骰子の眼

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2012-06-06 22:17


「このあたりの者でござる」から始まるカタルシス

6/12より公演がはじまる、『藪原検校』に出演する狂言師・野村萬斎氏のインタビュー
「このあたりの者でござる」から始まるカタルシス

厳選シアター情報誌「Choice!」との連動企画"Artist Choice!"。「Choice!」本誌にはインタビューの他にもさまざまな映画・演劇の情報が満載ですので、是非あわせてご覧ください。

6月12日より世田谷パブリックシアターにて公演がはじまる、井上ひさし作『藪原検校』に出演する狂言師・野村萬斎氏のインタビューをお届けします。

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人間の根源に向かって

野村萬斎が「悪」を演じる。自身の演出による『国盗人』(2009年)でも「悪」を体現した彼は、今度はどのような「悪」を見せるのだろうか。井上ひさし作の『藪原検校』は、悪行のかぎりを尽くしてのし上がっていくひとりの座頭の物語である。

「狂おしくも生きる――というか。生の根源みたいなことを僕は感じますね。盲人の社会の出来事にしているから、そのことがストレートに出ている。生きて、偉くなりたい、という人間の根源。『国盗人』の基になったシェイクスピアの『リチャード三世』は王家のなかでの覇権争いですけど、『藪原検校』は最底辺からどこまで上がれるかという人生ゲームみたいなもの。より根源的な人間の欲望を衝いてる気はしますね。だからこそ、自分にとって邪魔な者は斬って捨てるし、本当にストレート。『オイディプス王』(2002年、蜷川幸雄演出)のときと同じように、脚本を読んですぐやりたいと思いました。単純明快、かつ、人間の代償行為という感じがすごくします」

俳優としてのアプローチもストレートなものになるという。

「もちろん、盲人の役ですから、そこにひとつの様式性もあるかもしれませんが、ただ、盲人であることの演技が重要なわけではない。狂言で座頭ものを演じるときの型は、使えるところは使いますけどね。音だけが支配する緊張感は絶対ありますから。対人関係の緊張感。日常性とはちょっと違うところですよね。盲人が出てくる芝居は、そこにひとつの緊張をもたらします」

そう、舞台上に目の見えない人を観るとき、私たちは自ずと五感を研ぎすますことになる。

「台本に書かれていないことについての演技がしやすいですよね、盲人の役は。通常、相手に対して意識がカッとなったとき、もっと動きだけで ――普通だと、気持ちだけで、ということなんでしょうけど―― 盲人の場合は、気持ちと同時に、もっと様式的に型が使えるような気はします。ただ、それ以上に、素直に演じるほうがいいのかなという気がしますけどね」

ひとりの演じ手として参加する場合、作品の選択基準はどこにあるのだろう。

「自分がやりたいと思うかどうか。『藪原検校』の場合は一読して、『生きるために仕方がなかった』という熱いものを感じたからかもしれません。殺しのギターが響いてくる……という箇所もあり、僕もギターの好きなロック小僧でしたからね。青春、のような何かもそこで重なったのかもしれません。孤独と、殺しと、愛欲と。暴力的生と言いますか、非常に肉食的ですよね。人間の生がここまでストレートになる。その面白さかなと思います」

つまり、生きものとしての能動性だ。

「あまり自虐的にものを考えないで済む役ですね。非常に頭のいい男の話ですけど、いわゆる複雑な心理の話ではない。たとえば『ハムレット』なんかとは真逆の世界。考える前に相手を斬ってる、犯してる、ということですから」

内面ではない、もっとダイレクトなものが表出するキャラクターになりそうだ。


すべては狂言から生まれる

「生きることにストレートだというところは、狂言のキャラクターに似ているのかもしれませんね」

やはり自分の根本には狂言がある、と語る。

「たとえばこの前演出した『サド侯爵夫人』からは、全然狂言なんて見えないかもしれないですけど、あの語りの技術は狂言の手法。『マクベス』(2010年)も、そこには狂言の狂の字もないようでありながら、そこにある俯瞰した目線などは、森羅万象と人間の存在は一緒だという狂言の『このあたりの者でござる』という思想 ――つまり、どんな偉いヤツも、このあたりの者でしかないだろう、王様だってスコットランドあたりの者じゃないかと。つまり、ひとつの虫けら同然なんだと。そういう目線が魔女の発想としてある。近代的な人間としてシェイクスピアを読み解こうとすると、魔女は自分自身の深層心理のあらわれである……というような心理主義をとることも多いけれど、魔女という自然を司る存在から見れば、人間なんてこんなもんじゃん!って僕なんか思うんですよね。魔女の言うことがマクベスの心理的裏返しとは思わないんですよ。だったら、魔女3人が操る世界にしてしまえ、と。あの演出の発想は狂言からきてますよね。『国盗人』も能舞台を使ってますし。マスク=面を使うことも含めて、狂言とまったく無縁であるというものは、僕の演出作品ではないです。役者として作品選びをするときも、どこかで狂言を意識しているのかもしれません。『藪原検校』にある、ものすごい負のエネルギー、それは狂言師として知っているつもりですから」

去る3月に行われた三島由紀夫の『サド侯爵夫人』では女優だけの出演者陣を前に、演出に専念した。こうした活動を経て、彼にとって演じることはどう変容しているのだろう。

「他の演出家に演出されるときは、基本的に役者に徹しますね。もちろん柔軟な役作りはしていくつもりですが。ただ、自分でも、現代劇ってこういうものなのかな?という想いは生まれてきました。僕が『サド』を演出しきれたかどうかはわからないけども、現代劇の役者さんにも納得してもらえるような物言いになってきたかな、とは思い始めました。『サド』に関しては言えば台詞の修飾語がほんとうに多いので、抑揚をきちんと付けないと、意味が成立しないわけですね。主語に対して修飾語がふたつ付くんだけど、修飾語をカットしてもいいような話し方をしてはいけないわけです。つまり、修飾する意味がわかるように話さなければいけない。音を整理して言わなければいけない。音が、なぜ、その音でなければいけないかを、感情の裏打ちとして、演出の言葉を言えるようになった。狂言の世界では感情が先に現れてはいけない、と教わるので、感情の裏付けというのは自分でしないといけない。つまり、感情をすんなり出さないことが根本にあります。現代劇では、感情や事象に対する裏付けを重要視しますよね。そこには慣れてきました。演出する側として『あ、この音が足りないのは、役者がその気持ちになっていないからだな』と。これまでは、それは音楽的な感覚でしかなかったものが、なぜそうなるか、ということを言葉で意味づけできるようになってきたということはあるかもしれません。ただ、『藪原検校』にそれほど長い台詞があるわけではありません。『サド』は語りの世界とも言えるので、みなさんに(その語りの世界に)来てもらったけど、今度は僕が初めて、そちらの(語りではない)世界に行く。『藪原検校』には過激な性描写もありますからね。僕にとっては、そういうことのほうが単純に衝撃があるでしょう」


野村萬斎

攻めるためにリングにあがる

それにしても、肉食の野村萬斎はなかなか想像しづらい。
様々な意味でのチャレンジになるのではないか。

「僕がいままで組んできたのは外国人の演出家に、蜷川(幸雄)さん、そして三谷(幸喜)さんという全然違う顔ぶれなわけですが、そのなかで(『藪原検校』の)栗山(民也)さんはいちばん現代劇的なひとでしょうね。蜷川さんはダイナミックな演出を主眼にしていたように思いました。では、新国立劇場の芸術監督でもあった栗山さんはどんなアプローチをなさるのか。それは楽しみですね。日本の作家で言うと、木下順二(『子午線の祀り』)、清水邦夫(『わが魂は輝く水なり』)という方々の作品をやってますが、それは全部物語として平家がかかわっていたりするので、狂言と近い部分もあったんですけど、『藪原検校』になると毛色が変わってますよね。まあ、狂言の座頭の演技も含めて、ある程度自分に『近い』ものならやれる、という感覚はあるかもしれないですね」

三谷幸喜演出の『ベッジ・パードン』では、意外な芝居も見せた。かなり動きが封じられた役どころで、一貫して夏目漱石の思索を体現している。

「三谷さんのときは、ある意味、苦しみましたね。あれ?オレ、演技してるのかどうか、わかんないな?というか(笑)。受けや守りが中心の芝居でしたからね。僕が現代劇に出てくるときは、どちらかと言えば、あえて好戦的に、その場に挑戦していくという目標があるんです。だから、ああいう守りの役になると新鮮でしたね。やっぱり、狂言師があえて現代劇をやるのだとすれば、攻めていきたいですね。異種格闘技戦に挑んでるわけですから。狂言の世界から『出て行っている』わけですから。そういう意味では『藪原』はやれるだけやれる、というか。何か演じ倒せそうな気がして。それが嬉しいです」

リングにあがるような感覚はこれまで通り。だが、「異種」という感覚は薄れてきた。

「別に全員をなぎ倒して、ぶっ倒そうというわけではなくて。ひとつの作品を作るわけですからね。あと、僕でなくてもできる役をやる必要があるのか、ということはいつも、考えますね。僕でないとできない役もやりたいし、でも、本来、他の人がやるような役を僕がやるとどうなるのかな?という興味と、両方あります。『藪原検校』に関しては、狂言での盲人役の経験値も含め他の人よりアドバンテージがあるんじゃないかなと、自分のなかでは思ったりするんですよね」


ドラマツルギーが辿り着く場所

結果、彼が得る手応えはどのようなものだろう。

「自分で演出するときは、自分なりの発想で全部作れてしまうので、手応えはあります。役者として参加するときは、演出家とどう作品を考えていくかという共同作業になりますね。たとえば、蜷川(幸雄)さんはヒーローが好きだけど、僕はヒーローが嫌いだ、とか(笑)。そういう考え方の違いはあるんです。僕は、最終的にヒーローになりたい。でも蜷川さんは最初からヒーローであってほしいっていう人だから。僕はどちらかといえば、ダメなヤツが、最終的にヒーローになるのが好きだし、そこにカタルシスを感じます」

役そのものに宿っているドラマツルギー。それを信じているのではないか。

「それはそうですね。狂言でもそうですけど、徐々にそうなっていくものだと思うんです。『このあたりの者でござる』というドラマツルギー、『一観客の一人である』というのが狂言の考え方。『ここに集った者の一人だ』ということが『このあたりの者でござる』という発想ですから。今回で言えば、そのなかから、たまたま藪原検校になるヤツが出てきたと。観客みんなの代表となって、ドラマを生ききったときに、最終的にヒーローになる。そのほうが物語を観ていく必然を感じるわけですね。僕は、だから、人はカタルシスを感じるんじゃないかと思うんです。最低のラインから、どれだけ勝ち上がっていくか。その上昇気流を一緒に観ていくから面白いんじゃないですかね」

無数の可能性のなかをくぐって、突き抜けていく生命と言ってもいいかもしれない。

「子供が泥んこが大好きだ、みたいな感じかな(笑)。最初は泥んこでいるようなところが『藪原検校』の好きなところなんです。だんだん洗練されていって、上がっていく。つまり、ただのエロ・グロから、どんどん一つの権力にまで上がっていく。それに従って、身なりも非常に綺麗になっていく。そんなゲーム感覚で、上がっていくけれど、最後はものすごい血があふれるわけですね。そのとき、人間のなかには同じ血が流れている、ということが、最後に確認される。あれだけ血を流すことでのし上がってきた男のなかに、どれだけの血が流れてたか?というのが、この『藪原検校』の物語の根幹なわけで。だから『血』が一つの主役かなという気はしますね」

「血」ということでいえば、野村萬斎は狂言師の家に生まれ、そこに留まらず、現代劇の舞台に立ち、演出し、映画やドラマにも、才能の矛先を拡張してきた。自身のDNAの冒険を、どう捉えているのだろう。

「おかげさまで毎年、楽しいですね。『30歳になったら狂言に専念しなきゃ』が『40歳になったら』になり、もう46歳になってしまった。50歳になったら、いい加減、狂言に戻ろうか。そう言いながら別の舞台に居るんだろうなという気はしますね」

では、常に「いつか専念しよう」という感覚はある?

「そうですね。でも、これだけ、それぞれの世界で身につけてしまったものがあったり、経験値があがってきたりすると、面白さは倍増してるかもしれないですね。映像の世界だけは、トシをとると、使い物にならないんだろう、と思いつつ、40歳を過ぎてもまだ主演させてもらっている(2012年には主演映画『のぼうの城』が公開される)というのは、ありがたいことだなと思ってますけど。60歳になったら、さすがに専念してるんじゃないですか?(笑)でも、そんなこと言ってて、狂言に戻ってなかったら、何を言われるかわからないけど(笑)」

取材:相田冬二 撮影:平田光二


野村萬斎'S ルーツ

やはり狂言です。僕は基本的に、演出家や俳優とは名乗らない。「狂言師 野村萬斎」としか名乗らないですから。そういう意味でも、すべてのルーツが狂言。僕の演出的発想、演技的発想の根本にはやっぱり狂言があります。

野村萬斎(のむら・まんさい)プロフィール

「狂言ござる乃座」主宰。国内外で多数の狂言・能公演に参加、普及に貢献する一方、現代劇や映画・テレビドラマの主演、舞台『国盗人』『マクベス』『サド侯爵夫人』の演出など幅広く活躍。94年に文化庁芸術家在外研修制度により渡英。文化庁芸術祭演劇部門新人賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞、朝日舞台芸術賞、紀伊國屋演劇賞等を受賞。2002年より世田谷パブリックシアター芸術監督を務めている。




井上ひさし生誕77フェスティバル2012 第四弾
こまつ座&世田谷パブリックシアター公演『藪原検校』

2012『藪原検校』

作:井上ひさし
演出:栗山民也
出演:野村萬斎/秋山菜津子/浅野和之/小日向文世/熊谷真実/山内圭哉/たかお鷹/大鷹明良/津田真澄/山﨑薫/千葉伸彦(ギター奏者)
日程:2012年6月12日(火)~7月1日(日)
会場:世田谷パブリックシアター
チケット料金:8,500円 他
当日券:あり
お問い合わせ先:世田谷パブリックシアターチケットセンター 03-5432-1515(10時~19時)
公式サイト


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