骰子の眼

art

東京都 港区

2011-04-29 23:05


「痕跡しか残っていない、失われたもので構成されている」ポリエステル布に絵具を洗い流しながら描く画家・岩熊力也の喪失感

6月6日まで東京・国立新美術館で開催中『アーティスト・ファイル2011―現代の作家たち』に参加。
「痕跡しか残っていない、失われたもので構成されている」ポリエステル布に絵具を洗い流しながら描く画家・岩熊力也の喪失感
《残火 101205》2010年 アクリル / ポリエステル、木枠 作家蔵

現在、国立新美術館で開催中の『アーティスト・ファイル2011―現代の作家たち』は、国内外で最も注目すべき作家たちを選抜し、アニュアル(毎年開催)形式で紹介する展覧会で、今回で第4回目を迎える。絵画、写真、陶芸、映像、インスタレーションといった多岐にわたるジャンルの日本人作家、海外作家あわせて8組が出品するなか、4月16日、画家の岩熊力也がアーティスト・トークに登壇した。展示室で行われたこのイベントには、友人であるという腹話術のポンちゃん人形が登場。トークの前に岩熊氏直筆の紙芝居をポンちゃんが披露するというユニークなスタイルで行われた。絵具を洗い流しながら生み出していく手法のオリジナリティについて語られたトークイベントの後、彼の描く日本画や山水画を思わせるイメージの源泉について話を聞いた。

風景画を描くのは日本人にとって宗教画を描くのと同じだったと思う

──今回の『アーティスト・ファイル2011』では岩熊さんの2006年から2010年までの作品が出品されています。展示の構想についてはどのように考えていったのですか?

この展示室を念頭において制作したのは《残火 101205》だけです。

iwakuma
岩熊力也氏

──トークの際に、この国立新美術館が二二六事件に関与した陸軍の兵舎跡地にできていることをお話されていましたが、普段も展示をやる場所からインスピレーションを膨らませていくのですか。

そうですね、その土地の歴史や記憶だとかから考えていきます。

──実際にその場所でリサーチをしていくということなのですか。歴史の重さのようなものはもちろん、その場所の気配のようなものを感じとって作っていくという感じなのですか。

いや、そこまでではなくて。特にメッセージを出そうとかそういうものもないので。絵を作り始めるきっかけとして土地の記憶とかそういうものを調べていくんです。絵は絵なので。きっかけは何であれ、途中でどんどん逸脱していくので、その逸脱がおもしろいと思ってるんです。

──構想ということで言えば、岩熊さんはいまtwitterで、夢についてや普段の生活で見つけたものをつぶやいていらっしゃいますよね。

ブログのほうがちゃんとそれなりに長い夢なんですけれど、そんなにあまり覚えていないものをtwitterでやってます。それも絵を描くきっかけにしています。あと発掘は、遺跡の発掘のバイトをやっているので、面白いです。いま江戸時代の頃の発掘をやっていて、茶碗の破片とかいっぱい出てくるんですけれど、破片なので全体像が解らない。なんだこれっていうのがいっぱいあるんです。そこから想像力をふくらませ、いつもそういうところからも絵が生まれますね。

webdice_reverb
《reverb(無頭のスフィンクス、逃げるウサギ、偽ウサギ)》2007年 アクリル/ポリエステル、木枠 高橋コレクション蔵 撮影:末正真礼生 写真提供:コバヤシ画廊

──トークのなかで「絵を描くときに、逸脱していくところが面白い」というお話がありましたけれど、あらかじめ完成型のビジョンを作らずに、自由度を設けて描き進めていくのですか。

下絵とかもなにもないので、いきなり描きはじめて、描いているうちに思ってもみなかったイメージが出てくる。それ何だろう?と進めていくと、それまで自分で描いているという感覚なんですけれど、途中でどこかで勝手に動き出す瞬間、物語が繋がっていく感覚というものがあるんです。昔話に出てくるうさぎかな、とか。そこから先はもう、自分でそういう感覚を逃さないように探していく作業。絵のほうが先に動いていくのにちゃんと付いていくという感じですね。

──今日はトークの前に、ポンちゃん人形によるかちかち山の紙芝居を上演していましたが、岩熊さんが古くからの説話に惹かれるのはどうしてですか?そこに真理があると感じているから?

なんだろう、日本人の民族の記憶のようなものとリンクしたいというのはあります。日本人にとっての日本絵画を描きたいなと意識しているので。

──そこには日本人がどういう自然観を持ってきたのか、どのように共存してきたかというところも含まれていますか?

日本の神様って姿がないですよね。仏教が入ってから神像が作られたので、もともと姿がない。見えないけれど、木とか草とか花とか動物とか元来あるものに降りてくる。それで見た目は変わらないわけです。そこが難しいところで、いるのかいないのか、見えてるものなんだけれども、実は見えていないものが入っていて、見えていないものなんだけれど、そのまま見えている。そこを日本の画家は苦労してやってきたんじゃないかなと考えています。風景画を描くのは日本人にとって宗教画を描くのと同じだったと思う。

──そうすると古来の日本人の画家は、風景画を描くことにアニミズム的なものを託して描いていたと。

長谷川等伯の描く松林図も、降りてきた松なんだと思います。

──渋谷で生まれ育ったという岩熊さんご自身の自然観はどうなんでしょう?

変なコンプレックスがありました。東京で生まれて育って、大学だと地方から来た人がほとんどになって、みんな故郷があるということで、うらやましいわけです。東京生まれは故郷がないですからね。80年代の小学校上がるくらいの頃、地上げがあって、同級生みんないなくなってしまう。そういうのでもうちは残ったんですけれど、自然への憧れが強かったですね。山梨にアトリエを構えようというときも、山の中というのはずっと考えていました。

──自然と身近なところで暮らす、自然の中に居を構えて表現するということは、しっくりくるものなんでしょうか。

そうですね。季節の移り変わりとか、時間も敏感に感じることができますし。

iwakumatalk
国立新美術館で開催されたアーティスト・トークの様子

タルコフスキーのようにシンボリックに水を使いたい。

──もともとは映画を志されていたそうですが、岩熊さんの最初の映画体験について教えてください。

思い出せないんですけれど、たぶん普通に『スターウォーズ』だったような気がします。もしくは『あしたのジョー』とか。タルコフスキーを知ったのは、80年代に『ノスタルジア』を劇場でみたときです。衝撃を受けました。中学3年くらいから映画のほうにいきたいなぁと思い大学は日芸にいくのですが、結局は中退して独学で絵画の道に進むのですが。その頃好きだったのは、タルコフスキーとパゾリーニ、ヘルツォーク、ベルイマンとかですね。

──強烈な風景が浮かんでくる映画作家が好きだったんですね。

タルコフスキーは、人や物が宙に浮いたり動いていったり、魔術的なことをするじゃないですか。パゾリーニも『テオレマ』で登場人物を宙に浮かせていますよね。ああいう映画的なところが好きなんですよね。

──ヨーロッパの映画監督の作品にはまったというのは、現在の岩熊さんの作風にも影響していると思いますか?

どうなんですかね。水が好きなのはやっぱりタルコフスキーの影響で。僕が使うのは油絵の具じゃないな、というのがあって、制作中でも、アトリエに常に水がある。水で溶いて広がっていく、シンボリックに水を使いたいなというのはありますね。

──水で流しながら描くという手法はどのようにして獲得したんですか?

もともとこういう作品になる前は、ただ滲んでいるだけで、流してはいなかったんです。けっこうな水で溶いて、アクリルで水で薄めたもので広がっていくようなものだったんですけれど、大量に薄めてあるとどうしても流れますよね。画像がぐにゃっとずれていく感じとか、最初の個展は油絵の具だったんですけれど、やっぱり表面の膜をはがすという感じで増えるよりも減らす作業で絵を作っていきたいなというのがずっとあったんです。水を使っていくうちに、水を洗い落とすような感じで、痕跡だけが残るのでいいんじゃないかと、途中から考えはじめて。最終的に山の形にはなるんですけれど。

──あらかじめピントがずれたような視点であったり、観ていると自分の記憶に訴えかける感じというのを覚えます。あまり作家の自己主張というのが苦手、ともおっしゃっていましたが、それは描き始めた当初から?

やっぱり邪魔な気がするんです。絵画は絵画でしかないというか、作家も画家もお客さんというか。絵画は最終的に絵画として自立するのを手伝うような、そういう感じでいいんじゃないかと。自己主張とかメッセージを載せるなら絵画じゃなくていいじゃないかと思っちゃうんです。

──今回は絵と一緒に、映像作品《残火 101225》ドキュメント(2010年)も展示されています。《残火 101225》は、映像を撮ることを前提に描かれた作品なのですか?

そうです。僕の絵は、描いている途中が面白いんですよ。完成品を見るとほとんど痕跡しか残っていなくて、見る人が解らない。途中にはいろいろあったんだよというのは口で説明するんですけれど、説明しないと解らない。ヒントとしてタイトルにちょっと長めにヒントとして与えているんですけれど、単に山の絵を描いているとしか思わない人もいると思います。解りづらいので、途中をちゃんと記録して見せるのもいいのかなと思いはじめて、今回はじめてやってみたんです。でも作ってみると、だめですね、忙しくて(笑)。描いては撮っての繰り返しで、何をやってるのか解らなくなってきてしまって。

webdice_残火101225
《残火 101225》2010年 アクリル / ポリエステル、木枠 作家蔵

──アトリエにカメラを固定して、描いている姿をご自身で撮られたんですね。

ずっとカメラを意識しながら描かなきゃいけなかったから。隠しカメラ的なものや自動的にシャッターがおりてくれる仕組みとかってないんですかね(笑)。考えながらやってしまって、絵が今までと違う感じなりました。でも、完成品も残骸でしかないし、失われたもので構成されている。喪失感というものを見た人が感じられればいいなと、いろいろ考えてやっていこうと思っています。

──その喪失感は岩熊さんの心象風景にあるものなんでしょうか?

例えば、タルコフスキーの影響は大きいです。風をどうやって撮ってるんだろうとか、目に見えないものが動いている感じですかね。タルコフスキーにも喪失感みたいなものがあるじゃないですか。記憶、思い出とか。あの『ノスタルジア』の屋根ない教会、見に行きましたもの。廃墟になってましたけれど。ああいう壊れた感じとか、そういうものに惹かれるんでしょうね。
まだ来年の個展はどういうものになるか考えていないんですけれど、去年墨田区に引っ越して、花火の絵を描いたりしたんですが、いまは空襲とか、墨田区の記憶で描いていこうと思っています。本所に住んでいるんですけれど、本所は幽霊が多いところらしいです。

──東京でも、空襲があって街が破壊された記憶といったものをまだ感じるときがあるんですか?

3月10日が東京大空襲の日で、慰霊祭に行ったんです。次の日に地震があって、津波の映像が自分の作品と重なってしまって。岩手の松林で1本だけ奇跡的に残っている写真を見たんですけれど、あれを見てタフコフスキーの『サクリファイス』を思い出したんです。映画の中で枯れ木を子供と植える、その日に核爆弾が落ちる。その松の枯れ木を日本の木と呼んでましたよね。だからそうしたイメージが、自分のなかで繋がっているんです。

(インタビュー・文:駒井憲嗣)



岩熊力也 プロフィール

1969年東京都生まれ、東京都在住。岩熊力也の絵画は、木枠に張られた透過性の高い薄いポリエステル布を支持体とすることを、大きな特徴としています。光沢がある皮膜的なポリエステル布には、油彩やアクリル絵具、あるいはラテックスやポピーオイルなどの画材が浸透して、半透明の広がりを形成し、そのなかからおぼろげな形象が浮かび上がります。作品のモティーフに選ばれているのは、動物や樹木、そして近年では山水画を思わせる山岳風景などの、始源的なイメージです。岩熊がこの10年以上にわたって続けてきたこのような絵画実践は、絵画の根源を探求する営為として、高い評価を受けています。




『アーティスト・ファイル2011―現代の作家たち』
2011年6月6日(月)まで開催中

毎週火曜日休館 ※5月3日(火・祝)および5月10日(火)は開館
開館時間:当面の開館時間は次のとおりとなります。
10:00~18:00(入館は17:30まで)
※金曜日の夜間開館は当面見合わせております。
会場:国立新美術館 企画展示室2E
東京都港区六本木7-22-2[地図を表示]
主催:国立新美術館
お問い合わせ:ハローダイヤル 03-5777-8600
特設ウェブサイト


レビュー(0)


コメント(0)