『タリウム少女の毒殺日記』トークイベントに登壇した大澤真幸さん(左)と土屋豊監督(右)
渋谷アップリンクで上映中、8月3日(土)からシネマート心斎橋でも公開がスタートする映画『タリウム少女の毒殺日記』。公開にあたり社会学者の大澤真幸さんと今作の土屋豊監督によるトークイベントが渋谷アップリンク・ファクトリーで行われた。実在の事件を元に土屋監督が創造したタリウム少女と、オウム真理教や酒鬼薔薇事件との関連、現代社会でのコミュニケーションの在り方まで話題は及んだ。
身を離しながらも絡まりたいという二重性
大澤真幸(以下、大澤):2011年にタリウム少女がいたらどうなるか、というこの映画の元になった事件のことは知ってはいましたが、深く考えることはありませんでした。『パッション』(メル・ギブソン監督)というキリストの磔刑の直前のことを描いた映画がありましたが、それを観たにヨハネ・パウロ2世が「まさしく『あれ』はこのようだったに違いない」と言ったと言いますが、まさにそれに近い感覚です。メッセージを捉えるとしたら、「本当にこれだろう」と言う事です。映画のスタンスとしては、「いったいこれはなんだろうか」と問う立場で土屋監督はいましたけれども、「私はあなたのことを、どこかわかってしまうんだ」と共感しているのが伝わってくる映画だと思いました。
一つの出来事を、一つの時代の現象として捉えたいという気持ちがありますが、時代の中に置くと、いろいろな出来事との共通点だけ見てしまいつまらなくなってしまいます。むしろその出来事のシンギュラリティ(特異点)を十分に徹底的に掘り下げると、逆に時代との繋がりが見えてくるのです。
少女のやむにやまれる気持ちに内在しようと徹底した結果として、他の出来事との通底性が見られると考えさせられました。
土屋豊(以下、土屋):タリウム少女の存在自体は、半分は僕の投影で、自分の気持ちを反映させています。今の世の中のシステムや、プログラムとして捉えられている人間に興味があって、タリウム少女に代弁してもらおう、という欲求がありました。
大澤:一番興味があって琴線に触れたのは、生きる感覚、身体の感覚の両義性です。少女は母親やモノを徹底的に観察し、出来事から身を離して、ただ観察者になることで痛みや苦痛の感覚から距離を置いています。しかし、私が興味を持ったのはそれとは逆のベクトル、痛みや苦痛へインボルブ(内包)されるベクトルが強烈に同時に作用している、ということです。その二つのゲクトルの緊張感がすごいと思いました。本当に自分が安全なところにいたかったら見なければいい、実験もやらなければいいのに、どうしてもやらずにはすまない、見ずにすますことはできない。身を引きたいのにそこに絡まっていく、その二重性です。
土屋:彼女がこの世の中と折り合いをつけていくための方法論、それが観察して、身を引いて目の前のことから距離を置く。直接コミュニケーションをとったりせず、他者から触れられないものに自分がなることで社会と関わっていく、世界で存在できるぎりぎりの立場です。立っている位置を変えないと息苦しい、生きていけない感覚。ぎりぎりの場所にとどまるには、こういうやり方があったのではないかと思うのです。
大澤:徹底的に外からの観察者になるには、本来ではあれば身を引くこと、世界に関わらないことのはずです。ですが、劇中グーグル・アースで俯瞰する視線で徹底的に俯瞰するように、身を引くことが世界と関わる仕方だと表現されていて、面白いなと思いました。
土屋:前回の朝井麻由美さんとのトークでもありましたが、スマホやSNSが物心がついた頃から身の回りにある人たちは、辛いことがあったら、先ず自分をネタにしてしまうのです。ネタ化、キャラ化して今の私の物語の第1章はつらい少女、そこから物語は変遷しますよと、小説を書くように日常生活をやり過ごして世の中に参加していく。そのやり方は一般的だとも言っていました。
映画『タリウム少女の毒殺日記」より
大澤:タリウム少女事件は2005年でした。少しその前史のようなものを振り返ってみたいのですが、まず、95年にオウム真理教事件がありました。彼らのやった無差別テロ等は、われわれの観点からは犯罪ですが、彼ら自身にとっては宗教的な実践、つまり「聖なる実践」です。その後、97年に酒鬼薔薇事件があります。酒鬼薔薇聖斗と名乗った当時14歳の少年は、殺人のことを「聖なる実験」と呼んでいました。それがタリウム少女で単なる「実験」となるんです。ここに一本の線があると感じます。「宗教的実践」と「科学的実験」の間に「聖なる実験」がある。酒鬼薔薇は「生きているということはどういう事なのか」という謎のはまってしまっていて、その謎を解くために「殺してみる」ということになっている。彼は、自分の日記の中で「人間はどのくらい壊れやすいのか」というフィジカルな、無生物的な表現を使う不思議な感受性を持っていました。生命とは何か、単に動いているのではなく生きているとは何かを確認するために、壊してみるという感覚でやっているのです。タリウム少女に繋がる、その手前の感覚をもっていた。
またこの映画を観て思い出したのですが、酒鬼薔薇聖斗は自分の神様「バモイドオキ神」を持っていました。それは「バイオもどき」のアナグラムです。生命みたいな神様、生命の神秘に繋がる神様に対する儀式としての実験、それが殺人事件になってしまうのです。バモイドオキ神は顔と手しかありません。見る神様、つまり観察の神様なのです。彼は男の子の首を切ってそれを学校の校門の上に置きました。睨みつける、外から観察する神様を作っていたんです。時代の繋がりを考えさせられましたね。
土屋:97年当時、どこまでインターネットが進歩していたか詳しくは覚えていませんが、少なくともTwitterはないし、Youtubeもないし2ちゃんねるもありませんでした。当時、彼の「人間の壊れやすさ」という表現にをみんなは「どういうことだ?」と思ったでしょうが、今のSNSが発達した中で「壊れやすさ」は普通の言葉に聞こえます。 当時は壊れやすさという表現を読み解こうとすることで、逆に生命の尊さを照らし出すというような傾向もありましたが、現代の、この言葉に対する違和感がない感覚は、やはり問題でしょうか?
大澤:マイナーな現象として起きたことが、気が付いてみると割とメジャーなことになっているという事はありますね。当時は今ほどインターネットが普及していませんし、彼は手書きの日記を書いていましたが、もし当時ブログがあればタリウム少女と同様にブログを書いていたのではないでしょうか。
タリウム少女は、徹底的に世界から、他者から、そして自分自身から身を引き離すことで辛さを乗り越えていく。身を引き離すことと同時に、引き離せば引き離すほど本当には離れられない、むしろどこかで巻き込まれたい、そこに足を残しておきたいという二重性が重要だと思っています。
さきほどの酒鬼薔薇も「壊れやすいかどうかを試してみたい」と言っています。それは人間や生物を、機械を扱うような言い方ですが、それがほんとうは生きているのではないか、その自明性がなくなりかけているので、何とか確証を欲しかったかのです。生きていることは何かと。彼が生物や人間をモノとしてみていたと言っただけでは、まだ解釈が浅くて、ほんとうは、彼としては、「それ」に生命らしきものがあるのではないか、と思っているのですが、絶対的な確証が得られない。確信するには、「壊れやすさ」を調べるしかないと思っている。つまり彼は生きているはずだ、生命があるかも知れないという方にむしろ賭けているのです。
現代社会の問題と関係つけていうと、フェイス・トゥ・フェイスの関係において、最も深くコミュニケーションの現場に関与していることになりますね。それに対して、たとえば、Twitterの場合はヴァーチャルな空間でコミュニケートしているだけですから、現場との距離が出てくる。もしやりとりしているのが、アバターなら、自分自身ではなく自分の代わりにやっていると解釈することができるので、コミュニケーションそのものの場所からますます身を引き離していることになる。しかし、もし本当にコミュニケーションから離れたいなら、コミュニケーションそのものをしなければいいはずです。どうしてTwitterやfacebookをやるのか。一方で、コミュニケーションそのものから、あるいは他者との関係から距離をとりたいという感覚がありながら、他方では、そこから離れきれない、むしろ強い執着・愛着がある。こういう二重性がソーシャルメディアにはあります。
逆に、まさしく自分の身体の上で何かをひき起きしながら、そこから同時に自分の身から引き離そうとする人がいます。例えばリストカットがそうです。自分で自分の身体を切るのですが、それをまるで他人事のように見る行為です。タリウム少女はその逆で、明らかに他人の身体の上での出来事なのです。母親の身体に起きていること、鳥の首で起きていること、カエルで起きていること。リストカットの少女とは逆に、タリウム少女は、他人の身体の上に何かを引き起こす。しかし、その他者の身体から目がはなせなくなってしまっている。その他者の身体という現場からは、ほんとうには離れられない。そうすると、結局、リストカットもタリウム少女も、同じような両義性を持っているのです。
土屋:僕が描いたタリウム少女は、生きているけど、むしろモノであって欲しい、そういうようなアプローチだと思います。カエルもモノであって欲しい、その方がどれだけ楽か。だから透明なカエルが光るカエルとなればすごいバージョンアップを遂げていると。そういう風に捉えることの方が彼女は生きやすいのです。
彼女が最後「ギャー」と叫んで疾走するという、監督の自分としては、安易で恥ずかしいシーンがありますが、「ギャー」と叫びながら彼女は単にDRD4遺伝子が活性化していて、薬を飲めば現象は沈静化すると考えている。人間はその程度のものだと考えることが、彼女を楽にさせています。そして人間の身体はシステマチックなプログラムであることを自覚することで、逆に人間はすごいなと思えるのではないかと思います。プログラムだと思うことによって、さらに新しい人間を発見していくことができる。「人間には尊厳がある、自由がある」と抽象的に言われるよりも、具体的なプログラムとしての人間を知れば知るほど新しい人間を発見して「自分がモノであればいいのに」という方向に彼女は向かっていくのです。
大澤:ぼくが作った言葉に「アイロニカルな没入」という言葉があります。タリウム少女を念頭において作った言葉ではないのですが、この自分の造語を思い出しました。たとえば「あえてそうしている」とのです、というような言い方を伴うはまり方が、アイロニカルな没入です。この語を造ったのは、オウム事件の時です。オウムの人たちはヴァーチャルな世界に生きているように見えるのですが、もちろん実際には現実との区別はわかっていて、その上で、あえてオウム的なヴァーチャルな世界、ハルマゲドンが迫っている世界をあえて引き受けている状態なのです。当時信者や元信者の方にお話を伺うと「尊師がこんなこと言っちゃって。しょうがないから付き合わなくっちゃ」みたいなことを平気で言う人がたくさんいました。
ここで重要なのは「アイロニー」と「没入」の両面があるということ。距離を取っているけれど、結局それにはまってしまうのです。タリウム少女のケースは、統合失調症にアイロニカルに没入している。彼女は一方で統合失調症になっているのですが、医者や研究者のように説明したりするというアイロニカルな没入の、究極のケースです。精神科に来る人で耳学問的にいろいろなことを知っている人がいて、医者に「どうやら私は新型鬱だと思います」とか自己解説するのですね。二重性のあるアイロニーとして突き放すと、病気から少し解放される気分になるのです。ただそれで、本当に解放されるわけでもない。没入は没入ですから。
タリウム少女にとって、数式、科学こそが唯一の信じられる基準
大澤:今作で土屋監督は、科学者にインタビューしていますよね。科学者は一番のオブザーバーとして観察する、対象から距離を取るという典型的な、学問の研究者としてそれが課せられているわけですが、その科学のスタンス的なところと実存とが、メビウスの帯のように関連している。まったく反対側にいるつもりなのに、辿って行くうちに相手のところに到着してしまうというメビウスの帯のような、不思議さを感じました。
土屋:なぜ科学者は10万年後のことを心配するのかということを考えさせる出会いが最近ありました。バクテリアでアート作品を作っている方がいるのですが、バクテリアには死という現象がないので永遠に生き続ける。そういう作品を創るとアートが永遠に生命として生き続けるのですが、彼曰く、何万年も生き続けるアートを創る自分はなんなんだろうと自分の立ち位置や行為自体が自分でも良く分からないと考えてしまうそうです。
大澤::タリウム少女も殺人のようなことを犯そうとしました。オウムや酒鬼薔薇は実際人を殺してしまう。彼らも、実は私たちも「殺しても殺しても死にきれないもの」があるかも知れないと何かが思っていて、それにある種の恐ろしさを感じるとともに、それに魅惑されてもいます。映画のタリウム少女は生命を否定しながら、それを否定しきれないでいる。
土屋:生命とモノの間、身体とプログラムの間を考えてきた結果だと思います。
映画『タリウム少女の毒殺日記」より
大澤:「それ」が生きているということは、「それ」に何かしら魂のようなものを感じることだと思うのです。普通、魂は内面にあるよね、と言うしかない、比喩でしか表現できないものです。それがタリウム少女には通用しない。
土屋:全く通用しないですね、彼女の言葉を代弁すると、魂という言葉が一番嫌いなんです。魂はどこにあるのでしょう。どんな物質でできているのでしょうか。
大澤:酒鬼薔薇もそうでしたね。彼は殺して首を切って猟奇的に凌辱したのですが、おそらく、彼は「魂があるなら顔の中だろう」と考えたわけです。魂に関して、観念的・比喩的に説明するだけではだめで、それを即物的(ザッハリッヒ)に確認できないとダメだったのです。タリウム少女の場合はもっと端的です。
土屋:魂があるという考えを捨て切りたいから、あえて「やはり無い」と自分に言い聞かせている。数式で表せないものがあるというのが許せない。数式、科学こそが唯一の信じられる基準なんだと思いたいんだと思います。
大澤:普通の考え方は「数式はこうだけど私の考えはこうです」というように、逆なんですけれどね。
恋人がいる「リア充」とは自傷行為のようなもの
大澤:「生き残る」と訳される「survive」という英語の単語は、「sur」は超えて、「vive」は生きてるという意味。生を超えていく生ということです。普通の生命を全部否認してしまう、それでもなお残ればそれこそ真の生命だろうとういう考え方がすでに「survive」という語には入っています。タリウム少女は、この語の含意を文字通り実現しようとした、それの徹底したバージョン。単に生きているということだけでは許されず、徹底的に否定してみるわけです。カエルを解剖して、母親にタリウムを投与して、それでも残余はあるのか。実存的な問いがかけられていると思います。
土屋:surviveして生を超え、生き残った残余が生命だとすると、現代は生の超え方、方法論やアプローチが変わってきている、そして沢山あるのかなと思います。
大澤:殺してみてそれどうなるのか、私たちが抽象論で語るのは許されなくて、彼らはストレートに殺人をやっている。繰り返しているうちに激しいものを求めてしまうように、極限まで突き詰めていくとこういうことになってしまう例だと思います。
覗き見るという行為は快感ですよね。普通他人から覗いていることがばれないように安全な場所で覗いている。しかし覗いている対象に見返されるのではないかという思いが生じます。映画も同じ体験だと思います。絶対にあり得ない、映画のほうから見返されてしまう可能性を一瞬感じるのです。それが映画に惹きつけられる理由の一つだと思います。そして映画を観ることで私たちもタリウム少女的な体験をしているのです。
タリウム少女は突き放して実験をして「苦しんでいるのはお前だけだ」という態度をとりながらも、自分もその対象に巻き込まれる可能性を否認しきれないわけですね。だからこそ執着するのです。
映画『タリウム少女の毒殺日記」より
土屋:覗き見るという行為はリアリティを希求する私たちの必然的な欲望なんでしょうか。
大澤:現代人は2つの感覚があると思います。ソーシャルメディア、バーチャルな世界を使いながら現実とコミュニケーションする、リアルなものと距離を取る。その一方で、その同じ熱意をもってある種のリアルなものを希求する。例えば「リア充」と言う言葉には、恋人がいる人への揶揄と同時に、羨望や嫉妬が込められているでしょう。恋人がいるということは幸せで、人生の中でこれ以上の快楽はありませんが、同時に、これほど人を傷付け合う関係もなくて、言ってみれば自傷行為みたいなものです。そういう、傷つけ合う関係はいやだなと思えば、他者からできるだけ距離を置いて他者をオブラートに包んで、電話による関係でさえお危険だからとメールにしたりする。それでもリア充に憧れるのです。リアルなものから身を引きつつ、リアルの核の部分が欲しいというこの二重性、現代社会の中で両方の重みが増している、そんな感じがしますよね。
不幸抜きの幸福論
大澤:「何とか抜きの、何とか」が世の中には増えてきました。ノンアルコールビールは「アルコールの無い、アルコール」ですよね。「セイフティセックス」「デカフェコーヒー」……現実には、必ず危険や害をもたらすリアルな核が含まれている。現代人は、それを外したいと思うわけです。そうしてできあがるのが、その核だけを抜いた「X抜きのX」です。たとえば、「お酒は飲みたいけど、飲んで急性アルコール中毒になったらいやだな、ノンアルコールビールにしよう」というのは、お酒自体のお酒性の否定になります。タリウム少女は究極のバージョン、「生命抜きの生命」だと思います。
土屋:ノンアルコールビールを飲むということは虚構を飲むことであって、現実に触れていない。タリウム少女は生命を虚構化しているということですよね。ノンアルコールビールやセイフティセックスは安心を得ているのだから虚構でいい、それが幸せな社会なんだという考え方はどうなんでしょうか。
大澤:この問題を一般化すると、「不幸抜きの幸福論」だと思います。苦しいこともあれば楽しいことがあるわけで、「楽しいことだけにしたい方、苦しいところを取ってしまえば、純粋に楽しいよね」となります。ところがそういう風にできていないのが、現実の複雑なところですよね。はっきり言うと、苦しいことと楽しいことはほぼ一緒なんですよね。先程の恋愛はその典型です。人生の中で一番幸せだと思う瞬間は、大抵の人は好きな人がいてその人と愛し合っていると思える瞬間ですが、一番傷つける人間関係だと思います。恋愛関係以上に人を傷つけるものはなくて、他の関係では失敗しても、例えばビジネスで失敗してもいろいろ理由を付けて、自分を守ることができますが、恋愛関係は全否定なんです。全肯定と全否定が同時に来るわけです。何とかして辛い部分を抜き出して純粋に幸せな部分だけを残したいと思うんですけど、辛さと楽しさ、不幸と幸福は一番究極のところでは重なってしまうのです。苦難や不幸の部分を避けて幸福な部分だけ享受しようとすると、楽しさも「ほどほど」というところで止まります。
土屋:SNS世代では「こういうキャラでこういう発言をすると叩かれるからこうしないように」と保険を掛けたりします。傷つかないようにするから、あまり楽しめないという発言を聞きます。「不幸抜きの幸福論」は実際に多いようですね。
映画『タリウム少女の毒殺日記」より
大澤:実際はもっとロマンチックでリアルに生きている実感のするような幸福が欲しいとは思うのですが、それは危険水域に入るようなものです。いわゆる「虎穴に入らずんば虎子を得ず」みたいなものです。そこで、多くの人は「虎子はいらないから虎穴に入らないでおこう」と思うわけです。タリウム少女の場合は虎子を取ることを最後まであきらめず、しかも「徹底的に虎穴に入らずにできないか」と思うわけですね。彼女は、不可能を狙っている。
土屋:ものすごくアクロバティックな事をやろうとしてるわけですね。
大澤:ある意味正直だと思うんです。私たちは両方の欲求を持っているわけで、普通は妥協して「ものすごく楽しくはないが、少し楽しい」で我慢して、その代り危険のあることはやめましょうとなりますが、タリウム少女の場合は我慢せずに徹底してみたらどうなる、という感じがします。
タリウム少女は生命の存在を確認したいと考えていた
──(会場からの質問)不登校、引きこもりの方の相談室を立ち上げています。社会現象としてタリウム少女のような人が多いと思います。私たちの世代ではなかったと思いますが、現代社会でSNSなどが原因としてあるのでしょうか、それとも時代が変わってきたことが原因でしょうか?
土屋:映画の中からの回答になりますが、タリウム少女は世の中のシステム、例えば、消費するということでもそれは何か仕向けられたシステムで成り立っていると思っています。マーケティング・システムからすれば数値で「私」が捉えられているという事を実感しているのではないかと思ったのです。この時代に生きる人は多かれ少なかれ、そういう感覚をもっているのではないかと思います。世の中のシステム自体が、人間を数値としてみている。そのくせ、タリウム少女のような視点で人間や物事を捉えるといきなり否定される。それはごまかしじゃないか、という風なひねくれた感じが彼女にはあるのかなと思います。
大澤:引きこもりは今日の話と結びついていて、彼らは人間嫌いでコミュニケーションしたくないと思われがちですが、むしろ逆で、ものすごく人恋しいんです。どんなに引きこもってもインターネットやスマホがある。関係から身を引いているのに繋がりを持ちたいと思っているんです。人と繋がりたいと思って引きこもっているのであれば、そこに解決の糸口は見つかるかなと思います。引きこもりにもいろんなタイプがいますが、社会から引きこもっているだけでなく、家族から引きこもっているんですよね。家族といないと最低限の生活ができないので。タリウム少女は母親を実験の対象としていますよね。家族や親はもっとも親密で、温かみを味わうべき関係ですが、その母親も実験用動物と同じように扱ってカエルも母親も大差なく扱われている。
オウムの事件があった時、考えたことを話しておきます。オウムの特徴は、家族的な関係性の徹底的な否定です。もともと、家族と教団が格闘するのはよくあることです。宗教に強い忠誠心を持つと家族との関係を断つわけです。しかし1970年代から、80年代の初頭までの宗教は、家族から離れたとしても宗教的関係自体が疑似家族になる??というか真の家族を宗教を媒介にして形成しようとします。千石イエスの事件では、若い女性が千石イエスを慕って集まってくる。家族は娘を取られたと争ったのですが、その彼がオウム事件で一度だけテレビに出たことがあって、オウムの信者を怒るのです。17歳のある信者が「麻原尊師の為なら親でも殺すことができます」と常日頃から言っていたということに関して、千石イエスは怒っている。「親を殺すのはとんでもない」と。千石イエスは親から子供を奪ったように言われるけれど、そうではなくて真実の親子関係を作らなくてはならないと思っているのです。現にサークルの中では彼は父の比喩で呼ばれていた。現実の親子関係にゆがみがあるから本当の親子関係をつくって元に戻してあげると言うのが千石イエスの狙いなんです。それに対して、オウム真理教はいったん親子関係を清算してしまう。新しい関係に踏み込んでいくと言うベクトルがあります。引きこもってしまう人たちは、親子関係から離脱しようと、親子関係以上の本物の関係を求めているように感じることがあります。そんなものは得られないけれども、欲している。彼らとしたは苦しいだろうなと思います。しかし、関係を求めているのですから、そこに希望はあるのではないかと思います。
映画『タリウム少女の毒殺日記』より
──(会場からの質問)自分は「タリウム少女性」に勇気と希望を与えてもらって救われた感じです。タリウム少女は極端な例ですが、そういう存在というのは世の中の仕組みがどんどん複雑になって虚構性が増しているからこそ出てくる存在なのかなと思いました。ほかの時代では、同じゲノムでも存在してないと思います。時代性と言うもの切り離しては存在しないでしょうし、生き方として徹底して観察者として立場をとっていましたが、素朴に生命と言うものを信じているんですよね。それを確実にそうだと言い切りたいがために、世の中の虚構を破たんさせてやりたいという使命感を感じました。
土屋:さすが、ほとんどタリウム少女。これ以上付け足すことはないですね。
大澤:ヨーロッパの中世の神学者にとって最も重要な主題は「神の存在証明」です。これこそが、近代の哲学の原型になったと言っても過言ではありません。中世ですから、神が存在していることは、ある意味で自明です。しかし、存在証明をする。神が存在のすることを確実に証明しようと試みるわけですね。タリウム少女は生命の存在を実験的に確認したいと考えていたのでしょうね。神がいることは自明なのだけれども、存在証明することで絶対確実だと言いたい神学者と一緒です。
──(会場からの質問)「物語なんてないよ、プログラムしかないよ」とありますがこの言葉の意味を教えてください。映画では監督が作ったものが物語でありプログラムだと思いますが、物語はプログラムから逸脱するもの、そういう力が働いていると考えらえているのかなと思いました。
土屋:映画の中での使われ方で言うと、「これから始まっていく物語、なにが起きるか分からない物語はなくて、すべてプログラムで決められていることです」という意味です。あなたは、悲しいとか悔しいとか楽しい、嬉しいなど、エモーショナルな感情を感じているだろうけれど、その感情そのものも科学物質の増減による効果でしかないとタリウム少女は思いたい、そう思うことですっきりする。「物語はない、プログラムしかない」というのはそんな意味があります。
大澤:物の因果関係は時系列で展開しますが、物語にはならないんですよね。物語になりきらないのは、今の世界は一つの特徴ですよね。人生や社会を物語として描くことは難しい時代と言う事でしょうか。
土屋:だからこそ物語が求められるというのはあると思いますね。映画でも企画を出すときは世界観を提示しても誰ものってきてくれない。誰が出て、どういうストーリーかが問題になるんです。でないと誰もお金を出さない。映画自体もエモーショナルな物語性、観て泣ける、笑える方が受け入れやすいんです。
大澤:オウムは最後の物語というか、オウム真理教には物語があったのでしょうね。それ以降物語がどんどん枯渇し始めて、このタリウム少女はほとんど物語がない、となったのです。
(2013年7月4日、渋谷アップリンク・ファクトリーにて 構成:駒井憲嗣)
大澤真幸 プロフィール
1958年長野県松本市生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
近著に『〈世界史〉の哲学』古代篇・中世篇(講談社)、『生権力の思想』 (筑摩書房)、『夢よりも深い覚醒へ』(岩波書店)。
http://www.sayusha.com/MasachiOsawaOfficial/
映画『タリウム少女の毒殺日記』
渋谷アップリンクにて上映中
8月3日(土)よりシネマート心斎橋にて公開
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▼『タリウム少女の毒殺日記』予告編