文筆家の五所純子が渋谷アップリンク・ファクトリーで毎月最終火曜日に行なっているイベント『ド評』。その第四回目のテーマには蒸し暑い夏の夜らしく『怪談』が選ばれた。大勢の目撃者がいたにも関わらず、未然に防ぐことの出来なかった殺人事件について言及するルポタージュ『38人の沈黙する目撃者 キティ・ジェノヴィーズ事件の真相』の紹介を皮切りに、今改めて怪談として捉えなおすことが可能な書籍を次々に紹介した。このイベントは90分にわたり、モノローグ形式でディスク・ジョッキーならぬブック・ジョッキーのように書評を行なっていくというもの。彼女の思考の移り変わりが空間に綴られ、観客の思考と繋がっていく様がとてもスリリングなこの即興で行われるライブ・パフォーマンスの一端を、言及された書籍とともにレポートする。
人の語る嘘、虚と実が交錯し点滅する仕方に個々人のありようが現れる
『38人の沈黙する目撃者 キティ・ジェノヴィーズ事件の真相』
著:A・M・ローゼンタール
翻訳:田畑暁生子
青土社
これは死んだ人をめぐって、ジャーナリストと呼ばれる生き残った人たちがそれを検証していった本です。およそ50年前のニューヨークで起きた事件のルポルタージュですが、私はひとつの怪談として読み解きました。おどろおどろしいストーリーに仕立てる以前の、とても淡泊で明快な事実だけがあり、このなかではアパシーという用語が頻出していますけれど、なぜ私たちはこんな無関心な市民になり果ててしまったのか、一種のトラウマチックなものを残しながら、単に物語としてでなく、恐ろしい怪談であり、神話のようなものになっていくんです。「どれだけ現場から離れていれば自分を正当化できるのだろうか」という一文があるのですが、死んだ人間は自らを語ることができず、証言を残すことができないという、どうしようもない真理の上に立脚しているのが怪談なんだと思います。
『ぼくのゾンビ・ライフ』
著:S.G.ブラウン
翻訳:小林真里
太田出版
視点をがらりと変えて“死んだ人間に語らせる”ということを小説でやっているのがこれで、死んだ男が一人称で語っているお話です。ゾンビが生きている人間とともに暮らす。でも一度死んでしまった者なので、どういう殺され方や死に方をしたとしても、体が腐っていったり傷がついていたりして、生きている人たちにとっては耐えがたいものがある。そういったドタバタがコミカルに描かれている。死者に語らせることはおよそ不可能なんですけど、創作ではそうした不可能性をやすやすと越えることができます。映画『ゾンビ』のあの像は、およそ起こりえないからあれだけ楽しいわけですけれど、あるものとして淡々と描かれるそこには、現実の社会問題や歴史的な経験が刻まれている。これも一個の怪談といっていいと思うんです。現実からいかに離れるかということではなくて、ある現実の社会や歴史の上でなんらかの根拠なり由来が見出されるから恐ろしい。単に奇想文学としてくくるのではなく、政治的な現実の経験と、死者や幽霊という存在が現在の世界に遺恨を抱いているだろうというこちらの後暗さが恐怖を産んでいると思うんです。
『ハリウッド・バビロン I 』
著:ケネス・アンガー
翻訳:明石三世
パルコ出版
いかにも事件の匂いがする女性の表紙、いいですよね。ケネス・アンガーが書いた、ざっくり言うと死んだ人たちの話。ハリウッドという巨大なシステで形成される人間模様と、本当に破廉恥なゴシップの数々があり、まるで王宮のような、創世記を打ち立てるような、神殿を打ち立てるようなハリウッドというものがあり、子供の頃からそこに親しんだケネス・アンガーという人物はそれへの憧れと嫌悪がある。グリフィスの映画『國民の創生』で使われた巨大な神殿のセット、それが通称ハリウッド・バビロンと呼ばれていて、そこから本歌取りしたタイトルですね。数々のスキャンダラスな死を扱い、ハリウッドという巨大な怪談、怪しい塊を崩すようでいながら、批判機能も負うような暴露やエピソードを頻出しながら、いびつな形でハリウッドなる怪しげなるものを再構築している本です。これをまた別の角度から切り込んだのがジェイムス・エルロイで、暗黒小説というかハードボイルド、ミッキーマウスとマフィアが地下で出会うような緻密に構築された妄想的な小説を書いています。
『夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録』
著:V.E.フランクル
翻訳:霜山徳爾
みすず書房
怪談とは、死人が口をきけないという原則の上になり立ち、そして人をなぜか恐怖させる。そういう意味では、とても安直な想像かもしれないけれど、どうしても出てくるのがアウシュビッツについての本なのです。これはドイツの強制収容所に収容されていた精神科医がのちに綴った記録です。人の証言には、もちろん嘘が含まれるものだと私は思っています。全てが真実とは限りませんし、そうしてしまうとあまりにも一元的すぎて人の話を聞く気になんてなりません。嘘が含まれるからこそ聞いてみたい。なぜなら、その虚と実が交錯し点滅するその点滅の仕方に個々人のありようが現れるから。またその複層性のもとに対峙するのが歴史というものだと思います。およそ真実じゃないものが含まれるものを否定するのでもなく、そのあり方に触れたいと思うんです。
『死体に目が眩んで―世界残酷紀行』
著:釣崎清隆
リトルモア
私の唯一の購読誌が『BURST』だった頃、釣崎さんは死体写真の連載をしていました。ごろりと無残に殺されて転がっている死体の写真を撮っては文章を綴り、という。釣崎清隆という人の作業に信頼を置けるのは、何ものにも死体を貢献させていないということでしょうか。ごろりと横たわる死体があれば、それはごろりと横たわったまま。人の死って利用しやすいものなんですよね。そして生も。その横たわるものをただごろりと横たわらせるだけ、ということのほうがむしろ難しいような気がします。『38人の沈黙する目撃者』では、音だけを聞いてしまった人が事件を見ていたことになっていたように、無意識の操作がなされてしまう。読み解き易さを求めてしまうんですよね。そして怪談はその読み解き易さのもとに調整されていると言っていい。そういう意味ではこの本は怪談の対極かもしれません。
『シックス・センス』や『アザーズ』のように、死者はとなりにいるのかもしれない、実は死はとても近接したところにあるんじゃないか。それは私がすぐ死んでしまうかもしれないはかない存在だという意味だけでなく、スピリチュアルな話や神秘体験としてでなく認識の話として、死者がここにいるとして、なぜそれを否定できるだろうという気がしているんです。生きている者が死の方にダイブしてしまうかもしれないその危うさ、という話ではなく、ほとんど唯物的に“ここに死者がいる”。そういった世界観はあると思います。
『栞と紙魚子 1 新版』
著:諸星大二郎
朝日新聞社出版局
『鎌倉ものがたり』
著:西岸良平
双葉社
怪談は化け物の話だと広辞苑にありました。化け物の話には死が横たわっているのだというのが私の読みでした。さて、このふたつの作品の共通点は異なるものがすぐそばにある、そしてそこに登場人物たちが誰も驚いていないという世界観です。『栞と紙魚子』はふたりの女子高生が摩訶不思議なものたちと格闘する話なんですけれど、なにが良いってふたりがまったく動じていないところですね。ふたりがミステリーを解決していく話でもあります。摩訶不思議なものや化け物を前にしたときに動じない少女が描かれている作品はとても少ないと思うので、とてもシンパシーを覚えます。このふてぶてしさは最強です。そして『鎌倉ものがたり』、こちらもミステリーで、鎌倉という街に当たり前に妖怪が悩み相談に来たり、ドタバタしながら解決していく。漫画なのでもちろんここには笑いが仕掛けられているんですけれど、こういう世界観が安定している作品はほんとうにいま読み返したいです。
稲川方人「悪文とは悪意の文章のことである」
(『nobody』誌35号に収録)
怪談とは、人間でない〈異〉なるもの、死が横たわってるもの、死に触れようとするもの、見えないものを表そうとするもの。さて、どうやら見えないものの存在が見えないからこそ私たちにあなたに迫ってきているような感覚が、あるときからますます起きてきたと思います。私たちが甘受しなければいけない現実を、一種の怪談と言い切ってしまうことにはためらいがありますけれど、それくらい不条理なことも起きているなか、〈その後〉の文章を読んできたときに、唯一私が最後まで音読することのできなかった一気書きの文章があるので、それを読んで終わろうと思います。稲川方人さんのとっても息の長い文章です。驚くことに最後の最後まで、ワンセンテンスで書かれています。
(注)福島県出身の詩人・稲川方人が書いた3.11以降の世界にたむけた超長文詩。
「五所純子のド評」第五回目「食欲」
2011年9月27日(火)
渋谷アップリンク・ファクトリー
気鋭の文筆家、五所純子が挑む90分モノローグ一本勝負の“書評のライブ・パフォーマンス”。毎月最終火曜日夜八時に開催。たいへん好評です。「前回とは全く違う風合いのものになったなあと終わってから気付く、即興演奏のようなド評です」(五所純子)
★今回は「食欲」をテーマに書評が行われます。
19:00開場/19:30開演
出演:五所純子
料金:1,500円(1ドリンク付/予約できます)
※UPLINK会員は1,300円(1ドリンク付)
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