骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2010-10-05 22:05


10/9からのブラジル映画祭2010でアップリンク配給作品、2011年公開予定の『名前のない少年、脚のない少女』先行上映

ブラジル映画界の超新星エズミール・フィーリョ監督によるロカルノ映画祭コンペ出品作。監督インタビューも掲載。
10/9からのブラジル映画祭2010でアップリンク配給作品、2011年公開予定の『名前のない少年、脚のない少女』先行上映

2010年10月9日よりユーロスペースでブラジル映画祭2010が開催される。今年の映画祭の目玉であり、唯一監督が来日し舞台挨拶を行うのが『名前のない少年、脚のない少女』だ。ブラジル映画といえば、サンバにリオにファベーラというワイルドで熱狂のイメージがあるが、本作はブラジルの南部のドイツ系移民が多い小さな村を舞台にしており、日本人が抱くブラジル映画とはほど遠くどこかヨーロッパの香りのする風景の中で描かれる。それは、橋から飛び降りて亡くなった少女の事を想っている“思春期”の少年の物語。少年は、インターネットで知り合った友人の紹介によりボブ・ディランのコンサートに行く事で行き場のない村から脱出しようとする。インターネットで世界とつながる事の出来る現在だからこそ、さらに感じる孤独と不安を抱く少年を主人公にした映画だ。東京での上映は10月9日、14日の2回、9日はエズミール・フィーリョ監督の舞台挨拶と観客との質疑応答もあるので、来年に公開される本作を是非一足早く目撃してほしい。




『名前のない少年、脚のない少女』は
喪失と共に生きることを描いた映画

不安や悲しみ、反抗心や孤独、…この世界で自分自身と自分の居場所を見つけようとあがき、解決しがたい絶望と格闘する。そんな、誰もが体験したことのある思春期の不確かさを鮮烈に描き出した本作は、インターネットを通じなければ世界と繋がることが出来ないと考えている、隔絶された町に住む思春期の少年が、喪失と共に生きることを描いた物語である。

本作に出演している若者たちは、舞台となっている南ブラジルのドイツ系移民の町テウトニアで実際暮らしているティーンエイジャーたちから選ばれている。その方法は、ブログや、フォトログや、フリッカーなどのインターネット。400人以上のティーンエイジャーと話し、最終的に10人を選び、撮影を行った。

監督のエズミール・フィーリョは、情熱的な色彩や陽気なセクシーさが連想されやすいブラジリアン・カルチャーの中にあって、繊細で美しい映像をつむぎ、これまでにカンヌ映画祭批評家週間・最優秀脚本賞受賞など、世界各地の映画祭で数々の賞を受賞し、短編映画の監督として輝かしいキャリアを持つ。ビデオ作品『Tapa na Pantera』はYouTube で公開され今までに400万回以上再生されている。本作は、監督にとって長編第一作目となる。

▼『名前のない少年、脚のない少女』海外版予告編





エズミール・フィーリョ監督 インタビュー

── 最初に映画を作りたいと思ったのは?

「小さい頃から足繁く映画館に通い、あらゆる種類の映画を観たものだった。15歳の時に、自分の視点を変える特別な映画に出合った。それは、フェデリコ・フェリーニの『カビリアの夜』(1957年)だった。カビリアが目に涙を浮かべながらほほえむ周りを、小さな天使たちが飛び交っている最後のシーンで、僕はなんとも形容しがたい気分に襲われた。"これは哀れみだろうか?それとも苦痛だろうか?あるいは希望、もしくは悲哀なのか?"やがて、僕はそのすべてだと気がついた。言葉や文章では表現し切れない情緒を、映像で表現する力を確信した。たとえそのシーンが現実的ではなくても、そこには真実を伝えるなにかがある。それが、芸術としての映画の、詩的なメタファーとシンボルに触れた最初の時だったんだ」

エズミール・フィーリョ監督
エズミール・フィーリョ監督

── 過去の短編作品も含め、こんなにも思春期の題材を重要視しているのはなぜですか?

「ティーンエイジャーの世界の捉え方が好きなんだ。感情が強くて、人生に起こる様々な出来事に幻惑されやすい。そこで自分自身について多くの発見をし、心の奥底にひそむ感情と戦おうとする。僕の短編映画『Saliva』にあったように、少女にとっての初めてのキスは、体液を変えるモンスターとなりかねないし、別の短編『Alguma Coisa Assim(Something Like That)』にあったように、初めての愛の裏切りは、ゲイの友だちを愛してしまった少女にとっては永遠のものとなりかねない。思春期に起こったことはすべて、成長してみると些細なことにしか思えない。しかし、それは僕たちみんなにとって恐るべき時代であると共に、純粋な時代なんだ。だから僕はこの時のもたらす、十代の苦悩や、悲しみや、反抗心や、不安感や、孤独を語るのが好きなんだ。そして、新しいものに対する恐れもね!」

Bleeding inside...
主人公は、南ブラジルのドイツ系移民の小さな町に母親と二人で暮らす16歳の少年

── 『名前のない少年、脚のない少女』を作ろうと思い立ったのは?

「原作となるイズマエル・カネッペレの『ザ・フェイマス・アンド・ザ・デッド(原題)』を初めて読んだ時、その詩心と感受性に魅了された。すばらしい物語で、バーチャルな世界に直面しているこの現代に十代でいることのリアルな感情を教えてくれたんだ。物語には、彼の自伝的な事実が多く含まれていた。かつてブラジル郊外のドイツ村に生まれ、18になった時に大都会のサンパウロに出てきた。彼はその原作の中で、自分自身や自分の町に対して懐疑心を抱き、答えを求める少年の通過儀礼を描いていた。生まれた土地に住みながら、そこが自分の居場所ではないように感じること、これこそが思春期というものだ。僕は彼に本を出版することを勧め、同時に僕のために脚本を書いてくれないかと頼んだ。そして、そのすべてが実現したんだ。僕は彼の生まれた町に行ってそこに数ヶ月住み、彼が著作の中で書いた場所と、そこに住む若者たちとを知ろうとした。部分的にはドイツ文化に染まりながら、ブラジルのティーンエイジャーである彼らの気持ちも強く感じた。年寄りがドイツ語を話し、ドイツの伝統に従う中で、ティーンエイジャーはなにも起こらない町でインターネットだけが唯一の逃げ道を開いてくれるものだと信じている。これらのすべてを撮りたいと思ったのが、この映画の出発点だった」

── あなたにとって、登場人物のジュリアン(イズマエル・カネッペレが演じる、"脚のない少女"の恋人)が表すものはなんですか?

「ジュリアンのキャラクターはとても複雑だ。僕たちはビデオを通して、彼と少女との関係を、そして彼らの町との関係を追いかける。ビデオカメラは、くだらない冗談から沈黙のマニフェストまで、彼らを結びつける。彼らは二人とも町を出ていきたいと思い、出口を見つける―橋だ。彼女は死に、彼は死ななかった。裏切ったという思いと、罪悪感のみが彼の心に残される。彼は町に戻ってきて、主人公の目を通してジュリアンとして僕らに知られることになる。恐るべき人物として、そして同時に哀れむべき人物として。町じゅうがジュリアンを、少女の死のせいで責めているが、少年は彼についていこうと決める。かつて少女がそうしたように、町から出ていく新しい道を見つけるために。ジュリアンは人を引きつける、ティーンエイジャーを幻惑するバンパイアのようなものだ。彼自身がいっしょにいてくれる人を求め、誰かに信じてもらうことを必要としている。言い換えれば、一人でどこかに行く勇気がない。この意気地のなさが彼をこの町に閉じ込める。なぜなら、彼が別の出口を真剣に探したところで、彼に残されているのは悔恨だけだからだ。つまり、彼はこの場所に属しているんだ。

── どうして、イズマエル・カネッペレにジュリアンを演じてもらうことにしたのですか?

「本の中の主人公は、かつて町から出ていこうとして失敗した若い男に取り憑かれている。彼はいっしょに出口が見つけられないかと思って、この男についていこうと決める。この出会いは、原作の中ではかなりミステリアスに描かれていて、この若い男が少年に与える影響力も大きなものだ。この男性をイズマエルに演じてもらおうと思ったのは、彼がこの本の著者だからに他ならない。映画の中で彼が少年を見つめる姿は、かつての自分、本のページに描かれた少年を見つめる姿のように僕には感じられるんだ」

Butterflies
写真右:本作の原作者でもあり、ジュリアン役で出演してるイズマエル・カネッペレ

── 映画の中の若い俳優たちをどうやって見つけたのですか?

「ドイツの伝統を持った小さな町で暮らした経験があることが重要だったから、どうしても物語の設定であるテウトニア(南ブラジルのドイツ系移民の町)で暮らしているティーンエイジャーたちに演じてもらいたくて、その地域に住む子たちのブログやフォトログ、フリッカーを調べることから始めた。それが、現代のティーンエイジャーたちを知るには最適な場だったからだ。彼らがネットの上でどのように見られたがっているかを発見することは興味深かった。ネットを通して、僕は彼らが写真を使って世界をどのように描写しているかを知ることができたし、ブログに書かれた言葉によって、どのような心情でいるかを知ることもできた。僕は彼らと連絡を取り、その地域で面接をする計画を立てた。400人以上のティーンエイジャーと話して、40人を選んだ。僕たちは彼らに集中的な演技のワークショップに出てもらい、ドラマのレッスンや映画的な技術を学んでもらった。最後に残った10人の中から、僕はエンリケ・ラレーを『名前のない少年』に、トゥアネ・エジェルスをジングル・ジャングルという『脚のない少女』、そして、サムエル・ヘジナットをその弟のジエゴに選んだんだ。これは彼らにとって初めての長編映画となった。特に、トゥアネ・エジェルスとの出会いは特別なものだった。彼女が現実を逃れて、フォトログやフリッカーに自分の生活を撮って載せる方法が僕は気に入った。彼女はティーンエイジャーでいることのフィーリングを捕らえ、フレームに納めることができる。映画の中の写真は、すべて彼女自身が撮ったものなんだよ」

── 撮影方法について教えてもらえますか?

「シネマスコープ(縦横比が1:2以上の横長の画面サイズ)で撮ろうというのは、カメラマンのマウロ・ピニェイロ Jr.の提案だったんだけど、いいコンセプトだと思った。これが孤独についての映画であることはみんな共通した意見だったから。彼は、映画の大きなスクリーンの中では、少年はとても孤独に見えると主張した。だが、シネマスコープのように広がりのある空間があれば、もっと孤独に見せることができるんだ。そこで僕たちはどのシーケンスもアングルに気をつけ、少年と周りとの間に大きな間ができるようにした。これは少年の目を通した、とても感覚的な映画だ。すべて彼が感じるように、観客も感じてもらうことが求められる。だから長いシーケンスによって観客を少年の世界に入らせ、細かなディテールに注意を払ってもらうことができるようにした。その場の現実感は保ちたかったけれど、同時になにか暗喩を加えることのできるシンボルも組み込みたかった。すべてがささやかながら暗示的で、とても細やかに作られているんだ」

── あなたの思春期に対するビジョンはとてもはっきりしていて普遍的ですね。たとえばティーンエイジャーの、イメージとの関係は非常におもしろいものです。「名前のない少年」はコンピューターやインターネットや、MSNやディスカッションできる友人たちと、とても孤独で個人的な関係を結んでいる。しかしそれに反して、彼とテレビとの関わりは、彼と母親との関係を彷彿とさせます。

「現代では、ティーンエイジャーたちは心の奥底の思いを、インターネットを通して吐き出す道を見つけている。ほんとうの名前は言わなくても、自分の秘密を打ち明け、怒りを分かち合える場所を持つことができる。彼らが書き込んだり、写真やビデオを投稿したり、歌をアップできる場所は、オープンな日記のようなものだ。それらをみんなで交換し合っている。だから映画の全編に、こうした要素を取り入れようとしたんだ。なぜなら、それが少年を世界とリンクさせるものだからだ。テレビは過去のものであり、それは息子がネットをしたがっている時に、彼の母親がテレビに見入っている場面に明らかに現れている。同時に、テレビは母親と息子との日常で、唯一会話をリンクさせるものだ。そこにはいつでも少年と、母親と、テレビとの三角形がある。たとえテレビがなくても、少年と、母親と、犬との別の三角形がある。この三角形の中には、父親の不在の代わりとしての何かが含まれている。だから僕たちはいつも、この家の中に空白の場所を見ることになる。なにか失われたものがあり、彼らは喪失と向き合っている。
しかし二人はお互いに孤独であり、互いの損失を埋め合うことができない。父親を失うということは、夫を失うのとは別のことだ。彼らはお互いを気遣う必要があるけれど、どうやったらいいかがわからない。こうした母親と息子との関係は、この映画の中で重要な要素となっている。ここでは、僕たちが両親や息子たちに言いたいと思いながらも、どのように言ったらいいのかわらかないすべてが描かれている。イズマエル・カネッペレの原作の中には、そのことについてもすばらしいくだりがあるよ」

Play a song for me
"脚のない少女"ジングル・ジャングル

── 登場人物の少女、ジングル・ジャングルが作るデジタル・ビデオは、どのように思いついたのですか?

「彼女は橋から飛び降りる前に、自分の写真とビデオを投稿しておいた。だから、そう見られたいと思ったとおりに、現実の世界で人に見られ続けていることができる。自分の命をピクセルに変容させ、インターネットによって不死たるものと化したんだ。僕たちは映画の中で、ビデオを通した少女の視点と、少年の実生活との平行線をたどってゆく。ビデオを見ながら、彼は少女に同化する。映画は、現実の生活感覚とビデオの感覚とを結びつけ、少年と少女とを結びつけるウェブサイトのようなものだ。クリックすれば感じ取れる。もう一度クリックすれば、新しく探索できるページが広がる。少年は追憶の中に飛び込み、彼と少女とを結びつける歌に聞き入る。彼らの最も重要なシーンのひとつである鏡のシーンで、彼はボブ・ディランを聞きながら、自分を彼女に投影し、鏡の中でお互いを映し合う。そしてその時、少年はジュリアンに、かつて少女がついていった謎めいた男についていこうと決心する―自らの人生の答えを得るために」

少女・ジングル・ジャングルのYOUTUBEアカウント・flickrアカウントでは、実際にデジタル・ビデオや彼女の投稿した写真を見ることができる。

◆YOUTUBE JJingleJangle

http://www.youtube.com/user/JJingleJangle

◆flickr J. Jingle Jangle's photostream

http://www.flickr.com/photos/uncolortv/


── サウンドトラックもとても重要なポイントを占めていますね。

「サウンドデザインは、主人公の苦悩に沿って作られている。音楽が重要な位置を占めているが、音のない瞬間も同様に重要だ。最新の短編映画『Saliva』以来、僕たちはサウンドデザイナーのマルティン・グリナスチとパートナー関係にある。脚本にはたくさんのサウンドに関する指示があった。シーケンスをわかりやすくするためにサウンドを入れたかったので、僕たちは撮影に入る前にたくさんのことを話し合った。それぞれのシーンでサウンドの果たす役割を確認した後は、ファイナルカットしか手を加えることができなかったから、ファーストカットを彼に見てもらうのは大事なことだった。そして、ファイナルカット後に、僕たちは夢のような光景で主人公の周りの世界を作り上げながら、少年の心を掘り下げていった。コンセプトや理想を表わすためにサウンドを使いながらも、あらゆるシーンの雰囲気を自由に作っていったんだ」

── ネロ・ヨハンの歌はどうやって見つけたのですか?まるで登場人物の内面の声を構成しているかのように、非常に特別なやり方で歌を使っていますね。

「イズマエル・カネッペレが、僕を彼の友人のネロに紹介してくれた。彼もこの映画の舞台である町で生まれた25歳のミュージシャンだった。彼の曲は少年の内面の声であるだけではなく、ネットを愛する全ティーンエイジャーたちの声なんだ。彼のメロディは暗く苦痛に満ち、歌詞は風刺がきいていてポエティックだ。僕には彼の歌は新しいボブ・ディラン、"バーチャル・オブスキュア・フォーク"に思える。歌詞が全部英語なのは、英語はその生活がいつでもインターネットにつながっているティーンエイジャーの公用語だからなんだ。彼は曲をスタジオではなく自分のパソコンで作ってインターネットで配布している。ホームページで12枚のアルバム、150曲以上の曲を、全部ダウンロードすることができるよ。僕は脚本を練り直す間に、そのすべてを耳にした。彼の曲は、映画の陰鬱でメランコリックな雰囲気を作り上げるのに、ずいぶんと貢献してくれたね」

ネロ・ヨハン公式サイトでは楽曲のmp3をダウンロードすることができる。
http://nelojohann.wordpress.com/

── 『名前のない少年、脚のない少女』は、例えば物語の舞台などブラジルの特殊性を持ちながら、世界に共通のことを物語っていますね。映画制作者としてコスモポリタンであることは非常に重要なことだとお考えですか?

「コスモポリタンという観念は、やっぱり僕にインターネットを思い起こさせる。そこには境界もなければ最前線もない。クリックひとつで世界とつながることができる。人々はつながり合い、思いを分かち合う。世界中のティーンエイジャーが互いを理解し合うんだ。そして僕は自分のことを、いまだにティーンエイジャーのように感じるよ。自分の領分を理解しようと努め、自分の思いを世界と分かち合おうとしながらね」

── 少年は最後に、橋を渡り終えたと思いますか?

「答えは風に吹かれて……と言っておこう」

※「風に吹かれて」(英: Blowin' in the Wind)は、ボブ・ディランのセカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』(1963年)に収録され、シングル・カットされた代表曲。

インタビュアー:バーナード・ペイン 2009年6月



エズミール・フィーリョ プロフィール

ブラジル、サンパウロ生まれ。2004年、FAAP映画学校を卒業。 以後、短編映画の監督として輝かしいキャリアを築く。短編『Alguma Coisa Assim(Something Like That)』は2006年カンヌ映画祭批評家週間で最優秀脚本賞を、またビアリッツ映画祭では最優秀作品賞を受賞。『Impar Par (Paired Off)』は2005年キエフ国際映画祭で最優秀作品賞を受賞。ビデオ作品『Tapa na Pantera (Slap the Panther)』はYouTubeで400万回以上見られた作品と言われる。彼の最新の短編『Saliva (Saliva)』は2007年のカンヌ映画祭批評家週間に選出され、シッチェス・カタロニア国際映画祭で短編作品グランプリを受賞。この『名前のない少年、脚のない少女』は彼にとって最初の長編作品となり、第62回ロカルノ国際映画祭インターナショナル・コンペティション部門、第60回ベルリン国際映画祭ジェネレーション14plus 長編部門に出品した。

『Tapa na Pantera』:ブラジルで知名度のある大女優、マリア・アリシィ・ヴェルゲイロ(Maria Alice Vergueiro)がソファに座って、マリファナ中毒の60歳代の女性を演じている。その様子が彼女自身の告白にも見えるので、フィクションではないのでは?と話題になった。





『名前のない少年、脚のない少女』
2011年、全国順次公開予定

南ブラジルのドイツ系移民の小さな町に母親と二人で暮らす16歳の少年。彼の夢はボブ・ディランのコンサートへ行くこと。学校にも家庭にも居場所を見つけられない少年は、退屈な現実から逃避するようにミスター・タンブリンマンというハンドルネームで日夜インターネットに没頭している。ある日、彼はネット上で奇妙な動画と写真を見つける。そのどちらにも同じ神秘的な女性が映っていた…。

監督:エズミール・フィーリョ
プロデューサー:サラ・シルヴェイラ、マリア・イオネスク
脚本:エズミール・フィーリョ、イズマエル・カネッペレ
撮影監督:マウロ・ピニェイロ Jr.
編集:カロリーネ・レオーネ
美術監督:マルセロ・エスカヌエラ
音楽:ネロ・ヨハン
音楽監督:マルティン・グリナスチ
出演:エンリケ・ラレー、イズマエル・カネッペレ、トゥアネ・エジェルス、サムエル・ヘジナット 他
ブラジル・フランス / ポルトガル語・ドイツ語 / 2009年 / 101分 / 35mm




ブラジル映画祭2010

★『名前のない少年、脚のない少女』が先行プレミア上映!
2010年10月9日(土)、東京ユーロスペースにて18:05の上映回にエズミール・フィーリョ監督による舞台挨拶が行われます。プログラム詳細は公式サイトにてご確認ください。
公式サイト
前売券情報

東京会場 ユーロスペース

2010年10月9日(土)~15日(金)
東京都渋谷区円山町1-5 Tel.03-3461-0211

大阪会場 シネ・ヌーヴォ

2010年10月16日(土)~22日(金)
大阪府大阪市西区九条1-20-24 Tel.053-489-5539

浜松会場 シネマ イーラ

2010年10月23日(土)~29日(金)
静岡県浜松市中区田町315-34笠井屋ビル3階 Tel.053-489-5539

京都会場 京都シネマ

2010年11月13日(土)~19日(金)
京都府京都市下京区烏丸通四条下ル水銀屋町620番地COCON烏丸3F Tel.075-353-4723

ブラジル映画祭2010

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