貧乏時代の水木の風貌にそっくりな水木しげる役の宮藤官九郎と布枝役の吹石一恵。映画版『ゲゲゲの女房』より。 (C) 2010 水木プロダクション/ 『ゲゲゲの女房』製作委員会
NHKの連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』も最終回まで残すところあと僅か。ドラマをきっかけに水木しげるの生きざまに興味を持った人も多いのでは?
『ゲゲゲの女房』で「ゲゲゲ」ブームが来た!
「ゲゲゲ観てる?」こんな会話ではじまる24時。いいお日柄ですねとはじまる挨拶のように日常に染み込んだ違和感のあるワード「ゲゲゲ」。今、「ゲゲゲ」と高らかに謳えば、NHKの連続ドラマ小説『ゲゲゲの女房』のことを指す。
ご存知の方も多いと思うが『ゲゲゲの女房』とは、武良布枝の自伝および同タイトルを原案にしたドラマ、映画のことである。これまでゲゲゲといえば「鬼太郎」のことであった。しかし、いまや「ゲゲゲ」といえば、「女房」なのである。ゲゲゲとは「ゲゲゲの鬼太郎」の作者水木しげるのことであり、その女房とは武良布枝のことなのだ。そもそも「ゲゲゲ」という造語は、水木しげるの幼少期のあだ名が由来である。自分のことを「茂(しげる)」と呼べなかった水木が「ゲゲる」と発音したのがきっかけであったという。だから、「ゲゲゲの」はそのまま「水木しげるの」と言い換えることができる。
そんなゲゲゲの、が空前絶後の大ブームなのである。
私は水木しげるが好きだ。子どもの頃から大好きだ。妖怪や妖精を本気で信じ、友達から気味悪がられつつも、怪奇趣味に溺れたきっかけを作ったのは水木しげるの影響と言って良い。好きをとっくに通り越し、今や崇拝、信仰にも近い。とはいえ、水木しげるを信仰したとしても水木しげる的世界観、その理の中では盲信とはならず、緩やかに心の平穏を与えるのみだ。見えないものを信じ、見えるものを疑い、本質を見極めようとすることが大事なのだ。だから水木しげるの著作物は、読むとほがらかな気持ちになれる。安心できるのだ。私に限らず、古くからのファンもこれまで水木しげるの人生にまったく興味がなかった人もみんなわりとドラマ『ゲゲゲの女房』を観ており、こぞって面白いという。
水木しげる「ねぼけ人生」 (筑摩書房)。82年に刊行された著者初の自伝エッセイ。書影は99年に復刻されたもの。
みな口をそろえ、「日本が貧乏になったから貧乏生活の描写に共感できる」だの「周りから評価されずとも自分のやりたいことに誇りを持ち、一心不乱に打ち込む姿に励まされる」だの「夫を支える妻の献身に涙」といった気持ちの良い最大公約数の意見が聞こえてくる。それも正解である。間違ってなどいない。その確かな事実であるにも関わらず、「でも」と反論したくなる人がいるのも確かなのだ。例えば、水木しげるの自叙伝を暗記するほど読み込んでいる人、妖怪の名前を暗記している人、「総員玉砕せよ!」をはじめとした戦争ものが好きな人、日向にいる鬼太郎よりも墓場にいる鬼太郎に感じるところのある人、果ては「いきものがかり」の歌うオープニングソングが流れると音量をゼロにして、ゲッゲゲゲゲのゲ♪ と自ら歌いだしてしまう人などは、水木作品に漂う良い意味での陰気さを愛しているはずだ。暗さは悪いことではない。闇には闇の心地よさがある。そのことを水木しげるはよく知っている。 本稿では、水木しげるの半生をドラマでしか知らないという人のためにゲゲゲ道を説きたい。『ゲゲゲの女房』を入り口にさらにディープな水木ワールドへ突入せよ!そこはまだ見ぬアガルタだ!(たぶん)。
水木しげるという怪人。その人生劇場
水木しげるについて、いまさら説明するのもまた、野暮ったすぎるのだが、簡単に説明しておくと、「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」「河童の三平」を描いたマンガ家のこと。その作品の多くは、アニメにドラマに映画にとメディアミックスされているので、マンガを読んだことはなくとも、多くの人がその作品についてなんとなく知っていることと思う。
その半生は波乱に満ちている。戦争中にラバウルに出征。その際に負傷し、左腕を失った。終戦後はさまざまな職に就き、最後に選んだのが紙芝居作家だった。その後、紙芝居業界消滅の憂き目にあい、貸し本マンガ家へ転身。餓死と隣り合わせの貧困にあえぐ中、61年に結婚。お見合いから5日というスピード婚だった。
64年に貸本時代より交流のあった長井勝一が創刊した雑誌『ガロ』(青林堂)にて、「鬼太郎夜話」をはじめ、風刺ものの短編マンガやコラムを多数、執筆する。「カムイ伝」や「忍者武芸帖」で知られる白土三平と共に初期『ガロ』を支える看板作家となった。この頃より運が向きはじめ、65年に『別冊・少年マガジン』(講談社)に「テレビくん」が掲載され、商業誌へ進出。 同年、講談社児童漫画賞を受賞し、名実共に人気作家の仲間入りとなる。40歳を過ぎてからやっと、好きな絵で食べていけるようになった大器晩成型、遅咲きの人である。結婚後の貧困から成功までの過程は、ドラマでも克明に描かれている。
長井勝一「『ガロ』編集長」(筑摩書房)。『ガロ』(青林堂)は、ドラマで登場した雑誌『月刊ゼタ』のモデル。87年刊行。
波乱万丈。
たった4文字では片付けるのは失礼である。他人の感情や記憶、その人生を共有することは不可能である。けれども、と但し書きされた上で語られる人生は書き手のフィルターを通過して、はじめて読者に届くものだ。私たちが知るのはその人生の一部。自伝やエッセイというものは、いくら客観的に書こうとしても、書き手の存在がそれを拒む。そこにあるのは編集された人生の一部でしかない。過ぎてしまった人生を未来の自分が忘れないでと書き留めたもの。強烈な思い出は増幅され、取るに足りない出来事は省かれる。それは再編集、デザインされた人生。
水木しげるが自らの人生を語ったエッセイやマンガの刊行数はひじょうに多い。何度も何度も何度も描き直し、付け加え、省き、写経のように同じ人生を繰り返し描いている。水木しげるの人生は、一度描いておしまいではない。あたかも違うアングルで何度も撮り直されるように、少しずつ印象を変え、水木しげるの人生劇場は再演され続けている。
同じエピソードが繰り返されることで、前に読んだ時とは違う些細な差異が浮き上がり、頭に刷り込まれていく……。既視感と新鮮さは両立するのだ。それは心地好い中毒となり、読み込めば読み込むほど知らぬエピソードを知りたくなってしまう。その渇望を癒すように水木本人以外が水木しげるについて語っている作品も多い。他のエッセイストやエッセイマンガ家が自分について描くのは自分以外いないという状態であることと対照的に、水木しげるという人物は多面的、立体的に表現されている。驚くことに水木しげるの印象は他人が書いても本人が書いても一致してしまう。エッセイストになるためには、鋭い観察眼が必要であり、また、自意識が過剰でなければ自らのことを語ることなどできないと思うが、水木しげるはまったく違うステージに立っている。まさに無意識過剰!自然体といえば聞こえが良いが、他人がどう感じようが気にしないし、しても仕方がないという境地に達した上で、それでも読み手を不愉快にさせないようにとのサービス精神をもち、自らを語っている。だから、水木しげるの自叙伝はどれもこれも面白く、すでに水木作品の一部になってしまっている。そこが他のエッセイストとは違う点だ。では、どういった作品があるのかおすすめを紹介しよう。本人が書かずとも水木しげるという人物の面白さは変わらないのだ。
家族が語る水木しげる
■武良布枝「ゲゲゲの女房 人生は……終わりよければ、すべてよし!!」(実業之日本社)
ご存知、NHK連続テレビ小説、11月に公開される映画の原案となった水木しげるの妻・武良布枝の自叙伝。ドラマや映画は、この原作を骨子に他の作品からエピソードを付け加えて構成されている。ドラマの原案となったのは、水木しげるの妻・武良布枝の自伝「ゲゲゲの女房 人生は…終わりよければ、すべてよし!!」。たおやかな優しい語り口で紡がれる水木像は、愛しさの中から生まれている。片腕でストーブを点けてくれた姿を見た布枝が「私のハートにも火をつけた?」と、水木の第一印象を語るなど、本人が書けば自慢や嫌味に見えてしまう水木像だが、妻の視点なら素直な魅力へと変わる。
武良布枝「ゲゲゲの女房 人生は……終わりよければ、すべてよし!!」(実業之日本社)
「ぼんやりしている」と水木が評するように、文章全体からホワワワーンと和みのオーラが漂う夢見がちな乙女文体で書かれる水木像がカッコイイ!妻フィルターで見た水木しげるは、白馬に乗った王子様のよう。人の顔や名前を覚えるのが苦手な水木の語り口とは異なり、個人名や出版社名など固有名詞や貧乏時代の家計の内訳がしっかり書かれているのもコアなファンにはウレシイ発見も多い。
■水木悦子「お父ちゃんと私 父・水木しげるとのゲゲゲな日常」(株式会社やのまん)
妻が書いた「ゲゲゲの女房」の他、水木の家族のエッセイには、次女・悦子の「お父ちゃんと私」がある。『ゲゲゲの女房』と同時期に発売され、ドラマでも娘が生まれてからのエピソードの多くがこの本から引用されている。娘の悦子は現在、水木プロダクションに勤務し、水木を公私共にサポートする水木の良き理解者でもある。そのため、随所に妖怪を用いた比喩や水木作品からの引用が散りばめられている。『ゲゲゲの女房』では、方言があまり使われていないがこちらでは実際の話し言葉に近く方言ばりばり。
水木悦子「お父ちゃんと私 父・水木しげるとのゲゲゲな日常」(株式会社やのまん)
娘の目から見たお父ちゃん・水木はあまりに無邪気でかわいい!と思わすにやにやしてしまう。突然怒り出したり、わがままを言ったり、「悦子、お父ちゃんの身体が変なの……」と娘に甘える一幕もありと、つい足をばたばたさせてしまうほど。悦子のお父ちゃん大好き!ぶりはもちろん、片手のない父に代わって爪を切る母との夫婦仲むつまじいやりとりが記されており、家族でしか知りえないエピソードが満載。賢いのにとぼけたり、きめ細かな気遣いをするのにわがままだったり、大雑把なのに計算高かったりする水木しげるの二面性のある魅力的過ぎる性格がよく伝わってくる。これも水木しげる本人が描かない(けない)水木の姿だ。
水木一家はほんとうに仲が良い。気づけば「悦ちゃん、ほんとうに良い子に育って……」と、親戚のおばさんのような気持ちになってしまう。
第三者が語る水木しげる
■足立倫行「妖怪と歩くドキュメント・水木しげる」(新潮社)
94年に文藝春秋より単行本として刊行された後、97年に文庫化。書影は今年3月に新装版として、復刊されたもの。水木と同郷のノンフィクション作家・足立倫行が3年間、真摯に水木しげるを追い、書き上げた労作。ファンや家族とは違う冷ややかな視点で水木しげるの本質を暴こうとする。しかし、水木しげるという怪人の、あまりに複雑怪奇さは知れば知るほど分からなくなるばかり。客観的な事実を積み上げてもなお、水木しげるという人物は捕えることができない。まるで妖怪そのもの。異形の者を生真面目な者が追うからこそ、見つけることのできた水木の光と影。
足立倫行「妖怪と歩くドキュメント・水木しげる」(新潮社)。94年に文藝春秋より単行本として刊行された後、97年に文庫化。書影は今年3月に新装版として、復刊されたもの。
復刊に際し、足立が答えたインタビュー(『望星』2010年3月号/東海教育研究所)では、昨年行われた米寿祝いのパーティでの、水木しげるの言葉が印象的だったと語っている。それは会の締めくくりの時、「人生88年はどうでしたか?」と尋ねられた水木が戦争時に玉砕を命じられた話をしたことだった。「戦争で九死に一生を得て、ようやく部隊に帰還したら『何でお前は生きているんだ』と言われた不条理──九十になろうとする水木しげるには、おそらくその不条理だけが人生の核のように残ったんでしょうね」と分析し、戦争が水木をどれだけ傷つけたか、そしてその傷の深さを再確認したと語っている。
■文・大泉実成/絵・水木しげる「水木しげるの妖怪探険—マレーシア大冒険」
左)「水木しげるの妖怪探険—マレーシア大冒険」中)「水木しげるの大冒険 幸福になるメキシコ—妖怪楽園案内」右)「水木しげるの大冒険〈2〉精霊の楽園オーストラリア(アボリジニ)—妖怪の古里紀行」94年「無条件降伏編」(共に祥伝社)
こちらも足立と同じくノンフィクション作家・大泉実成による水木しげるとともに探索した妖怪旅行の道中をドキュメント。 大泉実成といえば、90年代後半に『クイック・ジャパン』(太田出版)にて、連載(後に単行本化)された「消えたマンガ家」や「庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン」の作者としても知られる。その他の代表作として「説得—エホバの証人と輸血拒否事件」、「夢を操る—マレー・セノイ族に会いに行く」などがある。ノンフィクション作家は、客観的であるべきという態度から遠くはなれ、取材する対象にのめり込み狂わされていくようにも見えるその筆致は先に紹介した足立とは好対照。同シリーズでは、自らを「水木原理主義者」と称し、ファンと書き手という立場を振り子のように揺れながら水木を見つめている。また、ふんだんな写真、水木によるイラスト、マンガが含まれており、文章だけでは伝わらない水木の姿を垣間見ることができる。シリーズとしては他に「水木しげるの大冒険 幸福になるメキシコ—妖怪楽園案内」や「水木しげるの大冒険〈2〉精霊の楽園オーストラリア(アボリジニ)—妖怪の古里紀行」等がある。
■荒俣宏「水木しげると行く 妖怪極楽探検隊」(角川書店)
水木しげるが絶大なる信頼を寄せる作家・荒俣宏。その博学ぶりは水木を唸らせ、虜にしていた。一方、荒俣も水木の妖怪研究に触れ、初対面で「弟子にしてください!」と懇願した話はあまりにも有名だ。
この荒俣と水木の関係は外付けハードディスクとコンピュータのよう。荒俣は、水木しげるの記憶を完全にデータベース化しており、水木の曖昧な記憶を曖昧なワードでも即座に検索する超人。妖怪は妖怪を呼ぶのだ。そんな相思相愛、尊敬しあう二人の妖怪探検の旅を綴ったのが同書。大泉が水木の人柄に肉薄したのとは異なり、民俗学の書としても読み応えがある内容となっている。
荒俣宏「水木しげると行く 妖怪極楽探検隊」(角川書店)
ドラマからはじまる「ゲゲゲ」ブーム
今年3月にスタートしたドラマ『ゲゲゲの女房』は、スタート当初こそ視聴率で苦戦したものの、右肩上がりに視聴率を伸ばし、気づけば視聴率20%と大ヒット。「ゲゲゲ」ブームの火付け役となった。その影響から、現在、全国を巡回中の展覧会「水木しげる米寿記念 ゲゲゲ展」には、連日長蛇の列が並び、グッズや関連書籍も好調な売れ行きをみせている。
水木しげるの人生って、なんてドラマチックなんだろう!水木しげるって、なんて素敵な人なんだろう!水木しげる風に言えば、ミリキ(魅力)に満ちた人となりや戦争経験者として側面をこのドラマを通して知ったという人も多く、すでに、水木しげるとは誰なのか? もはや日本国民に一から説明するのは野暮というもの。それほどまでに、水木の半生はお茶の間に浸透したと言ってよい。わからなくともググれば、赤子の手をひねるよりたやすく情報を手に入れることができるだろう。
だが、ドラマ化された『ゲゲゲの女房』は、あくまでも事実に基づいたフィクションなのである。
ドラマ版『ゲゲゲの女房』より。あさっての方向に自転車を走らせる水木しげる役の向井理と布美枝役の松下奈緒。
ドラマ版、映画版『ゲゲゲの女房』の違い
ドラマの原案となった『ゲゲゲの女房』の内容だけで、連続ドラマにするには、エピソードが足りない。そこで、ドラマには原案にはないオリジナルエピソードや設定が付け加えられることとなった。例えば、主人公である水木しげるの本名は、「村井」ではなく、「武良」であるように、実在する人物や出版社の名称は変更され、時系列も物語の整合性を図るため変更されている。
その追加されたエピソードの多くは、水木しげるの自著や前項で紹介したルポルタージュやエッセイ集を元にしている。その結果、主要な登場人物たちのキャラクターを歪めることなく、作りこむことに成功している。水木ファンなら思わずにんまりとするエピソードがふんだんに盛り込まれているのだった。
水木しげる役の向井理は、水木同様に背が高く、大きな手が特徴的。水木の緩慢でありながら唐突にハイスピードになる動き、粗雑な歩き方を完璧にマスターしており、顔は似ていないが雰囲気はかなり近い。
映画版も事実に基づいたフィクションであることは変わりない。ただ、映画はテレビに比べて表現の規制が緩やかなため、喫煙シーン、敷かれた布団から漂う猥雑で隠微さ、「終わりよければすべて良し」と言えども当時は大変だったんだよ!(たぶん)と叫び出しキレたかった妻の言動など、テレビでは隠匿されていたもうひとつの真実が映し出されている。この世界にこの夫婦二人きりしかいないのではないか?と不安になるような幻想的な映像も美しい。また、劇中に挿入される水木マンガのアニメが秀逸!これまでアニメ化されてきた水木マンガの中ではもっとも原作に近いイメージを醸し出している。これはぜひ、劇場で確認してほしい。
ちなみに、しげる役の宮藤官九郎は、貧乏時代の痩せていた水木に瓜二つ。そのせいか映画では、線の細い芸術家肌、他人とコミュニケーションするのが苦手な水木の一面が強調されている。
画面に映る妖怪たち
ドラマ版では、憑りついた人を貧乏にする「貧乏神」や、忙しく落ち着かなくなる「いそがし」らが、映画版では勝手に家にあがりこんでお茶を飲んだりする「ぬらりひょん」や川で小豆を研ぐ「小豆洗い」らが登場している。
映画版『ゲゲゲの女房』(C) 2010 水木プロダクション/ 『ゲゲゲの女房』製作委員会
妖怪たちと対話するシーンさえもあり、物語に直接影響を与えたドラマ版に対し、映画版では何をするのかわからない意味不明な存在として、たまたま画面に映りこんでしまっただけのように違和を与えている。そこに「いる」と感じてはいるが、目に見えないもの、見えたとしてもそれが本当に妖怪であったのか、ただの錯覚か妄想であったのかわからない曖昧なものとして表現されている。
そもそも、妖怪とは得体の知れない「何か」、ただそこにある「現象」のことだ。妖怪は何も生み出さないし、与えない。人間が理解できるような存在ではない。その「何か」に、勝手に意味を見出したり、形を与えるのは人間である。水木しげるはそれをわかった上で、妖怪を描いているのだ。その水木を汲み取り、演出しているのが映画版の良いところだ。ここには「目に見えない何か」を「感じる」ある種のリアリティがある。
映画版『ゲゲゲの女房』 (C) 2010 水木プロダクション/ 『ゲゲゲの女房』製作委員会
役者が喜怒哀楽のわかりやすい演技をし、物語に必要なことだけをカメラに映し、それでもわかりにくい感情はナレーターに語らせる。そこまでして、視聴者にわかりやすく作らなければならないのがテレビ。だが、そこまでわかりやすく作ることで、水木しげる作品の本質である、あの奇妙さ、得体の知れなさは薄まってしまう。例えるなら、アニメの「ゲゲゲの鬼太郎」がドラマ版で、映画は貸本マンガの「墓場の鬼太郎」といえば、分かりやすいだろうか。また、幸せになることが約束された未来から描かれたのがドラマ版で、映画は現在進行形の先の見えない不幸の真っ只中にいるようにも受け取れる。同じ原作、どちらも同じ事実から生まれた物語でありながら、かなり印象が違うのが面白い。これは第三者が書く水木しげるについて書かれたものにも共通する。与える印象は違えども、結局、水木しげるはどの視点でどの角度で見ても水木しげる、それ以上でもそれ以下でもない。恐るべし、水木しげる。そこにしびれあこがれます。
ドラマと映画を軸に水木しげるが他人からどう語られているか、についてフォーカスをあててみた本稿。いかがでしたか? 先日、私が主催するマンガのトークイベント「マン語り」では、怪奇・幻想特集として水木作品を取り上げました。にもかかわらず、まったく語りたりません!機会があれば水木しげるについて、再び語ったり書いたりしたいと思います。ご期待ください〜。
NHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』放送中
毎週月曜日~土曜日
午前8:00 ~ 午前8:15 総合/デジタル総合
午前7:30 ~ 午前7:45 BShi
午前7:45 ~ 午前8:00 BS2
映画『ゲゲゲの女房』11月20日(土)全国公開
監督:鈴木卓爾
原作:武良布枝
脚本:大石三知子
撮影:たむらまさき
美術:古積弘二
編集:菊井貴繁
音楽:鈴木慶一
製作国:2010年日本映画
配給:ファントム・フィルム
■『マンガ漂流者(ドリフター)』
これまでの連載はこちら
http://www.webdice.jp/dice/series/15/
■吉田アミPROFILE
音楽・文筆・前衛家。1990年頃より音楽活動を開始。2003年にセルフプロデュースのよるソロアルバム「虎鶫」をリリース。同年、アルスエレクトロニカデジタル・ミュージック部門「サマースプリング」(太田出版)、小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」(講談社)がある。また、ロクニシコージ「こぐまレンサ」(講談社)やタナカカツキ「逆光の頃」のマンガの復刻にも携わっている。現在、webDICE(UPLINK)にて、「マンガ漂流者(ドリフター)」を連載するほか、マンガや音楽イベントの企画・運営も積極的に行っている。
・ブログ「日日ノ日キ」