映画『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』より (C)ノンデライコ、contrail、東風
絵本作家・エッセイストの佐野洋子が1977年に発表した「100万回生きたねこ」。累計180万部を数えるこの絵本が、なぜ世代を越えて読み継がれているのか。 佐野洋子の世界を紐解いていく『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』が12月8日(土)より公開される。『LINE』(2008年)に続く今作で、一冊の絵本でつながった作者と読者の生と死、“姿を映さない”という条件で許された撮影、そして作品の構造について小谷忠典監督が語るインタビューを掲載する。
ぼくの価値観や固定観念を崩してくれた人
──本作を撮ろうとしたきっかけは?
ぼくは大阪生まれで、ずっと地元で映画を作ってきましたが、2008年に『LINE』というドキュメンタリー映画の製作をきっかけに30歳で上京しました。それでせっかく東京にいるんだったら、いま自分が最も会いたい人の映画を作れないかと考えたんです。そこで、子どもの頃から大好きだった佐野洋子さん宛てに手紙を書いて出版社に送りました。手紙は偶然にも佐野さんのお誕生日に届けられたそうです。
そしたら、佐野さんご本人から電話がかかってきて「悪いけど、そういうの、断ってるのよ」って。でも、ぼくは引き下がることができなくて、「会って話だけでも聞いてください!」って言いました。「暇だから、会うだけなら、いつでもどうぞ」ってなって、荻窪にある佐野さんちにおじゃますることになったんです。後になって佐野さんは「わたし、会うとダメなのよねー」って笑ってました。
映画『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』の小谷忠典監督
──小谷監督にとっての佐野洋子さん、そして絵本「100万回生きたねこ」とは?
子どもの頃から、佐野さんはずっと絵本の中の人でした。佐野さんのエッセイも大好きで、読み始めたのは20代前半だったと思います。エッセイの中で、最も心を打たれたのは「シズコさん」かな。母との愛憎を描いた傑作なんですが、この本に出会った当時のぼくは家族との関係を切ることで、自分のバランスを取っていたところがあって、それが正解だと信じてたんです。でも、「シズコさん」の中に出てくる佐野さんは、どれだけ傷ついても、断じて切らないという態度でした。
ページをめくるたびに泣いて、気づくとぼく自身が傷つきたくないがために、心の奥に隠していたものを引っぱり出されていました。
「100万回生きたねこ」は1977年に出版された絵本なのですが、ぼくは絵本と同い年なんです。今年で35歳。そういうこともあって、まだ物語の途中なんでしょうけれど、絵本はぼく自身だと感じます。子どもの頃、児童養護施設で働いていた母が、よく眠るまえに佐野さんの絵本を読んでくれました。ぼくにとって、佐野さんの絵本は、母とつながっている証でした。
映画『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』より (C)ノンデライコ、contrail、東風
──実際にお会いした佐野さんはどんな方でしたか?
当時、佐野さんは自分がガンで余命宣告を受けていることをエッセイに書いていました。だから、当然、ぼくはそのことを知ってました。佐野さんと関わるからには、そのことと向き合う日がいつかくるんだろうな、と漠然と思っていたんです。そして、約束の日になって、佐野さんちに行くと、佐野さんは初対面のぼくを凄みのある目でジッと見て、開口一番、「アンタ、わたしの映画作るんだったら、わたしが死ぬこと、どう考えてるの?」って言ったんです。文章や絵と変わらない“佐野洋子”が眼前に立ちはだかってる状況にビビりあがったぼくは、何ひとつ答えることができませんでした。一方では、これまで身動きがとれなくなっていたぼくの価値観や固定観念を何度もくだいてくれたのが、この人なんだ、と嬉しくも思いました。それから、まるで寝釈迦さまのようにソファでくつろぐ佐野さんと、何時間も世間話をさせてもらったのがはじまりです。月に1~2回、佐野さんちにおじゃまして、世間話をさせてもらうということを1年近く重ねました。
佐野さんは、例えばある問題について話をしていても、誰かの言葉をそのまま受け取ることは決してなかったですね。面倒な場所に閉じ込められている事柄を、課せられた任務を果たすかのように自らの言葉でもって救い出す。そのようなひとを作家と呼ぶのかも知れません。ガンであるにもかかわらず、タバコの煙を長く吐き出しながら何かを考えている時の横顔を今でも鮮明に憶えています。
映画『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』より (C)ノンデライコ、contrail、東風
大きな繋がりを包み込んだ絵本
──映画には読者の方たちが出てきますね。
佐野さんから映画に出演する上でひとつだけ条件が言い渡されてたんです。それは“姿を映さない”というものでした。声ならいいと。「自分の顔はキライだけど、声ならまだましね」と言っていました。映画を作っていていつも思うんですが、ものを作るということは自由な行為ではありますが、実はある条件を作り出すことでもあるんですよね。それが結果的に、その作品のスタイルになるというか。ぼくは、その与えられた条件にとても困ったのですが、佐野さんの話し方からヒントを得たんです。佐野さんは自分の話をする時、文章もそうですが、幼少期の頃の話をしているかと思うと、急に青年期、老年期などの話を持ち出し、それらあらゆる記憶の断片を上手くひとまとめにします。そうした佐野さんの話法に接していたぼくは、まるで写真のぎっしり詰まったアルバムをめくっているようでした。そんな風に佐野さんの声を見つめているうちに、あらゆる年代の絵本の読者の方たちを撮影させてもらおうと思いついたんです。
まったく佐野さんと関係のないはずの読者の方たちの身体が“姿を映さない”佐野さんの身体を描き出し、また佐野さんの声が読者の方たちの内なる声を描き出す。そのことで、なにか大きなつながりを包み込んだ絵本に映画が近づける気がしたんです。そして、インターネットや映画館や渋谷駅など、ぼくの日常で偶然出会った人たちに声をかけました。ドキュメンタリーを作っているからこそ強く感じることですが、誰もが自分自身の物語を抱えていると思います。佐野さんの物語、また絵本の物語と重なるものを抱えていると感じた人たちに出演依頼しました。映画の構造としては、佐野洋子、絵本、読者の3つが並走する形になりました。
佐野さんをぼくの中でそのまま死なせるわけにはいかなかった
──そして、撮影中に佐野洋子さんはお亡くなりになりました。
2010年11月5日、インターネットのニュースで知りました。お亡くなりになった日の5日前に、佐野さんの息子さんの広瀬弦さんに会った時、「お葬式撮りたい?」って不意に聞かれたので、覚悟はあったつもりでしたが、うろたえ、絶望的な気持ちになりました。お葬式やお別れ会の風景を撮らせてもらいましたが、初対面で言われた「わたしが死ぬこと、どう思ってるの?」という問いに対しての答えはどこにも見つかりませんでした。だから、佐野さんの死をぼくの中で、そのまま死なせるわけにはいかなかった。その後、生涯に40回を超える転居をくり返した佐野さんの“かつていた場所”をとりつかれたように訪ねはじめたんです。東京、北軽井沢、ベルリン、山梨、静岡…。“姿を映さない”という条件が本質的なものになったんです。
生きている時は、肉体と精神は同じですが、死んでしまうと肉体と精神は離ればなれになります。というのは、肉体は滅んでしまいますが、精神そのものは依然として存在し続けるからです。存在しているといっても、単に記憶や想像として、ぼくの中に存在しているだけですが。そのように、目には見えない佐野さんの精神を視覚化しようと試みてました。中でも印象的だったのが、北軽井沢の別荘ですね。持ち主を失った画材道具には、創作において決断を下し続けてきた作家の孤独感が漂っていました。
映画『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』より (C)ノンデライコ、contrail、東風
故郷・北京で見つけた、「死」と圧倒的な「生」
──渡辺真起子さんの起用について。
渡辺さんとはイタリアの映画祭で知り合いました。ぼくは映画をはじめた頃から、俳優である渡辺さんの仕事を客席から観続けてきていたので、出演作についての感想をあれこれと語ったんです。そのうちに、進行中の作品の話になり、ぼくが佐野さんのことを持ち出すと「わたし、洋子のこと、知ってるよ」と言われ驚きました。音楽の小山田圭吾さん(コーネリアス)もそうなのですが、弦さんの学生時代の同級生で、その縁から佐野さんとも仲が良かったんです。そんなこともあり、早速、渡辺さんに出演依頼をして、あらゆる年代の絵本の読者のひとりとして撮影させてもらいました。
けれども、渡辺さんが俳優であることや、佐野さんの友人であるという事実によってぼくは混乱してしまい、渡辺さんをドキュメンタリーの対象として、どう撮れば良いのか分からなくなってしまったんです。撮影は一時中断となりました。完成した映画に映っている渡辺さんは、渡辺さんのようであり、監督であるぼくの分身のようであり、まるで佐野さんのようにも観えます。製作中、渡辺さんが誰なのかをずっと考えてきましたが、“誰でもない誰か”としか言いようがなかった。それが北京での撮影最終日に、ぼくの中で渡辺さんが“誰でもある誰か”に変わったんです。渡辺さんが誰なのかは、観る人の心にゆだねたいですね。
──そして、最後に北京を訪ねます。
“かつていた場所”をたどる旅も、いよいよ故郷の北京だけになり、やっと佐野さんのことが少しずつ理解できるようになっていました。佐野さんは子ども時代、敗戦で引き揚げ者となり、愛する北京へ帰る道を断たれてしまったわけです。愛するものを喪失する悲しみで、子ども時代が覆いつくされたとしたら、帰る家を失う悲しみのみならず、世界そのものを喪失する悲しみを抱えることになるんじゃないかと思ったんです。だから、北京は“かつていた場所”をただ見つめるというこれまでのアプローチではすまされない気がしました。悲しみを抱えた“かつていた場所”に、なにかぼくたちが働きかけることによって、それを別の場所に変えていく必要があると思ったんです。
そのためには意思を持った身体が“かつていた場所”に存在する必要があると考えて、撮影を中断していた俳優である渡辺さんの力を借りることになったんです。高層ビルが立ち並ぶ近代的な北京の街から、徐々に時代の面影が残る路地を進んでいくと、佐野さんの生家一帯が取り壊されている最中でした。旅の末端にあったものは、古くなった人家が寄り添う密集地の死。ぼくは大きく落胆しました。落胆したまま路地裏から一歩表通りに出たんです。そしたら、群衆が止めどなく行き交う新しい街の圧倒的な生がありました。死のすぐ隣に生があるという感じで。
映画『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』より (C)ノンデライコ、contrail、東風
「わたしが死ぬこと、どう思ってるの?」という問い
──本作を作り終えて、どんなことを考えていますか。
言葉にするのは難しいけど、死から届けられる生かな。死で終わらせるんじゃなくて、ちゃんとまた生につなぐこと。ぼくは、フィクションの映画を作った経験があるからなのか、現実を描くものとされているドキュメンタリーの中に、自分の想像もひとつの現実として作品に取り込むところがあります。今作も、死から生につながっていく終盤は、想像のエッセンスが含まれてますね。佐野さんのお別れ会に行った時の話なんですが、会場の奥に佐野さんの遺影があって、その前の祭壇に、出版社や親族の方々が集めたこれまでの佐野さんの絵本やエッ セイが一同に並べられていたんです。その夥しい作品群を見た瞬間、この作家は、ものを作ることで亡き者を弔ってきたんだって感じたんです。幼いまま死んだ兄、若くして死んだ父、憎しみを抱いていた母の死に対して、佐野さんはものを作り続けるという行為で弔ってきた。生きている者よりも死んだ者の方が遥かに多い、今ぼくたちが生きているこの世界から、死者に祈りを捧げるように。はじめて会った日に、佐野さんがぼくに言った「わたしが死ぬこと、どう思ってるの?」という問いを、佐野さん自身もくり返し問われ続けてきたんだろうなって思ったんです。そして、「100万回生きたねこ」は、そんな死者たちからの問いにちゃんと応えることで生まれてきた絵本だと感じます。ぼくも、その問いになんとか答えたいと思いながら作りました。
(公式インタビューより転載)
小谷忠典 プロフィール
1977年、 大阪出身。ビジュアルアーツ専門学校大阪在学中より監督した『子守唄』(2002年)が京都国際学生映画祭コンペティションにおいて準グランプリを受賞。 『いいこ。』(2005年)は、大阪シネ・ヌーヴォでの異例の動員記録後、第28回ぴあフィルムフェスティバルにおいて招待上映。初ドキュメンタリー作品となった『LINE』(2008年)は、山形国際ドキュメンタリー映画祭主催「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー 山形in東京」で特集上映後、劇場公開され、海外国際映画祭において入選・招待されている。
映画『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』
2012年12月8日(土)より、シアター・イメージフォーラムにてロードショー、他全国順次公開
出演:佐野洋子、渡辺真起子、フォン・イェンほか
監督・撮影:小谷忠典
プロデューサー:大澤一生、加瀬修一、木下繁貴
編集:辻井潔
構成:大澤一生
整音:小川武
音楽:CORNELIUS
協力:オフィス・ジロチョー、講談社
助成:文化芸術振興費補助金
製作:ノンデライコ、contraile、東風
配給:東風
公式サイト:http://www.100neko.jp/
公式twitter:https://twitter.com/100neko_eiga
公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/100neko
▼『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』予告編