新作『三姉妹~雲南の子』を発表したワン・ビン監督
ワン・ビン(王兵)監督が新作『三姉妹~雲南の子』公開にあたり来日。初の劇映画だった前作『無言歌』を経て再びドキュメンタリーのフィールドで新しい作品に取り組んだ監督が、中国で最も貧しいと言われる雲南省の山中の村に暮らす10歳、6歳、4歳の幼い三姉妹の生活を捉えた今作について、そして『三姉妹~雲南の子』ロードショーと同時に特別公開される『鳳鳴─中国の記憶』『鉄西区』について語った。
彼女たちの生活の時間と撮影した時間は、ほぼ一致している
── この『三姉妹~雲南の子』を撮ることになったきっかけを教えてください。
2005年のことですが、友人のユイ・シーツンが私に『神史』という長編小説を推薦してくれました。それはスン・シーシャンという作家が書いた作品で、その時はまだ出版に至ってはいなかったのですが、私はその小説を読んで非常に興味を覚えました。そこに描かれているのは『三姉妹~雲南の子』の撮影場所である長江上流域を舞台にした物語でした。長江上流の雲南省、貴州省、四川省の3つの省が交わる辺りに、三姉妹の村はあるのですが、このあたりは非常に高い山々に囲まれた深い山地で、(雲南省というと少数民族を思い浮かべる人が多いですが)そこに住んでいるのは少数民族ではなく漢民族なのです。
2009年になって、私は、その場所の出身である作家の家に、作家の両親や兄弟を訪ねました。実は、この作家は、本の出版前に若くして亡くなってしまったのです。今から遡ると、亡くなって10年になります。私は、そのお墓参りに訪れたのです。そして、墓参りの帰り道に、たまたま通りかかった村でこの三姉妹に出会いました。それが三姉妹との最初の出会いでした。
そして、2010年の秋、当時私はパリに滞在して、前作の『無言歌』の最後の仕上げの仕事をしていたのですが、パリのテレビ局のプロデューサーからドキュメンタリーを一本撮らないかという依頼をされました。そこで私はこの三姉妹に出会った話をしました。非常に興味深い題材であると案を出したところ、プロデューサーも賛同してくれて、この企画なら短期間でドキュメンタリーを一本撮れるだろうと、とても喜んでくれたわけです。そして、その年から三姉妹の村での撮影を始めました。
2010年の10月に、この村に行き、撮影を始めたのですが、ずっと村に滞在したわけではなくて、3回に分けて撮影を進めました。1度目は10月、2度目は11月、この時に私は高山病にかかってしまい、高地での撮影ができなくなりました。代わりのカメラマンをたて、最初からのカメラマンとともに2人のカメラマンで翌年の2月にもう1度訪れてもらい、撮影してもらいました。全体として撮影期間は20日間しかありませんでした。高山病になってからずっと私は体調がすぐれず、なかなか編集が出来ませんでした。ようやく2012年になって編集ができて、こうして完成したわけです。
映画『三姉妹~雲南の子』より
──子どもたちの輝きや生命力を感じさせてくれる映像でした。子どもたちがカメラを全然意識しているように見えなかったのですが、それはどのようにして可能だったのでしょうか?撮影することに関して子どもたちはどのように感じていたのでしょうか?
撮影は2台のカメラで始めました。できるだけ彼女たちの生活を邪魔しないように距離を保って撮るように気を配りました。撮影にかけた日数自体は僅かですが、毎日かなり長時間、彼女たちの生活に密着してカメラを回しました。ほとんど朝起きてから夜寝るまで、ずっとほぼ2台のカメラで撮影していきました。ですから彼女たちの生活の時間と撮影した時間は、ほぼ一致しているのです。
なるべくカメラが生活の邪魔をしないように気を配ったと言いましたが、それでもやはりカメラ自体はそこに存在しますし、我々撮る者がそこにいるわけです。透明になることは出来ません。彼女たちは時々カメラの存在に気づいて、カメラの方を見たりします。我々撮影クルーと色々話しをすることもありました。ですが、それも彼女達の生活の一部なのだと私は捉えました。ですから、編集の段階で、彼女達がカメラを見ている場面をカットしてしまうようなことはしませんでした。残してもいいところは編集段階でも残しておきました。このような撮影には、彼女達との信頼関係がとても非常に重要だといつも考えていました。信頼関係があればカメラが回っていても、彼女たちはあまり気にせずに普通に生活できます。それで私たちはとても客観的に撮影ができました。わざわざ自然に見えるようにと、余計なことをしたりする必要もありませんでした。とにかく普通に生活をしてもらい、そしてそれを記録できるようにと気をつけました。
その人物の人生の経験をより理解したい、その人と共有しあいたいと思う
──2台のカメラの分担は?手持ちと据え置きのカメラと両方を使っているのですか?
もう一人カメラマンのホアン・ウェンハイさんと、どこをどう撮っていくか、カメラの分担はだいたい決めておきました。どういう役割分担をしたかというと、子どもの行動範囲は広いので、例えば、私が山の方に行った子どもを撮るとするともう一人のカメラマンは家の中を撮るとか、家を撮るとしても内と外とを分けて撮るとかそういう風な分担にすぎません。カメラは、二人ともハンディカメラで撮っています。
映画『三姉妹~雲南の子』より
──一番初めに三姉妹に会った時にどういうところに惹かれたのでしょうか?
彼女たちの家の前を通りかかった時、三人の子どもはちょうど泥まみれになって遊んでいました。この地域は非常に雨が多く、その日も雨が降った後で道はどろどろになっていました。そこで泥んこになって遊んでいる子どもたちがいたので、私は話しかけてみたわけです。その子たち以外、ほとんど村人たちの姿は見えず、村の佇まいは本当にガランとしていました。そういう村の中なので、三人の子どもは一層際立った存在に見えました。私は彼女たちに話しかけ、しばらくお喋りをしたのですが、やがてインインが家に案内してくれました。そして色々と家族の話を聞くうちに分かってきたのは、母親は三年前に家を出て行き、父親も出稼ぎでいないという事、彼女たちには誰も面倒をみる大人がいなくて、子ども三人だけで暮らしているということ。そういうことがわかりました。彼女たちは当時、映画で見るよりもっと小さかったのですが、一番上のインインは妹達の世話を見て、母親役をしていました。家に入った時、私はとても驚きました。その家の貧しさは、中国語で「赤貧洗うが如し」という言葉がありますが、まさにその言葉の通りで、私の想像をはるかに超える貧しさだったのです。それでもインインはジャガイモを囲炉裏で焼いて私にくれました。私たちは一緒にジャガイモを食べました。彼女たちの貧しさは本当に心が痛くて辛くて、強烈に印象として強く残りました。しかし、その貧しさの中にあっても、彼女たちは三人で寄り添って生きている。そして、その強さがより私の心を打ちました。
──これまでどんな想いで映画を撮ってきたのか、映画を撮る原動力について教えてください。
毎回ある人物に出会った時にその人を撮りたいと思い、強烈に撮りたいという欲望が湧いてきます。どういうことかというと、その人物の人生の経験をより理解したい、その人と共有しあいたいと思うのです。そういう人からとても刺激を受けるわけです。もっとその人を理解したいという欲望から映画を是非撮りたいと思う、それがまず原動力です。例えば『鳳鳴(フォンミン)~中国の記憶』の時は、和鳳鳴(ホー・フォンミン)さんはかなりご高齢でしたが、彼女が経験してきた人生には我々の想像を超える壮絶なものがあったわけです。そういう彼女が生きた時代とはいったいどういう時代だったのか?それを理解したいと私は思いました。それは三姉妹についても同じです。彼女たちはとても貧しい生活環境に置かれ、この侘しい村でどうやってこれから生きていくのだろう?その興味から、彼女たちを理解したいと思ったのが、撮りたいと思ったきっかけでした。彼女たちは子どもですから、生命力に溢れていました。貧しさに負けないくらいの生命力の旺盛さ。これこそ人間本来の持つ素晴らしい力です。そこをきちんと撮りたいと思いました。
──カメラは2人で分担して撮ったということですが、現場スタッフは全部で何人くらいだったのでしょうか?
4人でこの撮影に臨みました。私を含めて2人がカメラの担当、1人がプロデューサー、そしてもう1人はこの地域に詳しいガイド的な役割の人です。撮影の時はカメラをできるだけ安定させ、長く回しました。子供たちが移動する時は、2人で分担して、後からついて撮っていきました。編集前の素材の段階では、20分、30分という長回しのシーンが多くありました。カメラはできるだけ客観的に静かに、彼女たちの生活を写すように心がけましたが、カットが多いと編集がやりにくいので、できるだけカメラを長く回したわけです。こういう方法で撮れば、スタッフも少なめですみますし、費用も少なくてすみます。 この村は雨が多く湿度が高い地域にあります。そして、秋から冬にかけてはとても寒い場所です。私はできるだけ、その湿度の高さ、湿った感じや冬の風の冷たさ、そういうこともカメラで表現できるように考えました。また、光線についてですが、三姉妹が住んでいる家は非常に中が暗いんですね。窓が極端に少なく、光は入り口の扉から入ってくる光しかありません。建築上そうなっているわけですが、その自然光を生かして、なるべく壊さないように撮りました。自然光で、明るいところは明るく、暗いところはそのまま、ありのままで撮りました。そうすることによって、彼女たちのその家の様子、他とは違う様子が表現できると思ったからです。
──録音の担当はいなかったのですか?
特に録音担当の人は頼みませんでした。私が使っているのはHDVという小型のデジタルカメラで、これは非常に軽くて高機能のカメラです。距離の調節も楽にできます。録音担当の人をわざわざ入れると、割りとオールドスタイルの映画製作の雰囲気になってしまいます。せっかく新しい軽くて優れたカメラを持っているわけですから、スタッフ構成を昔風のスタイルにせず、マイクをカメラの上に付けて録音をするというやり方にしました。そうすることで、なるべく被写体の生活に影響がでないよう、なるべく邪魔しないような形で撮影ることができたわけです。
映画を撮ることを通して今まであまり知られていなかった中国を理解したい
──高山病にかかったというお話でしたが、それほど撮影の状況は困難だったのですね。他にスタッフの中で病気にかかった人はいたのですか?撮影の場所には毎日通って撮っていたのでしょうか?
4人のスタッフのうちで病気になったのは私だけでした。私達は、撮影時、この映画に出てくる父方の2番めの伯母さんの家に住まわせてもらっていました。食事も彼らと一緒に同じように食べていましたから、別にそこの生活が大変だからといって病気になったわけではないんです。ただ、ある時、私は長女のインインがお爺さんと一緒に向こうの山に行くのを後から追いかけながら、撮影していました。インインは子どもで元気なので、すごく歩くのが速いんです。飛ぶように走っていくんですね。それを追いかけて撮っていたら私も思わず早足になってしまって、高山病に注意する事をうっかり忘れてしまったんです。ちょうどインインとお爺さんが山を越えて下るところに差しかかった時、私は物凄い心臓の動悸を感じ、今まで感じたことのないような苦しさを感じました。本当にこれは私の不注意から高山病になってしまったというわけなんです。高地ではあんまり急に早く歩いては危険だそうですね。
映画『三姉妹~雲南の子』より
──監督は北京に住んでいるそうですが、今一番個人的に興味のある人・物・ことは何ですか?
今いくつか企画がありますが、自分が最も興味を持っているのは、長江一帯の地域に対してです。私自身は黄河流域の村に育ったので、これまで長江一帯の地域に対してあまり理解していませんでした。ドキュメンタリー映画を作りながら、長江一帯を理解していくことに今一番興味を惹かれています。ですので、その地域を舞台にして、これから何本か作品を撮るつもりでいます。なぜその地域なのかといいますと、中国経済は今非常に発展していますが、その経済の発展を担っているのが長江デルタ経済圏とも言われる中国のデルタ地域です。長江は上海から海に流れ込みますが、その上海を一番東としてそこから遡り、どんどん西へ行き、今回の三姉妹の村は長江の上流域にあります。私は、自分が映画を撮ることを通して今日の中国社会を、今まであまり知られていなかった中国を理解したいと思っています。今、農村の労働力は大量に都市に流れこんでいます。東は上海、南は広東の珠江デルタへ、どんどんと流れ込んでいますが、そういう人の流れの変化や、それによって起きる現代社会の人々の変化をドキュメンタリーを通して理解したいと思っています。
黄河流域を舞台にした映画は、これまでに、中国の第五世代の監督であるチャン・イーモウやチェン・カイコーはじめ多くの人が作品にしています。ですので、自分がその黄河流域を舞台にした映画をそこに加える必要はないだろうともと感じています。ところが長江流域に目を移しますと、小説もあまりありませんし、映像作品としてもそれほど多くありませんので、映画を撮るという行為でこの地域を理解し、多くの人に知って欲しいと思っています。
『鳳鳴』は言葉を映画の第1要素とすることで映画というものを成り立たせることができるか試した
『鉄西区』より
──今回『三姉妹~雲南の子』公開の前に上映される『鉄西区』と『鳳鳴─中国の記憶』についてもお聞かせください。『鉄西区』を3部作で構成した理由は?
1992年、魯迅美術学院に入学するため、瀋陽の街にやってきました。私はよく鉄西区の工場や線路沿いを歩き回り、写真を撮って過ごしました。時間を重ねるうちに、私はゆっくりと鉄西区を理解していきました。1999年に『鉄西区』の撮影を始めました。当時、私はまだ若く、何もすることがありませんでした。瀋陽の学校を卒業し、北京に移り住んだものの、ほとんど仕事もなく、映画界の商業的なシステムの中で居場所が見つかりませんでした。それで瀋陽に戻り、再びあちことを歩き回りながら、今度はデジタルカメラを回し始めたのです。撮影を始めた当初、実はドキュメンタリーというものを良く知りませんでした。学校でも先生たちはドキュメンタリーについてはほとんど教えてくれませんでした。
『鉄西区』はドキュメンタリーについての意識もあまりないままに撮り始め、撮っていく中で方向性を見つけていった作品です。『鉄西区』は大きな三部構成になっていますが、膨大なものをどのように構成していくか、全体をどのように捉えていくか。また、群れのなかの一人一人をどう撮っていくか。そういう点を常に考えながら撮影を進めました。最初のアイディアでは、3つの導きの糸を持った3つの物語が、平行して進むというものでしたが、それでは複雑過ぎ、うまくいかないことがわかりました。そこで、3つの導きの糸を尊重し、全体を3つに分けました。「工場」「街」「鉄路」と名付けられた各々のパートは単独で見ることができ、自立した意味を持っています。しかし、他の2つのパートを見ることで補完されることでしょう。
『鳳鳴─中国の記憶』より
──それでは『鳳鳴─中国の記憶』についてですが、登場する和鳳鳴を撮るにあたってどのような手法を考えていたのでしょうか?
『鉄西区』の時はしっかりした準備ではなく、大きな枠だけ決めて撮りに行きましたが、『鳳鳴』はかなり準備をしてから撮影を始めました。ドキュメンタリー映画とは、何を撮るか、どんな出会いがあるかによって、撮り方も準備の仕方も異なるものです。和鳳鳴さんという方は、私の劇映画『無言歌』の準備のために取材をしたたくさんの方の中のお一人でした。『鳳鳴』を撮った時には、すでに彼女とは友人関係にあり、お互いに信頼しあっていましたし、彼女がどんな暮らしをしていて、どんな人物なのかを良く知っていました。そこで私は、この映画は「言葉」でいこうと思いました。
映画とは映像ですが、言葉を映画の第1要素とすることで映画というものを成り立たせることができるか、その可能性を試したのです。『鳳鳴』について問われる時、必ず、3時間にわたってカメラが動かないことを尋ねられますが、私は形式を優先した事は一度もありません。和鳳鳴さんだからこそ、私はこのスタイルを選んだのです。当時私はこう考えていました。自分がこれから撮るのはテレビ番組ではない、映画である。映画には、ある定まった本質というものがある。映画というのは、映像によって起伏の激しい物語をわざわざつくる必要はない。それがテレビとは違う点で、それが映画の魅力だと思います。『鳳鳴』では、がらんとした彼女の一人暮らしのあのほの暗い部屋で、言葉だけ、語りだけに頼った物語を撮っていくということ。これが特別な経験になります。『鳳鳴』で私が考えていたことは、歴史に対してどう向かい合うかということでした。歴史とは、それを記憶する人がいて、記憶してこそ歴史になり得るものだと思います。歴史を記憶し、第三者の目を持って様々に異なる作品で歴史というものを記録し、歴史を残していくこと。それこそが過去に生きた人々、我々の先達に対する尊敬の念なのだと思います。
(2013年4月9日、イメージフォーラムにて)
ワン・ビン(王 兵) プロフィール
1967年11月17日、中国陝西省西安生まれ。魯迅美術学院で写真を専攻した後、北京電影学院映像学科に入学。1998年から映画映像作家としての仕事を始め、インディペンデントの長編劇映画『偏差』で撮影を担当。その後、9時間を超えるドキュメンタリー『鉄西区』を監督。同作品は2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭グランプリはじめリスボン、マルセイユの国際ドキュメンタリー映画祭、ナント三大陸映画祭などで最高賞を獲得するなど国際的に高い評価を受けた。続いて、「反右派闘争」の時代を生き抜いた女性の証言を記録した『鳳フォンミン鳴―中国の記憶』で2度目の山形国際ドキュメンタリー映画祭グランプリを獲得。2010年には、初の長編劇映画『無言歌』がベネチア国際映画祭のサプライズ・フィルムとして上映され、世界に衝撃を与えた。
映画『三姉妹~雲南の子』
5月25日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー
監督:ワン・ビン(王 兵)WANG BING
配給:ムヴィオラ
フランス、香港/2012年/153分/16:9/stereo
公式サイト:http://www.moviola.jp/sanshimai
映画『鉄西区』『鳳鳴─中国の記憶』
5月11日(土)より24日(金)までシアター・イメージフォーラムにて上映
『鉄西区』(全三部)
第一部「工場」240分*途中休憩あり<新字幕>
第二部「街」175分
第三部「鉄路」130分
1999-2003/中国語
『鳳鳴(フォンミン)―中国の記憶』
フランス、香港/2007年/184分
http://moviola.jp/sanshimai/tetsu_feng.pdf
▼映画『三姉妹~雲南の子』予告編