『アルマジロ』イベントに登壇した森達也氏(左)と佐野伸寿氏(右)
アフガニスタンの最前線アルマジロ基地に、国際平和活動(PSO)という名の下に派兵されたデンマークの若い兵士たちを追ったドキュメンタリー映画『アルマジロ』。現在公開中の本作の公開を記念して、映画監督・森達也氏と、同じく映画監督でありながら自衛隊員としてイラク復興人道支援活動の経験のある佐野伸寿氏が試写会に登壇。当日参加した観客とともに、それぞれの立場から、今作で描かれる戦場でのジャーナリズム、そしてドキュメンタリー論が語られた。
なお1月30日(水)には、翻訳家の池田香代子氏を迎えてのトーク付き上映が渋谷アップリンク・ファクトリーにて行われる。
どんなドキュメンタリーも、基本はエンベッド(森)
── まず映画の感想からお願いします。
森達也(以下、森):「軍や兵士たちはなぜこの撮影を許したのか。あらゆる意味で問題作だ」とコメントにも書いた通り、観たときには相当の衝撃を受けました。どうやってこういう状況を撮ることを許されたのか、撮影そのものだけではなく、ポスト・プロダクションにおいては、軍や政府のチェックも受けなくてはいけないし、隊員たちひとりひとりに対してはどういうやり方で了解をとったのか、まったく想像がつかない。
── 佐野さんは現役の自衛官で現在、オリンピック選手の広報担当ですが、イラクに行った経験もあり、カザフスガンの大使館で仕事をされた経験もあり、今回、エンベッド(同行取材)についてパンフレットに寄稿していただいています。
佐野伸寿(以下、佐野):自衛官としてイラクに行った経験があるので、兵士たちが話している内容など、懐かしいなという部分がありました。一方で、イスラム文化圏のカザフスタンで映画を作っているカザフスタンの映画監督としての立場で観ると、デンマーク軍が銃口を向けている先のアフガン人の話がまったく出てこないところが納得できない。ちょっと複雑です。
── アフガニスタンの基地の雰囲気は自衛隊と似ているんですか?
佐野:祖国から遠く離れて囲われた場所で生活していかなければいけない不自由がある反面、他の自衛隊の仲間たちと仲良く話をしたりできるので、兵隊さんたちに対する共感はないことはないです。
── 自衛隊がイラクに行ったときは、マスコミのカメラは入ったのですか?
佐野:当時小泉さんが総理大臣で、福田さんが官房長官でしたが、イラクが戦争状態になったときに、外国にいる日本人の安全を守る責任を持てないということで危険地域に指定したんです。そこに行けるのは唯一自衛隊だから、行かせることになる。ですから、そこに日本のマスコミに行かせるということはありえなかったのです。
映画『アルマジロ』より
── しかし、この映画では安全を守れないどころか戦闘の最前線にカメラが行っている。
森:戦闘シーンを撮ることそのものは、それほど珍しいことではないです。そんな作品はたくさんあります。でもそれらはあくまでも、フリーなポジションに身を置いたフォト・ジャーナリストやドキュメンタリストの仕事です。ましてこの作品は、そもそもデンマークの公共放送のプログラムですよね。つまり大前提として軍へのエンベッドがある。だから不思議なんです。かつては戦争をどう記録するかということに関しては、エンベッドという発想はあまりなかったんです。でも湾岸戦争あたりからメディアをコントロールしようとの発想が強くなり、エンベットが前提になり始めた。ある意味で国家や軍のプロパガンダの一環です。兵士たちと一緒に食事したり、危険な目に遭ったりすると、例えばストックホルム症候群のような、同じ危険を共有しているとの一体感が生じる。その帰結として軍にとって有利な報道をする、という計算があった。イラク戦争はその典型です。だからエンベッドはメディアにとって、ネガティブな意味で使われていたんです。
でも実のところどんなドキュメンタリーも、基本はエンベッドなんです。古くは小川紳介さんが三里塚を撮ったときに、機動隊の側から撮るか農民の側から撮るかの選択があって、彼は農民の側から撮ることを選んだ。つまり農民にエンベッドした。僕も『A』『2』を撮ったときにオウムにエンベッドした。つまりオウムの側からこの社会を撮った。セルフ・ドキュメンタリーは自分自身にエンベッドする。どちらかにつかなければならない。戦場で中立なんてそんなのんきなことは言ってられない。あっという間に死んでしまいます。もしくは、おもいっきり離れたところで「中立だ」とほざくしかない。だから僕はエンベッドそのものは否定しない。しかしエンベットの場合は、撮り方よりもその素材をどうするかのほうが重要で、当然チェックを受ける、素材をコントロールしようとするフィルターがあるのに、この作品がなぜそれをクリアできたのか分からないんです。
軍の安全性を阻害する部分以外は撮る方法でないと、
民主主義が成立しない(佐野)
── 監督にメール・インタビューにしたのですが、同行取材にあたり条件として撮り終わったものを軍に見せること、そして気に入らないからといって軍が削除することはできない、そういうことになった場合、第三者を入れた上でどうするか決める。もちろん軍事機密やデンマーク軍の現在の安全をおびやかすような映像があるとしたら、削除する、という約束だったとのことです。
佐野:アメリカもそうですが、今のエンベッドにおける検閲は、思想や中身については文句を言えないんです。軍の安全性を阻害する部分はカットしてください、それ以外は撮ります、というやり方じゃないと民主主義が成立しない。軍を正しく扱っていないというフィルターをかけすぎてしまうと、マスコミを検閲しているということがデンマーク国内で問題になったときに、軍が勝てない。
森:でもどこまでが思想で、どこまでが軍の安全機密かの線引きは難しい。佐野さんが自衛隊の広報担当で、僕が自衛隊の隊員のドキュメンタリーを撮るとします。隊員たちがエロサイトを見ているところとか、敵兵と戦闘があって撃ち殺して爆撃して「スカッとしたぜ」と言っているところを撮ったとして、プレビューで見たらどう言いますか?
佐野:それぞれ隊員の身分を守らなければいけないので、その映像が出たことで本来の正しい作戦意図が曲げられることがあったらいけない。イラクでの場合は人道支援、一緒に平和を作っていくことがいちばんの目的です。ドキュメンタリーとして撮られるのであれば、人道支援以外の部分を強調されて、イラクの人に誤解を与えてしまうものに関しては出せないと思います。デンマーク軍と違い、自衛隊はポルノを見たり、酒を隠れて飲むのは一切禁止ですけれど、それも、イラクはイスラム教国なのでイスラム教を尊重するということからなんです。
基本的には自衛官たちが自由に言葉を発したり生活している部分は載せると思います。ただ自衛官は公務員なので、法律に違反していること、公序良俗に違反していること、公共性に反することは指導しなければいけないので。しかし、当時の派遣された自衛官はこの辺の部分を良く心得ていたせいか、飲酒や隠れてエロサイトを見る等の規律違反はありませんでした。
森:ならば「アルマジロに登場する」あのシーンは、デンマークの国益を侵害しているということになりませんか。
佐野:というよりは、デンマーク政府はイスラム教を理解していないんじゃないかと。その部分ですら分かっていない。だから撮影させたんじゃないかと思います。
森:イスラム云々以前に、酒を飲んだりポルノを観ているシーンは、普通ならカットせよと言うと思いますよ。もしかしたら、この映画を観ていちばんびっくりしているのは、日本のドキュメンタリストばかりかもしれないですね。僕らはつい自分に置き換えて考えるから、もしこれを自衛隊で撮ったら、と思うと「このシーンは使えない」と引き算をするしかない。でも欧米のメディアやドキュメンタリーについていえば、情報公開の覚悟はもっと進んでいます。例えば冷戦時代にアメリカが国民や兵士に対して行ってきた核兵器のプロバガンダをテーマにした『アトミック・カフェ』。使われている映像や音声素材はほぼすべて、政府の広報CMや軍の訓練用映像です。日本ならまずありえない。でもアメリカは公開に同意する。だって国民の税金を使って制作された映像ですから、オファーがあればあっさりとそれに応じる。都合が悪いからといって隠さない。そうしたルールが前提にあると考えるなら、この作品は当たり前の作品ということになる。
映画『アルマジロ』より
── デンマークが徴兵制で、税金で軍隊が維持されているので、国民の命を預っているがうえに、情報はぜんぶ公開すべき、ということになっているんじゃないかというレビューもありました。
佐野:あとは、出ている隊員の人たちの意思として、自分の醜い部分を撮られるのは当然嫌で、どの程度オープンに撮られることに平気なのか、という部分が重要だと思うんです。自分も含めて、政府が禁止する以前に、我々日本人は撮られるということに心の底で抵抗がある感じがするんです。
規制されているのは表現者がちゃんとやっていないから(森)
── 森さんはポスト・プロダクションが驚いた点とおっしゃいましたが。
森:デンマークではテレビで放送された。DR(デンマーク放送協会)は日本で言えばNHKです。そこがお金を出して作って放送して映画にして世界に出しているわけですよね。どういうかたちでそこまで持っていったのか。もしヤヌス・メッツ監督が出したのと同じ条件を自衛隊に言ったらどうします?自衛隊は撮影を了解しますか?
佐野:基本的に取材はどこでも受けることになっているので、そうはならないんじゃないでしょうか。ただ、取材と撮影協力というのはちょっと違うんです。取材というのは、自衛隊の行動はあくまで行政であり、行政は国民にその政策あるいは行政行為を説明する義務がある。国民に政策・行政行為を正しく説明できる立場を確保できるなかで取材していただく。撮影協力は、商業映画の撮影という商業行為に協力することで、ドラマの映画撮影においての協力のように、国民への説明責任とはまた違った広報としての協力となります。
── 尖閣列島の取材をしたいと言われたら?
佐野:海上保安庁でなく自衛隊を出すのは、派遣地域が国民の安全を守れない状況だからなので、マスコミを行かせるのは難しい。それを決めるのは日本政府なんです。イラクのときは、自衛隊はエンベッドはやらなかったのですが、そのかわり、実際に活動をしているところを、マスコミに現状を伝えるためにひたすらビデオを撮ったんです。
── それはドキュメンタリーではないですよね。
森:日本のメディアは、政府の判断に従う。政府の許可が必要なのであれば、そこでかけあって交渉してさらに深く取材するという意識が薄い。言われるままです。規制されているのは表現者がちゃんとやっていないから。なんで撮らせないんだ、とちゃんと声を上げれば、撮らせてくれるはずなんです。
2003年に米軍がバクダッドに侵攻したとき、日本のマスメディアはすべて避難しました。外国メディアはほとんど取材を続けていたのに。もちろん残りたかった人もいたと思うけれど、会社から退去せよと指示が来る。従わなければペナルティが待っている。つまり組織論がジャーナリズム論よりも強い。そうしたダブルバインドに置かれているから、彼らを一概に責めるわけにはいかないけれど。
サマワに自衛隊が行ったときも、自衛隊がリリースした内容をそのまま加工して記事にしている。そんなことをやって現地の状況が分かるわけがない。商業行為を行う営利企業であるメディアとジャーナリズムが一体化しすぎている。ジャーナリズムの論理がメディアの論理に回収されている。ならばみんなが興味を持ってくれるものだけを提供するというジャーナリズムになってしまう。いろんな意味で窒息しかけていると思っているときにこの作品を観たので、僕はより一層びっくりしたんです。
── 報道だと今起こっていることを配信する使命感はあるけれど、映画にするには編集するのに半年かかる。それでも撮るという感覚に僕はびっくりしました。
佐野:この映画で私が魅力に感じるのは、兵隊さんのたちの実際の生活や思っていることが非常に伝わってくるところです。心の動きをしっかり捉えていて、撮る側と取られる側の信頼関係ができていて、それがあるから撮られることに抵抗がないし、自由にしゃべっている。そこまで日本のドキュメンタリーを撮っている人はできるのかと感じます。
その後に検閲の問題が出てくるけれど、現場に行って撮るための場所に立ってカメラを回すところまでたどり着いている。アフガンの人の心情は無視されているけれど、この映画自体が戦争についての是非ではなく、デンマークの兵隊さんがどう行動しているかにフォーカスしているところが、この映画の面白さだと思う。
映画『アルマジロ』より
── 監督もいちばん辛かったのは、法律や検閲ではなく、完成した作品を兵隊に許可をもらうところだったと言っていますから、そうしたモラルは持っていた。森さんは『A』を撮っているときに、オウムにシンパシーを抱くことはなかったのですか?
森:僕はドライだからそういうことはなかった。形式的にはエンベッドしているけれど、同化しないです。いつでも裏切るつもりでした。エンベッドだからといって常に一心同体でもないし、信頼関係も必ずしもドキュメンタリーを撮る時に重要な要素ではない。敵対関係でもいいんです。たとえば『ゆきゆきて、進軍』において原一雄監督と奥崎謙三のあいだに、信頼関係など存在していない。強いて言うのなら共犯関係です。被写体との距離と角度を表出することがドキュメンタリーの仕事です。憎しみあっている関係でもいいんです。現場はキツいですけれど、あまり信頼関係だけで成立してしまうとつまらない。
── 次の日には「撮らないでくれ」と言われてしまうリスクもはらんでいるわけですよね。
森:この映画でも撮り終わってからのプレビューで相当兵士たちから不満が上がったらしいけど、よく説得できましたよね。
佐野:撮られている人というのは自分を主張したい部分があって、利益は一致していたと思うんです。
森:でも、プレビューになると「ぜんぜん違うじゃん」と、ぜんぶ崩れます。そこからどうリカバリーするかが大変です。少なくともこの作品で、兵士たちと制作側との利益が一致していたとはとても思えない。
── 『A』のときは、オウムの側は布教に利用しようという意図はあったのでしょうか。
森:ならば違う作品になっていたと思います。彼らにもそんな意図はほとんどないし、もちろん僕にもそんな意図はない。あれを観てオウムは面白い、と施設を訪ねる人はいるかもしれないけれど、逆にあれを観てオウムを辞めたという人もずいぶんいると聞いています。オウムの信者たちはあまり後先を考えない。戦略性もほとんどない。宗教者ですから、それはある意味で当然です。僕はそれを利用したわけです。人格者にはドキュメンタリーは撮れないです。
怒った兵隊さんは
〈戦争中毒〉にみられるのがいやだったのでしょう(佐野)
── 今自衛隊を撮るときに、民主党と自民党のどちらが撮らせると思いますか?国防軍を作りたいと思っている政府のほうが、撮らせてくれる可能性はないですか?
佐野:国民の安全性を守るということではどちらも同じで、先ほども述べましたが、行政には説明責任がある。ただ、自衛隊の平和なところを撮ってもあまり面白くないのではないかと思います。実際に私たちはイラクで学校を造ったり発電所を造ったり、人道復興支援を行い、イラク人から感謝され我々はイラクの人達と友人のように交流していましたが、日本では、私たちのそういった活動が殆ど報道されず、イラクの派遣された基地から遠くでおきた迫撃砲騒ぎばかり報道され、まるで、私たちが戦場であたかも戦闘行動をしていたような誤った報道が多かったのです。実際、イラク派遣では自衛官は誰も死なず、誰も殺さなかった。こうした私たちがやって来たことが正しく伝わっていないことは将来の日本にとって不幸なことだと思います。結局、そう言う部分にはメディアは興味がないということなんでしょうか?この映画は人道復興支援ではないアフガニスタンという舞台があるから、映画として成立する部分がある。
── チラシで〈極度の興奮状態を体験した若い兵士たちは戦争中毒に陥っていく〉という表現をしているのですが、それは中毒ではなく、男の絆の世界だ、という評もあるんです。
佐野:怒った兵隊さんというのは、その中毒にみられるのがいやだったのでしょう。日常生活がアフガニスタンという場所になって、戦争のなかでどう行動していくか、自分の身を守るために隊員たちとかばいながらやっていく。ほとんどの兵士がこの撮影の後、軍隊に戻っていくことが描かれていますが、それは戦争がしたいということではない。彼ら自身が自分たちから戦争をしているわけではないですから。
森:軍事力が圧倒的だから彼らには余裕があるんです。世界にはいろんな戦争があります。ハマスのドキュメンタリーとイスラエルの軍のドキュメンタリーを撮ったらぜんぜん気持ちの持ち方が違う。宗教的な使命感があるけれど、タリバンはいつ死んでもおかしくない状況。デンマーク軍は負傷者は何人かでたけれど、まず、死なないですね。そうすると気の持ち方も違うし、戦場のリアルさも彼らにとって変わってくるんじゃないかな。圧倒的な戦争をしているから、戦争中毒的な症状が出るという見方は正しいと思います。これがもっと悲惨な戦場だったら、もういちど帰ってきたいとは思わないでしょう。
佐野:タリバンは強くて、アメリカ軍をはじめとする欧米諸国軍は、どんどんゲリラ的行動に押されて、どうやって身を守るかということに終始していた。アフガニスタンの戦争は、タリバン側のほうが自由がある戦争なんです。現実として欧米軍は苦しい戦いを強いられている。当然物量に優れた欧米軍の方がここの戦闘は有利で、当然タリバンには犠牲者も多く出ている。だが、苦しい戦いによって欧米軍にも死傷者は出ている。タリバンよりも数的には少ないけれど、先進国かつ民主国家を標榜している欧米諸国にとって、この死傷者の存在は、場合によっては政権を左右しかねないほど大きな問題になり得る可能性があります。だから、この映画でデンマーク側に死者が出ていないと印象を与えているのは、デンマーク政府の思う壺ですね。いまの状況を正当化できるから、デンマークにとって広報映画になっているのではないでしょうか。この映画だけでアフガニスタンの状況がどうかを見るのは難しい。
── ではこの映画を観て「戦争はよくない」と思うのはナイーブすぎますか?
森:ナイーブさは悪いことじゃない。見方は人それぞれです。でも反戦のメッセージだけを訴えた映画と解釈するのなら、リテラシーが少し違うのでは、という気がします。
ドキュメンタリーは恣意的で当たり前。
中立性や客観性など幻想です(森)
── (観客からの質問)すごくハリウッド的な味付けがされていて、コントラストが強くて黒味が出ている美しい画や、戦闘のときにおどろおどろしい音楽が鳴ったり、良く言えばドラマチックに、悪く言えば作り物感を感じたんです。それに対して日本のドキュメンタリーは、画質の面からも平凡だったり退屈だったりする感想を持つ人が多いと思うんですけれど、僕は後者のほうによりリアリティを感じるんです。家庭用ビデオのような画質で撮られたほうが、残酷さや、映像のなかにいるのは自分と同じ普通の人間なんだというのをより感じることができるように思うんです。海外のドキュメンタリーと日本のドキュメンタリーの画質や編集の味付けの違いについて意見をうかがいたいです。
森:一口にいえば、海外というか欧米のドキュメンタリーのほうが、観る側を意識していますね。だからエンターティメント性は強くなる。特にアメリカのドキュメンタリーは、早いテンポで編集して音楽はたっぷり使って時にはアニメをインサートしたりする。きわめてテレビ的です。ハリウッド的と言い換えてもいい。でも、だからダメとは僕はまったく思わない。そもそも、実際にあるものをそのまま撮って出しました、ということは口が裂けても言わない。ドキュメンタリーは恣意的で当たり前。中立性や客観性など幻想です。現実に刺激されながら撮った素材を使い、自身が思うこと感じたことを世界観として再構成することがドキュメンタリーの仕事です。でもまあ少なくとも、日本のドキュメンタリーでハリウッド的な撮り方をするのは、世間の反応を考えればあまり得はしないと思う。特にテーマが深刻なときには、不謹慎と謗られるかもしれないですね。だからその手法はとらない。つまり日本のドキュメンタリーはずるいという言いかたもできると思います。
映画『アルマジロ』より
佐野:ドキュメンタリーとしてどう見せるかということで、画像をきれいに撮るのは重要です。ただ、そのビデオの質感というのは、日本人がテレビに慣れすぎている部分はあると思います。テレビの画像、いわゆるインターレース(走査線)で撮っているのがリアルで、映画的な画像、プログレッシブ(静止画の連続)で撮っているのがドラマという印象を持っている。
── 兵士たちのことを考えれば、劇映画のスターのように撮る、というのはきれいに撮る理由としてあったんじゃないかと思います。
佐野:そうやって信頼関係を作っていったということはあると思います。
森:仮にそうだとしても、それはあくまでも副次的な要素だと思います。
距離が離れたところで戦っていることを、
自分たちの存在を知ってもらいたかったのでは(佐野)
── (観客からの質問)被写体から「合理的な理由があるから公にしないでくれ」と言われてしまったら、それはドキュメンタリーの限界なのでしょうか?
森:ドキュメンタリーの現場に限っていえば、僕は合理性というのは信用していないです。無理して波風立てる必要はないけれど、ドキュメンタリーほど非合理なものはないと思っています。そもそも肖像権を最大限に尊重するのなら何も撮れない。ドキュメンタリーはイリーガルでエゴイスティックで野蛮な営みです。
佐野:テレビのニュース映像と違って、映画では作家自身の合理性に向き合わないと成立しないと思います。そして、ドラマもドキュメンタリーも、なにかひとつ踏み越えないと面白くならない。制約があるなかで作るから面白いということもある。旧ソ連時代のソ連映画は面白いものが多かったが、何でも撮れる今の時代は、昔程面白いものがない。制約を理由にして映画ができないというのは映画作家の怠状だ。どんな政治的理由以外にも映画には様々な制約がある。知恵を絞ってそれを克服するから面白い映画が撮れるのだと思うんです。私はカザフスタンで映画を撮る時、いつもそうやって撮るしかないのです。
森:自分がプロデューサーとしてこれは認めない、という自主規制はいいんです。日本の問題は、自主規制が広がってしまって、他律の規制を自主規制だと思い込んでしまっているという状況がダメなんです。
佐野:デンマーク国内で、アフガニスタンに軍が行っているというのはあまり知られていないことだと思うんです。兵隊さんたちは、自分たちを知ってもらいたいということはあると思います。
── ヤヌス・メッツ監督はこの企画を立ち上げたきっかけについて「デンマークのメディアはほとんどアフガニスタンに注目していなかった。この血なまぐさい戦争に関わっているという事実は、ほとんど忘れ去られていた」と語っています。
佐野:アフガニスタンに行っている兵隊さんが、すごい距離が離れていたところで戦っているということを、デンマークの人が誰も知らないなかで、自分たちの存在を、自分たちのやっていることを知ってもらいたいという意識がすごく強いんじゃないかと思います。アイデンティティの問題にも関わってきますが、戦っているけれど誰も知らないしいつ死ぬか分からないなかで、監督たちは「あなたたちのことを世に知らせてあげる」ということで信頼関係を作っていくしかなかったんじゃないかと思います。
── (観客からの質問)半年間の密着にあたりどんなストーリー性を持って表現しようとしていたのか、その意図をどう思いますか。
森:明確な反戦というメッセージではない。どちらかというと究極的な状況にいる兵士たちが普通の人間のように笑ったり泣いたりおびえたりするということなのかな。でもラストのタリバンとの戦闘シーンのように、こんなにありふれた存在であるはずの彼らがこの瞬間に壊れてしまう。もしくは壊れていないのにこれほどに残虐になる。そこは地続きです。断層などない。人間という存在の不可思議さ、矛盾を出したかったんじゃないかという気がします。
佐野:デンマーク政府が意思決定をして軍を送ってこういう状況になっているなかで、兵隊さんたちが思っている「現場で起こっていることも知らないで、遠くではなれている人たちに好き勝手なことを言わせるのはいやだ」という部分をきちんと描いている。人間性の表裏一体の野蛮さ、というよりは、ああいう状況のなかで、自分の身を守るためにこうせざるをえなかったということを見せているんじゃないかと思います。
(2013年1月15日、渋谷アップリンク・ファクトリーにて 構成・文:駒井憲嗣)
森達也 プロフィール
1956年広島県生まれ。立教大学卒。大学生時代から自主制作映画や演劇活動などに関わる。テレビ制作会社に入社後は、報道系、ドキュメンタリー系番組を中心にディレクターを務め、1998年にオウム真理教の青年信者たちを描いたドキュメンタリー映画『A』を発表して、ベルリン国際映画祭をはじめとする内外の映画祭で高い評価を受ける。その続篇『A2』(2002年)は、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を同時受賞。2012年、共同監督作品『311』が公開。著作『A3』(集英社インターナショナル)で、2011年、講談社ノンフィクション賞を受賞。その後も活発な文筆活動を展開。明治大学特任教授。
http://moriweb.web.fc2.com/mori_t/
佐野伸寿 プロフィール
1965年東京都生まれ。1994年に在カザフスタン大使館に文化担当官として勤務。その間にカザフスタンの若手映画人と知り合い、劇映画の制作を始める。また、大使館帰任後、1997年より自衛隊で勤務。2004年新潟県中越地震災害派遣、2006年イラク復興人道支援活動、2007年新潟県中越沖地震災害派遣に参加。プロデュース作品『ラスト・ホリデイ』(1996年)が第9回TIFFヤングシネマ部門東京ゴールド賞および東京都知事賞受賞、『三人兄弟』(2000年)が第13回TIFFアジア映画賞受賞。2009年『ウイグルからきた少年』公開。『春、一番最初に降る雨』(2011年)が第7回ユーラシア国際映画祭グランプリ受賞。
映画『アルマジロ』
渋谷アップリンク、新宿K's cinema、銀座シネパトス
にて公開中、ほか全国順次公開
監督・脚本:ヤヌス・メッツ
撮影:ラース・スクリー
編集:ペア・キルケゴール
プロデューサー:ロニー・フリチョフ、サラ・ストックマン
製作:フリチョフ・フィルム
デンマーク/2010年/デンマーク語、英語/カラー/35mm/105分
公式サイト:http://www.uplink.co.jp/armadillo/
公式twitter:https://twitter.com/armadillo_jp
公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/armadillo.jp
トーク付き上映決定!
2013年1月30日(水)19:30
ゲスト:池田香代子さん(翻訳家)
会場:渋谷アップリンク・ファクトリー
ご予約は下記より
http://www.uplink.co.jp/event/2013/6641
▼映画『アルマジロ』予告編