『看護婦・ボクサー・少年』より。映画オフィシャルサイトから転載。
3月11日のあの日から、すでに1ヶ月以上が経ちました。仕事等で多忙な日々が続き、その後震災で、遠くに離れている身ながら心配で不安で何を書いていいのかわからず、今回の記事が大変遅れてしまったことをお詫びします。震災や津波で亡くなられた大勢の方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地で愛する人や生活を奪われてしまった方々や日本各地で不安な日々を過ごしておられる方々に、ニューヨークから、心からの声援を送ります。
マイノリティが自分の像(イメージ)を創り発信する
今回は、マイノリティがマイノリティの映画を創る、という意味について、考えたいと思う。日本にいると、ピンと来ない言葉かもしれない。実際にアメリカでマイノリティとして生きていると、誤解されたり差別されたりすることは日常茶飯事だ。マイノリティ同士が誤解し合い、争い合うこともしばしば。でも、実は誰もがマイノリティだと私は思う。ドキュメンタリーでもフィクションでも、テレビや映画というのは誰かの像を作り上げて映す媒体だから、ともすると私たちもそれに映った他者の像を見て「あー、この人達って、こんな感じなんだ」と紋切り型の像を頭の中で作り上げてしまう。でも実際は「この人達」の中にも色んな人がいて、多種多様な人生を送っているわけで、メディアにもできるだけ多くの多種多様な「像」が映されれば、より全体としての複雑な真実を理解することに近づく。しかし社会的に弱かったり数が少なかったりする人々の場合、多少違っていても文句は言われないし、客の“受け”がいい方がいいので、誤解したまま多少誇張されたキャラが横行することになる。海外から見る「日本人」というステレオタイプには、ガチガチのサラリーマン、オタク、ゲイシャ、ただ笑っている大人しい国民、と色々あるが、それのどれも少しは当たっているようで完全には自分だとは思わない、でも他者にそう描かれるとムカつく。
日本の中でも、男の子でしょ、女の子でしょ、に始まり、 勝ち組、最近の若い子は……と色々なステレオタイプに囲まれて生きづらいこともあると思う。自分は何か違うと思い続けると、ロシアン・ドールみたいにどんどん中へ小さくなり続け、最後のちっぽけな一人を自分と信じるか、あるいはタマネギみたいになくなってしまうかもしれない。でも本当は、皆一人一人が矛盾を含んだ複雑なレイヤーを持った一個のタマネギであるわけで。むく必要はないのだと思う。だったらそれをわかってもらうために、自分たちで新しい「像」を創らなくてはならない、そう言う意味で、私は社会的に弱く誤解されがちな世界中のすべての人々のメディア作りを応援する。今回取り上げるのは黒人シネマだが、黒人好きとか、黒人は苦手、とかいう色眼鏡や趣向をとりあえず置いておいて、誤解され続けて来た人達の戦いを理解しよう、そしてそれを通して自分の「像」を考えよう、という気持ちでこのリポートをしようと思う。また長くなると思うので、2回に分けてお送りする。
R-2会議
R-2会議
先週末、マンハッタンのグリニッジ・ビレッジにあるニュースクール大学で開かれた『リミックス&リマスター:グローバル時代の黒人像と黒人メディアの配給』(Re-Mixed & Re-Mastered: Defining and Distributing the Black Image in the Era of Globalization)という会議に出席した。主催者はミッシェル・マテレ教授 (Prof. Michelle Materre)。過去25年に渡り、劇場公開・テレビなどの非営利・営利両方の分野で、配給・上映を通してアフリカ系映画制作者たちを支え、彼らが集えるコミュニティを創って来たパワフルな女性である。4月8日金曜晩と9日土曜全日にかけて、上映、公開討論会、ワークショップなどを通じて話し合われた主題は、「私たち黒人メディア制作者は、今後どうやって、主流に挑みつつ、自分たちの文化を映す作品を創り配給していけるのか」というもの。
私は2日目のみの出席だったのだが、1日目、金曜晩のプログラムでは新進気鋭の黒人女性監督エヴァ・デュヴァーニー(Ava DuVernay)の新作『I Will Follow』の上映&トークがあった。黒人の自主製作、自主配給を押しすすめる若きリーダー的な女性である。2008年に自主製作の長編ドキュメンタリー『This Is The Life』がトロント、ロス、シアトルでオーディエンス賞を受賞、その後ヒップポップやゴスペルの世界で生きた女性達を題材にした作品を作りネットワークに提供、アファーム(AFFRM, the African-American Film Festival Releasing Movement)という自主配給団体を起業し、仲間の黒人監督達とつるんでブラックシネマの配給の道を押し広げようと努力している。先月にはそこを通じて、彼女が脚本・監督の新作で初ドラマ作品の『I Will Follow』を全米の大手映画館に配給、全米でおそらく最も有名な批評家ロジャー・エバートから「愛する人の死を取り上げた近年の映画の中でもっとも優れた作品の一つだ。エヴァの描く物語はおセンチでも表面的でもない。実に深くリアルだ」と評されたり、ヴァラエティ誌、ニューヨークタイムズ、CNNにも取材されている。
これまでユニバーサルなテーマを追ったブラック・シネマは大手で配給されにくかったが、自分たちでできる、「心を動かせる」(We Move Minds)というのが彼女のメッセージだったようで、私が出席した2日目も、彼女が前の晩に言ったことに言及する人達が何人もいた。
第一目から。R-2会議主催者のミッシェル・マテラ教授(左)とエヴァ・デュヴァーニー監督 写真はR-2会議のファイスブックサイトより転載。
ハリウッドと黒人
インディー配給に飛び込む前に、ハリウッドを中心としたメインストリーム(主流)映画界での黒人映画の位置について軽く見ておく必要があるだろう。60年代後半にスター・トレックのニョータ・ウフーラ役の女優を見て「ママ、ブラック・レイディーがテレビに出てるよ、でもメイドじゃない!」と叫んだというウーピー・ゴールドバーグや、70年代のビル・コスビー・ショーに影響を受けたエディー・マーフィーがハリウッド映画に登場し始めたのが80年代、86年にはスパイク・リーが『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット 』で衝撃の天才黒人監督として商業映画デビュー、その後もデンゼル・ワシントン、ウェスリー・スナイプス、モーガン・フリーマン、フォレスト・ウィテカー、アンジェラ・バセット、ウィル・スミス、そしてハル・ベリーなど次々にスターが生まれている(ハル・ベリー、クイーン・ラティーファが共にスパイク・リーの『ジャングル・フィーバー』で映画デビューしたことも興味深い事実である)。また、オプラ・ウィンフェリーもテレビ界の女王的な地位を築き、知的で社会的な黒人女性のイメージに貢献したと言える 。しかし、ヒット映画に出てくる黒人像はタフ・ガイやファニー・ブラック・ママやセクシー・レイディーというような型にはまった役柄が多かったり、また脇役として活躍することが多い。ナンセンス・コメディ系の総ブラック配役の映画はブラック・コミュニティ用の映画、といった印象が強く、実際に映画館に見に行くことは私自身ほとんどない。ブラック・ジョークは“内輪受け”で世界に通用しないという判断のもと、海外に配給されずにアメリカだけで終わる映画も多いようだ。黒人監督による黒人配役のいい映画が自主制作で創られても、“客層が少ない”という理由でか、または潜在的な差別意識か、従来の配給システムにも、最近は産業として成り立って来た自主映画配給システムにも、乗せてもらえることはほとんどないようだ。
公開討論会ではオーディエンスも黙っていない
およそ100人の、肌の色が私より濃い仲間が集まり、それを熱心に話し合っているのを見ながら、あまりに違う歴史的背景ゆえ比較できないこととは知りながら、私は同じ有色人種として、何かうらやましい気持ちになった。 未来を築こうとする彼らの目の奥には、奴隷として連れてこられ長く虐げられて来たブラック・アメリカンたちの歴史的・政治的な深い哀しみと、60年代のアメリカ市民権運動とアフリカ独立運動の同時代性の中で育まれた“もともとは皆アフリカ人”という共通意識(Pan-Africanism)、また今では世界中に散らばった彼らの間に存在する「離散アフリカン」(African Diaspora)と呼ばれる独特の連帯感がある。視聴者の間にも、それは必ずある、自分たちの描く有色人種像を見たいと欲している人々が世界中に沢山いるはずだ、という祈りと信じる気持ちが溢れた集まりだった。
予習:配給面でのデジタル化の波
デジタル時代のアメリカ自主映画資金集め事情の記事では資金調達面にネットがどう使われているかに焦点を置いたが、配給方面でもまた、かなりの速度で状況は進化している。2000年代半ば頃にグーグルなどがネット上でビデオレンタルを開始したが、 ハリウッドが今ひとつ乗ってこず、採算が取れずに間もなくして閉めてしまった。インスタント・プレイ( 代金を払えばネット上で即座に映画を借りて見られるサービス)を我先に取り入れ業界をリードしてきたのはネットフリックスと呼ばれる宅配ビデオレンタル会社である(ここはインディー映画も相当充実している)。DVD宅配サービスが3枚貸し出しの場合返却期間自由でひと月20ドル程度なのに対し、インスタント・プレイ見放題だけのパッケージはひと月8-9ドルと安いが、まだDVDでしか見られないものも多い(特にハリウッドもの)ため、DVD宅配サービスを買うとインスタント・プレイ見放題 が無料でついてくる、という形態に現在のところなっている。iTuneストアでも、インスタント・プレイの映画レンタルとファイル・ダウンロード(料金はレンタルの3倍くらい)が単品購入という形でできる。今年2月にアマゾンがiTuneと同サービスをさらにTV番組も充実させて開始 、グーグルに吸収されたYouTubeが、いよいよハリウッドとつるんで有料ビデオ配信サービスを間もなく開始予定。これが始まると、ハリウッド映画もほとんどインスタント・プレイで観られるようになるのかもしれない。さらに現在アマゾンやネットフリックスなどがヨーロッパに進出、グローバル市場を次々に開拓中。日本にも進出準備が進められているようで、言語の壁があるのですぐにではないかも知れないが、これが起こると日本国内の映画配給の仕組みに大きな影響があるだろう。その他のデジタル化の波としては、無料部門では俄然影響力大のYouTube、見逃したテレビや昔の人気番組が好きな時に見れるhulu.comがある。またデジ録の普及(アメリカにもようやく)もデジタル革命が映画・メディア配給の様相を変えた一端を担っている。
それから、もっと小規模の個人経営のオンライン映画配給サービスも徐々に始まっている(これは第2回目の記事に登場)。消費者(視聴者)から見ると、これらの配信サービスを利用する場合に、自分のライフスタイルに合わせて、コンピュータのモニターや、ホームシアターの大画面で観るもよし、またベッドの中や電車でiPhoneやスマホで観る(見る、かな)もよし、ずいぶん便利な世の中になった。配給側から見ると、音楽業界で起こったのと同様、デジタル化は違法コピーに直に結びつくし単価も安いので最初は渋っていたものの、YouTubeやHuluの普及、電話・iPod、iPad、タブレットpcなどに大衆がこうも反応するとなると放ってはおけない、宣伝も入れて、タイアップして、ソーシャルメディアをフル活用して、新しい市場を構築するのにしのぎを削っている。
ネットフリックス、タイラー・ペリーの『マデア牢屋に入る』のページ。右上の青ボタンが“今すぐ再生(インスタント・プレイ)”、そのすぐ下が“再生リストに加える”、赤が“DVD宅配希望”、白は“予告編を見る”。
配給面での D.I.Y.「ドゥ・イット・ユアセルフ」とD.I.W.O(ドゥ・イット・ウィズ・アザーズ)
では、制作者の視点で見たらどうだろう。この中のどれからコンテンツ・プロバイダー、とりわけ自主制作者が恩恵を受けているだろうか。しかも、金銭面での利益と、啓蒙やプロモーション面での恩恵は、分けて考えなくてはならない。後者的には、誰もが自分の作品をネットで配信し、見てもらえるようにはなってきた。ネットフリックスなどでインディー映画も大分流通されるようにもなってきた。特にここ半年で、インスタント・プレイになぜか自主制作のドキュメンタリーが急増している。インディー映画専門の配給会社も大小色々現れている。しかし、この新しい配給の世界も、大会社資本にどんどん牛耳られてきているのが現状であり、不特定多数の視聴者に自分たちの小さな作品の存在に気付いてもらうことは難しい。しかも単価が安いため、多数に配給されなければ、お金にならない。これは仲間の制作者から聞いたことだが、配給会社が勝手にネットフリックスなどにインスタント・プレイとして配給してしまい、インタント・プレイは 現在のところ“おまけサービス”的存在だからなのか、制作者には一銭も入らないらしく、配給会社に対し憤慨していた。
インターネットというものすごいハード・ツールは手の届くところにあるのだが、それをどうやって使えばいいのか、それが自主メディアのD.I.Y.(ドゥ・イット・ユアセルフ)運動の一つの大きな課題である。そして、マイノリティ(この会議の場合は黒人)制作者がそれを考えるとき、自分たちの作品を欲してくれるであろうオーディエンスは、必ずしもハリウッドのものばかりを欲している層ではないかもしれない(あるいは、他に手近にないので仕方なくハリウッド映画を見ている人達かもしれない)、だったらどうやって横の連携を深め、より大きな力となって自分たちの視聴者を開拓し、彼らにコンテンツを独自の方法で提供できるのか、つまり配給面でのD.I.W.O(ドゥ・イット・ウィズ・アザーズ)の方法論を探ろう、というのが、この会議の課題である。
『男と女と精霊と拳銃』より。映画オフィシャルサイトから転載。
短編プログラム
まず最初の短編プログラムのラインアップは以下の通り:
『ハイチ:あの一日、運命共同体』(筆者訳:原題“Haiti: One Day, One Destiny”)─ハイチ地震の1ヶ月後、アフリカン・アメリカ人系公共テレビ番組支援団体NBPCの依頼で ハイチ生まれの女性監督ミッシェル・ステファンソン(Michele Stephenson)が現地を訪れ、地元目線での災害を描いた作品。
『MuseBK』(デモ)─恋愛・音楽・アート・サクセス・仕事などをテーマにブルックリンの黒人ライフスタイルを伝える新しいネットTV局のデモ。
『グロス』(原題“Gloss”)─とある大学機関のオフィスで働く女性監督ニコル・ドレイトン(Nicole Drayton)が職場のクレイジーな人間関係(人種も大いに関連している)の普段言えないようなことをレゴ・ブロックの人形キャラに劇をさせることで表現した風刺コメディ。
『ボデガ』(原題:“Bodega”)─ブロンクス出身のラティーノ系巨漢ヒップポップ青年ダラス・ペンが、 自らの子供時代の回想も含めながらブロンクスの貧乏人達を支え続けるボデガ(スペイン語“近所の店”)を相棒のラフィと訪れ、そこに売られる激安食品(と裏側の栄養表)を見ながら面白くコメントするYouTubeヒット作品。彼らはマクドナルドのスペシャル$1メニューをどうやってビックマックに変身させるかという話題沸騰ビデオも作っている。
『フライド・チキン・シネマ』(デモ、原題:“Fried Chicken Cinema”)─黒人御用達フードNo.1のフライドチキンを始めソウルフードのレシピを紹介しながら黒人向けのいい映画が楽しめる新しいネットTV番組。
『男と女と精霊と拳銃』(原題:“A Man, A Woman, A Genie, A Gun”)─間違った出口で高速を下りてしまいナイジェリア人地区に迷い込んだ若いアメリカ白人夫婦が、怯え争い、間違って銃を民家に打ち込んでしまい、結局“精霊”だと名乗るその家の住人に逆にだまされるというカンヌにも出品のコメディ作品。監督はナイジェリア生まれニュージャージー在住のCHUKS NWANESI。
……と、ブラック・シネマと一括りに言っても、ものすごく奥が深いことを示唆するプログラミングだった。アフリカン・アメリカン、カリビアン、大陸アフリカ人、それに有色系ラティーノも含めるとなると、その領域はかなり広い。カナダやフランスに住む黒人も仲間だ。
『ボデガ』より。右が監督のダラス。左は相棒のラフィ。
『誰が黒人の物語を語るのか』公開討論会
ランチとネットワーキングを挟んで次のプログラムは、『誰が黒人の物語を語るのか?:黒人像は誰によって、どんな風に描かれ、どこへ配信されているのか』(“Who gets to tell the story?” Representation, appropriation and distribution of the Black image”)と題するパネル・ディスカッションだった。モデレーターは文学・女性学・文化学の分野の研究者トレーシーアン・ウィリアムス(Tracyann Williams)、パネラーは大衆文化で描かれる人種・性・社会的地位などについて研究するラケール・ゲイツ(Racquel Gates)、ブラック・シネマの配給会社を立ち上げブラック・シネマに関するブログで人気を博し黒人所有・運営のスタジオ映画会社の創設を呼びかける声明を国営ラジオで発表、自らが制作者/脚本家でもあるタンベイ・オベンソン(Tambay Obenson)、食物文化論の観点からフードとメディアの関係やフードに表れる人種・ジェンダーを論じる研究者でこの日唯一の純血白人パネリストだったイタリア人のファビオ・パラセコリ(Fabio Parasecoli)、そして、トリニダッド人の両親を持つイギリス人で、長年BBCラジオとテレビで制作し近年はトロントを拠点にカリビアン系の題材で制作した作品をテレビや映画祭で発表する他、子供向けのマルチメディア作品も多く手がけるフランシス・アン・ソロモン(Frances-Anne Solomon)。残念だったのは、年長の黒人女性パール・バウザー(Pearl Bowser)が体調不良で欠席だったことー彼女は1970年以来アフリカン・ダイアスポラ・イメージ(離散アフリカ像)というプログラムを立ち上げホイットニーやブルックリン美術館などでブラック・シネマ作品を紹介してきた人物だ。
左から:トレーシーアン・ウィリアムス(モデレーター)、ファビオ・パラセコリ、ラケール・ゲイツ、フランシス・アン・ソロモン、タンベイ・オベンソン
ハリウッドで描かれる黒人像
まず、“誰が黒人の物語を語るか”に関し、「極端に言えば、ハリウッド型の主流の映画配給においては、ブラック・シネマにはオプションがない」という見方についてどう思うかが話し合われた。映画研究者であるラケールやファビオが指摘したのは、ハリウッドの作品は誠実に黒人像を描いているとはまったく言えないが、それでもそれらの作品は、制作者が意図しないところでブラック・コミュニティにとって特別の意味を産んで来た、ということだった。まずは、スピルバーグがアリス・ウォーカーの小説を映画化した『カラーパープル』。原作から歪められた部分(レズビアンの視点が削除されていたり、黒人男性が徹底的に暴力的で無責任と描かれている)があって原作者のウォーカーが主人公の女性像の単純化などについて気に入らないことを表明したり、アカデミー賞11部門にノミネートされロジャー・エバート等有名な批評家がその年の最優秀作品と評していたにもかかわらずなぜ受賞しなかったのかなど、物議を呼んだ作品だ。しかし、この作品が存在することで、黒人コミュニティ、特に女性達の間で自分たちの体験について話をするきっかけができ、色々な意味でブラックピープルにとって特別な意味のある作品であった、と二人が話した。
また、エディー・マーフィーの『星の王子 ニューヨークへ行く』も白人監督のジョン・ランディスによって製作されているが、エディー・マーフィーのアドリブには作者の意図に関わらず黒人コミュニティ共通の気持ちが勝手に表されている、という指摘もあった。ファビオがディズニー初の黒人プリンセスの物語『プリンセスと魔法のキス』(米2009)と『キリクと魔女』(仏1998)で描かれる黒人像の違いについて指摘し、後者の黒人像は前者より誠実であるように思えると言ったのに対し、残りのパネラーがそれに乗ってこないのはなぜだろう、と感じたのだが、これはおそらく両作品とも白人監督の作品なので、このパネルではあえて突っ込んで話すことではない、という判断だったのではないかと思う。後で調べたら、前者は黒人監督の別作品からの盗作の疑いが強く、また当初の脚本では主人公がもともとはフランス人の一家のメイドだったり、白人のプリンスと結ばれる設定になっていて黒人コミュニティからバッシングがあったため、背景も改め黒人のプリンスに変更、しかしプリンスが黒人の男らしくない、ナヨっとしている、など文句も出ているらしい。まるで知らなかった。『アラジン』などで差別主義を批判されているディズニーの作品だから、納得はいく。後者はフランスのアニメ作家の美しい作品で、フランス人白人監督のミッチェル・オセロットは幼少時代を当時フランスの植民地だったギニアで過ごしており、その頃の影響でアフリカの民話に基づいてこの作品を創ったという。
フランシス・アン・ソロモンが設立・主宰の「カリビアン・テイルズ」のサイト。教育用ビデオ&マルチメディア製作・映画祭・配給と活動は多岐。
どうやったら本当の黒人像を主流文化に反映できるのか
聴衆の一人がタンベイのブラック・シネマのためのブログ(Shadow And Act)を絶賛した後、ブラック・シネマと言えばタイラー・ペリーかクイーン・ラティーファなど超数少ないセレブに代表されてしまっていて他にない、どうやったらもっと数多くの黒人監督や俳優がメインストリームに入り込み、生活を立てられるんだ、と質問した。それに対し、タンベイは「僕はもうずうっと前から、ハリウッド型のモデルは捨て、既成外の新しい仕方でブラック・コンテンツを作り配給し、自分たちで盛り上げて行くことを考え、実践している」と答えた。箱の外に何があるか考えろ(Think outside of the box)ということだ。彼のバッググラウンド(前々段落参照)を考えると納得できる回答だ。彼はさらに最近では、3000ドルと小額ではあるが、NYU映画科の黒人大学院生などに制作援助をし、彼らの作品の配給を応援しているという。
また彼によれば、自主制作者への配給環境が整えば、大きなお金にはならなくても、いい長編作品を一本撮ったら、その配給から普通の暮らしができるくらいにはなるはずだという。フランシス・アンはまたその環境を整える上での横のつながりの大切さについて強調。資本がないのだから、つながり、皆でやるしかない。マーケティングにつきる。どうやって皆で売り込んでいくか、ということだ、と。タンベイがそれに付け加えたのは、とにかく沢山の作品を創り続けること、より複雑で広大なブラック・エクスペリエンス(黒人としての人生)を映像化していくこと、そして自分たち黒人はこちら側だけじゃなく、向こう側(アフリカ大陸)にもいる、ということを絶えず念頭に置いておかなくてはならない、ナイジェリアでは小さいけれども“ナリウッド”と言われる映画産業が興っている。自分たちから見ると説教臭くてメロドラマ調で、笑っちゃうものもある。でも、彼らは同胞だ。それに、ヨーロッパ、カナダ、アジア、南アメリカなどでも亜流シネマが興っている。点と点をつなげば線になる。とにかくたとえ50万円くらいしか資金がなくても、何か創ることだ。フランシス・アンが続けた。そうよ、とにかくハリウッド・モデルを捨てることよ。そして私たちとつながりたい人達とつながるのよ。世界のマーケットは巨大だわ。アフリカでも、ナイジェリアや南アフリカには大きなマーケットがある。インドもそうよ。タンベイがつけ加える。トーマス・イキミ(Thomas Ikimi)という若手黒人監督が去年長編ドラマを撮ってBAM(Brooklyn Academy of Music─質のいいアート作品を上映/上演することで知られる映画/劇場)で上映されたけれど(ここで聴衆から“超よかった Awesome!”とかけ声)、彼はナイジェリアから50万ドル(400万円強)を集めてそれで創ったんだ。ウッディ・アレンやジム・ジャームッシュだって外国から資金を調達してるだろう。僕たちだってできるはずだ。Look outside of the box─箱の外を見ろ!
タンベイ・オベンソン主宰のブラックシネマ・ブログ『Shadow And Act』
タイラー・ペリー
この日、最多数回、最低でも20回くらい名前がでてきたのがタイラー・ペリー。黒人セレブ監督の代表格のようである。最初、ピンと来なかった。話を聞いているうち、ちょっと前にBAMでやっていたブラック・コミュニティ伝説の戯曲『For Colored Girls』をついに映画化した若手監督であることがわかった。見に行きたいと思いながら見逃してしまった作品で、色んなひどい目に合った8人の黒人女性達が強く生きて行く内容だった。監督についての記事を読んでいたことも思い出した。南部出身の彼自らが父親からの家庭内暴力を受けて育ち、オプラ・ウィンフェリーの「書けば癒される」という言葉をテレビで聞いて刺激され、若くして自分の体験をもとに戯曲を書き始める。90年代以降アトランタで劇作家、舞台監督、自らが女装して演じるマデアというおばちゃんキャラが受けてシリーズ化し、黒人コミュニティで圧倒的人気を築く。2005年にそのあまりの動員力にハリウッドが目をつけ、商業映画に進出。以来、黒人コミュニティ専用とも言える内輪受け系映画にもかかわらず、出す作品はすべてボックスオフィス・ベスト10入り。今ではハリウッドで長者番付高位につけ、今をときめく美人黒人女優を沢山使い、ジャネット・ジャクソンやウーピーも出演、特に黒人女性に圧倒的人気を誇っている監督、と書いてあった。 にもかかわらず、ハリウッドが海外では売れないと判断してプロモートせず、日本にも一本も輸入されていない。また、サンダンスで注目された『プレシャス』(これはオスカーも受賞したので日本で昨年公開)というハーレムの太った女の子の映画を、オプラとタグを組んで応援し、それによってその映画が広く知られたことも書いてあった。
タイラー・ペリー扮するマデア(『マデア牢屋に入る』ポスター)とタイラー・ペリー本人 写真ソース:http://theurbandaily.com/movies/the-urban-daily-staff/video-tyler-perrys-i-can-do-bad-all-by-myself-trailer/
パネラーの方々、特に学者たちはどちらかというと彼に批判的で、ほぼ総ブラック・キャストでスタッフもブラックという経済効果は素晴らしいし、黒人のための黒人映画で商業的成功を収めているという新境地開拓の功績は認めるけれど、ひ弱で経済力なくおどけてしまう黒人男性や、大きくて強くて人の言うことを聞かないブラック・ママの描き方、また貧困や、問題を抱えた家庭など黒人に対するステレオタイプを増幅させてしまっているのではないか、という懸念のようだった。家に帰って調べたところ、スパイク・リーが最初は応援していたものの、数年前から同様な批判をしているようで、イメージが古い、本当のブラックはもっと色々だ、というようなことを言ったようだ。それに対しペリーは侮辱だと憤慨し、そういう態度が問題の深刻さを軽視させ、こんな人達は存在しないんだとハリウッドに思わせてきたんだ、と反論したと言う。またオプラはペリーを擁護し、「強い黒人女性に育てられたのね。彼のマデアや他の作品は黒人女性像をあがめるものばかり。そういう、私が知っているような様々な強い黒人女性たちのこと、きっと(読者の)あなたもご存知でしょう?なぜ人気があるかといえば、私やあなたみたいな女性像が投影されているからよ。」(NYデイリーニュースより)と言ったそうだ。
パネラーの討論を聴いていた聴衆の一人、学校の先生をしているという女性が、道端の違法ビデオ売りからタイラー・ペリーを買っている女性に誰それ、と尋ねたら、「タイラー・ペリー、知らないの?」と驚かれ、現代アートに心得のある妹に聞いても「タイラー・ペリー、知らないの?」と同じ反応、70年代のエド・サリバン・ショー時代に子育て中だったおばさんに聞いても同じ、黒人が創って黒人に見せる映画などない時代を生きてきたおばさんにとっては、彼はオバマと同様、黒人の誇りなのだという。そしてその先生が感じたのは、オーディエンスには幾つもの層があって、それぞれの層の人が違う意味をくみとりながら皆タイラー・ペリーを愛している。だから、制作者としては、自主制作配給の共通モデルを探すよりも、まず自分のオーディエンスを知ることが大事なのでは。例えばブラック・コミュニティ内にも、知る人ぞ知るオタク文化が沢山ある、車オタク、バス旅行オタク、などなど。だから、それぞれの制作者がそれぞれのオーディエンスを探して作品を届ける方法は、まだまだあると思うし、自分たちのコミュニティ内で話す機会をもっと作ってお互いを知れば、ほしいものも届けやすくなるのでは。この先生のコメントには、皆が拍手をした。
右から:回答するタンベイ、フランシス・アン、ラケール
反ハリウッド?
「さっきから聞いてると、反ハリウッドとか、主流に逆らってとか言っているけど、ハリウッドを変えよう、主流を変えようとはどうして思えないの?どう考えても、 黒人の映画だって、白人の映画みたいに世界共通の娯楽になり得ると思うんだけど?」と挑んだ聴衆もいた。それに対し、フランシス・アンが言ったのは、「別にアンチなわけじゃないわ。待たずに自分のストーリーを語りたいだけ。私はBBC(イギリス国営放送)に15年勤めたわ。BBCはおそらく、世界でも最も人種差別的な組織、また同時に文化的にとても豊かな組織、その渦中に身を置いてものすごい経験をさせてもらった。最初は“人種差別なんか私が撤廃してやる”と思ってた(オーディエンス笑 )。“有色人種たちの像(姿)をマスメディアでバンバン流してやる”と思ってた。でも、完全に負けた(オーディエンス爆笑 )。だから、今こうして人生を取り返しているのよ(オーディエンス再爆笑)。今の時代に生きて、テクノロジーを通して、自分たちのオーディエンスに直接アクセスできるようになった。だからそれを使わない手はないと、本当に思うの。」タンベイの返答は「ポール・ローベソン(20年-50年代にアメリカで活躍した黒人俳優、オペラ歌手、市民権運動家。ロブスンと訳されているようだ)から始まってスパイク・リーまで、それに白人や黒人やその他の学者達も、皆長年ハリウッドを変えようと戦って来た。でも、現実にはほとんど何も変わっていない。そればかりか、90年代初頭のブラック・ルネサンス時よりもむしろ状況は悪化しているように見える。不可能な夢なんだ。これまでも同じ討論、同じ会話、同じ戦いをしてきた人達が大勢いることを忘れてはいけないと思う」。
フランシス・アン・ソロモンのシネマ・プロダクションのサイト「レダ・セレーン・フィルムズ」。彼女はかっこいい。
第2部では、ネットを利用した自主配給ワークショップ(ビデオ・オン・ディマンド、ウェビソード、デジタル・ダウンロード)と、『これからどこへ向かうのか』と題したこの日最後の公開討論会の模様をお伝えする。ゲストパネラーは日本では知られていないが米自主制作コミュニティでは評価の高い実力派黒人男性監督2名と、黒人シネマをプロデュースしフォーカス・フィーチャーズという大手主流の配給会社と提携して契約を取り付けているやり手の黒人女性プロデューサー、南アフリカ出身で政治科学の分野でメディア・グローバス化・民主化の接点について研究する学者、ナイジェリア出身の エンターテイメント弁護士(MITで工学士、コロンビアで法学士、MBAと学歴もすごい。しかもNY州の弁護士免許も持っている)で、アフリカ全土にまたがる低所得者層へのデジタルシネマ配給システムを構築する会社のCEO。そして最後に、近年見た中で私が最も“いい映画”と感じ涙を流しまくった映画の上映会の模様。しかもその作品は、ほとんど世界に発信されていない。お楽しみに。
(文章:タハラレイコ 写真:記載以外はタハラ)
リンクス
R-2会議フェイスブックページ:
http://www.facebook.com/R2conference
近々こちらに会議のビデオ・ストリーミングも載せるそうなので、乞うご期待。
http://www.youtube.com/user/thenewschoolnyc
デジタル時代のアメリカ自主映画資金集め事情についてはこちらを参照ください。
http://www.webdice.jp/dice/detail/2748/
エヴァ・デュヴァーニー関連:
『I Will Follow』劇場公開予告編
ロジャー・エバートのお薦め映画サイトで流れされている『I Will Follow』をエバートが批評したビデオ:
http://www.ebertpresents.com/movies/i-will-follow
エヴァのフィルムメーカーサイト
http://www.avaduvernay.com/
CNNインタビュー
http://www.cnn.com/video/data/2.0/video/bestoftv/2011/03/14/nr.i.will.follow.cnn.html
ショート・プログラムで紹介された作品関連のサイト:
『ハイチ:あの一日、運命共同体』(筆者訳 原題:“Haiti: One Day, One Destiny”)
http://blackpublicmedia.org/watch_min2.php?id=0_q5qgojxw(作品が見れる)
http://blackpublicmedia.org/haiti(シリーズ企画のサイト)
『MuseBK』
http://musebk.tumblr.com/
『グロス』(原題:“Gloss”)
http://www.glossfilm.com/
『ボデガ』(原題:“Bodega”)
http://www.rockthedub.com/2007/01/oh-word-dallas-penn-present-bodega.html
『ゲットー・ビッグマック』(ダラス・ペンの別の作品)
『フライド・チキン・シネマ』
http://friedchickencinema.com/
http://iiieyedigital.tv/ (主宰者Regi Allenのその他の活動)
『男と女と精霊と拳銃』(原題:“A Man, A Woman, A Genie, A Gun”)
http://www.manwomangeniegun.com/
パネラー(プロダクション関連のみ)サイト:
フランシス・アン・ソロモンが設立・主宰の「カリビアン・テイルズ」のサイト
http://www.caribbeantales.ca/web/
同じくフランシス・アン・ソロモンが設立・主宰のテレビ・一般上映用カリビアン・シネマ・プロダクションのサイト「レダ・セレーン・フィルムズ」
http://www.ledaserene.ca/web/
タンベイ・オベンソンの主宰するブラックシネマ・ブログサイト『シャドー・アンド・アクト』
http://www.shadowandact.com/
記事冒頭の写真は私が観た近年の作品で一番よかった映画『看護婦、ボクサー、少年』より。写っているのは主演のキャレン・レブランク・ロッカー。この作品については次回リポート
http://www.nursefighterboy.ca/
■タハラレイコ PROFILE
東京、吉祥寺出身。91年イリノイ大へ奨学生留学渡米、92年からNY。94年以降は夫の上杉幸三マックスと二人でドキュメンタリーや実験映画を製作。マックスと共同監督の『円明院~ある95歳の女僧によれば』(2008)は、ハワイ国際映画祭でプレミア後、NY、日本、スリランカなどの映画祭やギャラリーで上映、2011年夏にポレポレ東中野で公開予定。NY近郊の大学・大学院でドキュメンタリー史、制作、日本映画史などを非常勤講師として教えている。2010年夏より始まった宇野港芸術映画座上映シリーズ「生きる、創る、映画」( http://unoportartfilms.org , http://www.facebook.com/UnoPortArtFilms )は宇野港に拠点を移した上杉とブルックリンに暮らすタハラの共同プロデュース(+13歳の娘手伝い)で、毎年世界各地からの心を揺さぶる秀作品を紹介していく家族再会イベント(ボランティア・スタッフ募集していますので、ご興味のある方はご連絡されたし)。
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