骰子の眼

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東京都 新宿区

2012-09-07 19:20


「観た後に意図を越えた部分で増殖していく、現代の都市伝説のような映画」

吉田大八監督と社会学者・古市憲寿氏が語る『桐島、部活やめるってよ』という現象
「観た後に意図を越えた部分で増殖していく、現代の都市伝説のような映画」
『桐島、部活やめるってよ』より (c)2012「桐島」映画部 (c)朝井リョウ/集英社

8月11日(土)より公開されている映画『桐島、部活やめるってよ』は、朝井リョウによるベストセラー小説を吉田大八監督が時間軸と視点を変えて同じシーンを繰り返して進んでいく大胆な手法で、学園内の群像劇として映画化。公開後はそのストーリーに、ネットを中心に様々な解釈や論争が広がり、劇場にリピーターが多数詰めかけている。今回は、メガホンをとった吉田大八監督と社会学者で『絶望の国の幸福な若者たち』が大きな反響を呼んでいる古市憲寿氏による対談が実現。吉田監督が制作中に唯一読んだ本だという『絶望の国の幸福な若者たち』で展開される社会学的な観点からの新しい若者論も含め『桐島~』が巻き起こしている〈現象〉について分析してもらった。

今の高校生が厳しい状況の中でも諦めないで
何か試み続けている姿勢に動かされてるのに気づいた(吉田)

──吉田監督が古市さんのお名前や本を最初に知ったのはいつ頃ですか?

吉田大八(以下、吉田):『桐島、部活やめるってよ』の撮影準備中に、助監督から「この本(「絶望の国の幸福な若者たち」)は読んでおくべきだ」と言われて渡されたんです。僕は彼の言う事は良く聞くようにしてるんですけど(笑)、その頃は準備に忙しくてあまり時間がなかったので「読む時間がない」って泣き言を言ったら、「1章と最後の章だけでも読んだ方がいい」って言われて、まずそこだけ読んだんですね。

古市憲寿(以下、古市):あまり映画に役立ちそうじゃない所ですけど(笑)。

吉田:ただ、その時はあまり消化する時間がなかったんです。それで、仕上げの頃少し余裕ができたので、改めて通して読みました。映画の撮影前はとにかく撮影をクリアしなければというモードなので、それ以外に頭を使えなくなるんですが、それが終わると編集を含めて公開へ向けての流れの中で、だんだん客観的になってきて、「なぜこの映画を作ろうと思ったのか」「今、この映画を作る意味」という、必ず出る質問に対する答えが欲しくなってくるんです。もちろん原作があってオファーされたから、で済めば楽なんですけど(笑)。それで古市さんの本を読んだ時に、世の中へ映画をプレゼンテーションするための回路の芽ができたような気がしたんですね。

そうなったら、何故か今度は感情的に不安定になってきたというか、撮影の時から何度も見ているはずなのに、あらためて編集室のモニターを通して、若い俳優たちの表情や振る舞いに感情がすごく揺さぶられるようになってしまって。映画の中の、というよりは演じている若い人たちの気持ちにも乗っていくような不思議な経験だった。それは完成した映画にも影響したと思うし、だから、製作の途中で古市さんの本に出会ったことは大きかったという実感があります。

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古市憲寿氏(左)と吉田大八監督(右)

──これまでの作品で、原作以外の本を読んだりすることはあったんですか?

吉田:2本目の『クヒオ大佐』は、アメリカ軍人を偽る日本人詐欺師の話だったので、敗戦から戦後にかけてアメリカが日本人の精神にどういう影響を与えたかみたいな本は読んだのですが、結局そういう話をする機会はあまりなかったですね。古市さんの本は社会学で論理的な本なのに、自分の感情が動くきっかけを与えてくれたというのが、すごく面白かったんですよ。

──その理由は何だと思いますか?

吉田:古市さんは、僕の息子とほぼ同じくらいの歳なんですよ。それくらいの若い人とコミュニケーションする機会ってそんなに多くないですけど、親子の間だと当然日常的なやりとりが多いぶん、逆に深い話はあんまりしない。それで古市さんの本を読んだら、古市さんが、自分の気持ちを語るための言葉を誠実に探していると感じました。すごく真摯なもの……嘘はつきたくないし、自分が信じることをできるだけ正確に伝えつつ、自分のスタイルは守りたい。それで同じ内容でも何度も言い方を変えて繰り返し語っている。自分の気持ちに近づくために、頑張っている、という言い方は違うかもしれませんが、一見クールなのに、すごく真摯な感じがしたんですね。

『桐島~』を作る時は、特に今の高校生をリサーチして作ったわけではないし、それでいいと思っていたんです。けれど、製作期間中若い人と向き合っているうちに、どこかではっとしたり、気持ちがぐっと乗ったりする瞬間があって。それがどういうことなのかなと思うと、あの本からも感じた、厳しい状況の中でも諦めないで何か試み続けている姿勢に動かされてるのかなと思いましたね。

──今の高校生のライフスタイルをリサーチするということよりも、古市さんの本を読む方が編集の段階で感情的に入り込めるきっかけになったということですか?

吉田:そうですね。ちょうどそういう段階だったというのもあるかもしれませんが、あの本読む前と読んだ後、映画に対するテンションが変わったのを覚えています。撮影中はひたすら、いかに今日の分を済ませて、明日の準備するかでいっぱいいっぱいですからね。だから、若い人というより、俳優に監督として向き合っている以上のことはあまり考えない。やはり撮影の間は、いちばん映画と距離がない、引いて見られない時期ですから。

──古市さんが最初に映画を観た時の感想は?

古市:初めの感想を言うと、僕がすっかり忘れてしまっていた高校生たちの細かな表情や、細かいやりとりとか、「そういえばこういうことあったな」って、この映画を観なかったら、一生思い出さなかったようなことを思い出しました。高校時代特有の、ちょっと誰かをからかったり、ちょっとした表情でお互いを排除したり、逆に通じあったり、といった本当にくだらない、だけど死ぬほど必死だったはずの瞬間が、淡々と描かれているのが印象的でした。あまり青春映画を観ないので、他の作品と比べる事はできないんですけど、おそらく多くの人が一生思い出さないような若い頃の機微のようなものを思い出せたんじゃないかと思います。

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(c)2012「桐島」映画部 (c)朝井リョウ/集英社

あと、ひとつのテーマでもあるスクールカーストですが、桐島というカースト上位の生徒がいなくなることでのカーストの揺らぎ、上にいた子たちがすごく慌てて、下位の子やカーストからも排除されている子は、それでも変わらない日常を送っているところが面白かったです。

監督の話を聞いて思った事とつなげると、僕がずっと関心のあることの一つが、日常の変わらなさと、その閉塞感、それでも揺らいでしまう日常なんです。本の最後の章、佐藤健くんとの対談の中で「千葉へバーベキューに行く」という話を取り上げてますけど、茫漠と続いているかに見える日常のなかには、ちょっとしたハレとケがある。海外旅行に行くというような事ではなくて、「千葉へバーベキューに行く」というだけでも満足してしまう、バブル期と違うハレとケが若い人の中に広がっている気がするんです。一見変わらない日常が続いているんだけど、時々はちょっと揺らぐ、だけどまた元に戻るということですね。そのテーマが、『桐島~』や、監督の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』と近いのかなと思いました。『腑抜け~』も地方の日常が続いている様子を、劇画的にデフォルメして描かれていましたが、勝手に自分の興味関心とつなげながら映画を観ていました。

ちょうどこの本を書いている途中で、父の田舎の鹿児島に行って来たんです。311のすぐ後です。そこでの経験が面白かったんです。東京は、日本が終わるんじゃないかってくらいすごく騒いでいて、鹿児島でも311が大変ってことはわかっているんだけど、東京とは非常に温度差がある。鹿児島の人たちの会話は「今年の春に何を植えようか」とか「家の手すりをどうしよう」とか「最近あの人の家では太陽光でお湯湧かせるようになった」とか、ほんと日常の話題ばかり。そのとき日常というもの、つまり大事件が起こっても変わらない人々の営みの強さを感じたんですね。『腑抜け~』でも、いくつかの大きな事件が起こるんですけど、それでもなお登場人物たちは、良くも悪くも、変わらない。一方で『桐島~』は、大人から見たら本当に些細な、ただ部活やめただけの話題であれだけ大騒ぎしてしまう映画ですよね。「ふーん、桐島も色々あって大変だね」で映画が終わらない。対照的で面白かったです。

高校は本当に崩れやすい、
ささやかな基準で人が序列化される(古市)

吉田:実は、原作を読んだ時に、正直「部活やめただけ?」「学校の中だけ?」と感じた自分もいたんです。僕らみたいに高校を出て時間が経っていると、たとえば子供が学校で面白くない事があったりすると、親として「学校なんてたった3年だよ」ってすぐ言っちゃうんです。でも僕らが振り返って遠くに捉える3年と、中にいる彼らの3年は当然全く違う。結局目盛りをどの大きさに取るかだけの違いなんだと。この映画自体「誰かが部活やめた、で、何?」と済まされたらたまんないなと思ったし、でも自分自身の第一印象のこともあって、いかにもそう言われそうだなというのがあった。「学校の外がこんなに大変な時代に、なぜ中のそんな瑣末なことにこだわるのか」とか。だけど、基準を学校に取るか、街に取るか、日本に取るか、世界に取るかっていう目盛りの大きさの問題に過ぎないのだから、小さい目盛りで固定されているのは彼らの責任ではないし、逆に大きな目盛りしか使えないほうが杜撰だ、と言い返そうと。でも、そこまで予想通りの雑な議論はほとんど無くて拍子抜けしました(笑)。

古市:この原作の映画化はたいへんですよね。原作はプロットというよりも、描写の瑞々しさや言葉のテンポで魅せる作品です。だから映画を観て「こういうふうに作るんだ」って感心しました。

吉田:もちろん、あれだけがやり方ではなく、たとえばモノローグを中心に、詩のようにつくる方法もあったと思います。けれど、自分にはそれは無理だし、やはり話の大きな流れはつくりたかった。

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(c)2012「桐島」映画部 (c)朝井リョウ/集英社

古市:映画によって、小説が万人に向けて開かれたな、という感じがします。大人が読むとあの小説はただの情景描写、心理描写だけに見えかねない。だけど、この映画が補助線になることによって、小説も多層的に見えてくる。同時に小説は映画の副読本としても読めるし、いいリンク、いい関係だと思います。

高校って3年だよ、って言われても当事者たちには3年だってわからないというか。年齢的にも経験が少ないですし、絶対的な経験値が少ないので、それがすべてと思い込んでしまいがちですよね。大人社会と違って、互いを計る基準が少ないですから、そこの中で細かい差異が際立ってしまう。特に高校は、偏差値である程度区切られた空間なので、みんなの学力も近いし、階層的にも同種の人が集まりやすい。だから本当に崩れやすい、ささやかな基準で人が序列化される。映画を観て、たしかにそういうことを忘れていたなぁと思いました。

吉田:古市さんくらいの年齢でもそう思うんですね。

古市:そうですね。大学に入ってしまうからかも知れません。大学は、社会とのつながりもあるし、高校のようなカーストは生まれにくい。勉強できる人、社会と繋がってる人、サークルを頑張っている人、と人の評価軸が無数にありますからね。でも高校って限定されたいくつかの軸の中で競争しなくてはいけないから、辛い空間だと思うんです。僕からしたら、たった10年くらい前の事ですが、大学以降の世界とはあまりにも違いすぎて、なんだかとても昔のことのような気がします。それは30代、40代の人が感じる、「昔」とそう変わらないんじゃないでしょうか。

吉田:戻りたいとは思わないですか。

古市:僕はあまり戻りたいとは思わないです。僕自身はスクールカースト的には、カーストの外側と言うか、あまり上でもないし、皆とそこまで馴染んでた訳でもない位置にいたので、あんまり戻りたいとは思わない。たぶん「桐島、部活やめた」って話も僕のところには入って来ない(笑)。そもそも「桐島、誰?」っていうような位置にいたと思うんで。

上と下がふっと突然一日でひっくり返っていたりする
高校の生々しさ(吉田)

──では、古市さんが一番感情移入できるキャラクターをあえて選ぶなら?

古市:カーストの外側という点では前田に近いのかも知れないですけど、僕はカメラも持っていなかったんで(笑)。映画部みたいな場所もなかったし。

吉田:映画の感想で「高校に戻りたい」っていう人と、「高校の嫌な事をを思い出して気分悪い」っていう人が両方いるんですけど、僕、正直、どっちでもなかったんですよ。高校の頃をそんなに覚えていなくて。もしかしたら古市さんに近いのかもしれない。でもよく思っていたのが、外側から見てたからかもしれないんですが、高校って上と下がふっと突然一日でひっくり返っていたりする。あの生々しさっていうのを、「わっ、怖っ」って他人事のように見てたっていう記憶がありますね。

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(c)2012「桐島」映画部 (c)朝井リョウ/集英社

古市:この20年間くらい社会学で流行っている議論に〈島宇宙〉という話があります。それぞれ島宇宙ごとに人々が分かれていて、そこには序列はないよね、というようなイメージですね。だけど、学級空間のような閉じられた空間だとどうしても序列が出てくる。一見並列に存在しているかのようだけど、ある瞬間に序列がふっと現れるのが、学級空間の面白さだと思うんです。

スクールカーストの研究を見てみると、けっこう露骨なことがわかります。学力が高い学校ではコミュニケーション能力が高い人が「上」にいって、学力が低い学校では容姿が優れている人が「上」にいくとか。

吉田:現場で「上だった?下だった?」と聞くと、皆がすぐ乗ってくるので、ああ、意味がすぐわかるんだ、ずっとそれを意識して生きてるんだなと思いましたね。

古市:僕の友達でスクールカーストの研究をしている人がいるんですが、彼が言うには、インタビューすると皆すごく饒舌に語る、ということです。皆が語りたくなるんだと思います。謎解き的な要素もあると思いますが、それがこの映画を観て皆が語りたがるというひとつの理由だと思います。そもそもカーストというテーマ自体、皆が語りたいものなんでしょうね。

吉田:こういう映画をつくっておいて何ですが、原作を読んで「上」とか「下」とか普通に書いてあるのに驚いたというか。ただ、考えてみれば、お互いの距離感と言うか、触れあいかた全般、僕の頃に比べると今の高校生はすごく繊細な気がする。昔はもっと無神経なやり取りをしていたような気がします。これは自分の子供を見ていてそう思っていたんですが、原作を読んであらためて確信しました。

古市:もしかしたらそれは、昔の方が学力による序列というのが強かったせいかも知れませんね。受験競争が厳しいぶんだけ「学力」という軸がとても強かったので、その他の序列があまり意味を持たなかったのかもしれない。だけど、いまは勉強だけしていればいいとは誰もが思える時代ではない。教育社会学者たちは、学校空間がこの10年、20年で「コンサマトリー化」してきたという指摘をしています。学校という空間が、勉強のためとか何かのためというのではなくて、友達や仲間とうまくやっていくための空間だと考える生徒や児童も増えています。それ自体で完結してしまっている、目的がない集団なので、そこに友達関係によるヒエラルキーができやすくしまったかも知れません。

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(c)2012「桐島」映画部 (c)朝井リョウ/集英社

吉田:そんなに友達が大事?ってわざわざ言いたくなるくらい大事にしますよね(笑)。『桐島~』の出演者を見ていても。こんな言い方は何ですが、「友達アピール」がすごい。だから逆に、もしその輪に入れなかったらどうしたらいいんだろうって心配になるくらい。僕からすると、皆が仲よしなんてありえるのか、無理して合わせてる奴だっているだろうとかつい思うんですけどね。でも、皆「そんなことない、ほんとに仲がいいんだ」っていうんですよ。

古市:ずっとラインでメッセージのやり取りしていたり。デバイス的にいつでも繋がれるようになった。昔だったら携帯メールでもある程度は文字を使っていたのが、絵文字が増えて来て、最近ではラインでスタンプをやりとりすればいい。繋がることそれ自体が大事で、それを確かめやすくなっている傾向はありますね。

高校生に限らず若い人全般に言えると思うんですけど、昔だったら学力で成り上がることも実感できただろうと思うし、いい学校に入って、いい会社に入って、いい人生送るんだっていう「中流の夢」があった。それがなくなっていく中で、いまは寄る辺、頼れるものが仲間しかなくなってきている。高校生の場合は、とくに学校以外で仲間を見つけるということが少ないので、やはり過剰に仲間というのにコミットしてしまうんだと思います。

吉田:仲間がみつからない子もいますよね。そういう子たちはどうしてるんでしょう。

古市:仲間が全ての世界で、仲間がいないこと、仲間が信じられなくなることの不安はとても強いと思います。社会人になったらある程度の複数のコミュニティが持てますけど、とくに地方の高校生だと、学校とか学級しかないから、甘んじてそのカーストの下に入るしかない。あとは逆に、そういうことを気にしなくて、映画撮るというような自分なりの軸を持たないと辛いですよね。そういう辛さみたいなものは映画から感じました。

でも、この映画、高校生は笑いながら観てるらしいですね。それを聞いて驚きました。特に驚いたのは野球部のキャプテンが最後に「(野球部はやめない)ドラフトまではね」と答えるところで、そこでも笑いが起きたという……。

吉田:僕もその場に居合わせた訳じゃないんですけど、渋谷の劇場だけ明らかにすごく笑うらしいです。新宿や銀座でむしろ泣くような場面でも、渋谷ではこちらの意図を超えて笑う。これは観に来てくれる子たちの階層が違うのかなって想像してるんですけど。

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(c)2012「桐島」映画部 (c)朝井リョウ/集英社

古市:スクールカーストの研究で面白いのは、かつてカーストが下で、後から上にあがった人ほど、過剰にキャラをつくって、自分が上であると振る舞うみたいなんです。もしかしたら、渋谷で観ている人はかつて下だった経験があって(笑)、ここも笑わなきゃいけないって感じで笑ってるのかもしれないですね。

好きなものに距離をおかなくてはいけないのは、
決して幸せではない(吉田)

吉田:古市さんの感想をメールで読ませてもらったんですけど、「前田を主人公にしたのが難しそうだと思った」というところが印象的だったんです。自分では前田を難しいと意識してなかったから。映画を撮る人間にとっては当然近しい存在だし、どちらかと言えば扱いやすい。だからなぜ、古市さんは宏樹を主人公にした方がやりやすそうと思ったのか理由を伺ってみたいんですけど。

古市:やっぱり前田は地味というか、たしかに揺らぎがない人物なので狂言回しとしてはいいかも知れないけれど、ともすれば映画のドラマ性を失わせて、すごくつまんない作品になるんじゃないかって思ったんです。前田自身に存在感がない、そういう意味では神木くんの「存在感のない」演技はすごいと思いましたけど、宏樹が主人公だったら映画がわかりやすく派手になるというか。学園ものらしい感じですよね。逆に映画部をフィーチャーすることで、普通の学園ものらしくなくなった。少なくとも日テレの9時台のドラマっぽくはない映画になりましたよね。

吉田:実は、宏樹の彼女の沙奈とか梨紗とか、彼女たちが単なる敵役じゃない、彼女たちもしんどいんだっていうことをきちんと描きたいと思ってたんですね。沙奈がよかったって言われたりすると、嬉しいんですよ。

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(c)2012「桐島」映画部 (c)朝井リョウ/集英社

古市:僕の高校時代にもああいう子いたなって思いました。同級生として見てると、ルックスも良くて、きっと大学生とかのかっこいい彼氏がいて、上手にやってるだろうなと思ってたけど、たしかに今考えてみると、ああいう子たちも辛かったのかなって。

吉田:上にしがみついてその場所をキープする努力を思えば、逆に下の方がラクなんじゃないかという気がしますね。宏樹は原作でもしがみついてる感じではなく、そこにいて満たされていないんだけど、沙奈とか梨紗には、しがみ続けるしんどさがあるんだろうなと想像してました。

古市:彼女たちのその辛さは下からも上からもわからないのかもしれない。何も考えずにみんなで繋がれている時はいいけど、それを少しでも一歩引いて考えてしまうと辛くなる、その瞬間の反転が面白い。桐島がいるときには、構造が安定していて、特に何にも考えないで互いにシンクロしていれば良かったのが、その構造が崩れてしまうと、自分の意思とかを考えなくては行けないので、葛藤というか、置かれた状況がつらくなる。

吉田:原作の朝井リョウさんは、宏樹でも風助でも前田でも、ひとりひとり繊細に気持ちの動きを追っているけど、梨紗や沙奈についてはそうしなかった。そのブランクに刺激された、というか誘われたというか。二人の章を読みたいと思ったんですね。もちろん原作は、あえて描かないという朝井さんの判断で成立していると承知したうえで、あえて手をのばそうと思ったんです。

古市:高校って将来の職業も想像できない段階だから、恋人をつくる時も見極めが大変ですよね。大人なら社会的な地位とか年収とか複雑に絡み合ってるけど、高校は純粋な関係だけでつながるから。選ぶ基準が限定された情報の中で今後の事もわからない。その中で関係をつくるということは、お互いの表情とかコミュニケーション能力だけに依存するということ。ぞっとするくらい大変そうだなあと思います。

吉田:そういう研究もあるんですか。

古市:さっきのスクールカーストのことを研究している友人は、中学生の恋愛研究もしていました。それによると、中学生では恋人が出来ても学校満足度はあがらない。学校生活を幸せに送るには、実際に恋人がいることよりも「もてそうな」要素を持っているが大事だといいます。女の子は学力が高い子は恋人ができにくい。男の子は学力が上の学校だとコミュニケーション能力が高くて、異性の兄弟がいる子がもてやすくて、学力が低い子は容姿がいい子がもてやすい、とか。

吉田:梨紗と前田がつきあうということはありえるのかな。

古市:大学生や大人になってからならありえるでしょうけど。高校とかだと、ないんじゃないですか。さっきの研究によれば、恋人のいる女の子は学校生活の満足度が下がるらしいです。女の子は友達文化が強いので、一人だけ恋人が出来ると、グループの中での立場も変わってしまう。これは中学の話ですが、高校も似たような結果になると思いますね。

吉田:かすみが、恋人ができたことを言うタイミングを計っている感じがそれに近いなと思います。かすみはそういう関係性に敏感な子として描いたんです。『鉄男』みたいな映画が意外と好きな自分と、それを認めると変な映画が好きな女の子になってしまうことを知っている自分。だからそこにも距離をおいた方が賢明だと思ってる。でも好きなものに距離をおかなくてはいけないのは、決して幸せではない。感度が高ければ高いほどきつい。前田と話したくても学校の中でそうするのは自分の立場的にはいいと思えない、そんなモロモロに縛られている子としてかすみを考えていたんです。

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(c)2012「桐島」映画部 (c)朝井リョウ/集英社

──監督は脚本でそう書き込まれて、それを受けて橋本さんが演技しているのですか。

吉田:いや、細かく書かなくても橋本さんは全部理解していました。かすみは今日的なキャラクターだと思ったんですね。かすみがある意味一番しんどい。うまくやっているようで、結局自分を出すチャンスがない。

古市:でも、映画を観ただけではどっちがわからない、どっちとも取れますよね。かすみは前田と本当は話したいのかもしれないし、本当に嫌ってるのかも、話を合わせてるだけかもと思ってました。学食で「映画が出来たら教えて」っていうのも、本心で言ってるのか、ただ言ってるだけのフォローなのか興味ないなのか、わからない。言い方もきつめだし……。

吉田:ちょっと慎重にやりすぎたかな(笑)。でもどっちかわかんないっていうのが正解なのかもしれないです。わからないってっていうのは、いい事なのかな。

古市:いや、いいんじゃないですか。『桐島~』は『アベンジャーズ』なんかと比べたら、絶対的にわからないところが多い映画だと思います。それは解釈の余地が多いということです。ブログとかツイッターでも、有名な評論家の方も一般の方も、謎解きのようにいろんな独自の解釈を発表していますよね。それ自体がすごく面白いなと思っています。映画って本来そもそもそういうものなのかもしれないですけど、最近そう言う一つののコンテンツをめぐって、いろんな人が解釈をめぐって話し合うってことがなかったと思うんですね。特に大規模な商業映画ほど、ストーリーもしっかりして解釈もしやすい。もちろん一部の評論家は、これにはこういう意味があるって深読みをするかもしれないけど、一般の人まで巻き込んでというのは、最近ではあまりなかったですよね。公開されてからも、それ自体が、現象として面白いと思って眺めています。

プリミティブにネットを介して広がり、
物語の本来の力を喚起させる作品(古市)

吉田:面白いけど、だんだん怖くなっても来ましたね。わけわかんないうちに知らないスイッチを押してしまったという感じ(笑)。桐島=キリスト説とか。

古市:でも、ある程度は想定内ですよね。

吉田:正直、桐島=キリストは思いつきませんでしたけど、天皇までかな。真ん中が空洞だから、解釈の手口としてはありそうだなと。でも、なんか懐かしいところもあるんですよ。高校生の時、洋楽が好きだったんですけど、当時はネットも何もないのでほとんど情報がなくて、アーティストの写真一枚から深読みの嵐。ディテールを読み解いたつもりで「ニューアルバムのメッセージは……」みたいな話をしてるのが楽しかった。『アビーロード』のポール死亡説とか、B面の最後針が上がる直前の笑い声は何だとか、もう都市伝説の世界ですね。ミュージシャン達はほとんどノリでやってたんでしょうが、でもそれが面白い。『桐島~』もそうなっていたら嬉しいなと思いますね。

古市:それは、物語やコンテンツの本来あるべき姿のひとつですよね。もともと、物語は口伝で始まったもので、誰か一人の作家に帰せるものではなかった。誰かが物語の一部を思い付き、それが伝わっていく過程で、いろんな話が加わっていって、いろんな解釈が加わって、総体としての物語というシステムがある。この『桐島~』もそうなっているなと思います。

もちろん普通に全国で公開されて、大きな会社も関わっている映画なんだけど、すごくプリミティブというか、物語の本来の形が、しかもネットを介して広がっていっている。すごく現代的であると同時に、物語の本来の力を喚起させる作品に結果的になっている。これは、「楽しかった」で終わることが多いハリウッド映画ではなかなかないですよね。動物的な映画は、観ている瞬間がすべて。一方で、『桐島~』は観た後が本番、みたいな。意図的な部分と意図を越えた部分で増殖している。現代の都市伝説ですね。

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(c)2012「桐島」映画部 (c)朝井リョウ/集英社

吉田:ほんとは意図を越えたって言っちゃいけないんだろうけど(笑)。わかってるような顔をして、黙ってないと。

古市:作品を神格化するには、そうですよね(笑)。

吉田:僕や朝井さんは喋っちゃダメなんだよね。

古市:でも、朝井さんがけっこう喋っちゃう人ですよね(笑)。喋っちゃう系だから全然ミステリアスじゃない(笑)。

吉田:でも、だからこそああ見えて実は闇が、みたいな。そうだったら面白いなと無責任に思いますよ。あの好青年ぶりは怪しいだろ、なんて(笑)。

古市:闇があって欲しいですよね。スクールカーストは下だったりして欲しいですよね(笑)。

吉田:でも、すごく先生とも仲が良くて。友達も多そう。

古市:誰から見てもリア充なのに、それを爽やかに全力で否定する感じがずるいですよね。下から上にいったから、あんな小説が書けた、みたいな話だといいなと思っています(笑)。

吉田:朝井さんとは親しいんですか?

古市:いや、会ったことはないんですけど(笑)でもツイッターとかで。あと共通の知り合いも多くて。さっきまでも編集者の方と朝井さんの噂話をずっとしていました。それにしても、作者や原作者の意図まで考えているツイッターも多くて面白いですよね。

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(c)2012「桐島」映画部 (c)朝井リョウ/集英社

吉田:僕自身も批評は批評でという楽しみ方をしてきたから、作者の意図そのものに忠実なのがいい批評とは思わないし、あまりにひどい誤解を除けば、作り手の側から「そんなことは考えてません」と限定する必要はないと思うんですよ。批評は批評で独立した表現なわけだから。最近ちょっと答えあわせが多いでしょ、ツイッターとかで距離が近過ぎるからかもしれないけど。

古市:どこの角度から観るかで、違う映画にもなるし、最初観て、また桐島=キリストって読んでから観るとまた違って観られる。僕の個人的な趣味ですけど、多義性を許容する作品が好きです。最近は、多義性が許容できない作品がふえていると思うんですが、『桐島~』は、多義性を許容しつつも、単純に物語を楽しめる。

ツイッターだけでこの映画を観ている人もいるわけですよね。実際劇場に足を運ばないで、論争だけを楽しむ事も出来る。興行的には喜ばしい事ではないけれど。ネット上でよく見かける光景ですけど、実際の作品を観ないでみんなで勝手にまとめサイトや断片的なツイートを読んで盛り上がってしまう。そういう現象を、僕は最近「桐島のジレンマ」と呼んでいます(笑)。ちょうどソーシャルメディアがいちばん普及して、盛り上がってるぐらいの時期に公開され、今日的な楽しまれ方をしている。2012年的な映画ですね。

吉田:観終わった人の感想をリアルタイムで読む、というのは昔の監督には出来なかったですよね。それって考えたら怖い。だからツイッター、やめたいんです(笑)。今まで僕、自分の映画のブログ検索とか平気でよくやってたんですけど、さすがに『桐島~』に関してはここまで来ると気持ちが冒されてくるというか。

古市:これだけの量でいろんな角度からやってくると、たしかにもとの映画の輪郭さえわからなくなってくるという感じがありますよね。

吉田:自分が何を思っていたのか忘れそうな感じなので、一回スイッチを切らないと。記憶がね、書き換えられてしまう。

古市:記憶が書き換えられるって面白いですね。昔は監督がオーディエンス側から影響されることは、ほとんどなかった。市井の人の感想が届く事もあんまりなかった。103分の映像作品としてのパッケージは変わらないけど、「物語」の総体としては、観る側が作る側に、リアルタイムで大きな影響を与えている。

『桐島~』は「わからないものがいい」と諦めている世界と、
「わかりやすいものがいい」という世界の、
ブリッジになろうとしている(古市)

吉田:きのう「意味わかんない!」って感想を読んで、現役高校生だと思うんだけど、今までは「仕方ない」とか、今はわからなくても何か残ってるからいつかきっと…なんて思ってたけど。今は、単純になんか悪かったな、なんて思ったりするんですよ。

古市:でもその子も、ツイッターでつぶやけて良かったんじゃないですか(笑)。友達との会話のネタになって、つながって。わかんないっていう感想も一つの物語になってつながっていくわけですから。単純に面白かった、みたいな感想はなかなか会話になりにくい。だから逆に高校生で「意味わかんね」っていうのがスゴイって思いますね。なんでもかんでも面白いって言っちゃう子が、わかんないって言うんですからね。

吉田:高校生に「意味わかんない」って言わせたぜって。たしかにそれはちょっと嬉しい。

古市:そもそも全く意味わからなさそうなものには、初めから行かないと思います。それを、ちゃんと来て観て、意味わかんないっていうコンテンツはなかなかないなって思いますけど。つまんないものに高校生が来るっていうのはないですよね。

あと、入口と出口が違う感じも面白いですね、webで見たとき、パンフ見たとき、映画観たとき、それぞれちょっと違う。その多層性ってある意味、不親切ではあるけれども。

吉田:いつも「勇気があるって僕に言われても困るんだけど」って言うんです(笑)。僕は自分なりに作るだけで、勇気があるのは、僕にやらせてるプロデューサーなので。

古市:ベタな青春映画を作ることもできたはずなのに。いや実際そうも見えて、そうでもないという映画ですよね、それが勇気が……。

佐藤貴博『桐島~』プロデューサー:吉田監督に頼んだ時点で、普通の映画にするつもりはなかったんです。

吉田:いつも内容に即して方法を考えてるだけなので、普通の映画じゃないとしたら普通の原作じゃなかったんだと思います。

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(c)2012「桐島」映画部 (c)朝井リョウ/集英社

古市:これが1個の正解と語るのが難しい映画ですね。要素も多義的、解釈も多義的、宣伝的も多義的。こういう映画ですねっていうのが難しい。一言で紹介できない。いまは何かをやりながらでも、わかりやすくないとダメとか、どこの業界でもついつい消費者側におもねってしまうのに、挑戦的で、現代のコンテンツ産業に喧嘩売ってる感じでいいですよね。

──今は多くの映画が、事前に知ったストーリーを確認しにいくために行くために感じられることもあるけれど、『桐島~』はそれが裏切られる。

古市:人によって書くストーリーも違うので、レビューを読んだだけではわからない作品ですよね。そのギャップがあるから、意味不明だとコミュニケーションの誘発になる。ギャップがないと「面白い」で終わっちゃいます。

吉田:「わからない」がきっかけで厚いコミュニケーションが生まれるのかもしれません。

古市:『桐島~』は「わからないものがいい」と諦めている世界と、「わかりやすいものがいい」という世界の、ブリッジになろうとしている感じがします。難しい世界は難しい世界で勝手にやってる。わかりやすい世界は、また離れたところにあって、両者に普通つながりはない。だけど、わかりやすいものを観てる人には「こんなのも面白いよ」だし、難しいものを観てる人には「こうすれば広く伝わっていくよ」って、いうことを示しているのかなあ、と。

さらに、『桐島~』は、完全にわかんないわけじゃない。ストーリーはきちんとあるし、台詞は明快だし、同じシーンは何回も繰り返されるし、わかるはずなのにわからない。あれ?おかしいなっていう感じなんだと思うんですが、それが絶妙ですよね。高校生を完全には置き去りしていない。意味不明って言えるくらいに、ストーリーはわかっている。そのバランスが好きです。

──ラストの菊池と前田のシーン、あのまま菊池の生活はつづいていくんだろうけど、あとになってそれがきっと彼にとってのターニングポイントになるんだろうという、余韻がありますね。

古市:本人さえも忘れているかもしれない些細な出来事、些細な言葉の交わし合いで、未来ががらっと変わってしまう。そんなことってあると思うんです。ちょっと言葉を交わす。ちょっと気持ちが通じ合う。たったそれだけのことで、二人の人生はまったく違うものになるかも知れない。そんな一瞬の分岐点って、誰にでもあると思います。忘れてしまうかも知れないし、二度と思い出せないかも知れないけど、きっと誰にだって一つや二つはある、人生の転轍機。それが最後にぽんと入っていて、あのシーン、僕は大好きです。

(構成:駒井憲嗣)



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古市憲寿氏(左)、吉田大八監督(右)

吉田大八 プロフィール

1963年、鹿児島県出身。1987年にCM制作会社のティー・ワイ・オーに入社。以降、CMディレクターとして数々のCMを手掛け、様々な広告賞を受賞。テレビCM以外には、ミュージックビデオやテレビドラマ、ショートムービーなども演出。2007年に初めての長編劇場用映画『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』を監督。数々の映画祭で作品賞や監督賞を受賞し、話題を呼ぶ。その後も『クヒオ大佐』(2009年)、『パーマネント野ばら』(2010年)と監督作を発表し、2012年『桐島、部活やめるってよ』を発表した。

古市憲寿 プロフィール

1985年、東京都出身。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。慶應義塾大学SFC研究所訪問研究員(上席)。有限会社ゼント執行役。専攻は社会学。大学院で若者とコミュニティについての研究を進める傍ら、コンサルティング会社でマーケティング、IT戦略立案等に関わる。2011年に発表した『絶望の国の幸福な若者たち』 が新しい若者論として話題を集める。そのほかの著書に『希望難民ご一行様:ピースボートと「承認の共同体」幻想』(2010年/光文社新書)などがある。




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映画『桐島、部活やめるってよ』
新宿バルト9ほか全国ロードショー公開中

出演:神木隆之介、橋本愛、東出昌大、
清水くるみ、山本美月、松岡茉優、落合モトキ、
浅香航大、前野朋哉、高橋周平、鈴木伸之、
榎本功、藤井武美、岩井秀人、
奥村知史、太賀、大後寿々花
監督:吉田大八
原作:朝井リョウ(集英社文庫刊)
脚本:喜安浩平 吉田大八
主題歌:高橋優「陽はまた昇る」
企画製作:日本テレビ放送網
制作プロダクション:日テレアックスオン
配給:ショウゲート
製作:映画「桐島、部活やめるってよ」製作委員会.
2012年/日本/103分/35㎜/シネマスコープ/ドルビーデジタル
公式HP:http://kirishima-movie.com/

ありふれた時間が校舎に流れる、「金曜日」の放課後。学校内の誰もが認める“スター”桐島が、部活を辞めるというニュースが校内を駆け巡った。桐島の親友・宏樹や、彼女さえも連絡がとれずその理由を知らされぬまま、あらゆる部活、クラスの人間関係に波紋が広がっていく。時間軸と視点を変えて同じシーンを何度も繰り返して進んでいくストーリーは、桐島不在のまま展開。「桐島って誰?」「桐島ってどんな人?」と観客までを巻き込み、登場人物さながら、観客もまた、最後まで桐島に振り回されていく。




『絶望の国の幸福な若者たち』
著:古市憲寿

ISBN:978-4062170659
304ページ
1,890円
講談社


格差社会のもと、その「不幸」が報じられる若者たち。だが、2010年の時点で20代男子の65.9%、20代女子の75.2%が現在の生活に「満足」している!これまでの若者論を覆す、「幸せ」を感じている若者の正体を徹底的に取材した最注目の若き社会学者が満を持して立ち上げる、まったく新しい「若者論」。佐藤健(俳優)との特別対談も収録。

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