文筆家・五所純子が行なってきたライブで書評するイベント『ド評』。渋谷アップリンク・ファクトリーで今年5月より開催されてきたこのイベントだが、11月29日の回をもって現状のスタイルでの開催が終了となった。第1回の最初に紹介されたアルフォンソ・リンギス『汝の敵を愛せ』「イノセンス」の章の朗読で幕を閉じたこの日の後に開催なる、12月27日(火)の「五所純子のド評“ド年末スペシャル”」を最後に来年春までお休みとなる。今回はその第7回、「東京」をテーマにした思索の旅を、紹介された書籍の一部とともにレポートする。
■決定的な関係を持っていたと想像すること
『親愛なるキティーたちへ』
著:小林エリカ
1,680円
リトル・モア
第二次世界大戦時にナチス・ドイツに迫害されたユダヤ人の少女として有名なアンネ・フランクが屋根裏でしたためた日記はキティーという架空の少女に宛てられたものでした。それが1945年の頃の出来事で、小林エリカさんはそのアンネ・フランクの日記と彼女の父の小林司さんが同じ時期に遠いところで書いていた日記と、さらに2010年に自分が旅のなかで書く日記、時間と空間を隔てた3つの日記を重ね合わせるという作業を行なっています。
もちろん小林エリカさんもアンネ・フランクと知り合いであろうはずがありませんし、小林司さんとアンネ・フランクが知り合いであったという可能性も皆無に近い。けれど、こうやって重ね合わせることでもしかしたら彼らはすれ違っていた可能性が否定できなくもないというイメージの紡ぎ方。とても筆致は柔らかいですし、文体も読みやすく、美しいイメージにも溢れているんですけれど、この底流にあるのはものすごくハードコアな歴史的な意識だと思います。
間接的であれ、ある決定的な関係を持っていたと想像すること、それだけでは終わらず、その時間が現在もなお続いていて、そこで私たちが、小林エリカさん自身が生きているのだということ。その接続性、ないし続けるのだという意思、完結しないという圧倒的なものが指し示されている。ここまで見えてきた予兆からなにがたくさん誕生していくのか、最後の章「東京」は小林さんの言葉で、締めくくられずに締めくくられていると思います。
『末裔』
著:絲山秋子
1,680円
集英社
人間がいきなり虫になってしまう、世界でいちばん有名な不条理小説がカフカの『変身』だとしたら、これもまた不条理小説なのかもしれません。登場人物はさえない中年男性です。自宅の鍵穴がなくなったという冒頭から端を発し、彼はさまよいます。その後、彼は●●のホテルや鎌倉などにさまようことになるのですが、自宅の位置だけが、十分に東京だとほのめかされているものの、ぼんやりとしています。彼はさまようことによって、自分がある歴史的な地点にいることを知ります。それまで自分の存在価値さえ疑いかけていた中年男性は、自分が誰かの末裔であることを知るわけです。 私が歴史的な存在であるということの認識を手に入れるということは『親愛なるキティーたちへ』と通底していると思うんです。歴史的な存在というのは、なにも歴史年表に出てくる大人物になるということではありません。自分の地点は宇宙のなかにぽっかり浮いたある独立した一点なのではなく、自分の前に先人たちが累々といて、その渓流が以降も続いていくということ。つまり、自分は歴史に加担している存在であるということなんだと思います。
『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
著:モフセン・マフマルバフ
訳:武井みゆき、渡部良子
1,365円
現代企画室
911の前に書かれて、2001年に発表されたものですが、私はこのタイトルを聞いたときものすごいショックを受けました。彼だけが当時、バーミヤンの石仏破壊はタリバンの犯行ではないと愚直に叫びました。なぜ仏像は恥辱を感じなければいけなかったのか。マフマルバフは「アフガニスタンに対する世界の無知を恥じて、自ら崩れ落ちたのだ」とスピーチしました。今も十分有効、というよりも、この歴史意識は身につまされ続けるものだと思います。3月11日の出来事で、東京というのは微妙な距離にあった中央集権の都市だと感じました。「原発やめろ」よりも「原発やめよう」という言い方がついて出る感覚かもしれません。ダニエル・ジョンストンは来日したとき、原爆を落としたことをアメリカ人として詫びたと聞いたことがあります。そのような感覚かもしれません。
『原子力都市』
著:矢部史郎
1,365円
以文社
いろんな街々を歩いたルポルタージュです。鉄の時代の次にあらわるのが原子の時代ではないかという仮説のもとに、今の日本の社会や風景のあり方を原子力都市と呼び、街を歩きながらその歴史が見通されています。一発目が柏崎です。そしてこれはトンデモの範疇とも言えますけど、日本のピラミッドや恐山のイタコの話を、歴史を透視するような作業で丁寧に読み解いています。
個々の街に応じた社会学的、政治学的な問題がきちんと問われていると思います。歩くことがなぜ歴史の透視になるかといえば、街に痕跡が残っているからです。でもなぜそれが見えにくいかといえば、めくらましが多いことと、人間の身体感覚が鈍っていること、この2点に還元できるのかもしれません。都市あるいは空間をめぐる抽象的な思考は、具体的なブツを起点に始まるはずだ。その具体性をつかみとる身体性が大事なのだ。それを著者は「砂丘に入る」と表現しています。
東京から離れた地方都市、その距離によって街の意義が算出されやすいとも思うんですが、そこに「砂丘から撤収すればすべて都市なのだ」を当てはめるとすれば、東京はもはや地方であると言ったのが『サウダージ』という映画で、表現は全く違いますが同じことを言っている。渋谷のドンキホーテにあるのは地方だと思います。
■ド評は私の敵でした
『下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん』
著:嶽本野ばら
630円
小学館
『東京ガールズブラボー』
著:岡崎京子
宝島社
『東京ガールズブラボー』は80年代前半の東京に住むボーイ・ミーツ・ガールの話で、いわゆるサブカルっ子が描かれてもいたわけですが、それが地方に降りてきたというか、地方側から東京に批判性を加えているのが『下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん』だと思うんですよね。
『東京怪童』
著:望月ミネタロウ
590円
講談社
『東京怪童』を最初に読んだときに私が感じたことは、実は震災後を生き延びることということでした。必ずしもこの前の震災を指しません。ある大きな衝撃を受けた後に人が生き延びるということを考えたんです。 ここに出てくる少年少女はある病院に入っています。ある女の子の視覚は人間の姿だけを認識することができない。ある男の子は無痛症で、高いビルから飛び降りようが誰かに殴られようが、外傷はあるけれども、まったく痛みを感じない。主人公は感情のコントロールができなくて、思いついたことが口から出てしまう。病院や刑務所がそうであるように、あるいは義務教育の学校がそうであるように、彼らの存在はとてもマージナルなものであって、この社会に適合するようにある種の矯正を受ける。なぜ彼ら彼女たちはこのような「病理」を抱えているのかと思うと、ふと、人間は自らを変形して自らの生命を存続していくものだということを思ったんです。私には記憶喪失の体験があるんですが、生命を脅かしかねない強すぎる記憶を、生命を存続させるために脳が私に忘れさせた。記憶というのは可塑的なもので、それを変形する、読み替える、書き変えるということを考えてしまいます。
『話の終わり』
著:リディア・デイヴィス
訳:岸本佐知子
1,995円
作品社
『汝の敵を愛せ:Dangerous Emotions』
著:アルフォンソ・リンギス
訳:中村裕子
2,730円
洛北出版
記憶と語りはよく似ているなと、ド評を始めた最初から思ってました。リディア・デイヴィス『話の終わり』という小説からド評ははじめました。この小説は、ひとりの女性がある男性との恋愛体験をひたすら回想していく話でしたが、回想するごとにありようがまるで変わっていくものでした。ド評は書評と謳ったんですけれど、厳密に評であったと思ったことは一度もありません。書評に限らず、評を書くときは、ロジカルなものを優先します。文章を書くという行為は、例えば今書いたこのワンセンテンスが次の文を呼び覚ますのだという言い方ができると思いますが、評の場合はそういった動性よりもロジカルなものを優先するものです。
語ることの怖さは、記憶のありかたにも似て、私がいま話したワンセンテンスを次に私から出てきたワンセンテンスが裏切るかもしれないという怖さでした。もの書く人間としては、これ以上ない無防備さを晒しているだけだと思うこともありました
。
私にとってド評は私の敵でした。次に起こるかもしれない私の情動は、いまこの瞬間の私の情動の敵になりかねないと思いながらずっとしゃべってきました。アルフォンソ・リンギスの『汝の敵を愛せ』の原題はDangerous Emotionsといいます。自らが抱える情動が自らにとって危険なものであるということです。先ほど話したような刑務所や病院や義務教育機関もそうかもしれない、人間というのは、社会というのは、ある線を決めて、マージナルなものを許さず、人間を矯正していくことで成り立っている。私は私自身で自分の主体をそうやってコントロールして、抑制することで生きています。が、同時に一方でそこからはみ出るような情動を抱えているのが私です。そこからはみ出るということは、私の死を意味します。自らを殺しかねない危険な情動を持っているのが人間であるということなんだと思います。
「五所純子のド評」ド年末スペシャル(朗読:五所純子+PHEW)
2011年12月27日(火)
渋谷アップリンク・ファクトリー
ノリノリでイケイケの文筆家・五所純子が挑む書評のライブ・パフォーマンス「ド評」。今回はド年末スペシャルとして、ゲストにPHEWを迎えての朗読会を開催(書評はありません)。ド年末の渋谷の夜に書を介した女二人のモノローグが木霊する。
19:00開場/19:30開演
出演:五所純子
料金:2,000円(1ドリンク付/予約できます)
※UPLINK会員は1,800円(1ドリンク付)
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