始めていた。鉄のシャッターが上がったんだ。衝撃を経て社会は自由を纏い、何もかもが許される時代となった。

ロランス・アリアがこの再生の高揚感に乗じてサバイバルを思いついたのは理にかなったことだけれど、当時、トランスセクシュアリティはおそらく、最後のタブーだったように思う。だからロランスは、崩れる寸前でなかなか崩れない壁にぶつかってしまう。

今でもまだトランスセクシュアルの教師は、子供たちが反体制側によろめくのを恐れる両親らの不安と憤懣をかきたてるだろう。そう、どんなに進歩的な人でさえ、町でトランスセクシュアルを見破れば、内心、得意げな気分になり、LGBコミュニティーも第三の性には冷たい。

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映画『わたしはロランス』より

僕から見れば、トランスセクシュアリティは、“差異”を表す究極の表現であり、1990年代とは、12年の時の流れのなかで、社会は本当の意味でどれほど変わったのかを考察するために僕に与えられた最後の絶好の機会を提示していたんだ。この作品は、この論議を提案しつつ、まだその表層をかすめているにすぎないよ。

── 俳優として出演もしている『マイ・マザー』『胸騒ぎの恋人』、そしてこの『わたしはロランス』は自伝的作品ですか?

イエスであってノーだ。ノーというのはまず僕はトランスセクシュアルではないし、問題はすでに解決済み。イエスというのは、これまでの僕の“全”作品は、自伝的で個人的だからだ。第一、これからだってそうなる以外ないんじゃないかと思う。どうやら僕は自作の中で、自分の気持ちを明かさずにはいられない性質なんだ。それに、100%虚構だなんていう映画が実際に存在するとは思えないね。

── 監督、脚本だけでなく、衣装のコンセプト、編集も担当されていますね。あなたの映画監督としてのアプローチは、ますますこうした何でも自分でやるという自足自給的な多重兼務になっていくのでしょうか。

僕の作品との関わり方は確かに多重兼務だ。でもそれってネガティブなこと?ここが自分の限界だって思うところでストップしようとはしてるよ。映画は第七芸術(注:映画を「空間芸術」[建築、絵画、彫刻]と、「時間の芸術」[音楽、詩、舞踊]を統合した芸術とする考え)なんだ……そこではファッションは軽視され、このグループの大いなる不在者だけどね。要するに、僕は各パートに関心を持つべきだと思っている。それでようやく全てが理解できる。今はまずは2つ3つマスターできるよう少しずつ学んでいるし、それ以外のパートもすすんで自分のアプローチにとりこもうとしている。僕が直接タッチしなくてもね。とにかく、僕は最も金のかかる芸術を選んだ。だから構想自体は1人で考えても、制作は集団作業というのは当然だ。

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映画『わたしはロランス』より

── でも、そうした考えはやや内向きな傾向では、という意見に対してはどのように答えますか。また、監督に専念しよう、ということは思いませんか?

ベルギーでの『胸騒ぎの恋人』の上映会の後、客席の女性に言われたんだけど、僕があまりに”何もかも”を担当することは、作品をダメにすることにつながるし、他の人達の才能を活用できないばかりか、他の人から仕事を奪っていると言うんだ。彼女は、この手の個人主義に心底憤慨していたね。そこで僕は答えたよ「だったら他の人達も自分の映画を作ればいいんじゃない。それに僕の映画においては、自分に興味のあるパートがあって、かつその分野で才能を発揮する自信があり、少なくとも僕ならではの何かを提供できるのなら、それらのパート全てを担当するのは僕の勝手だ」とね。

衣装と編集はそれぞれ性質の異なるパートだけど、どちらも自分で担当したいと思う、両方とも熱中するほど興味があるからだ。画家が絵を描くとき、他人の手を借りないよね。彼のそばには配色専門家も、テクスチャーのエキスパートも、技術コンサルタントも、絵筆の管理人も、パレットナイフを拭くスタッフもいない。映画は、たしかに制作過程で他のアーティストの介入を必要とする。とはいっても、イデオロギー的には、出来上がった作品は一個人の、ただひとりのクリエイターの映画であり続けるんだ。

音楽は登場人物の人生に寄り添う存在

── これまでの作品でも音楽のこだわりを感じられましたが、『わたしはロランス』ではヴィサージの「Fade To Grey」やデペッシュ・モードの「Enjoy The Silence」といったエレクトロ・ポップや、ザ・キュアーの「The Funeral Party」といったニューウェイヴなど、80年代から90年代にかけての楽曲が印象的に使われています。あなたの映画にとって音楽の役割とはどのようなものですか。

本作のような大河小説的作品では、音楽が単なるオプションということはありえないし、ましてや脇役でないのは確かだよ。
美術、衣装、セリフ、ヘアスタイル、小道具などなど、俳優に直接関係してくるものはすべて偶発的で、正直なところ、演技次第で急変する。僕からみて俳優に説得力があれば、全ては明確になる。ウソがあれば、全て雲散霧消してしまう。でも音楽に限れば、音楽はフィジカルなものではないし、撮影中に浮上することもなければ、誰にも服従しない。どんなプレッシャーにも状況にも動じないんだ。僕の考えでは、音楽は、自分のパーソナルな音楽の趣味をシェアしたがるアーティストの気まぐれであってはならない。ストーリーに10年以上の時の経過がある場合には時代や場所を示す目印として歌が必要な時もある。でも、そういった役割だけでなく、歌は僕が創造した登場人物の人生に寄り添う存在なんだ。僕の個人的な好みとは関係ない。音楽は、登場人物たちに自分が何者かを思い出させ、彼らが愛した人々を喚起させる。音楽は、忘れられた人々を忘却から呼び戻し、悲しみを和らげ、罪のない嘘、打ち捨てられた野望の数々を思い起こさせるんだ。

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映画『わたしはロランス』より

── あなたの音楽の使い方は非常に感情に訴えかけるものがあります。

彼らの人生が進化する中で、音楽は中身を変えて常に存在する恒常変数だ。それは僕らにとっても同じことだよ。
音楽は、それぞれの条件や状況の中で、初対面の他人の顔でやってくることもあれば、何となく自分たちによく似た雰囲気をまとって現れることもある。音楽には、僕ら個人の感情に働きかける力がある。音楽の使命としてメッセージを僕らに理解させるためだ。音楽は、監督や俳優、カメラマンもそのインパクトを自由に操ることのできない唯一の要素なんだ。音楽はシナリオの段階から、映画館まで常についてまわる。映画館ではそれぞれの観客が音楽にまつわる個人的な想い出を、映画のために無意識に活用する。会ったこともない人物が作った映画が突然、まるで友人のようにいろんなことを観客に語りかける。これほど満ち足りたことはないよ。秘密のことがら、子供時代のこと、断念した夢、その歌を耳にしていた瞬間のこと。「あの時、町を歩いていた」「僕の自己主張の時代だった」「信号が赤に変わる前に慌てて走っていた」「母親のお葬式の日だった」「秋に始まり秋に終わった短い恋に涙していた」……歌はそんなことを思い出させてくれるんだ。
音楽は映画の魂と言われる。その理由は明らかだ。音楽は観客との究極の対話なのだから。

クリムトそして『タイタニック』を参考にした

── 音楽の使い方以外にも、スローモーションやクローズアップの使い方や、シンメトリーな構図、赤や緑が特徴的な色彩感覚など、あなたが様々なアートから影響を受けていることを感じられます。実際にはどんなリサーチを行ないましたか?

準備のために、MoMAのブティックや、ニューヨーク、モントリオールの書店で、絵画や写真の雑誌、アートブック、写真集を何十冊も買った。衣装のリサーチのためには、AmazonやEbayで、関連資料を注文し、ファッション誌を取り寄せた。影響を受けた写真家の名前をあげるとしたらまずはナン・ゴールディン、あと名前は思い出せない人たちが山ほど。構図に関してはマティス、タマラ・ド・レンピッカ、シャガール、ピカソ、モネ、ボッシュ、スーラ、モンドリアン。本作の色彩コード、ブラウン時代・黄金時代・モーヴ時代といったストーリーの時代ごとの色の統一性に関してはクリムトを参考にした。

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映画『わたしはロランス』より

── 他の映画作品からの影響は?

実は『欲望という名の電車』のマーロン・ブランドに、一瞬だけど非常に厳密な形でオマージュを捧げている。そしてクローズアップの多用、これはどちらかというとジョナサン・デミの『羊たちの沈黙』的な使い方、つまり、ほとんど奥行きのない画面、カメラ目線、監視されている感覚、極端なクローズアップといったところに影響されている。ストーリー展開のリズム、野心という点でめざしたのはジェームズ・キャメロンの『タイタニック』。

いずれにしても……脚本執筆中に僕が読むもの、目にするもの、聞くもの全てから触発されるのはよくあること。たとえ自分の趣味や好みじゃなくてもね。それってごく当たり前のことだよね。普通なら、美しいもの、感動的なもの、出来のよいものに触れれば、自然に映像や言葉が湧き出てくるはず。それについて僕はコンプレックスを全く感じてない。というのも、僕がインスピレーションを受けるものは、僕を感動させるものであって、僕に影響を及ぼすものじゃないってことがわかってるからね。

── ポール・シュレーダー監督はあなたの『胸騒ぎの恋人』を「シーンごとに手法を変え、変化し続ける、新しい映画のスタイル」と評しています。

まず何かに感動する。その何かに影響を受けて、僕らは僕らなりの表現をめざす。その過程で、僕ら作り手の世界観、ものの見方、言語、世代性、価値観、精神的な傷、個人的な幻想などのフィルターがかけられる。そして形を変えて表現され、結果として生じるものは大抵の場合、正反対のもので、最初の発想源を思い起こせないのが常だ。想像力による伝言ゲームだね。

いずれにしても、映画においては全てはすでにやりつくされている。シネアストとしてはいくつか野望はあるけれども、自分がスタイルや学説を発明したなんて言う思い上がりで時間を無駄にするつもりは一切ないよ。1930年以来、全てはやりつくされたんだ。そんな主張をして何になる?僕はもう決めたんだ、僕の仕事は、物語を語ること、うまく語ること、そして、その物語に値する、ふさわしい演出をすること。それ以外は、発明しようが真似しようが、偶然の産物だし、それ自体、アイデアをみつけることほど簡単なものはないってことを証明しているよね。

(オフィシャル・インタビューより)



グザヴィエ・ドラン プロフィール

1989年、カナダ、モントリオール生まれ。6才で子役としてデビューの後、2008年、自身の自伝的な短編小説を映画化した処女作『マイ・マザー』の制作に乗り出す。母との関係に葛藤する少年の姿を描いた本作は、2009年カンヌ映画祭「監督週間」部門への出品を皮切りに、数々の賞を受賞。フランス映画界のアカデミー、セザール賞外国映画部門にもノミネートされるなど、高く評価された。同年秋の監督第2作『胸騒ぎの恋人』では、監督、脚本のみならず、プロデューサー、出演、編集、その他、衣装部門とアートディレクションの監修も務めるなど、多才ぶりを発揮。2010年カンヌ映画祭「ある視点」部門に出品された。2012年、23歳にして本作『わたしはロランス』が再びカンヌの「ある視点」部門で上映されるなど、その気鋭ぶりが話題を集める。最新作は劇作家ミシェル・マルクブザール原作の『Tom à la ferme』。




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■AndAとのコラボアイテム発売、POP UP STOREオープン!

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映画『わたしはロランス』と、ファッション・デザイン・アート・音楽などのジャンルをクロスし、グローバルな視点で刺激ある新しいスタイルやカルチャーを発信するコンセプトショップAndAとのコラボアイテムが発売、新宿フラッグス店では『わたしはロランス』のPOPUP STOREがオープン!
今回販売されるアイテムは4種で『わたしはロランス』のファッショナブルでエモーショナルな部分がフィーチャーされたアイテムとなっている。

*公式 HPキャンペーンページはこちら
http://www.uplink.co.jp/laurence/campaign.php

●Tシャツ(価格:¥5,250/サイズ:XS,S/色:白、青、グレー)
●パーカー(価格:¥8,400/サイズ:1サイズ/色:白、紺、グレー)
●ブレスレット(価格:各¥1,680/全7色)
●トートバッグ(価格:¥3,990)




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映画『わたしはロランス』
2013年9月7日(土)、新宿シネマカリテほか全国順次公開

モントリオール在住の小説家で、国語教師のロランスは、美しく情熱的な女性フレッドと恋をしていた。30歳の誕生日、ロランスはフレッドにある秘密を打ち明ける。「僕は女になりたい。この体は間違えて生まれてきてしまったんだ」。それを聞いたフレッドはロランスを激しく非難する。2人がこれまでに築いてきたもの、フレッドが愛したものが否定されたように思えたのだ。しかし、ロランスを失うことを恐れたフレッドは、ロランスの最大の理解者、支持者として、一緒に生きていくことを決意する。

監督:グザヴィエ・ドラン
出演:メルヴィル・プポー、スザンヌ・クレマン、ナタリー・バイ
2012年/168分/カナダ=フランス/1.33:1/カラー/原題:Laurence Anyways
配給・宣伝:アップリンク

公式サイト:http://www.uplink.co.jp/laurence/
公式twitter:https://twitter.com/Laurence_JP
公式facebook:https://www.facebook.com/laurenceanywaysJP

▼『わたしはロランス』予告編



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