骰子の眼

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東京都 渋谷区

2012-11-30 01:39


「感性のトラベラーとしての共感があったから、この映画は力のあるものになった」

『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』フィリップ・グランドリュー監督と足立正生が語る
「感性のトラベラーとしての共感があったから、この映画は力のあるものになった」
『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』のフィリップ・グランドリュー監督(左)と足立正生氏(右) 写真:荒巻耕司

1960年代に若松孝二とともに多数の問題作を手がけた映画監督・足立正生が映画と革命について語るドキュメンタリー『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』が12月1日(土)より渋谷アップリンクでロードショーがスタートする。劇場公開にあたり、政治的な前衛映画監督たちを被写体にしたドキュメンタリー・シリーズの第一弾として今作を完成させたフィリップ・グランドリュー監督と足立正生氏に話を聞いた。

自分が直接に感覚的にショットの中に介入することができる(グランドリュー)


──本作のタイトルは、足立さんの『幽閉者 テロリスト』(2007年)のセリフから取られています。このような、もっとも商業的映画公開を拒否するようなタイトルをつけた理由を聞かせてください。


フィリップ・グランドリュー:2010年にニコル・ブルネーズ(前衛映画評論家・研究者)と、映画作家についてのシリーズを作る話をしていて、たまたま、その直前にドストエフスキーを読み返していたところだったんです。ちょうどドストエフスキーの素晴らしいフランス語新訳が出たところで、読みふけっていたのです。それでドストエフスキーの「美が世界を救うだろう」という言葉をニコルに伝えたんです。それに対して彼女は即座に、「美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう」という言葉を返してきました。彼女は『幽閉者 テロリスト』を観ていて、そのセリフに心を打たれていたのです。すばらしいタイトルになると思いましたし、今回の映画をこのタイトルにするのが当然のように思いました。また、今後作っていきたいと思っている、世界に対して闘っている映画作家たちについてのドキュメンタリー連作の、全体のタイトルにもしたいと思ったんです。


──主人公Mが軍事訓練で見た美しい高原について「なにもかもが美しく、その美しさのせいで俺たちの決断も一段と強まったのかもしれない」と語るセリフですね。


足立正生:軍事基地の中で出てくるシーンを回想的にコメントする中身なんですね。実際そうだったんだけど、当時の非常に苛烈なパレスチナ解放闘争のゲリラ兵士たちは、難民キャンプの子供たちと親しくなって、「その子供たちの将来を考えて」といったコメントを発するのが普通です。実はもう幾多も出てるんですが、それらを捉えて彼らが最終的に決死作戦をやるって決めたのはなんなんだろうと僕は考えました。その非常に静かで豊かな山並みの中にいたら、自分という存在はちっぽけで、風景の中に自分も入ってしまっているような状態だったろうから、その静寂と美の風景が、決死作戦をやると決めた直接のきっかけだろうと思って、それをセリフにした。政治的でもなんでもないです。風景の中にいる自分を感じる、そういったことが決断を早めさせたし、決断させただろうということを言いたかった。だからドストエフスキーほど重たい意味はなく、最終的に自分の観念でも現実でもないところで、どうするかを踏み出すきっかけになるのは、そういったものなんじゃないのかということを言いたかった。だから、ニコルとグランドリューがこれを表題に選んだことで、僕はすぐにピーンとわかるわけです。あぁ、なるほどなと。イデオロギーとか観念とか知性とかそういう問題を越えて、その先にあるものを求めることがテーマだと。だから私の脚本からとったというのは、どうでもいいことになるくらい。

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映画『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』より

──グランドリュー監督は、この足立さんの発言をどう思われますか?


グランドリュー:まったく同感です。(主人公Mのセリフは)本当に強力な言葉だと思います。それがどういう状況で言われたのかということは問題にならないほどの力をもっています。生命を生きている、人生を生きている、その感覚をまとめて表現している。ドストエフスキーもよく、「人生や生命はいたるところにある」と書いているのですが、その中で生きているという部分が重要になってきます。そうした人生や生命に対決をしているという感覚、それを伝えることで、映画は他のものよりも強くなれるのだと思います。


──グランドリュー監督が、僕が次に考えていたことの答えをおっしゃったんだけど、じゃあ“美”って何かと考えたんです。僕はやはり一番自由なこと、自由な状態が“美”だと思ったんです。自然の風景、つまり植物とか自然の生命力を見たときに、自由を感じるし、美を感じる。逆説的に言えば、今あまり自由を謳歌していない、自由が損なわれている状況にいる人たちが、自然の風景を見たときにそれを美しいと思い、“美”を感じたんだと理解しました。そして今、グランドリュー監督が「生きるということ」とおっしゃった。


グランドリュー:それは文明や言語や文化や歴史の違いとは関係ない、人間全体に関わる問題だと考えます。また哲学になってしまいますが、パスカルが「人間は無限に人間において伝達される」ということを言っています。それがまさに、足立さんが持っている力ではないかと思うのです。われわれは全員が一種の全体性の中に、一種のハーモニーの中にあるのだと思います。そのハーモニーは、単なるエコロジーのハーモニーとかそういった問題だけではありません。人間のハーモニーの中にあるのだと思います。しかし映画は、それをとても具体的に見せて聞かせなければならない。知性を介在するものではないのです。そうした何か深い基本的なものが人間の身体の中にある、それを感じさせるべきだと思うのです。身体から切り離して考えてはなりません。ですから、僕が興味のある哲学は、身体性を思想の中心に置く哲学者たちです。


──哲学的とは別の側面で、“美”というものを考えると、今回の撮影スタイルは、グランドリュー監督が小さいデジタル一眼レフカメラを携えて飛行機に乗って日本に来た。従来のゴダールのヌーヴェルヴァーグのときよりもさらに小規模で、デジタルのカメラで一人で撮る。映画の制作システム自体がシンプルで、自分の決断で動ける分、より強靭であること、それも“美”だと思いました。足立さんもそんなに大きな制作部では作ってないですよね?


足立:『幽閉者 テロリスト』は50人くらいで撮ったけど、多くてもそれくらい。今の質問は、美と存在という問題に帰りますね。それをハーモニーにできるのはなんなのか?とフィリップが答えたんだけど、要は“美”というのは、美しいとか醜いとかいう問題は、抽象的に存在するわけではない。あるいは風景とかそういうものに存在するわけではなくて、それを感じる人間存在の感性、感情が決めるわけですね。哲学的に心理学の理論的なロジックで説明しようが、それは映画と実は関係ない。つまり感性、感情の問題です。フィリップの場合は「センセーション」とはっきり言葉で言うけれども、そこにすべての鍵がある。だから彼は非常に簡略化した、つまりカメラを自分の頭に結びつけたような仕方で迫って撮る。たとえば今回は私だったけれど、対象との関係の中で、いかなる感性が直截的に手に入るのか、貧しいプロダクションだから余計それに肉薄できると思っている。だからシンプルだけど、成功するのは間違いなく決まっているんです。彼がカメラマンを連れてきて、照明係やほかのスタッフがいて通訳がいたら、あんなものは作れない。つまり現実の存在として私はいるわけだけど、その存在を自分の感性の中身にすることを一生懸命やったのです。映画論的にも、映像言語とかそういう言い方ができますが、言語ではないということを一貫して主張しているのが彼の映画です。

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映画『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』より

グランドリュー:あのカメラ(キヤノン7D)と、あのテクノロジーのおかげで、親密な関係に入っていくことができたと思っています。たとえば、あの光にしても、直接、自分の瞳孔の中に入ってきます。35ミリのカメラを使っていたらそうはいきません。映像の中に入り込むことができなくなります。あのカメラによって自分がその映像を眼の中に取り入れることができるんです。絞りをワンポイント絞ったとすると、その光の加減が完全に自分の眼の中に入ってきます。そうすることによって、撮っている自分はその映像の内側にいるのであって、映像を外から見ている状態にはなりません。また一人で撮影をしたことによって、実に感性的なやり方で、自分が周囲で起きていることの中に入り込むことができました。たとえば、最初のブランコの場面がそうです。周りにあるものすべてを直接、知覚することができ、伝達可能なものにすることができました。たとえばフレームがそうですし、ある顔から別の顔へと動いていくカメラの動きにしてもそうです。その動きがゆっくりなのか早いのか、そういったリズムによって、自分が直接に感覚的にショットの中に介入することができるわけです。やや抽象的に聞こえるかもしれませんが、そのカメラの物質性に関係があるのです。これは映画にとって非常に重要な問題であり、むしろ映画の哲学的な問題といってもいいでしょう。


──久しぶりに撮られた劇映画『幽閉者 テロリスト』は、客として観ていると不自由さを感じるところがあったんですが、今回、グランドリュー監督の撮影方法で自分が被写体になることを経験されて、映画制作のシステムの問題についてどう感じましたか?


足立:なんで自分でカメラを回さなかったのかとかね。撮影の途中で別のスタッフが言い出したりもしましたけど。私がシナリオを書き、その設定に沿って撮ってるから自由にやれるはずなのに、どうも違うわけ。隔靴掻痒を取り払うのには、シンプルなやり方がよかったんじゃないかと。つまりそれは、制作条件を逆手にとってはいるんだけど。そういう意味で言えば、私は次に撮るときは、自分がカメラマンになるんじゃないかと思っています。映画を撮る前に、こういう話を延々として、スタッフが分かったような顔をして同意して撮りはじめるんだけど、ちょっと違うなという具合になっていって、私だけが突き進んでいく(笑)。そういった弊害が取れるだろうと思うね。存在として俳優とかなんとかに現実だろうが作られた現実だろうが、場面設定してその通りやってるわけだけど、その存在そのものに何の意味もなくて、それをどう僕が受け止めてどう撮るかっていうところまでいかないとダメ。それが今のような映画のシステムではできないとは感じている。フィリップはそれを映画の特徴じゃないかって考えている。まったくその通りで、存在そのものが文学と同じで、ピクチャーとして撮ってきてつないで、映像言語が現実や思いを描いたと思うのは勘違い。それだけじゃ足りないわけ。それをどれくらい自分で感じ取ったのかというところへもっていかないと。それが今後の映画の作り方に活かせれば撮れるだろうってのはあるよね。だから彼はそれを一応実験したし、俺も勧めたの。


──自分でどう感じるかというのは、自分の身体を通した個人的な感覚ということですか?


足立:もちろん、彼がいう言葉も考え方もいろいろあって、私も勝手にカメラマンやったりするわけですよね。だけどそういうことで技術的に凌駕できるかって言ったらそうじゃない。その存在の持ってるものと、自分本人との感性の闘争を描かなければダメで、そういう仕方をどこまで徹底できるか。だからこの映画は徹底してシンプルなやり方の中で成功した例だと思います。ドキュメンタリー映画はそういうことを繰り返しやってるんだけど、こういう作品にならなかったのはなぜかを、もう一回考えればいいわけですよ。つまり、存在あるいは現実を映すところから一歩も出ていない。それじゃダメなんだよ。たとえば、記録映画の作家主体論なんてのは、シネアストは主体性を持っていて、対象の主体性とそれと闘争するんだというところまでいった。だけどそれを感性で捕まえて、それそのものを映画にした作品はない。撮る対象とカメラを撮る、それとの矛盾を映画にするところまでは、テレビでもできるから。


──本質的には同じことを、少し角度を変えてお聞きします。以前、コペンハーゲン国際ドキュメンタリー映画祭でグランドリュー監督の特集上映をしていて、そのときに前作の長編『Un Lac(湖)』(2008年)を拝見しました。あれは劇映画にも見えるし、ドキュメンタリーにも見えます。グランドリュー監督の中で、ドキュメンタリーとフィクションの概念は、どのように捉えているのですか?


グランドリュー:『Un Lac』はフィクションです。つまり俳優がいて、脚本があって、ミニマルではありますがストーリーテリングが行われています。そういった意味でフィクションだと思っています。でも僕は、少なくとも俳優との関係においては、フィクションとドキュメンタリーを区別していません。僕にとって俳優とは、何よりも人間存在だからです。その人自身であること。何らかの登場人物、役を具体的に体現する以前に、その人間存在が俳優だと思っているからです。偉大な俳優はその人間存在である人たちです。ジョン・ウェインが歩いていると、どんな役であれ歩いているのはジョン・ウェイン以外ではありません。これは最初の話と同じ問題です。存在を捉えること、現実そのものを捉えること、それこそが映画の力です。映画が優れているのは、空想の世界を創ることよりも、現実を捉えることができるという点においてです。映画は、ある顔を撮影することができる。その真実、存在を撮影し伝えることができる。それが映画の力だと思います。この意味において、すべてのフィクションはドキュメンタリーでもあります。


──まったくそう思います。存在しているものを“美”と感じるかどうかは、撮る側の感性、あるいは交流の問題だと、お二人は同じことをおっしゃいました。


足立:それは観る側の問題でもあるわけです。

映画を作る側は技術的に自由になった。それを活かせない映画なんて退屈(足立)


──今作のように、デジタル技術が進歩して、自分で撮影すればその感覚を映像として定着できるような時代になっています。ただ、足立さんの『略称・連続射殺魔』(1969年)も、足立さんはカメラマンではないけれど、感性を映像に映している。『Un Lac』も、グランドリュー監督は自分で撮影してないけれど、俳優の存在、風景の存在を映画に映し込むことができる。今回のように、自分で撮影しているものが感性を表現することは、ある意味シンプルでわかりやすいですが、自分がカメラマンではない場合、どうすればできるのでしょうか?


グランドリュー:僕はフレームをすべて決めています。フィクションの作品であっても、『Un Lac』の場合は照明も全部決めました。フレームを決めて前進をしていくということが僕にとって重要だったので、撮影中、ラッシュはいっさい観ませんでした。つまり自分でフレームを決めて、自分の目の中に映像が残っている、そして次のシーンに進んでいくことが必要だったんです。そして自分のフレームの中に、映像の中に、自分が捕まえられていなくてはいられないのです。それ以外のあり方で映画を作るということは考えられません。僕にとって監督をする際に、フレームを決めるという行為は非常に重要です。目だけで行なうのではありません。手を使って、体全体を使ってフレームを決めます。虎が獲物を捉えようとして飛びかかるとき、ジャンプのことしか考えていない。自分がしているジャンプという行為の中だけにいる。獲物を取ったらどうするとか、自分が今獲物を捕まえようとしている虎であるとか、そういったことは完全に忘れて、獲物に向かって飛びかかるという行為そのものに導かれています。それがまさに映画の問題だと思うのです。撮影をしているときに、対象と同じ領域に撮る側の自分がある。そうした関係に入っていかなければなりません。撮影しているもの自体に、自分が捉えられていなければならないと考えています。知っているものを忘れて、未知のものを目指していく。そうした重要な映画の問題があると思います。

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映画『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』より

──ということは、グランドリュー監督の劇映画の場合、従来の撮影監督のポジションというのは、責任の度合いが低いですか?


グランドリュー:『Un Lac』の場合、撮影監督はいませんでした。私が照明を決めましたから。(注:フランスの場合、撮影監督の主な仕事はライティングであるため)。

足立:日本でもその方法は定着していて、撮影監督の第一助手がカメラマン、カメラオペレーターをやっている。撮影監督は、照明とカメラワークが監督がオーダーしているものになってるかどうかを確認するのだけど、監督としては靴の上から掻いているような気になるわけ。じゃあ撮影監督をのけたらどうなるかとか、私も実験をいろいろしました。同じようなことを感じてフィリップもやっているんだと思う。昔だったら技術上の実験をすること自体がテーマになるけれど、彼が言うように機械そのものが進歩していて、もう技術上の問題は乗り越えられる。映画を作る側は自由になった。それを活かせない映画なんて、実際、映画館に座って観ていても退屈なわけ。そういう基本的な問題です。


──『幽閉者』の場合、革命を目指す映画だったら、映画の制作システム自体が革命的でないと意味がないと思いました。お金を集めなくとも、小さいバジェットで今はできる時代で、デジタル映画の革命は起きています。そのメソッドでやるべきだったのではないかと。


足立:それが僕の弱いところで、制作部との闘争になって、それなりに一般的な映画にして欲しいという彼らの要求に応えた弱さが出てるんだと思うよ。


──『Un Lac』や本作は、制作部との闘争はなかったですか?


グランドリュー:『Un Lac』は長編のフィクションですから、プロデューサーが一般的な長編フランス映画の資金調達をしました。CNC(国立映画センター)とTV局から助成金をもらいました。巨大な予算ではありませんが、俳優を雇って、装置や衣装やメイクなど、フィクション作品を作るだけの予算を得たわけです。プロデューサーと相談をして、その予算をどこに使うかを決めました。僕は制作費の配分の決定は、映画の演出の決定であると考えています。だから準備に、キャスティングとロケハンに、予算の大半をかけることに決めました。実際に出演した俳優はフランス人ではなく、ロシア人、チェコ人、フランドル人です。キャスティングのために、長期間、いろいろな国に行きましたし、現実の湖を探すために旅行もしました。そうやって時間をかけているうちに、作品自体がだんだん自分の中に入り込んでいきました。大予算だったのに、撮影はたった4週間でした。制作の方法を決定することは、何よりも演出を決定することになるのです。


──今作で従来の方法を選ばなかったのはどうしてですか?


グランドリュー:助成金をもらうには、企画書を申請するしかなかったんですが、僕は企画書を書きたくなかった。直感的にやりたかったので、自分がどんな映画を作りたいか、明確に知りたくはなかった。この映画を作るために、制作会社を作りました。大使館がチケットとホテル滞在費を出してくれたので、どんな映画になるかはとにかく日本で撮影を始めてからだ、とスタートしたわけです。予算をもらうことによって、自分が足立さんと作ろうとしている映画を規制されるのが嫌だったんです。完全に自由な状態でやりたいと思った。最終的に作品が完成しないというリスクももちろんありましたが、それは自分の問題で、誰に対しても説明責任を持ちたくなかった。これはとても重要な決定だと思います。

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映画『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』より

──何日間で撮って、何時間くらいのフッテージがあったんですか?


グランドリュー:撮影は4日間でしたけど、6~7時間でしょうか。


足立:ものすごい量、撮ってるんだよ。だけど彼は使わないなってわかってるんだけど。「街の中にいるのを撮らせてくれ」と言って、アシスタントを横に残したまま30分たってもフィリップは帰ってこなかった。どっか撮りに行ってるわけ。「いいの撮れたか?」と聞くと、「撮れた」と。街に立ってるのを、群衆の中から撮ったりとか、俺に関係ない所も撮りに行ってるんだから。だからもう、やりたい放題やってたんだよ。


グランドリュー:私のほうが足立さんよりも悪い人間です(笑)。


足立:だと思うよ。


一同:(笑)


──6~7時間分の映像を、どう編集で調理していったんですか?


グランドリュー:自分で編集したのは久しぶりだったんです。20年くらいしていませんでした。今までは編集担当者を雇っていたのですが、今回はお金がなかったので。


足立:それも成功した理由だよね。


グランドリュー:現場で撮影アシスタント(兼通訳)をしていたシャールが、シークエンスごとに足立さんがだいたい何を言っているかを15秒程度にまとめた文章を、素材に付けてくれていました。それで大まかな切り分けができました。もちろん日本語が分からないので、文章の始まりと終わりは間違えたりしましたが。その後、ボランティアの人にもう少し厳密に何を言ってるのかチェックしてもらい、もう一人別の翻訳家に足立さんの話してる内容を一文毎に訳してもらって、きちんと切れるようになりました。そういうふうに編集をしていきましたが、ブランコのシーンを最初に持ってこなければいけないと思いました。あのシーンは撮ったそのままで、まったくカットしていません。それから音楽が必要だと思ったので、息子のフェルディナンドに映像を見せて音楽を作ってほしいと頼みました。すると翌日できたものを持ってきてくれました。最初は大きなまとまりごとに、自分の感覚のまとまりごとにつないでいきました。次にラストをどうするかという問題が浮上します。そこで、「観念の世界と感覚の世界の違いは?」という質問の部分をラストに持ってこようと決めました。その瞬間に、映画全体の構成が明白になって、こうでなければならないと思いました。その後また、別の翻訳家がより緻密に日本語からフランス語に翻訳してくれて、文章の始まりと終わりが切れることのないよう少しカットを直しました。


──本作は観客に見せようと思ったものですか? 他の理由があって生まれたものですか?


グランドリュー:ラディカルな答えをします。観客のために映画を作ることは絶対にありません。誰もそんな人はいない。映画を作るのは、自分自身とともに映画の中で前進していくためです。しかしその行為に真実がともなうと力を持ち、初めてその映画が人に訴えるものになりうるのです。そうでないとすれば、本は書かれなかったでしょうし、絵画も描かれなかったでしょう。それだけが唯一の存在の可能性です。自分自身とともにあることによって、初めて他者とともにあることができるのです。これは倫理的な立場であると当時にグローバルな立場です。


足立:もうひとつ付け加えるならば、そういう具合に彼も映画を作るために、どんなチャンスであれ、どんな小さなことであれ、ぜんぶ全力で投入している。つまりそういう作家、この場合はフィリップね、彼も現実そのものの側からいえば、現実とは距離を持ったストレンジャーになるわけ。この映画では、「どんなに現実と向かい合っていると言っても、お前もどの現実にもストレンジャーじゃないか」ということを、俺に対するメッセージとして、彼は明確に出している。日本的な言葉でいえば、「お前だって旅人じゃないか、旅してるだけだな」という共感を提出してくれている。そこには、「お前は人生のトラベラー、俺は映画のトラベラー」ということが込められている。そこまであったから、この映画は力のあるものになった。それが一番リスペクトできる点かな。


──最後に愚問かもしれませんが、世界は映画のトラベラーの存在を認めていると思いますか?


足立:それ以外の映画って面白くないよ。それくらい自分を切り刻み、自分の感性でぼーんと出して、観る側が面白いか面白くないか、自分の感性に合うかどうか決めるだけ。これが映画だからさ。そういう意味でヒットしたりしなかったり、俺みたいな映画もあったりするわけだけど、映画って総体でそういうものだから。感性の旅人が作っているものだし、観る人だって旅のすがらに観にきているだけで。流行る映画を作ろうと思えばフィリップはすぐできるよ。
[2012年6月23日アップリンクにて]

(劇場パンフレットより転載。インタビュー:浅井隆)



フィリップ・グランドリュー プロフィール

1954年生まれ。ベルギー国立高等視覚芸術放送技術院(INSAS)で映画を学ぶ。1976年に初のビデオ・インスタレーションを美術館で展示。1980年代からフランス国立視聴覚研究所(INA)と共同で新たな映像様式を創出しつづけ、作品はビデオアート、フィルムエッセイ、ドキュメンタリー、フィクションなど多岐分野にわたる。2007年にはマリリン・マンソンの依頼で、アルバム『Eat Me, Drink Me』収録曲「Putting Holes in Happiness」のPVを制作。2008年、東京とロンドンで大規模な特集上映が開催された。2012年度は米国ハーバード大学で、フィクション映画部門客員教授を務める。
http://www.grandrieux.com/

足立正生 プロフィール

1939年生まれ。日本大学芸術学部映画学科在学中に自主制作した『鎖陰』で一躍脚光を浴びる。大学中退後、若松孝二の独立プロダクションに加わり、性と革命を主題にした前衛的なピンク映画の脚本を量産する。監督としても1966年に『堕胎』で商業デビュー。1971年、若松孝二とパレスチナへ渡り、『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』を撮影。1974年、日本を離れ、パレスチナ解放闘争に身を投じる。1997年にレバノンで逮捕抑留され、3年の禁固刑ののち日本へ強制送還。2006年、赤軍メンバーの岡本公三をモデルにした『幽閉者 テロリスト』を発表した。




映画『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』
12月1日(土)より、渋谷アップリンクにて公開

シリーズ企画:ニコル・ブルネーズ、フィリップ・グランドリュー
監督・撮影・編集:フィリップ・グランドリュー
助監督・通訳:シャール・ラムロ
音楽:フェルディナンド・グランドリュー
プロデューサー:アニック・ルモニエ(Epileptic)
出演:足立正生
2011年/フランス/74分/HD/カラー、モノクロ/16:9/ステレオ
公式サイト:http://www.uplink.co.jp/bigawatashitachi/
公式twitter:https://twitter.com/biga_movie
公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/bigawatashitachi


関連企画

『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』公開記念
「特集/足立正生」
渋谷アップリンクにて開催

12月5日(水)18:30『女学生ゲリラ』
※上映後トークショー トークゲスト:足立正生、東良美季(ライター)
12月7日(金)18:30『性遊戯』
12月9日(日)18:30『略称・連続射殺魔』
12月11日(火)18:30『女学生ゲリラ』
12月12日(水)18:30『性遊戯』
12月14日(金)18:30『重信房子、メイと足立正生のアナバシス そしてイメージのない27年間』
12月15日(土)20:30『略称・連続射殺魔』
http://www.uplink.co.jp/movie/2012/4838


▼映画『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』予告編



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