映画『死にたすぎるハダカ』より
今年ファンタジア国際映画祭(カナダ・モントリオール)で、『へんげ』(大畑創監督)や『ハラがコレなんで』(石井裕也監督)とともに、大阪芸術大学生の卒業制作作品が上映された。
作品を観た大森一樹監督が、「『ダイゲー(大阪芸術大学)の園子温』 どころではない、『南河内のフェリーニ』ではないかとさえ思ってしまう」と大絶賛したアベラヒデノブ監督の『死にたすぎるハダカ』だ。
“映画『ハロルドとモード』と映画『名前のない女たち』が出会ったかのような青春映画”と紹介された本作は、高校時代にいじめにあったことをきかっけに“妄想狂”になった監督自身を投影した半自伝的作品で、コメディ・ホラーや恋愛ドラマの要素もある、異色の青春映画だ。監督、脚本、編集に加え、自ら主演もつとめて、初の劇場長編作品で海外映画祭の舞台に立ったアベラヒデノブ監督に、話を聞いた。
【ストーリー】
いじめられて行き場のない男子高校生の桜木ミチル。死にたくてたまらない毎日だが、死にきれない。その代わりに、段ボールで自作した“棺桶”で眠り、血糊まみれになったり、ひとり自殺ごっこを繰り返す日々。ある日、いじめグループに強いられて本屋で万引きをして捕まった時、見知らぬ女子高校生のさやかに助けられる。
いじめで引きこもった
高校時代
──ファンタジア国際映画祭では日本版『ハロルドとモード』と紹介されていましたね。影響を受けたり、オマージュ的な要素があったのでしょうか。
映画祭のプログラマーが、そういう紹介文を書いてくださいましたが、僕自身はその作品を観たことがないんですよ。この作品は大学の卒業制作で、自分自身のエピソードを盛り込んで作ろうと思いました。
映画『死にたすぎるハダカ』のアベラヒデノブ監督
──どのあたりに投影されているのですか。
主人公のミチルが、段ボールで棺桶を作って、その中で過ごしているというのは、まさに高校時代の自分自身ですね。当時、自分の部屋の隅に、段ボールで細長い箱を作って、その中で毎晩寝ていたんです。部屋にはベッドもあったんですけど。段ボールハウスは、誰も入ってこない自分だけのスペースで、僕にとっては夢の空間でした。ちょうど棺桶みたいな形で、そこに入っている間は、自分はいま宇宙船や霊安室、お墓の中にいるんだと想像することができる。僕、妄想狂なんです。現実からかけ離れた想像すると、むっちゃ、気持ちがらくになるんです。高校1年の終わりから大学に入るまで、ずっとそこで寝てたせいで成長を妨げられたのか、背があまり伸びなかったのかもしれません(苦笑)。
──段ボールで過ごすようになったのは、ミチルのように、いじめがきっかけですか。
そうですね。でも、いじめられた理由は、今でもわからないんですよ。
よく、いじめが始まるのは、理由があるんでしょと言う人もいるけど、そんなもの、ないんですよ。本当にちょっとしたことがきっかけで、標的になる。いじめている側にいじめの自覚がないので、本当に単純に始まります。僕もある日標的になって、それに気づいた時には、いじめは手がつけられない状態になっていて、クラスの皆もさーっと僕を無視し始めたし、先生も無視でした。
いやがらせは、ずーっと続きました。しつこいっていうか、本当に病的。5分に1回鳴るタイマーみたいに授業中も休み時間もずっと続いて、人前に出るのが、めっちゃしんどくなって、電車に乗るのも辛くなって、被害妄想がひどくなりました。いじめられていることは、誰にも明かせなかったですね。それで高校を辞めたんです。親には、絵を習いたいと嘘をついて、2年生から、定時制の高校に転校しました。その頃は、ひとりでエレベーターにも乗れなかったし、電車に乗るのもしんどかった。脂汗が出て、過呼吸みたいになるんです。当時は死にたい、消えたいって、毎日、自殺願望がありました。「こんなに僕に微笑んでくれない世界なら、この先、何のために生きるんやろ?どうせいつか死ぬのに」って。でも死ぬことがすごく怖くて、死ねないんです。怖すぎて、逆にいますぐ死にたいと思うくらい。今では、「人は寿命という不治の病を抱えている」と思えるんですけど。
だから映画の中で、ミチルは自殺ごっこを繰り返します。自分が死んだと思い込むと、その瞬間は、「すべて終わった」と思って気持ちがらくになるから。
──映画では、大津のいじめの事件とかぶるシーンが出てきますね。
大津の事件、周りから聞いて、びっくりしました。(映画の中で)偶然にも、事件とかなり酷似するいじめのシーンがあるので……。僕もいじめられていたので、いじめてる側のすっごい軽い部分と、どす黒い心情がわかるんです。
いじめの怖ろしいところって、いじめてる側といじめられてる側の温度差だと思います。例えば、ガンであと一カ月の命と言われた人と、健康な人の毎日って時間の過ぎる感覚も違うし、見える世界まで変わってしまう。いじめられている側の日常は、それだけ変化してしまっています。同じ空間にいても、いじめている側は、のうのうと日常を生きている。だからいじめもエスカレートしてくる。お互いの日常のリアルが重なり合うことは、ほとんどありません。それが起こりうるのは、いじめられている側が相手に反応すること。例えば、急にいじめられてるやつが反撃に出たり、もしくは最悪の場合、自殺してしまうとか。それくらいのことが起きない限りは、重なることはありません。
映画『死にたすぎるハダカ』より
──映画のラストで、ミチルとさやかは思わぬ反逆を起こします。
実際に、いじめの首謀者に向かって反発したことで何も変わらないと思うから、怖いし、なかなかできない。
あのシーンは、ミチルの持つ前後の損得勘定を抜きにした怒りや、今まで蓋をしていた感情が一気に解き放たれる様子を描きたかったんです、映画として。
でも、僕個人の気持ちを言うと、いじめられている人は、何か行動せんといけないって思う。いじめは、いじめられてる人が行動を起こして反応すれば、終わります。攻撃しても逃げてもいい。尻尾巻いて、逃げ出せばいいと思います。僕は、学校をやめて、逃げましたから。でも僕みたいに学校をやめると、悔しさはずっと残る。だからずっと、何かで仕返ししたい気持ちがあります。
ただね、よくテレビとかで言われていることですけど、「いじめは、いじめられている側にも原因がある」というのは、いじめられている人にハッパをかけて、奮い立たせる言葉として使われるならいいと思うんですけど、でもこれは、いじめてる人に対しての言葉では絶対にありません。何があっても、いじめは正当化できないと思う。僕が一貫して言ってるのは、いじめは、いじめている側が悪いってこと。いじめられてるやつが悪いとかいう反論は、僕は何があっても受けつけません。
エンタメを
撮り続けたい
──引きこもりから、映画を撮るまでを教えてください。
定時制の高校に転校しましたが、昼間は、ずっと家に引きこもって、アホみたいに映画を観ていたんです。現実逃避ですね。家に親が居る間は、部屋に作った段ボール箱の中で、ゲーム用の小さいスクリーンで『ロード・オブ・ザ・リング』とか、北野武さんの映画ばかり観ていたことがきっかけかもしれません。
いじめを受けたことで自己評価がすごく下がって、自分が嫌いになって、引きこもるようになったけど、僕には映画があったし、小説もあったし、自分を肯定してくれる音楽もあった。創作意欲もあったんで、いつでも、“そっちの世界”に現実逃避できたんです。
ある日、深夜テレビで映画『TSUGUMI』を見て、すごく感動して原作も読んで。そこから小説を書いたり、映画を撮りたいと思い始めました。それで、大阪芸術大学に入学しました。大阪に引っ越すときに、段ボールも捨てました。
引きこもっていた時も、「いつか有名人になりたい」って、ずっと思っていました。その理由は簡単で、みんなを見返してやりたいんですよ。だから、今でも、常に悔しさがあります。ファンタジア国際映画祭の会場でも、井口昇監督の『デッド寿司』が上映された時、お客さんの数も(自分の上映と比べて)ずっと数が多いし、観客席からすごい歓声が上がってわーって盛り上がって、すごかったんです。一方、僕なんて全然無名じゃないですか。「うぬぼれるなよ」、「お前なんかまだ誰も知らないし、何者でもないぞ」、「勘違いするな」ってすごく思いましたし、作品を招待されて喜んでた自分が、すごく恥ずかしくなりました。同時に海外にはこんなにいろんな人がいて、自分って、ものすごい小さいって。
──全編に渡って、その怒りや衝動を感じました。けれど、重いテーマを扱いつつも、ブラックユーモアが効いていたり、ポップな作品に仕上げていますね。
暗い話を暗いまま描く映画が、大嫌いなんですよ。そういう映画、観たくないんです。どんな話を扱うにしても、映画はエンターテインメントじゃないといけないと思っています。姿勢として、僕はエンタメを撮り続けたい。映画『ターミネーター』じゃないけど、緊迫した状態での笑いは“おいしい”と思うし。全体的にポップなのは、自分が映画を暗くできないんだと思う。明るい話を暗くすると笑いになるけど、暗い話を暗いまま描くと、しんどくなるんで。あとは人に伝わらないと意味がないと思っているので、コミック的になっていると思う。
──編集が印象的でした。テンポや切り返し、編集で生まれてくる笑いだとか。
作品を観てくれるお客さんを逃したくない、という気持ちがあるんです。映画を撮り始めた頃、自己満足的な作品を撮って、「編集が下手」、「映画撮るのをやめた方がいい」と言われ続けていたので、それ以来、編集にはこだわっています。
──すごく丁寧に描こうとされていますよね。キーワード的に出てくる小道具も多いですね。
小道具出しすぎだって、みんなから言われます。コーラとか、ひまわりとか、天使とか。主人公の内面を小道具で表わしたかったんです。さやかがウイスキーを飲むシーンがあるので、それに反して子供っぽい部分を出したかったので、コーラを使いました。ミチルがやたらとコーラを飲んでいるのは、コーラを好きなさやかのことが忘れられないから。
映画『死にたすぎるハダカ』より
──ミチルを描くにあたって、さやかというキャラクターを作ったのは、なぜですか。
発端は、ミチルを救い上げるキャラクターが欲しかったんです。でも、映像として僕がほしかった画は、セーラー服を着て、タバコを吸ってウイスキー飲む女の子だったんで、そういう子がミチルを救うには、何か理由が必要だった。何の理由もなく、人は人を救わんと思うんですよ。誰にでも、優しさの裏には、無意識の見返りがあると思う。無償の愛って、僕は信じないです。じゃないと、すべての人を救わないといけなくなっちゃうじゃないですか。そうなると、もう、宗教だから。それに、別に、無償の愛が美しい訳じゃない。お互いに見返りを求めて、お互いに欠けたところを補ってひとつになることで満たされていくことが大事やと思うから。
──さやかは屈折したヒロインですが、どのようにキャラクターを作り上げたのですか。
女性の手記などの本を、何冊も読みましたね。実際に、近い境遇の方にお会いして、話を聞いたこともあります。あとは、周囲の女の子に脚本を読んでもらって、さやかの心情がわかるかどうか、わからないところを細かく聞いたりしました。映画って、結局、作りものじゃないですか。でもリアリティある作品って、感情移入ができる作品だと思うんです。だからキャラクターの微妙な心情を、本心からブレないように、わかりやすいように作るよう心がけました。それこそ、コミックに近いくらいに。僕自身は、映画には映画の世界観があって、映画の中でのリアリティがあればいいと思っているので、デフォルメするのはいいと思っています。でも、さやかの境遇の苦しみだけをピックアップして詰め込ませている部分は、あると思います。
自分一人で作り上げた
オアシスの脆さ
──さやかが、女としての自分を酷く蔑むシーンやモノローグも多く出てきますね。
作品を観てくれたある女性の方から、「女性蔑視的な台詞やシーンが耐えられなかった」と言われたこともあります。でも表現として必要だったんです。誰でも、自分が思う自分像と他人が描く自分像は違うと思うんです。他人が思う自分像の方がリアルだったりするし、そのギャップに苦しんだり、時には救われたりする。そういう部分を描きたかったというのがあります。
さやかは、自分の生い立ちやいじめられていた経験から、人と人とのつながりなんて、生まれた瞬間に自分が否定されるものだと思ってしまっている。そんな中でも、自分の孤独から解き放たれる何かを必要としていました。その後、世間を騙すような二重生活を送っているのですが、さやかにとっては、それは特に意味を持たないし、とても生きやすくなった。でも、ミチルに出会ったことで、ミチルから、他の人とは全く違う関わりあい方を求められる。それはさやかにとって、喜ばしい半面、初めて、自分が自分自身を否定することになってしまう。それって、すごくきついシチュエーションだと思うんです。そういう事情や心境は映像だけではわからない、伝わりきらないだろうと思っていました。だからこそ、さやかのモノローグが必要でした。
──さやかはミチルと出会ったことで、新しい欲望や希望を持つと同時に、それまでの自分を否定してしまうということですか。
そうですね。どんな状況でも、人ってひとりじゃ生きられないと思うんです。
どんなにひどい状況で、ひどいいじめにあっていても、そこに誰か一人でも、友だちでも恋人でもいい、自分が心を許せる人がいるだけで、世界の見え方さえ変わってしまう。たった一人でいいんです。それをずっと映画でやりたかった。僕、孤独は罪や、と思うんです。
ずっとミチルは孤独の中で、孤独なりに、生きてく方法を見出だそうとしている。自殺ごっこだったり、ビデオ撮りだったり。でも絶望のぎりぎりに追い詰められた時、自分一人だけで作り上げたオアシスはもろいもんで、そこにもう一人いるだけで、ものすごく強くなる。自分ひとりで作りだした世界も、一人だと一人だけの世界だけど、二人になることで、そこが例え、何もない、狭っ苦しい独房の中だろうが、そうなると、もう二人分以上に、世界は無限に広がって行く。そのあたりを描きたかったです。
──次回作は?
ちょっぴり泣けるかもしれない、コメディホラーで『欲求不満温泉』という中編です。いま編集していますが、同時に、その次の作品も準備中です。いまも大阪在住なんですけど、今月末から毎週末東京に通って、次回作を撮る準備を進める予定です。“東京”という荒波を全部飲み干す勢いで、頑張りたいです!
(インタビュー・写真・文:鈴木沓子)
アベラヒデノブ プロフィール
1989年、ニューヨーク生まれ。3歳の時に帰国して以来、関西で育つ。大阪芸術大学映像学科を2012年に卒業。卒業制作の映画『死にたすぎるハダカ』が、同大学の学科賞を受賞、2012年ファンタジア国際映画祭(カナダ・モントリオール)に入賞、第5回シューレ大学国際映画祭で上映された。現在はフリーランスで映像制作を続けるほか、監督、俳優、音楽活動など、精力的に活動を展開している。
http://www.youtube.com/user/eugenev07
映画『死にたすぎるハダカ』
監督・脚本・編集:アベラヒデノブ
出演:アベラヒデノブ、今中菜津美、井口由美子、アベジュンイチ 他
撮影:三木健太郎
照明:太田周平
録音・整音:黒田綾香
美術:中田敦樹
2012年/日本/70分/カラー
映画『死にたすぎるハダカ』は、年内アップリンクで上映予定!
詳細は決まり次第、アップします。
大阪の若手映画監督6人の作品を特集上映する『第1回ノンストップ映画祭』で上映予定
日時:2012年9月30日(日)開場12:00/上映開始13:00
会場:MONUMENT(大阪市阿倍野橋駅から徒歩3分)
料金:前売1,000円/当日1,200円
問い合わせ:waaaaairo+sub1@gmail.com
▼映画『死にたすぎるハダカ』予告編