骰子の眼

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東京都 渋谷区

2011-12-16 21:12


ワン・ビン監督は映画の最も根幹に遡る

中国での上映は禁止の初劇映画『無言歌』日本公開を記念し行われた柳下毅一郎氏、市山尚三氏との対話
ワン・ビン監督は映画の最も根幹に遡る
ワン・ビン監督(右)と柳下毅一郎氏(左)

全3部545分にわたり瀋陽の工場街を記録した『鉄西区』(1999-2003年)、続く老女の語りだけで構成し反右派闘争(中国で1957年に毛沢東が発動した反体制に対すると取り締まりで、55万人が無実の罪を着せられ、市民権を剥奪されたうえ強制労働に駆り出された)の歴史を描いた『鳳鳴(フォンミン)─中国の記憶』(2007年)で山形国際ドキュメンタリー映画祭最高賞を獲得するなど、世界から注目される映画作家である中国のワン・ビン監督。彼の初となる劇映画『無言歌』が日本で公開されることにともない、ワン・ビン監督を「現在最もラジカルで、注目している映画監督」だと絶賛する特殊翻訳家の柳下毅一郎氏と、東京フィルメックス・プログラムディレクターで市山尚三氏とのトークショーが開催。電影局の許可を受けずに制作を行ったため中国での上映が禁じられている今作、そしてこれまでの作品について語られた。

周囲を観察することで問題を解決する可能性を拾っていく、
そこに社会性が生まれる

市山尚三(以下、市山):ワン・ビン監督の作品は、今までは映画祭で上映されてきましたが、『無言歌』が日本で劇場公開される最初の作品になります。

ワン・ビン:初めて撮った劇映画が劇場公開されることになって、観客の皆さんにこの作品を受け入れてもらえるかどうか、好きになっていただけるか、とてもとても緊張しています。

市山:柳下さんは山形ドキュメンタリー映画祭に毎年行かれてご覧になっていると思うのですが、まず柳下さんから今回の『無言歌』に限らずワン・ビン監督の作品全体的にお話をおうかがいしたいと思います。

柳下毅一郎(以下、柳下):ワン・ビン監督も緊張なさっているとおっしゃっていますけれど、僕も緊張しています。というのはワン・ビン監督はいま世界でいちばん先鋭的な映画監督なんじゃないかと思っているからです。最初に2003年に山形で『鉄西区』を観たんですが、そのときから映画祭で噂になっていました。ご存知のように、山形ドキュメンタリー映画祭はかなりハードコアな映画祭でして、そこに集まっているのは映画マニアの極北みたいな人たちばかりなんですけれど(笑)、そこで、今回はコンペティションに9時間半の映画があるらしい、観たら1日がかり、これはやばいんじゃないかと、みんなビビってたんです。でも観たら、ものすごく面白い。第1作の4年後、『鳳鳴(フォンミン)─中国の記憶』が来まして、今度はだいぶ短くなった、たった3時間だと(笑)。で観たら、3時間おばあさんがしゃべっているだけという映画なんです。ともかく、そういう映画を観せられてきましたから、ものすごく怖い人なんじゃないかと。つまらないことを言うと鉄拳制裁を食らわすような人なんじゃないかと思っていたんですけれど、お会いしてみるとたいへん柔和な方で、どこにあの荒々しい映画的情熱を秘めているんだろうって思ったんですねえ。

ワン・ビン:これまで僕はすべて自分の興味のおもむくままにテーマを選んで撮ってきました。もともとドキュメンタリーを撮ってきましたが、それは資金が比較的少なくて済むこと、そして自由に撮ることができる。それでドキュメンタリーを選びました。とてもパーソナルな映画なんですけれど、その興味が広がっていくのは自分の周囲からだんだんと周囲にいる人間を観察して映画へと広がっていく。ですから周囲を観察して問題を見つけることによって、ある種の周囲の人たちの問題を解決するような可能性を拾っていく、そこに社会性が生まれるのではないかと思っています。しかし自分としては、純粋に政治的なものとか、何かについて抗議をしたいとか反抗したいとかそうした意図はまったくありません。私としては、内なる心の世界をきちんと撮っていく、そして人と人との関係性がどうなるべきかということ、いまどういう状態にあって、どうなっていくかということに興味があって映画制作をしています。

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『無言歌』より (c)2010 WIL PRODUCTIONS LES FILMS DE L’ETRANGER and ENTRE CHIEN ET LOUP

市山:経歴を見ると、ドキュメンタリー作家としてスタートして、遂にこの『無言歌』で長編劇映画を撮ったと見られがちなんですが、劇映画を撮りたいという意思は最初からあったんでしょうか?

ワン・ビン:最初はドキュメンタリーの概念は自分のなかにはありませんでした。映画を勉強しているとき、先生はほとんどドキュメンタリーについては触れませんでした。学校の授業で習ったのはハリウッドの映画についてで、先生もそれについて話をしていただけでした。そして卒業してから、新人たちは映画界の商業的なシステムのなかで居場所が見つからないなかで、なんとか仕事をする必要がありますから、ドキュメンタリーを撮る方向に向かったんです。十分な準備のないまま、どういうものがドキュメンタリーかという考えもないままはじめていました。劇映画については、『鉄西区』を撮った後に既に構想が出てきていました。劇映画を撮ることについて、資金的も友人が支援してくれることになり、環境が整ってきた。ですから、計画的に撮ってきたということではなく、今日できることが何であるかということ、それによってドキュメンタリーを撮るか劇映画を撮るかは、環境次第ということなんです。

柳下::でも「とりあえず撮ってみるか」で『鉄西区』は撮れないと思います(笑)。

ワン・ビン:そうなんです。やはり映画のシステムに向かっていくということはあったのですが、明確な計画があって撮っていったわけではないんです。撮っていくなかでだんだんと方向性を見つけていきました。だいたい3分の1くらい撮ったときに、これは映画にできるとだんだん構想が固まってきました。多くのことは偶然で形作られていくものだと思います。撮っていくなかでいろいろなことに我慢し、ゆっくりと歩を進めていく感じでした。

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『無言歌』より (c)2010 WIL PRODUCTIONS LES FILMS DE L’ETRANGER and ENTRE CHIEN ET LOUP

その人に尊敬の念を持って撮るということ

市山:いろんな人に聞かれる質問だと思いますが、ドキュメンタリーを撮るときに、対象の人が撮ることを許容してくれるか、どれだけ信頼関係を築けるかとてもたいへんだと思いますが、『鉄西区』は出ている人がみんなほんとうに無防備に自分をさらけだしているかのように見えます。どのようにコミュニケーションをとったのでしょう?

ワン・ビン:確かに多くの人に聞かれる質問です。まずそういう関係性を作るときにいちばん大事なのは、あまり被写体に対して何か下心のようなもの、へんな目的があるとそれは人に敏感に察知されてしまうものです。翻って言えば、その人に尊敬の念を持って撮るということです。その人の生活、人生そのものを認めていくということです。『鉄西区』を撮ったときは私もまだ若く、特に何もすることがなかったんです。北京で少し仕事をした後は、瀋陽にまた戻って瀋陽のあちこちをぶらぶらしながら、いろんな場所に行って撮っていきました。そのなかで、例えば個性とか社会的な地位とか、物質的な環境、様々なその人が置かれている環境を認めて尊重して撮ることが、被写体との距離を保つうえでとても重要なことです。

柳下::ということは、実際に主題となる相手を撮りはじめる前にかなりの準備期間があるのでしょうか。『名前のない男』で山奥で原始人のように暮らす男が出てきて驚かされますが、その人とも映画を撮る前に有人友人として付き合って、これは撮れるとなった段階でお願いして撮りはじめたのでしょうか?

ワン・ビン:『名前のない男』のあの人物と出会ったのはほんとうに偶然だったんです。あの頃僕はちょうどとても疲れていて、そういう状態になるといつも車で遠くまで出かけることにしているんです。とにかくどこかへんぴなところに行って、家屋のなかでなく、外で休息したくなる。あの時も車を走らせていたときに、偶然あの廃墟のような場所を見つけたんです。とても草が丈高く伸びていたんですけれど、その中から男がぬっと現れました。すごくびっくりして、男の姿はまるで亡霊のように見えました。僕は彼に「なんでこんなところにいるんですか」と聞きましたが、相手は答えませんでした。でも僕は、この人を撮ったらとても面白いのではないかと興味を惹かれたのです。

『鳳鳴―中国の記憶』を撮ったときは、かなり準備をして撮りにいきました。『鉄西区』のときは、準備は少ししましたけれど、鳳鳴のときのようなしっかりした準備をせずに、だいたいのおおきな構成の枠を決めただけで撮りにいきました。映画を撮る時というのは、毎回どういうことを撮るか、どういう出会いがあるかによって、撮り方や準備の仕方が違います。

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『無言歌』より (c)2010 WIL PRODUCTIONS LES FILMS DE L’ETRANGER and ENTRE CHIEN ET LOUP

我々が撮るのはテレビ番組ではなく映画である

柳下::監督は映画を撮るときの手法にたいへん意識的で、それが毎回がらっと変わっている。例えば『鳳鳴―中国の記憶』を撮るときには、彼女の語りだけで映画を作ろうというかなり大胆な決断があったと思うのです。この主題にはこの撮り方、つまり彼女を撮るにはこの語りだけという手法にするしかないという選択は、直感的に浮かぶんですか、それとも取材や予備の撮影をしていくなかで、これしかないという方法を見出していくのでしょうか?

ワン・ビン:映画を撮っていくのは、冒険と同じようなもので、知らないところを探検するようなものです。道の途上にはいろんなものに出会うのですが、きちんと計画するときもあれば、そうでないときもあります。やはり、映画の面白さは映像にあるんですけれど、その映像を作っていくときに、自分の心の世界をどのように語るのか、というところが大切だと思うのです。自分の心と被写体がどのように向かっていくか。その人の置かれている環境、生活している場所やバックグラウンド、仕事などを見据えながら、その人に合った撮り方を考えていきます。映像があっての映画なんですけれど、『鳳鳴―中国の記憶』のときは、その映像の部分を抜いて、言葉を最も重要な要素とすることで、どこまで映画というものを成り立たせることができるかという可能性に賭けました。

そして『鉄西区』は大きく三部構成になっていますけれど、膨大な要素をどのように構成していくか、全体的なものをどう捉えていくか。また群れのなかのひとりひとりをどのように撮っていくかというところから考えていきました。

『名前のない男』については、この人とは出会ったときから、しゃべらない人だということが分かった。ですからこの映画は言葉ではなく、映像だけで試そうと思いました。撮った素材を編集する段階になって、これでいけそうだというのが分かったのです。

柳下::『鳳鳴―中国の記憶』のなかでものすごく好きなシーンがあります。ずっと彼女がしゃべっているうちに、だんだん夜が近づいてきて「ちょっと暗くなってきましたね」と灯りをつけにいくシーンがあるのですが、それがとても素晴らしい。ほんとうに感動にしまして、あれは偶然なんですよね。

ワン・ビン:あのシーンは計画的ではありませんでした。『鳳鳴―中国の記憶』を撮るときは、テーマはちゃんと決めていましたけれど、どの時間でどのあたりを撮るというコントロールはせず時間の流れのままに撮っていきました。撮影には、僕と運転手ともうひとりのスタッフで、西安から蘭州まで24時間車を走らせていきました。ちょうど大雪の日で、たいへんな道のりを700キロくらい走らせて、蘭州に着きました。着いたのが午後になり、既に疲れ果てていましたが、そこからすぐさま撮影を始めていきました。その日既に2時間ほど撮って、自然と夕方になっていって、映画のなかで使われているほとんどの素材を撮ってしまいました。その他は、家の中の音などを補足して録っていく作業だったので、主要な素材は着いた当日にほとんど撮ってしまったのです。ですから、『鳳鳴―中国の記憶』は3、4日の撮影期間でした。

柳下:それはすごいですね。

市山:普通のドキュメンタリーだったら写真素材を加えたりすると思うんですが、それがまったくないというのが驚きでしたし、鳳鳴の語りだけで十分に映画として成立しているのがすごい映画だと思いました。

ワン・ビン:当時、我々がこれから撮っていくのはテレビ番組じゃない、映画である、ということを考えていました。映画というのはある定まった本質を持っています。映画の魅力というのは、映像によって紆余曲折や起伏の激しい物語をわざわざ作る必要がないということがあります。例えば暗い部屋のなかで語っていく、そうした感覚によって出来上がっていくことが、テレビと違うところです。『鳳鳴―中国の記憶』では、がらんとした彼女のほの暗い一人暮らしの部屋で、語りに頼った物語を撮ることは特別な経験でした。彼女が住んでいるあの家の中と彼女の現在の暮らしは、人生を降りてしまったような感じがします。その環境を十分に生かしながら、鳳鳴という人物をどのように捉えていくか。ひとりの人間としての過去と現在をどのように捉えていくかということであのような撮り方になったのです。

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『無言歌』より (c)2010 WIL PRODUCTIONS LES FILMS DE L’ETRANGER and ENTRE CHIEN ET LOUP

柳下::『鳳鳴―中国の記憶』を観ていると、彼女の語りを聞いているだけで情景が浮かんでいくる。彼女が夫に会いにいこうとして夫に会いに行こうとして列車に乗る描写や、着いたときの話がありありと浮かんでくるんですけれど、実際には映画のなかではそれは見せられない。監督は、彼女が語っている場所にはすでに行かれていたんでしょうか?

ワン・ビン:実はその場所は2005年に『無言歌』の準備のためにロケハンに行っていた場所だったんです。そのとき既に『無言歌』を撮る準備に入っていたので、たくさんの人を取材して当時の話を聞きましたし、ロケをするための場所に行きました。ゴビ砂漠の風景や、彼らがおかれていた収容所の農場に行ったり、壕を見たり、彼らが仕事をしていた周りの環境を見に行っていました。鳳鳴の家庭環境についても、撮るときにはかなりよく知っていたのです。ですから、鳳鳴とはほんとうにいい友人関係にあり、お互いとても信頼し合っていました。

柳下::実際その場所を知っていた上で彼女の語りを聞いて、実物を見せなくても十分にその世界は表現できるという確信があったということですよね。

ワン・ビン:そのときはあまりそういう自信はありませんでした。この作品を撮ったのはある美術館の求めに応じて「簡単に撮れるものを」ということで撮ったんです。当時僕はお金に困っていて辛い状況だったので、5~6000ユーロを出すから何か作品を撮ってくれないかと言われ、あまり資金がいらないで済む、そして少しでも残りが出る作品をと思って撮りはじめたんです。ですから、映画館で上映するということは考えていませんでした。美術館の求める要求を満たせばいいと考えていたのですが、実際に撮るときは、映画の本質はないかということをきちんと考えて撮っていたつもりです。映画館でかけなければいけないというプレッシャーはまったくなかったんですが、その後で、山形国際ドキュメンタリー映画祭、カンヌ国際映画祭で上映されたとき、とてもいい反応があってから、ちょっと自信が出て、大胆になることができました。

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『無言歌』より (c)2010 WIL PRODUCTIONS LES FILMS DE L’ETRANGER and ENTRE CHIEN ET LOUP

歴史に対してどのように向かい合うか

柳下::『鳳鳴―中国の記憶』と『無言歌』は兄弟のような映画で、『無言歌』のなかに鳳鳴のような夫を探してやってくる女性が出てくる。ある意味『鳳鳴―中国の記憶』で語られている情景が『無言歌』で表現されているという部分があると思うんです。『鳳鳴―中国の記憶』を観たときも思ったんですけれど、彼女は話を聞いているだけで立派な人物だと分かるんですが、同時に反右派闘争によって人間として持っていたものを奪われた人でもあります。『無言歌』でも、監督の他の映画でも、いろんなものを奪われていって、最終的に人間の尊厳そのものさえ奪われそうになってしまう人たちが出てきます。持ち物も名前も持っていない人たちが、社会の中の役割をどんどん剥ぎ取られていったときに、最後に人間として残るものは何なのかということを、毎回追求しているような気がするんです。

ワン・ビン:この『無言歌』は1959年から起きた反右派闘争を扱っています。なぜ50年前の事件を撮るのか、この疑問を耐えず自分に問いかけてきました。確かに柳下さんがおっしゃったように、『無言歌』のなかで、人間の本質とは、尊厳とはということを考えていますが、それよりももっと自分が一生懸命考えていたことは、歴史に対してどのように向かい合うかということです。記憶する人がいて、きちんと記憶してこそ歴史に成りうるものだと思います。ですから撮るにあたって、準備から7年間を費やしました。そして休みなく作業をし続けてきました。それはある種、歴史に対する使命感を感じているからなんです。『鳳鳴―中国の記憶』にせよ『無言歌』にせよ同じです。これから他の作品も撮っていくことになりますが、歴史を記憶してくということを僕は第三者の眼を持って、様々な異なる作品で歴史をきちんと記録し、それを残していくこと、固めていく仕事をやり遂げたいと思っています。それこそが、過去に生きた人々に対する、我々の先輩に対する尊敬の念であると思って、この映画を撮りました。

市山:『無言歌』で描かれている反右派闘争は、文化大革命に比べると日本ではあまり知られていませんが、映画でここまで直接描かれたのはひょっとして始めてじゃないかと思います。柳下さんはご存知でしたか?

柳下::それこそ『鳳鳴―中国の記憶』を観るまで反右派闘争自体良く知りませんでした。

ワン・ビン:反右派闘争を描いた映画は、東京国際映画祭で上映された田 壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督の『青い凧』(2004年)という作品がありました。側面からではありますが、反右派闘争について触れています。ティエン・チュアンチュアン監督はこの映画を撮ったために映画撮影を禁止されてしまい、50歳を過ぎてまた映画を撮ることができるようになりました。そして、謝晋(シェ・チン)監督の『天雲山物語』(1980年)があります。この中で語っているのも反右派闘争でした。市山さんがおっしゃったように、この『無言歌』ではこのテーマを正面から取り上げました。ただ、かつての夾辺溝という地域、この労働教育収容所に入れられていた人たちのことを全面的に描こうとしても、そういう能力もないし、資金もないし、自由度も限られているので、それはできません。しかしこうした小さな断片から、全体を観てもらうということ、僕の映画のアプローチとしては断片で反右派闘争を解ってもらう、そのような直接的な描写の方法をとったのです。

市山:そもそも監督が反右派闘争を描こうと思ったきっかけというのは?

ワン・ビン:『鉄西区』以前は当時はそうした条件も整っていなかったので、そういうことは考えていませんでした。きっかけはある偶然だったんです。『鉄西区』の後に友人が一冊の本(『告別夾邊溝』)を渡してくれました。それは飛行機に乗る直前で、それを飛行機に乗っていた9時間くらいの間に読破したんですけれど、それでほんとうに悲しい思いに暮れ、この物語を撮りたいという思いが湧いてきたのです。飛行機を降りて目的地に着いてしばらく横になって、この物語を撮るべきかどうか、考え続けました。そして決心が固まって、北京の友人に電話をかけました。「これをぜひ映画化したい」と言ったら友人はとても喜んでくれて、すぐ天津にいる作家の楊顯惠(ヤン・シエンホイ)に連絡をとってくれました。そして映画化の権利を交渉してくれたのです。そうして1ヵ月後、この映画を撮る企画が立ち上がりました。このように物事は時間と出会いによって進んでいくものです。

市山:『告別夾邊溝』は事実に基づいている小説なんですね。

柳下::いまの監督の語りがちゃんと映画になっているのが素晴らしいですね。先ほど『青い凧』の話がありましたが、実際『無言歌』は中国政府の許可を得ずに撮られて、かなり危険なこともあったのではないですか?

ワン・ビン:映画監督として映画に携わる者として、自由というのはあるべきものだと思っています。中国の社会は絶えず変化は続けていますので、その中で個人が自分のやりたいことをやっていける隙間はあると思います。今回『無言歌』を撮るにあたって、中国資本が全く入っていません。制作会社が中国ではないので、中国の電影局に申請することはしませんでした。ですから、中国当局に管理されなければいけないようなことはありませんでした。ただ現場で撮る時にはある程度の困難に見舞われました。中国でなにかするときは紹介状が必要なんですけれど、そうした書類もないため、様々な場所の状況に応じて、自分たちは映画を撮っているのではなく、別のことをいていると説明して撮影を続けなければいけなかったんです。

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オーディトリウム渋谷のトークショーに登壇したワン・ビン監督(右)、柳下毅一郎氏(中央)、市山尚三氏(左)

柳下::この作品は中国で公開されないとおっしゃっていましたね。

ワン・ビン:それは不可能でしょうね。

市山:当局の許可を取らないで作った作品は一般の劇場でかけられないという法律があるんですよね。

ワン・ビン:電影局の許可がないかぎり劇場で上映することはできません。『鉄西区』を撮ってから、この10年あまり数多くの作品を撮ってきましたが、どの作品も中国国内の会社のお金は一切使っていません。それは、制作会社にお金がないのではなく、とてもそうしたリスクを侵す勇気がないからです。もし僕の映画に出資したことが解れば、会社も危なくなる。それは我々も解っているので、わざわざ危ないゲームに引きこもうとは思いません。もし許可がないまま映画館でかけられたとすると、その映画館が処罰を受けるのです。これから中国の映画は創造力が必要だと思うのですが、それにふさわしい環境があるとは言えない。ですからもっとクリエイティブな力を持った人々が出てくるべきだと思います。

柳下::最初にも言ったようにワン・ビンは世界でもっとも先鋭的な映画監督だと思っておりますので、その作品が母国で観られないというのはとても残念なことだと思います。その状況がいくらかでも変わっていくことを祈りたいです。僕はほんとうに、どの作品も大好きなのですが、『名前のない男』を観たときにすごく感動しまして、これは(ロバート・)フラハティじゃないかと。フラハティの『極北の怪異(ナヌーク)』(1922年)は最初のドキュメンタリーと呼ばれていますが、まるであの男はナヌークのように見える。映画の最も根幹のところに遡っている感じがしたんです。そのくらい、生々しく彼の存在が迫ってきて、ワン・ビン監督はドキュメンタリーそのものに近づこうとしている、帰ろうとしているんだとすごく感じました。ゼロに戻ってそこからまた始まるということですね。

(2011年10月10日、オーディトリウム渋谷にて)

取材・構成:駒井憲嗣)



ワン・ビン プロフィール

1967年11月17日、中国陝西省西安生まれ。魯迅美術学院で写真を専攻した後、北京電影学院映像学科に入学。1998年から映画映像作家としての仕事を始め、インディペンデントの長編劇映画『偏差』で撮影を担当。その後、9時間を超えるドキュメンタリー『鉄西区』を監督。同作品は山形国際ドキュメンタリー映画祭大賞はじめリスボン、マルセイユの国際ドキュメンタリー映画祭、ナント三大陸映画祭などで最高賞を獲得するなど国際的に高い評価を受けた。続いて、「反右派闘争」の時代を生き抜いた女性の証言を記録した『鳳鳴―中国の記憶』で2度目の山形国際ドキュメンタリー映画祭大賞を獲得。本作は初の長編劇映画となりベネチア国際映画祭で大絶賛された。




映画『無言歌』
12月17日(土)よりヒューマントラストシネマ有楽町、12月24日(土)よりテアトル梅田ほか全国順次ロードショー

1960年。中国西部、ゴビ砂漠。荒野に掘られた塹壕のような収容所に人々が囚われている。轟々と鳴る風と砂。食料はほとんどなく、水のような粥をすすり、毎日の強制労働にただ泥のように疲れ果てて眠る。かつて百花のごとく咲き誇った言葉は失われ、感情さえも失いかけた男たち。そこにある日、上海から一人の女性がやってくる。愛する夫に逢いたいと、ひたすらに願い、泣き叫ぶ女の声が、男たちの心に変化をもたらす……。

監督:ワン・ビン(王兵)
脚本:ワン・ビン、楊顕恵著『告別夾辺溝』と多くの実際の生存者たちの証言に基づく 出演:ルウ・イエ、リャン・レンジュン、シュー・ツェンツー、ヤン・ハオユー、チェン・ジェンウー、ジン・ニェンソン
特別出演:リー・シャンニェン
2010年/香港・フランス・ベルギー合作/109分/HD/DOLBY SRD
配給:ムヴィオラ
公式HP http://mugonka.com/

▼『無言歌』予告編




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