『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より (C) 2010 Paranoid Pictures Film Company All Rights Reserved.
世界各地にゲリラ的に活動を続けるグラフィティ・アーティスト、バンクシーが監督を務め、彼を偶然撮影できるようになった男・ティエリー・グエッタがアーティスト“MRブレインウォッシュ”としてビッグになっていくまでの過程をユーモアたっぷりに描き、アート業界を皮肉った映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』。7月に公開がスタートし、日本でもヒットを記録した今作が2012年2月3日に未公開映像など映像特典を追加し待望のDVD化。これを記念して、劇場公開時に行われた美術家の大山エンリコイサム氏と社会学者の南後由和氏によるトークショーの再録を掲載、アートの文脈から、また社会学的立場から今作品とバンクシーの活動を検証する。
結果だけでなくプロセスが作品になっている
大山エンリコイサム(以下、大山):僕は基本的にストリートアートがすごく好きなので、映画の個人的な感想としてはまず、初心に戻ったような楽しさということがありますね。同時に、現象の仕掛人としてのバンクシーの巧みさには目を見張るものがある。特に、鑑賞者のもつリテラシーの幅や程度の差によって映画の見え方が変わってくるようなところが面白いと思います。
南後由和(以下、南後):映画の中にも、「人類学的にも社会学的にも示唆に富んでいる」という発言がありましたが、社会学の観点から見ても、とても刺激的な映画でした。社会学者は芸術に対して、芸術家の神聖性や独創性を手放しで賞賛するというよりは、その神聖性の成り立ちを解き明かしたり、芸術作品の生産、流通から消費までのプロセスに興味を持ちます。例えばアメリカの社会学者のハワード・S・ベッカーによる「アート・ワールド(芸術界)」という考え方があります。芸術作品は、単に芸術家の手によって生み出されるのではなく、芸術家や作品を取り巻く、コレクター、キュレーター、編集者などによって形づくられている「アート・ワールド」によって生み出されるのだという考え方です。
この映画でも、コレクター、ディーラー、プロデューサーなどがインタビューに登場し、バンクシーを取りまくアート・ワールドが見事に描かれています。あるいは、Mr.ブレインウォッシュという「アーティストのつくり方」を描いた映画でもある。『ユリイカ』2011年8月号のバンクシー特集で鈴木沓子さんが「バンクシーという現象」という言い方をしていましたが、こうやってトークショーでバンクシーの映画についてしゃべるということ自体、私たちも映画を取り巻く現象の共犯者かもしれないと自覚しながらしゃべらないといけないですね。
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──「バンクシー効果」という言葉もありますね。2人は『アーキテクチャとクラウド』という本でメール対談をされていて、バンクシーにも言及されています。今回のトークイベントでは、メール対談された内容を対面で伺いたい、という経緯がありました。
大山:そうですね。『アーキテクチャとクラウド』ではあまり『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』に触れることができなかったので、今日はこの映画について考えるよい機会になればと思います。南後さんから「私たちも映画を取り巻く現象の共犯者かもしれない」という指摘がありましたが、その巻きこまれ方は、主に映画をどう受容するかということと結びついていますね。鑑賞者のもつリテラシーによって、例えばストリートアートに精通している人、コンテンポラリー・アートに精通している人、映画に精通している人、そのどれでもない人など、それぞれ映画の受容の仕方が異なる。単に話題の映画だからという理由で見る人にとっては、ある種のコメディのように映るわけですが、現代美術のリテラシーが高い人から見れば、サブカルチャーとファインアートにまたがり始めている昨今の「アート・ワールド」をアイロニカルに描写していることがわかる。つまり、どのようなリテラシーを前提に鑑賞するかによって、その受容=巻きこまれ方もさまざまなのですね。リテラシーの複数性による解釈の多様性ということは、この映画に限らずあらゆる文化的生産物一般にある程度まで当てはまることですが、『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は特にそのことを意図的に仕掛けていて、それが現代社会のあり方ともうまくマッチして話題性を高めているという印象です。そして、リテラシーを巡るそういった意識は、特に匿名性や有名性という観点からなされているように思います。
南後:匿名性ということで言えば、通常、アーティストは署名をします。バンクシーはタグをかくときは署名しますが、多くは署名どころか、作品のタイトルすらない。バンクシーの絵ということにはなっているけど、固有名としてのタイトルはありません。近代の芸術家と作品の結びつきとは違います。そこには、デュシャンやウォーホルという、アート・ヒストリーとの接続と断絶があります。
署名以外に言える違いは、結果だけでなくプロセスが作品になっていることです。例えばデュシャンの「モナ・リザ」に髭をかき加えた作品と同様、モナ・リザの顔をスマイリーフェイスに変えた作品をかくという点ではデュシャン以降のアート・ヒストリーの文脈を意識させつつも、大英博物館に忍び込んで、自分の作品をゲリラ的に設置する様子を撮影して記録している。作品に署名がない以上、あるいはグラフィティはやがて消されてなくなってしまうがゆえに、それを記録するという行為が重要になってくるわけです。そのゲリラ的に設置した作品が、美術館の人に見つかって外されるまでの時間、つまりどれだけその作品が持続したのかも作品の一部となっている。一方、Mr.ブレインウォッシュの作品は、スタッフが作った作品からどれがよいか単に選定するなど、ほんの一部しか自ら関与しない集団制作によって成立していますが、ウォーホルもファクトリーを営んで集団制作によって作品を生み出していました。そこはウォーホルの系譜につながります。社会学的にも、アート・ヒストリー的にも色々つなげて論じたい気にさせられるようなフックが散りばめられていて面白かったです。
大山:そうですね。あるいは、例えば村上隆やダミアン・ハーストの作品がさりげなく映っていたり、映画冒頭ではミュージシャンのベックやオアシスのノエル・ギャラガーが出てきたり、80年代にジャン=ミッシェル・バスキアがストリートにかいていた「SAMO」というタグがかかれるシーンもあったりと、さまざまなフックが有名性/匿名性/署名性を跨ぎながら仕込まれているという印象です。ちなみに、シェパード・フェアリーがアンディ・ウォーホルのパロディのような格好をしている映像も出てきますね。
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実際のストリートアートをめぐる状況を反映
南後:グラフィティとして、アルファベットの組み合わせである暗号のようなタグを読み解くには内輪的でローカルなリテラシーが求められるけど、バンクシーの作品は文字言語としてのグラフィティが読み解けなくてもわかる。そういう意味では、開かれたグラフィティですね。
大山:ウエストバンクの壁には、イスラエルとパレスティナの関係という極めて強大な政治的・世界史的なコンテクストがあるわけですが、バンクシーはそのことをまさに活用しています。つまり、サイト・スペシフィックです。まあ、サイト・スペシフィックというのは現代美術の世界ではだいぶ前から言われてきたことで、「何を今さら」という感じもしなくはない。ただ、そもそもグラフィティは、かかれる場所や支持体のもつ意味やコンテクストを暴力的なまでに無視して、どんな壁にも一元的にひたすら自分の名前をかいていくという営みだったわけで、言わば現代美術的な意味でのサイト・スペシフィシティが限りなくゼロに近かった(厳密に言うと、グラフィティ的感覚のなかで別種のサイト・スペシフィシティが働いているのだけれど)。また、名前のルールに一元化されてしまうそのような状況は、南後さんの指摘する通り、グラフィティをローカルなサブカルチャーへと閉ざし、他の文脈から隔離されたところに置いてしまっていたわけです。そう考えていくと、バンクシーの想像力というのは、アンダーグラウンドな局所的世界の感性をより幅広く複雑なコンテクストへと再-接続していると言ってよいと思います。
南後:コンテクストを置き換えたり、つなげたり、付加したり、というのはバンクシーに限らず、グラフィティの特徴のひとつですね。『Wall and Piece』というバンクシーの本にも掲載されていますが、手前が水面で、水面と接する船体にステンシルでボートをかいた作品があります。壁という制約を越えて、船体の表面と水面を連続的に扱うことにより、ボートが水面に浮かんでいるように見える。コンテクストをずらしたり、拡張したりしているわけです。しかもバンクシーの場合、単なる環境のレイアウトの操作にとどまらず、アイロニーや批評的メッセージが込められている。コンテクストの操作などはポストモダニズムでもあったし、見立ての手法は日本にも古くからあります。例えば、路上観察学会は見立てや名付けを「遊び」として面白がっていたわけですが、その活動はどちらかというとユーモアとしての笑いにつながっていました。バンクシーはユーモアだけではなくアイロニーが効いている点が違いますね。
大山:それに関して言えば、バンクシーのもろもろの実践を近現代美術の系譜に置いて考える時、わりと教科書的なアプローチになっているようにも思えます。これは、ストリートアート一般についても指摘されてよいことですね。アートというのは結構いろんなことがやり尽くされていて、過去にすでに誰かがやっていないかどうかという「新しいもの好き」な視点で判断することにも留保が必要ですが、同時に、先のサイト・スペシフィシティや路上観察学会についてのように、ストリートアートの実践がどこかで近現代美術に先取りされているような印象もある。
今のところグラフィティやストリートアートには「アートの外部」であることの専売特許とでも言えるものがあって、それだけで何となく面白がられたりするわけだけど、それはある種のツーリズム、つまり珍しいもの見たさの論理でもあって、その段階に留まっていても仕方がないなという気はします。そのような「珍しいもの」が「見慣れたもの」になった時、それでもどこまで価値を維持しうるかという点がクリティカルになってくるでしょう。ただ『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』では、そのようなリテラシーや文脈のギャップも含めた複数の「(アート・)ワールド」の位置関係のようなものも織りこまれて描写されているので、もう一歩先に進んでいるとは思いますけど。
作品にタイトルがないということについては、ルネッサンス以降の近代美術は多くの場合、作家名と作品、そして作品タイトルという3点セットが基本単位になっていて、その上にさまざまな仕方で有名性というものが蓄積され有名作家や有名作品が生まれていく。ところが、バンクシーの諸実践にはタイトルがないのに、個別の有名性が発生しているということは面白いですね。その際、サイト・スペシフィシティが一定の効果を発揮していることは指摘されてよいかもしれません。ウエストバンクのあれ、とか、マーブルアーチのあれ、という具合ですね。他方で、今回の映画にはタイトルがついている。そのあたりが10年後20年後にどうなっていくのか。今後のバンクシーの展開は、そういった部分も含めて見ていきたいですね。
南後:交換不可能性というか、バンクシーの固有性がどこまであるかを突き詰めて考えていくことが重要ですが、バンクシーが面白いのは常にストリートアートと制度化されたアートの境界、こちら側とあちら側、アート・ワールドの内側と外側などの境界を入れ子にしながら組み替えようとしている点です。バンクシーがかく壁は物理的に存在する壁でもあるわけですが、同時に私たちを取り囲んでいる制度や慣習など、目に見えない壁の存在にも気づかせてくれる。アート・ワールドという閉じられた壁もそのひとつで、その外側が存在することへの期待を感じさせてくれます。
僕が疑問だったのは、なぜ映画にしたのかということでした。グラフィティは、既存のモノを転用したり、既存のインフラに寄生したりする。ゼロ年代に出てきたイタリアのBLUなどがYouTubeなどタダノリできる情報インフラを駆使しているのと比べると、なぜ映画だったのか腑に落ちなかったんです。でも、既存のシステムに、アンチや反ではなく果敢に侵入していく姿勢をバンクシーに一貫して見出すことができると言えるかもしれません。Mr.ブレインウォッシュの活動の舞台がハリウッドのあるLAであるのも、スターシステムを文化産業として作り上げた元祖であるハリウッドへの皮肉でしょう。
また、バンクシーはドキュメンタリーとフィクションをごちゃまぜにしただけでなく、作者性という問題とも微妙な関係をはらんでいるがゆえに映画というメディアを選んだとも考えられます。映画は、俳優、脚本家、照明、音響など数多くの人による集団制作の成果ですから、どこまでが監督の作品と言えるのかが難しい。また、いかに映画監督として全体をコントロールしようと計画しても、俳優の動きなど、予測不可能性や偶発性が必ず出てくる。『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』でも、どこまでバンクシーがMr.ブレインウォッシュをディレクションしているのかわからない構造になっています。このような作者性や偶発性といった、映画というメディアが抱え込んでいる特徴をうまく逆手にとっていると思いました。
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グラフィティの世界の「定量化される有名性」
大山:なるほど。なぜ映画なのかということについて言えば、もうひとつは物語を扱えるからかもしれませんね。映画の前半部分では各々のストリートアーティストをドキュメント風に紹介していくわけですが、中盤からMr.ブレインウィッシュの伝記というか、サクセスストーリーとして物語風味が強くなっていきます。それは実際のストリートアートをめぐる状況を反映しているようにも見えなくもない。以前は、さまざまなメディアでグラフィティという文化の全体像が紹介されることはあっても、個々のアーティストにはスポットがあまり当たっていなかったのですが、現在は、固有名性のあるアーティストがだいぶ出てきている。それはひとつの大きな変化だと言ってよい。
それと、もうひとつ今日考えたかったこととして、グラフィティにおける有名性の問題があります。バンクシーは匿名ということになっているけれど、無名ではなく、むしろ有名です。それは本名ではなくタグネーム(コードネーム)を顕名にすることで可能になるわけですが、この事実ひとつをとっても、匿名性と顕名性というのは単に二項対立では捉えられなくなってきていると言うことができるでしょう。
ところで、有名性について考える時、昨今のソーシャルメディアの普及というのがひとつのヒントを与えてくれるように思います。有名性というのはもともと漠然としたもので、明確に序列化したり定量化したりできるようなものではなかった。テレビを例にとれば、ゴールデンタイムの番組に出演している芸能人は、深夜枠に出演している芸能人よりも有名性が高いことはなんとなくわかる。逆に言えばその程度の認識が限界で、ではゴールデンタイムに出演している数多くの芸能人のなかでは誰が誰よりも有名なのかというようなことは特定しづらかったわけです。ところがツイッターを見ていると、フォロワー数というのが一の位まではっきりと数値化されている。もちろんフォロワー数=有名性の値と言い切れるわけではないのですが、ある程度まではそう考えてもよいし、あるいは、そのように数値化されることでフォロワー数=有名性の値であるかのように思えてしまうのですね。このように数値化され、定量化されることで有名性の微妙な差異が露になり、同時に、誰それは誰それよりも有名であるといった序列化の心理も働いてくるわけです。
実はグラフィティの世界において、このような「定量化される有名性」は早い段階からひとつの重要な指標でした。『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』でも、シェパード・フェアリーが世界中に100万枚以上のステッカーやポスターを貼ってきたという説明がなされていますね。どれだけの数のタグをストリートにかいてきたか、あるいは、どれだけの数の土地に出向いてボミングをしてきたのかというような、それなりに定量化できる要因が個々のグラフィティライターの有名性やステータスに直結しているわけです。このことは、すでに触れたようにグラフィティが場の固有性や文脈を顧みずに、基本的にはいつでもどこでもひとつの記号、つまりタグネームをかく行為だということと密接に結びついている。ひとつひとつのタグの「質」が変わらない分、その「量」が重要なパラメータになるのですね。
ただ、かかれる場所によって、同じひとつのタグでも有名性への寄与の仕方が異なってくるという側面もある。人通りの少ない路地裏と、繁華街や大通り沿いなどでは、後者の方が多くの人に見られる可能性が高く、有名性の形成にとって重要度が高くなります。ところがテレビの例と同じで、住宅街の路地裏より渋谷や新宿にかく方が人目に触れるということは想定可能だけれども、では渋谷と新宿どちらの方がより人目に触れるのかということは判断しづらい。つまり、タグの総数のようにそれなりに定量化できてしまう水準とは別のところで、都市空間を行き交う人々のアテンションをどう効果的に獲得するかという問題があり、ここに定量化できない有名性の振れ幅が発生すると考えてみたいのですね。この点を展開していけば、どこでも同じようにタグをかくのではなく、その場がもつ意味やコンテクストへと介入することで誰が見ても理解でき、目を向けてしまうようなグラフィティを施すという戦略がでてくるわけです。そのように考えれば、ある時期からバンクシーが同じ型のタグを繰り返しかくのではなく、場を勘案しながらそのつどサイト・スペシフィックなゲリラ的表現を行なっているという事実は納得がいきます。実際ウエストバンクの壁にかくことで、彼は全世界の関心を一手に集めたわけなのですから。
南後:最初に署名という話をしましたが、要はグラフィティ・ライターの有名性ってボトムアップ的に拡散していくんですよね。グラフィティの道具であるペンとスプレーも、それぞれ署名と拡散を示す根源的なメタファーでもあると思います。また、タグが90年代後半以降に都内で増殖したのは、インターネットやケータイというメディア環境の変化とは無縁ではありません。グラフィティもデジカメやケータイで撮って、それがウェブにアップされて人びとの間で話題になる。現在口コミでの拡散をマスメディアが後追い的に追いかけるという風に順序が逆転しているわけですが、バンクシーやグラフティをめぐる現象にもそのことが当てはまります。けれど、アート・ワールドは貪欲で、そのような口コミ的かつ匿名的に増殖していくグラフィティも、オークションなどのような場で値段として数値化して回収してしまう。アート・ワールドとのいたちごっこになるわけですが、そこから逃れるためにバンクシーがどういうことを仕掛けていくのかは今後も楽しみです。
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さまざまな解釈が引き起こされること自体が狙い
質問者1:私はこの映画をドキュメンタリーという前提で観ていたのですが、観終わって分からなくなりました。Mr.ブレインウォッシュは実在するのでしょうか。
大山:僕たちも一鑑賞者なので事実は知らないのですが、オフィシャルにはドキュメンタリーということになっているし、基本的にはそうだと思います。ただ、どちらかと言うとフィクションかノンフィクションかの見極めが重要なのではなく、その曖昧さも含めてさまざまな解釈が引き起こされること自体が狙いなのではないかと思いますね。
南後:僕も線引きをすること自体は、あまり重要ではないと思います。むしろ、ドキュメンタリーはいかにして可能か、ドキュメンタリーで捉えることのできない要素とは何か、あるいはドキュメンタリーとフィクションの境界などに対する問題提起として受け取りたいです。ちょうとMr.ブレインウォッシュが両方をまたがる存在としてあるように、たとえフィクションだって、監督がコントロールできない、意図していないことや予測してないことが起きます。ドキュメンタリーでも、登場人物が演技してしまう、あるいは演技させられているという側面があるので。
質問者2:映画のなかでバンクシーは「Mr.ブレインウォッシュの作品には価値がない」と言っていましたが、本当にそうなのでしょうか。展覧会を訪れた観客のコメントのなかには、喜んでいたり、アートの意味について考えたりするようなものも多かったと思います。その点をどう考えますか。
南後:デュシャンの「泉」の場合は、元々は価値がない便器を署名によって価値にあるものに転化させました。ただし、その価値は芸術家個人によって規定されるというよりはむしろ、コレクターやメディアや美術の制度・規範など、さまざまな人びとの思惑や利害関係が絡んで価値が付与されていく。そのドキュメンタリーとして、この映画を楽しめると思います。
また、Mr.ブレインウォッシュの映像のコラージュの仕方はさておくとしても、後半のいわゆる典型的なアーティスト気取りの作品より、ライフログとしてあらゆる出来事を偏執的にカメラに記録し続けたその映像記録の方が価値があるかもしれません。何故、このような他者への意味伝達を前提としていない、日々の記録を取り続ける人物が出てきたのか。Mr.ブレインウォッシュは極端な例かもしれませんが、このことはインターネットやソーシャル・ネットワーク上に氾濫する私物語やライフログ、僕たち自身のコミュニケーションのあり方とも通じる同時代的な部分があると思います。意識的であれ、無意識的であれ、常に何かを反復的にやり続けることに駆られているMr.ブレインウォッシュの姿は、後期近代以降の再帰的な自己言及のあり方でもあるような気がしました。
大山:それから、映画後半の展覧会とそこに展示された作品について言えば、まずMr.ブレインウォッシュが個展を行なうこと自体に現象としての面白さがあり、ひとつひとつの作品は、展覧会やそれを描いた『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』という映画の価値を分有していると言えます。つまり、作品の先にある展覧会や映画という物語と結びつくことで、作品にも一定の価値づけがなされうるのですね。逆に言えば、そのような外部の事象との接続を差し引いた時、作品そのものに内在する価値があるかというと、判断が難しいと言わざるをえません。
南後:もうひとつ、作品の価値に対するスタンスとして、バンクシーには所有に対するアンチテーゼがあると思うんです。バンクシーがしていることは、もちろん別の角度から見れば違法行為や迷惑行為ですが、パレスチナの壁の作品など、時に命の危険を冒してまでグラフィティをするバンクシーの行為は、無償の行為です。その無償の行為がさまざまな問題を喚起したり、現象として人を巻き込んでいく。バンクシーのストリートにおける作品は、フリーでシェアできるという、所有としての価値ではない価値を持っています。また、それらストリートにおける作品を見つけたり、ウェブに写真をアップしたりすることの楽しみは、作品をめぐるプロセスに参加、コミットする面白さにつながっています。それは、例えばAKB48の人気などとも相通じるところがあると思います。
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質問者3:『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』観て、グラフィティやストリートアートはアヴァンギャルド芸術やポストモダニズムと同じ末路を辿るのではないかと思いました。つまり、延命できないのではないかと思ったのですが、いかがでしょうか。
南後:オールドスクールのグラフィティとは異なり、バンクシー以前と以後でグラフィティの表現形式も随分と変わりました。この映画に登場していたアーティストも含め、グラフィティはその姿形を現在進行形で変えています。ただし、延命というか、死なないためには、バンクシーもそうですが、グラフィティはやり続けないといけないという宿命に駆られていて、それは体力がいることです。もちろん、やがて歴史化される時が来るだろうし、彼らも自分のアーカイブのされ方を意識しているからこそ、作品の記録を重視しているのだと思います。
大山:具体的にどのようなアヴァンギャルド芸術を想定されているかわかりませんが、ある種の近代美術は、単線的な歴史の流れのなかで前代のやったことに対する応答や乗り越えとして進んできた傾向があり、その結果、最終的に行き詰まってしまった側面があるわけですよね。他方で、閉じたローカル・ルールのなかで発展してきたグラフィティ文化は、そういったコンテクスト上の応答や乗り越えによる前進とは無縁のところで、ひたすら表現力やテクニカルな部分のみが進化してきたという経緯がある。いわゆるガラパゴス的な進化ですね。大雑把に言ってゼロ年代以降のストリートアートが、グラフィティというローカルなサブカルチャーを経由しつつより広い意味でのアートとして現れてきたと言ってよいのであれば、今後は署名や作家性の問題、あるいはアヴァンギャルドの限界といった美術史的にすでに議論されてきたいくつかの項目と無関係ではいられないわけです。ストリートアートが一過性の流行で終わらず、長い時間をかけて脈々と積み重ねられてきた近現代美術の営みに参加するには、そういったことと向き合わざるをえないというのは事実でしょう。
南後:バンクシーのグラフィティは、自己顕示欲や承認欲求などにもとづく、他者に見られたいグラフィティではなく、こちらが見られている、試されているように感じられます。68年以降、前衛に出口がなくなったという話はよく言われますが、バンクシーは、権力、システムなど自由を妨げる「見えない壁」の存在に気づかせ、その壁に窓を開けようとしていると言えないでしょうか。バンクシーは、その窓を通じて、世界の見方を示しているのだと。
(2011年9月、渋谷アップリンク・ファクトリーにて)
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台場でミスター・ブレインウォッシュ展開催(2011-12-02)
http://www.webdice.jp/dice/detail/3331/
大山エンリコイサム プロフィール
1983年、東京生まれ。美術家。「Quick Turn Structure(急旋回構造)」という独特のモチーフを軸に、ペインティングやインスタレーション、壁画などの作品を制作、発表している。主な展示に「あいちトリエンナーレ2010」(名古屋市長者町, 2010)、「Padiglione Italia nel mondo : Biennale di Venezia 2011」(イタリア文化会館東京, 2011)など。共著に『アーキテクチャとクラウド―情報による空間の変容』(millegraph, 2010)、論文に「バンクシーズ・リテラシー――監視の視線から見晴らしのよい視野にむかって」(「ユリイカ」2011年8月号, 青土社)など。
http://www.enricoletter.net
南後由和 プロフィール
1979年大阪府生まれ。社会学者。東京大学大学院情報学環特任講師。共編著に『文化人とは何か?』、共著に『アーキテクチャとクラウド』『Atelier Bow-Wow:Behaviorology』『路上のエスノグラフィ』『都市空間の地理学』など。
■リリース情報
DVD『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』
2012年2月3日発売
監督:バンクシー
出演:ティエリー・グエッタ、スペース・インベーダー、シェパード・フェアリー、バンクシー ほか
ナレーション:リス・エヴァンス
音楽:ジェフ・バーロウ(Portishead)、ロニ・サイズ
2010年/アメリカ、イギリス/87分/英語
5,040円(税込)
アップリンク
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