骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2011-03-25 19:58


「これは単なる映画ではなく行動を起こす為のムーブメント」『名前のない少年、脚のない少女』エズミール監督の世界観

いよいよ3月26日(土)よりイメージフォーラムにて公開、初日はスカイプによりブラジルからQ&A出演も決定した。
「これは単なる映画ではなく行動を起こす為のムーブメント」『名前のない少年、脚のない少女』エズミール監督の世界観
『名前のない少年、脚のない少女』より

ロカルノ映画祭やベルリン国際映画祭など各国の映画祭で賛辞をうけ、ブラジル映画の新しい潮流として話題を集めている映画『名前のない少年、脚のない少女』がいよいよ日本でも3月26日(土)より公開となる。ネットを日常とする現代の若者の揺れ動く心情を瑞々しく描いた今作が長編初監督作となるエズミール・フィーリョ監督に、映画を志すきっかけ、そして今作に込めた世界への眼差しについて聞いた。
東関東大震災に遭った日本へ向けてのメッセージと動画も到着している。

あなたたちの素晴らしい国に起こったことを、遺憾に思います。恐ろしいことだと思いました。昨年、日本を訪れたばかりですし、そのとき日本の人々と強いつながりを覚えたのでなおさらです。この出来事が私たちが未来について考えるきっかけになると思うし、生活に進展をもたらすものだと確信を持っています。

だから、私とジングル・ジャングルから詩のようなメッセージを送ります。この映像が震災の後、新たな意味をもたらすと信じています。

みなさんに蝶が届きますように。

──エズミール・フィーリョ


I'm really very sorry for everything that happened in your lovely country. i got terrified. especially because i was there last year and i felt a strong connection with japanese people. i'm sure that those things make us think about our future and make twists in our life.

So that's why i send you a poetic message from me and jingle jangle. i believe the video brings another meaning after the massive earthquake.

I WISH BUTTERFLIES FOR YOU ALL:

| E.F |

自分にとって映画は、世界と対話するためのもの

──『名前のない少年、脚のない少女』は、インターネットで世界や人々とつながるのが普通になったいまの時代の少年の気持ちが繊細な映像と物語によりすごく伝わる内容で、監督の作家性が反映されている作品だと感じました。まず監督ご自身がどのような少年時代を過ごされてきたか、最初の映画体験やどんな生活をされていたというところから聞かせてください。

私は、物事に対して何をやるにも一生懸命になる少年でした。15、6の頃にインターネットがブラジルに入ってくるようになり、ネットの世界にのめり込みました。インターネットの世界は、現実の世界より自分をもっと出せる世界だと感じました。現実の世界というのは本心を隠して生活している部分もありますが、インターネットでは名前を言う必要もないし、自分の顔を見せる必要もないので、自分の奥の本当の感情を出せる世界だと感じたのです。『名前のない少年、脚のない少女』の主役の男の子は、インターネットを、世界とつながるためだけでなく、自身の心の内面を表現するためにインターネットを使っているというところで、共通点があります。私はサンパウロという大都会で思春期を過ごしましたが、この物語の中の男の子は南部の非常に小さな村に住んでいます。私の住んでいた街とは特徴が異なっていますが、場所は違ってもそうしたある地域独特の世界を描こうとしている、その点では普遍的なものがあるように感じます。

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エズミール・フィーリョ監督

──子供の頃から映画を撮りたいと考えていたのですか?

物語が好きな子供でした。自分で書いたりするのも好きだったんですけど、父親に物語を語ってもらうのが好きだったんです。ちょっと変っていて、自分が父親にこういう話をしてというストーリーを伝え、それを父親が自分に語ってもらっていた。そのときに、だんだん映像の方が父親に話してもらいたいストーリーを伝えやすいと思ったんですね。文学よりも映像の方が何かを示唆したり暗示させたりすることで、答えを出すことなくミステリアスな形でもっとメッセージを伝えることができる。映像と声を使ってストーリーを語るというのがすごく感覚的でよいと思ったのです。

──サンパウロではどんな映画を観て、映画の勉強をしていったのですか?

自分が通っていた高校の近くに映画館があって、そこに通っていました。ブラジルの映画よりは外国の映画が好きで、小さい頃はもちろんアメリカ映画もたくさん観ましたが、16歳のときにフェデリコ・フェリーニの映画に出会ってからは、芸術的な映画を好んで観るようになりました。なかでもフェリーニの『カビリアの夜』(1957年)は、結末の部分がシンボリックで非常に感情が強く現れている、すごく自分にとって印象的な映画でしたね。大学時代は、ペドロ・アルモドバル、ウォン・カーウァイや、イングマール・ベルイマンの映画をよく観ていました。いまは自分と同じ年代のスウェーデンのJasper Ganslandtやアルゼンチンのアレクシス・ドス・サントス、廣木隆一監督の『ヴァイブレータ』が好きです。あと、岩井俊二監督『リリィ・シュシュのすべて』は、自分の映画と似ていると言われたので観たいと思っています。
自分にとって映画は、世界と対話するためのものとして捉えているので、アイドル的に好きな映画監督がいたというわけではないんです。世界で起きていることをパノラマで見せてくれる映画が好きですね。

──そうしたアーティスティックな映画について語り合える友達は周りにいたんですか?

確かに高校生のときは、そういう趣味の子はいなかったので一人で映画を観に行っていました。でも、映画の大学に通うことになったので、そこでは話の合う友達がいましたし、いまもつき合っているのは映画の好きな人たちばかりです。
青春時代は演劇にも夢中になり、役者として舞台にも上がっていました。フェリーニの映画を観て、芸術、映画、物語と自分の好きなものが全て備わっているのが映画じゃないかなと思ったんですね。監督として、いまの仕事の中で一番好きなのは、役者の動きをディレクションする、その人間的な部分なのです。
ですから、突然映画監督になろうと思ったというよりも、自分が好きなものを辿っていくなかで、映画の大学に入ろうと決めました。ブラジルにはいくつか映画の大学があって、私が入学したFAAP映画学校は、国内や外国の映画史を学ぶほかに、コミュニケーション論や哲学・心理学を学ぶことができます。とりわけ映画についてディスカッションできるのが自分にとってはいい場所でしたし、大学時代に実験的な短編を制作できたことは意義があったと感じていました。

──初期の短編で、自身の映画作家としてのスタイルができあがったという気持ちはあったんですか?

私は映画制作においては、ストーリーを語るよりも、直感的に進めていくタイプなんです。現代においてストーリーというのは、もう出尽くしている。ですから、そのストーリーをどうやって、どの視点で映像と音で見せていくのかというのがいま問題になっていると思います。最初に制作した『Alguma Coisa Assim(Something Like That)』(2006年)から最新の短編の『Saliva』(2007年)までは、自分の見方や視点を試してみるプロセスでした。さらに、インターネットではビデオの短編のビデオを制作して発表しているので、それも自分にとってはトレーニングになりました。
そこでは、他の監督と違ったものを見せようとか、他の人がやってないことをやって驚かせてやろうといった気持ちは全くなかったです。思うことを直感的に、誠実に表すことで、自分の見方、視点を信じて自身に忠実でありたいと思っていました。
今回『名前のない少年、脚のない少女』で初めて長編映画に挑戦して、まだその試みのプロセスは続いていると感じています。自分のこれまで作ってきた映画を観ると、そのときの見方、そのとき自分が感じていたことというのがそのまま出ている。自分が語りたいこのストーリーをいま伝えなくては、語らなくてはという切迫した感情に応じてストーリーを語っていると思うんです。
私にとって映画制作の原動力となっているのは、自分自身の人生です。これから先、どういう映画を作るのかというのも、そのときの自分が何を感じて伝えなくちゃいけないかと思うことによると思うので、そういう意味ではスタイルとかそういうことではないと思います。

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『名前のない少年、脚のない少女』より

自分だけに起こったことがネットによって世界中に広まってくことは、いまの世界の象徴

──ブラジルでYoutubeから話題になった『Tapa na Pantera (Slap the Panther)』(2006年)は、ひとりの女性が延々映っている作品ですが、これはどういう経緯で撮影され、本国で話題を呼んだのですか?

彼女はマリア・アリシィ・ヴェルゲイロさんという女優で、1本目の短編『Ato II Cena 5』(2004年)に出てもらってから親しくなりました。彼女の家に行ったときに、彼女があの服を着て座っていたんですが、それがすでにひとつのキャラクターになっていたんです。そこで、特にテーマも設けず、何を話すかも考えずに、彼女とインタビューみたいな感じで会話をしているところを撮ろうというアイディアが浮かんだんです。それも自然発生的に出た会話で、それを撮っていきました。
できたビデオで、一年後に映画祭に出品したのですが、それを他の誰かがインターネットにアップしたんです。そうしたら1週間で100万件のアクセスがあって、それですごく話題になり、そのあとYoutubeに載ったのです。その頃まだブラジルではYoutubeというのは有名ではなかったのですが、このビデオがYoutubeに載ったことでYoutubeがみんなに知れ渡ったということでは、Youtubeの普及、発展に貢献したという文化的な意義もあった映画となりました。
友達の中での遊びから始まって、それがインターネットに載り、全く何のコマーシャルをすることなく、結局1000万人の人が観たという現象になったことで、ブラジルではこの作品を、非常に自然発生的な文化的現象と評価されましたし、私のキャリアにとってとても重要な作品です。自分の世界で自分だけに起こったことなのに、それがインターネットによって世界中に広まり成功していくというこの現象は、いまの世界を象徴しているとも思います。

──『Tapa na Pantera』で、現代におけるネットの影響力を監督御自身が感じることになると同時に、映画で自分の内面を表現するという気持ちが固まってきた中で、それで今回の『名前のない少年、脚のない少女』を撮ることになったというのは、必然とも言えると思います。この題材に出会ったのはいつ頃なんでしょうか?

2004年に大学を卒業した後、『Saliva』(2007年)という短編を制作して、その後何か長編を作りたいとストーリーを探していたんです。そんなときに今作の脚本のイズマエルと出会いました。彼はその時にとりかかっていた2作目の小説の半分くらいまで書き終えたものを見せてくれました。それを読んで私はこの映画を作りたいと思い、彼に「最後まで早く書いて」とお願いしたのです。その本は、イズマエルが自分が生まれて暮らしている、リオグランデ・ド・スル州のドイツ移民の多く暮らす小さな町が舞台となっていて、自分はサンパウロという大都会に生まれて育ってきたのに、自分のストーリーとすごく親近感を覚えたんです。それで自分の1本目の長編映画を撮る上で、彼が住んでるその町まで行って、彼に街を案内してもらいながら、彼と一緒に脚本を作ることになりました。
実際にその町に行って、ビデオカメラでそこに住む青年を撮ったり、思春期の子たちを調査することによって、イズマエルも小説に新しいページを加えていったところもあります。そうしたお互いの交流や対話の中から生まれたので、単に原作を映画にしたわけではないですし、映画と本が補完関係にある作品なんです。
この映画に出てくるジングル・ジャングル役の少女は実際にサイトを持っていて、そのサイトの中の写真やビデオを映画の中でも使っていて、彼女のサイトにアクセスすれば、さらに彼女の世界が深くわかります。そういう意味では今作は、単なる映画以上のもの、映画と本とインターネットと音楽、その4つが組み合わさったムーブメントだと思います。

──映画を観て終わりではなく、観た人がジングル・ジャングルのサイトにアクセスすることで、より幅広い〈体験〉をすることができる作品だと感じました。

そうですね、それが僕の映画の作り方でもあるんです。この映画は観た後にたくさんアクセスする場所があるというところが気に入っています。映画館を出てネットの世界にアクセスするといったように、観客が行動を起こしていくようになって欲しいと思います。

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『名前のない少年、脚のない少女』より

これは感情の映画であり、感覚的な映画

──出演している少年、少女たちもその町でのオーディションで選ばれたということですが、映画の撮影が終わって、彼らはまた自分たちの生活に戻っていったのでしょうか?今作公開が契機となって少年、少女たちの生活にも変化は起こったのでしょうか?

普通の生活をしている少年少女たちに出演してもらうことで、その経験が彼らの人生にどのような影響を与えてしまうのか、私も責任を感じていたんです。でも、みんな映画に出たことが人生の教訓になったみたいです。この小さな町から出ていきたいとか、自分が何をしたらいいのかといった苦悩を感じていた子たちにとって、世界を知るきっかけになったようです。“名前のない少年”を演じたエンリケは、いまポルト・アレグレというリオグランデ・ド・スル州の一番大きな町に住んでいますし、“脚のない少女”を演じたトゥアネは、元々バーチャルな世界で生きている感じの女の子なので、映画に出た子のなかで唯一まだ同じ村に住んでいますが、そこで写真を撮り続けていて、Flickrサイトが有名になったことで、いろんなアーティスティックな情報を発信し、写真家として成功しています。エンリケをベルリン映画祭に連れていったり、トゥアネをスペインの映画祭に連れていったりもしたので、彼らは世界への目が開かれた、自分たちが世界の一部分になっているというのをすごく感じたということで、感謝してくれています。

──ブラジルでの公開の際には、監督が意図されていたように、観客はアクションを起こしてくれましたか?また、世代によって今作に対するリアクションに変化はありましたか?

「この映画はどの世代を狙ったものなのか?」という質問をよく受けるのですが、それについては、全然考えてなかったんです。
『名前のない少年、脚のない少女』では思春期のプロセスを扱うなかで、橋が非常に重要な役割を果たしています。少年は橋を渡って出て行くということを考えているし、その橋は少年から大人になる間を結ぶ橋でもあるので、霞がかかったような非常に混乱している思春期の時代のことでもあります。私の映画も霧がかかったようなタッチになっていますが、それは若者たちの様々な苦悩を表しています。ですので、既に橋を渡った大人の見方と、橋の途中にいる若い人の映画の見方では違うと思うんです。大人は「とてもポエティックなもの感じた」という意見と同時に「ただインターネットについてはよくわからなかった」という感想を言ってくれました。思春期の若者たちは、映画の中に自分を見たという子がいました。そして、思春期を過ぎた自分と同じような世代の人たちは、「自分の思春期を思い出した」とあの本を読んで自分が感じたような感情を伝えてくれた人が多かったです。
ある14歳の女の子が「私は何も理解できなかったけれど、この作品が好き」と感想を言ってくれたんですが、まさしくそういう映画なんだと思います。これは、例えば隠れたトリックが最後に明かされて驚かせるような映画ではなくて、感情の映画であり、感覚的な映画なんです。

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『名前のない少年、脚のない少女』より

──ブラジルと海外での、メディアや観客の反応の違いは感じましたか?

南部の小さな町を舞台にした、非常に地域的な話ですが、扱ってる内容が普遍的だということで、そういう意味で国内と海外で反応が違うということはあまりなかったです。国際映画祭に行ったときは、やはりいままでのブラジル映画のサンバのようなブラジルの印象と違う、新しいブラジル映画として受け入れられました。ネットが日常的にある現代の若者たちの生活にとってのインターネットの役割を描いている点がこれまでの映画とは異なるという意見もよく言われましたし、母国でもいままでのブラジル映画と違うという点で評価を受けました。ただ感じたのは、「好きだ」、「気に入った」という人と、「嫌いだ」という人、両方にすごくパッションを感じたんです。両極端なんですけども、すごく感情のこもった意見が聞けました。

──最後に、監督が映画の中で大切だとされている音楽についてお聞きします。“名前のない少年”が行動を起こすきっかけとして、ボブ・ディランと彼のライブ、それと「ミスター・タンブリンマン」という楽曲を使用しようと思われたのは、監督の趣味ですか?それとも原作でもそういう描写があったでしょうか?

イズマエルの原作の中には、「ミスター・タンブリンマン」だけでなく、ボブ・ディランのことや楽曲についてたくさん用いられていました。ただ、この曲の歌詞が一番このストーリーを反映していると思ったのです。〈私を他の世界に連れて行く音楽を奏でるのは誰?〉という歌詞が、この映画に合っていたので選びました。少年のハンドルネームが「ミスター・タンブリンマン」なのも小説からきています。
「ミスター・タンブリンマン」は60年代に流行った曲で、その頃の若い世代に影響を与えましたが、インターネットの世界では、過去も現在も未来もあります。この映画の16歳の少年にとっては、「ミスター・タンブリンマン」もインターネットを通じて知った新しい曲になっている。そうしたことを伝えたかったですし、ネットを通して知り合う男の子と女の子両方にボブ・ディランのポスターが貼ってあることで、一つのつながりを表現しています。
それから、この映画の中で少年がチャットをしている友達の名前がE.F.なんですが、それは実は私の頭文字なんです。イズマエルの原作の中でも彼のバーチャルな友達は、E.F.になっている。さらにイズマエルは、映画ではジュリアンという役を演じている。ですので、私が彼の本に登場して、彼が私の映画に登場する、というように映画と小説が互いにメビウスの輪のようになってるんですね。それを最後にお伝えしておきます。

(インタビュー・文:駒井憲嗣)
▼『名前のない少年、脚のない少女』予告編




エズミール・フィーリョ プロフィール

1982年ブラジル、サンパウロ生まれ。2004年、FAAP映画学校を卒業。 以後、短編映画の監督として輝かしいキャリアを築く。 短編『Alguma Coisa Assim(Something Like That)』は2006年カンヌ映画祭批評家週間で最優秀脚本賞を、またビアリッツ映画祭では最優秀作品賞を受賞。『Impar Par (Paired Off)』は2005年キエフ国際映画祭で最優秀作品賞を受賞。ビデオ作品『Tapa na Pantera (Slap the Panther)』はYouTubeで1000万回以上見られた作品と言われる。彼の最新の短編『Saliva (Saliva)』は2007年のカンヌ映画祭批評家週間に選出され、シッチェス・カタロニア国際映画祭で短編作品グランプリを受賞。『名前のない少年、脚のない少女』は彼にとって最初の長編作品となる。




映画『名前のない少年、脚のない少女』
2011年3月26日(土)より渋谷シアター・イメージフォーラムほか
全国順次公開

監督・脚本:エズミール・フィーリョ
プロデューサー:サラ・シルヴェイラ、マリア・イオネスク
脚本・出演:イズマエル・カネッペレ
撮影監督:マウロ・ピニェイロJr.
音楽:ネロ・ヨハン
キャスト:エンリケ・ラレー、イズマエル・カネッペレ、トゥアネ・エジェルス、サムエル・ヘジナット、アウレア・バチスタ
ブラジル・フランス/ポルトガル語・ドイツ語/2009年/101分/35mm
配給:アップリンク

公式サイト


イベント情報

公開初日、ブラジルにいる監督とのQ&Aを開催!
地球の裏側のブラジルにいるエズミール・フィーリォ監督と12時間の時差を越えて、ネット中継によるQ&Aを行います。
2011年3月26日(土)12:50の回終了後(15分程度)
会場:渋谷シアター・イメージフォーラム
タイムテーブル 12:50/15:00/17:10/19:20

トゥアネ・エジェルス(ジングル・ジャングル)写真展
2011年3月27日(日)~4月10日(日)
会場:渋谷UPLINK GALLERY(アップリンクX、アップリンク・ファクトリー併設)
東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1F [地図を表示]
12:00~22:00
入場無料


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