骰子の眼

art

東京都 渋谷区

2010-05-20 21:20


「〈住所不定の自然〉に惹かれる」マーカーとコピー用紙で世界の狭間に記号を刻むアーティスト・鈴木ヒラクに五所純子が聞く

記憶、回路、そして都市空間との交信──遂に発表された作品集『GENGA』を巡る対話。
「〈住所不定の自然〉に惹かれる」マーカーとコピー用紙で世界の狭間に記号を刻むアーティスト・鈴木ヒラクに五所純子が聞く
左:鈴木ヒラク 右:五所純子

これまでインスタレーションやライブ・ペインティングなど多彩な活動を続けてきたアーティスト・鈴木ヒラク。辞書のような、あるいは『2001年宇宙の旅』のモノリスのようなフォルムを持つ処女ドローイング集『GENGA』は、〈記憶〉というテーマを、1,000枚の記号の積み重ねにより表現。めくるめくイメージの連続で手にした者の時空の感覚を狂わせるフシギな〈物体〉だ。今回行われた文筆家・五所純子との対話は、GENGO(言語)とGINGA(銀河)のあいだに浮かぶGENGA(原画)の謎に迫る、願ってもないサブテキストとなった。

道路がいちばんのインスピレーション(鈴木ヒラク)

鈴木ヒラク(以下、鈴木):おれが600枚くらいのドローイングを港千尋さんに見てもらったとき、「これは言語化できないね」って笑いながら言われたんです。「すごい面白いと同時に怖い、言語化できないものは怖い」って。その直後に新宿ロフトでたまたま五所さんに会ってその話をしたら、ポンと言葉を言ってくれたんです。そこに踏み込んでくれる人もいるんだなぁって。

五所純子(以下、五所):あたしはなんて言ってた?

鈴木:「あったはずの文明の痕跡」って言っていたんだよね。

五所:ヒラクくんが題字を書いて、私がライナーを書いたShing02の『歪 曲』(2008年)がある。あのライナーにあたしは「あったかもしれない古代文明の文字のように」っていう一文を書いたのね。あの一文だけは完全にヒラクくんを意識して書いたもので、ヒラクくんの作品を初めて見たときに湧いた言葉だったんです。『GENGA』という作品集自体が、100年後まで保存される辞典のようなつくりをしているし、同時に100年前からやってきたような佇まいがある。そういう長いスパンの時間感覚が持続しながら、ものすごく断片的なものが拾われるように描かれているのがおもしろいんだよね。港千尋さんの言った「言語化できないものは怖い」もよくわかる。

鈴木:ちゃんと見てくれたんだと思う。

五所:うん。人間って得体の知れないものを前にしたとき、まず名付けようとすると思うんですね。たとえばある民族の言語では「犬」と「狼」が同じ名詞で呼ばれている。そこではあたしたちの言語圏における「犬」と「狼」の区別が認識されていないっていうことなんだよね。逆に、あたしたちがせいぜい三種類くらいに分けてる火力が中華料料理では十数個の種類に分けて呼ばれてる。というふうに、名付けるという行為にはまず把握しようという欲求がある。さらに言ってしまうと、それは対象を支配しようとする欲望のあらわれだと思うんですね。ところが、ヒラクくんの作品では(港さんが見た時点で)600枚という数が重ねられているにも関わらず、いまだ得体の知れないものであったということの凄さ。本来、数が増えれば体系が見えてきて言語化しやすくなるはずなんですよ。だけどヒラクくんの作品は得体が知れず、言語化できない。だから恐い。その状態のまま作品集が成立してるってすごいことだと思いますよ。

鈴木:ありがとう。時間が持続しているんだけど断片的というのは、やっぱり変わらない答えみたいなことを言いたくないというか、ゆるやかに走りながらずっと変化はしているんだけど、その瞬間瞬間がくっきりとした静止画であったらいいということは思っていて。

webdice_suzukihiraku_02
GENGA #002 (c)Hiraku Suzuki

── 命名するということについてなんですが、おぼろげなイメージに姿形を与えるという感覚はあるのでしょうか?


鈴木:おぼろげなものに輪郭を与えるのとはちょっと違いますね。例えば、おれは小さい時から夢を図形で見ていて。すごいでかい三角形がでかすぎて端と端 が見えなくて、何か胸騒ぎがするような、せつないみたいな。それは一次元の世界だったんですよ。最近はもうちょっとストーリーっぽいものも出てくるけど。『GENGA』では、夢で見た形も描いていたりします。これ(と奇妙な金具をおもむろにポケットから取り出す)今日駅前で落ちていたんだけど、こういうものは既にくっきりしているじゃないですか。だからおぼろげになっているのは、それを解釈しようとする言語の解像度が低いってことだと思うんですよね。言語が生まれたのが約3万年前と言われているけど……ちょっと長くなってもいいですか(笑)。

五所:もちろん。

鈴木:おれ、この『GENGA』を描いている途中で石器作りにはまって。北海道に黒曜石の産地があって、そこに「旧石器について調べてるんですけど」と電話したら、いっぱい送ってきてくれて。2000 年の旧石器捏造事件のことをずっとおれは引きずってて、歴史というか、集団の夢としての記憶が、個人によって捏造される可能性ということを考えていたんです。

五所:あぁいい話。

鈴木:寺山修司の『田園に死す』の最後のシーンが新宿の雑踏だったっていうところにも引っかかっていて。なので、もともと化石だの土器だのと同じように石器が好きだということもあったんだけれど、もうこれは自分で石器作ってみないとだめだなと。それでいろいろな旧石器を作ってみたんです。初期型のものはいっぱいできたんだけど、後期旧石器時代のやじりとか作るのはめちゃくちゃ技術が必要で、新石器まで行くと相当習練しないと作れないってことが分かった。あれは博物館で見ると、同じ人間が作ったものという感じがする。それに比べて250万年前くらいの前期旧石器というのは、怖いというか、人間味のないカタチをしてる。ほとんど作るというより、偶然現れたかけらみたいなもので、それがいちばん切れるんだ。包丁より切れる。だから、言語が生まれる前にあった生産行為って、分子レベルで解像度が高いなと。石器を作っているときは、本当に頭が真っ白になる。公園で石をガンガン叩いて作ったんだけど、行為が原始的すぎて言葉が追いつかない。今でも感覚をそういうチューニングに合わせることはできるんだってことを思ったけど、そこまで真っ白になるって怖いじゃん。でも、そのぐらいのチューニングで街を歩いたり、ものを作ったりしたいんだよね。そこには可能性があるから。

五所:いま聞いていて驚いたんだけど、自分に金属をくっきり見せるために、実際に肉体を使って身体感覚を鍛える作業を必要としていたということだよね。

鈴木:そう、もともとおれ陸上部だったんだけど、最近趣味でまた走ってて。道を外れてちょっとした丘を走ったり、坂道とか昔から変わっていない地形とかを走ると、目が狩猟者の状態になる。例えばアスファルトって、もともとはアンモナイトとか生物の化石だったわけでしょ。やじりの接着にもアスファルトが使われていたし。そうなると、目の前のアスファルトがアスファルトに見えなくなってくるっていうか、そこに素潜りをして貝を探すような目線になる。普段からいつもそういうビンビンな状態だということではなくて、それはやっぱり身体感覚の変化だったり、すごく些細なことがトリガーになると思うけどね。

五所:そのチューニングを合わせるために、言語以前の身体感覚を必要として、実際石器を作ってみたというのはものすごくおもしろい話で、作品を見てもなるほどと思う。あたしはこの本を手にして即座に思ったことがふたつあって、ひとつは「記憶の交通」で、もうひとつは「都市の交通」。その回路ないし時間感覚は都市にもあるはずなんだけど、それは地図でも解らないし、たとえば傾斜や重さを体で感じることや、拾いものをして過去の遺物を受け取る感覚、そういった全体であり細部であることに気づく人間の体感ってどんどん失われている気がするんですね。ヒラクくんの作品は、その細部を独立させて拡大したような絵でもあるし、都市空間の傾斜をとらえる体感自体を刺激するようなものでもあると思うんですね。時代批判みたいなことを言ってしまえば、いまの都市空間って要するに消費空間で、なによりも効率が求められて無駄なものは排除される。だけど、ヒラクくんが走っているというその具体的な動きにそくして言うとさ、実際に走ってみれば迂回もするし、落とし穴にはまるかもしれないし、拾いものもするかもしれない。抜け道なりトラップはまだまだ都市空間に潜んでいるはずなんだよね。

鈴木:道路というのがいちばんインスピレーションのもとなんだよね。それはストリートじゃなくてロードのほう。街路というより回路であり、物質や現象としての道路。ストリートカルチャーとかではなくて、道路それ自体に惹かれる。例えば道沿いに、切り株が一個あって、その周りを小さな切り株がそれを囲んでいて、その前に白いウサギの像が2個置いてある。そういうのがいきなりあったりするわけじゃん。それとか、途中で作りかけて止めたとおぼしき噴水とか、双子のおばあちゃんがペアルックで前から歩いてきたりとか、なんなんだろうって。それも走っていると視界から過ぎ去っていくんだけど、道路には常に何かが起こっているでしょ。同じ道でも工事があったり季節があったりして、変化してるし。

五所:人がある光景を覚えるときって、写真以後、ワンシーンをストップさせた静止画として覚えるようになったような気がするんだけど、ヒラクくんの場合は、ウサギの像とか噴水とか、そのシーンの一部分がくっきりと濃く浮かび上がって記憶されることが多いんじゃない?

鈴木:それは残像なんだよね。後から行って写真に撮ってもその瞬間は別のものになってしまうから。成田空港からモノレールで帰っているときに、一瞬、遠くになんかシマシマの楕円形のビルが見えたのとかって、写真には撮れないじゃないですか。だからその残像を紙の上に現像して、それがくっきり像を結べばいい。水彩でぼんやりと表すのではなくて、ゼブラマーカーでゼブラ模様くらいくっきりさせたい。だからそれは塗るというよりも、刻んでいるんです。紙に像を現像するというのは、発掘する、ということ。マーカーが彫刻刀だと思っているから。

五所:確かに白黒ゼブラのくっきり感って0と1のくっきり感に近いと思う。

鈴木:文字の発生っていろんな説があるんだけど、おれがいいなと思うのは、旧石器時代の人間が、その辺に転がってる石に月の満ち欠けを刻んだという説で。月の満ち欠けっていう時間と形の変容、その変化を0と1で記録する行為だった。それは変化の瞬間を記録しつつ、未来を表すでしょ、それを見れば月が次どうなるか解るわけだから。

webdice_suzukihiraku_01
GENGA #021,#570,#358,#650 (c)Hiraku Suzuki

記憶は自身の外部にある(五所純子)

鈴木:描くことが好きでやっているわけだけど、どうしても絵の具を使っちゃうと塗り重ねることになっちゃうじゃない。それはペインティングの大事な要素だけど、おれがドローイングというのは、刻むこと、掘ることであって、おれのなかでは真逆なんだよね。油絵具を画材屋で買ってキャンバスに油絵を描くことが、解像度の低い行為に見えるというか。もちろん好きな油彩画だっていっぱいあるんだけど、それはまた違う解像度の話になってくるし、自分の仕事ではないと思う。

五所:塗り重ねることと刻むことの違いって、他にどんなことがあると思いますか?

鈴木:どっちも想像力から生まれると思うんだけれど、塗り重ねるほうというのは何かを表すっていうことに向いているし、すごく人間的だよね。刻むというのは、エイリアンの目で世界を対象にしているというか、自分の内側というよりは、むき出しの世界と自分の接点自体にポイントがある。

五所:だから新しくものを生み出すというより、既にあるものに対して確認する表現というのをヒラクくんは……。

鈴木:いや、なんだろう、それによって新しいものを生み出さないと。既にあるものを発掘現場で発掘するだけじゃだめだと思う。

五所:あたしはそういう、記憶とか偽の歴史とかというものがテーマのように自分のなかにあるんだけど、過去・現在・未来って一方向に時間は流れていると人は認識しがちで、でもおそらくそうじゃなくて、過去のなかに未来があるわけですよね。偽の石器を作った時点で、そのなかに未来というのが原生的に現れてしまって、そこから別な未来が走っていくんで。ヒラクくんの作品が、あったかもしれない過去の痕跡であるのと同時に、未来からのシグナルのようでもあるというのは、たぶんその過去から未来へのショートカットというかね。稲垣足穂がショート・サーキットという言葉を使っていたと思うんですけれど、ヒラクくんの作品はその回路を作っているともいえると思う。……あぁでも足穂の話あまりしたくないんだよな。少年性とか少年ぽいという話にもなったりするし。

鈴木:足穂は目の端で風景を見ていたんだよね。でもまあ、確かに性の話になる人だよね(笑)。

五所:ヒラクくんはそういう男性的/女性的な話じゃないと思うんだよね。そういうのは越えてる感じがする。

鈴木:だから、どこで拾うかっていうところで。『GENGA』ってGENGOとGINGAの間で拾ってきた、ハンティングしてきたものだから、後書きに「この本を言語と銀河に〈捧げる〉」って入れたのは、ハンティングしてきたものを、例えばマタギだったら熊の心臓を山に捧げるとか、そういう捧げものって感じ。この後書きも吉住さん(河出書房新社編集担当)に「書いた方がいい」って言われて。最初はもっと長く文章を書こうと思って。でも、全部単語になっちゃったんだよね。なんの説明にもなっていなかった(笑)。

五所:作品と拮抗するものになってしまうんだろうね。

鈴木:というより、作品の解像度を落としたmp3になっちゃった。だから、そうじゃなくて、捧げるとか、そういう口に出して言わないと意味がないことを書いておこうかなと思って。

── それはそれで読んでぜひみたいですね。


五所:劣化版じゃなくて、拮抗するものになると思うよ。だからこの1枚の横に、ヒラクくんの書いたおそらく詩と呼ばれるだろうけれど、そのようなものが載っててもね。

鈴木:詩だと、ポエムになっちゃうとだめなんですよね。

── 鈴木さんの性格からすると、後書きのようにまとめてしまうより、作品に拮抗し得るだけのボリュームがないと、成り立たないという発想になってしまうんでしょうね。


鈴木:どうでしょうねぇ。でもそういう意見を聞けるのは嬉しいですね。やっぱり1,000枚書いてこれができて、これから自分が『GENGA』を色んな角度からどう受け止めていくかっていうことが、すごい楽しみ。これが置いてある風景も世界もどんどん変化していくし。だから言語でそれを受け止めるときのもどかしい感じ、そのもどかしさともこれからはちゃんと付き合っていきたい。でも単にGENGAからGINGAを抜いても GENGOにならないし。だから五所さんのチューニングも聞きたいし、いろんな人に見せたいですね。

五所:実際、言葉で語ってみたくなる欲求はものすごく湧くんですよ。ただそれはどういう言葉の欲求かというと、解説とも命名とも違って、一枚一枚に拮抗するものとして言葉を刻んでみたくなるのがひとつ。もうひとつは、このページの順でストーリーを走らせてみたくなる欲求。

鈴木:千夜一夜物語みたいな?

五所:超大作になると思うけど,物語がこのなかにうごめいてるんじゃないかという妄想も込みで。ストーリーといっても一元的な時間の流れをもたせたいんじゃなくて、仮想都市を描くように、空間的なかたちを言語で持たせてみたくもなる作品。

鈴木:イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』って知ってる?あれはマルコ・ポーロがフビライ汗に、自分が旅してきた見たことない街の話を捧げもののようなかたちで話すんだけど。巨大な柱の上に竹でできた家並みがある街とか、妄想的でもあり、でも細部の描写が異様にリアルなんだよね。そういうストーリーは、生まれそうな気もするんだよ。

五所:およそリアリズムとはかけ離れるよね。だけど質感はものすごくごつごつしてリアルっていうか。おもしろいのは、これに言葉をあててみたくなるっていうのと同時に、これ自体が言葉に見えるんですよね。

鈴木:もともとマーカーって言葉を書くための道具で、絵を描くための道具じゃないでしょ。マーカーって印(しるし)っていう意味で、シグナルとか記号、文字とかサインを表すための道具だから。コピー用紙もデジタルの文字情報がプリントされてくる支持体だよね。だからそこにマーカーで書いて、それをスキャンしてパソコンに取り込んで、ポンってデジタル化されたときに「あ、文字になったな」って思ったの。脳が踊り出したというか、快感を感じたんだよね。絵自体は自分の手垢がついている物質だけれど、文字のデータはそれをいくら拡大しても縮小してもいいし、それを繋ぎ合わせたりもできる。新しいデータベースを捏造しちゃったということにすごい興奮して。

五所:『GENGA』ってアーカイブスなわけじゃないですか。記憶っていうものもアーカイブスと呼ばれるわけで、その記憶って脳のなかにあると思われがちじゃない? でもさ、記憶は自身の外部にあるものだと思うんだよね。回想するという作業は、脳のなかでひとりでにおこなわれているようでいながら、外部にある記憶のアーカイブとの反応によって、その都度一度限りのかたちをした過去が次々に立ち現れるというものだと思う。記憶は全て外部にアーカイブされるものだということが、この作品自体が本当によく表している。ヒラクくんとWord Publicというユニットを組んでいる岩井主税くんの『KIKOE』を観たときも、これはアーカイブがひとつのテーマになっていたと思ったのね。大友良英というひとりのアーティストの活動を追う記録でありながら、やっぱり大友良英からかけ離れた外部にアーカイブの記録がある。『GENGA』そういうものとも連動している気はしたんですね。で、より記憶そのものに踏み込んでるよね。

webdice_suzukihiraku_03
GENGA #793,#912,#860,#997 (c)Hiraku Suzuki

コラージュするだけじゃだめなんだと思った(鈴木ヒラク)

鈴木:そう、原始の文字というのはアーカイブで、変容の記録だった。いま使われている言語もアーカイブで、銀河というのも、宇宙のアーカイブ。それらは常に変容しているし、例えば〈やばい〉という言葉がある意味を持って出てきたことで、また消えた言葉も何かあるわけじゃない、星が見えなくなるのと一緒で。そういうときに──これもあんまり時代批判みたいになっちゃうと違うんだけれど、おれがこういう絵を描き始めたのは、既にあるアーカイブを切って貼ってコラージュするだけじゃぜったいだめなんだと思ったんだ。2000年代の最初の頃は、コラージュが前提としてるものが崩れている気がしたんだよね。おもちゃ箱をひっくり返して、繋ぎ合わせても満足できないなというのは、GENGAを始めるずいぶん前に思った。でもおれの周りにはコラージュをするアーティストが多くて、結局そういう人が「いいなあ」って思っちゃうんだけど。そういう中で、おれは描くっていう行為で、アーカイブ自体を変形させて、コラージュとか写真と拮抗したいと思った。

五所:デジタル時代のアーカイブスであるってことが、本来直接的に書き込まれるものじゃなくて、複写なり転写されるべき媒体であるコピー用紙に直接マーカーで描くことにあらわれてるのがおもしろすぎる。

鈴木:レコードとか、印画紙に似ているんだよね。

五所:心霊写真と同じで、何かが入り込んじゃったっていう。バグっていえばバグなわけじゃないですか。

鈴木:念写的だよね。最初はそれがずれだと思ってたんだよ。自分の記憶というのとずれたものが面白いと思っていたんだけれど、途中からもう、五所さんが言うように、自分のなかに記憶があるというのは幻想で、これでしかないんだっていうことに気づいた。これは、ずれじゃなくて、こっちの方が記憶なんだって。

── コラージュはしないとか、ポエムにはしたくないというお話がありましたが、情緒というものを意識的に避けるようにしているのでしょうか?


鈴木:おれはただ線を描いているだけで、情緒を表すことが目的ではないです。でも、見る側の内面に何かそういう情緒のようなものが現れるのは面白いことだと思います。そういう意味で、芭蕉はすごいですね。

── 削っていくという形容もありましたが、引き算の発想というのは?


鈴木:単純な引き算ではないんですよね……。おれがやりたいのは引き出し、引き出されるみたいなこと。だから『GENGA』も、いろんなところから引き出して描いた形であって、ここからまた誰かが引き出すものもあるし、これをやることで自分の内面からも何かが引き出される。引き出し、引き出されの交信、フィードバックというか、エコーですね。おれがこれを描いていたときに、いちばん聴いていたのはアーサー・ラッセルの『ワールド・オブ・エコー』で、あと山本精一の『クラウン・オブ・ファジー・グルーヴ』。ビートの痕跡が残っているけどビートのないダンスミュージックですね。アーサー・ラッセルはおれにとっては、洞窟のなかで響いている、しかもその洞窟が目の前で3Dで変形していて、壁に手形がいっぱい現れては消えるような、別の原始音楽、都市の原始音楽だと思う。エコーだけでできた、実態はなくて残像だけでできた別の世界という感じがするんだよね。700枚を越えてきたあたりからは、ずっと聴いてたね。

五所:そこには人間はいない?

鈴木:宇宙人みたいなのの影が見える、みたいな感じかな。そうそう、バロウズの『ソフトマシーン』の後書きで、山形浩生さんが永田弘太郎という人の言葉を引用していて、「バロウズの小説にはヴィジュアルイメージはなくて、画面は爆発直後のように真っ白い。遠くに宇宙人っぽい生命体のシルエットだけは見える」みたいなことを書いていて、そういう風景に近い。

五所:人間くさいものないもんね。

鈴木:もうひとつ『ワールド・オブ・エコー』と同じくらいこの『GENGA』をドライブさせてくれたのは、ブライオン・ガイシンっていう画家。その人は50年くらい前にバロウズにカットアップを教えたと言われている人で、書道のような絵を描いていた。砂漠のカリグラフィって自分で言っていたんだけれど、宇宙語みたいな、すごくいかがわしい感じなんだけれど、なんかしっくりくるっていう。おれどどいつ文庫に行って、画集を買ったの。そのタイトルがまた超かっこよくて、『Tuning in to the Multimedia Age』っていうの。

五所:もろですね(笑)。

鈴木:トニー・コンラッドさんが家に来たときに、その画集にすごい反応していた。ガイシンの言葉も面白くて、「私は閉じてるときはブライアン・ガイシンだけど、オープンにしているときはアーティストだ」とか、自分を回路だと思っているのね。ガイシンが「人間は回路だぞ」ということをバロウズに教えて、バロウズはああいう創作をしたけれど、ガイシンは切ったり貼ったりしないでも、ただそうやって描く行為のなかにカットアップが起こるんだということを示したんだよね。

── アクセスの仕方を知っていたわけですね。


鈴木:ガイシンは「画家は新しい世界を書こうとする。絵画はシグナルであり、数え切れない図像を描くために光が空間に書くメッセージである」と言っていた。paintって言わないでwriteって言っていたんです。画家は世界をwriteする存在だっていう言葉も、おれが『GENGA』を描くことをドライブさせてくれたんだよね。

五所:それを受け継いでいるという意識はありますか?

鈴木:いや、尊敬する友達って感じですね。おれがやってることはまた違うと思うよ。

五所:ヒラクくんは直接の師匠というのはいるんですか?

鈴木:いないっすね。心の師匠はいっぱいいるよ(笑)。でもやっぱり、友達が師匠だったりするかなぁ。

webdice_hiraku_gosho03

想像力を野生に保っていたい(鈴木ヒラク)

── 今日はたくさんお話していただいていますけれど、全てが『GENGA』の解説になっていますね。


鈴木:これはほんとうにただ、いま思ったことだから、ひとつの見方でしかないし、全く別の解釈をし始める可能性がすごいある。自分もそれを楽しみにしているんですけれどね。

五所:描き終わってみて、いまの実感としてどうですか?

鈴木:本を初めて見たときは爆笑しました。この物体はなんだろうと思って。でもGENGA自体はまだ続いていて、1,090枚くらいあるんだよね。だから、毎日描く絵の中でGENGAになるペースは落ちているんだけど、でもそういうものだと思ってるし、いつか『GENGA 2』が出せたらいいなって。

五所:2と言わず、それこそ100くらい(笑)。紳士の書斎にナポレオンが並ぶようにですね。

鈴木:紳士のナポレオンはあついね(笑)。ただ、数を増やすことが目的ではないんですよね。

五所:自然と増えていくんじゃない? GENGA書庫みたいな一室ができてもおかしくないと思う。その部屋が濃縮された宇宙になるんですよ。

鈴木:おれは五所さんの文章を読んで、おもしろいっていうのはもちろんあるんだけど、言葉でどんどん奥に入っていくんだよなぁ。それも、きれいに切り取られた言葉で。自分を保証してくれる言葉とか投げやりな言葉が溢れている中で、自分を保証しないきれいな言葉でどんどん奥に入っていくスタンスがすごい尊敬できるし、その想像力のあり方がいいなと思ったんだよね。もちろん想像力って生活から生まれてくるものだし、そうであるべきだと思うけれど、今の人は特にそれをすぐ生活と結びつけようとするでしょ。ライフスタイル・アートみたいに、ひとつの答えになっちゃうんです。

五所:それはヒラクくんの活動を見ていて思う。ライフスタイル・アートにするか、一足飛びで真実みたいなものを捕まえようとしてスピリチュアル的な宇宙の方向に行くよね。これだけ宇宙ということを感じさせながら、そのどっちでもないところでちゃんと留まっているっていう信頼がヒラクくんにはある。

鈴木:ありがとうございます。おれは一生ライフスタイル・アートとは言わないね。それはぜったいにスタイルにしたらいけないと思ってる。スタイルではなくて、ライフがライフをぶっ飛ばしているみたいな。想像力はそもそも怖いもので、時には生活を破壊する可能性があるからこそ、生活を導いてくれる。生活を鍛えるっていうことは大事だと思うけれど、おれは想像力を野生に保っていたい。いきなり突然変異を起こしてしまう可能性を常に残しておいた方が遊べるし、色んなものが拾えると思う。

五所:さっき「どこでそれを拾うかなんですよ」ってヒラクくんが言っていて、それを具体的に示しているのがヒラクくんがライブ・ペインティングで土を使っていることだと思うんですよね。土を拾う場所と使う場所の選択にヒラクくんがどこまで意識的なのか解らないんだけど。どこで掘ることが多いですか?

webdice_suzukihiraku_05
Live Painting at SuperDeluxe(2010) Photo:Ujin Matsuo, SuperDeluxe (c)Hiraku Suzuki

鈴木:だいたい会場の近くの植え込みとか、近所の道端で掘りますね。それは物質としてすごい解りやすく道路から拾ってきましたっていうことだけでもなく、もうちょっと広い領域から引き出していると思うけど。

五所:土ってぜったい記憶を持ってるじゃないですか。同じ植物を別の土で育てようとしたら、ある土では育たないし、ある土ではよく育つっていうことは往々にして起こるわけで。同じ土という素材を選ぶにしても、その土地性みたいなもの、土の記憶というのがちゃんと拾われてきてしまうんですよね。

鈴木:それはある。最初の頃は、ほんとうに新宿の公園の土を掘ってそのまま現場で描くとかやってた。でも、オーストラリアに行ったときに、アボリジニの友達とかできて、ウルルという聖地に行って、そこの赤土は画材としてめちゃくちゃ魅力的に見えたわけ。でも、それを使ってちょっと描いてみた瞬間、「こりゃだめだ」って。ぜったいやっちゃいけないことをやった気がして。「おれは関東ローム層の国道沿いの土でいいや」って。すごい魅力的なものをエキゾティックな気持ちで発見して、それをそのまま高らかに掲げて帰ってくるようなことはぜったいするまいと思ったんだよね。

五所:それはやっぱり土という素材が強すぎるということもあるし、象徴としても強すぎるし。やっぱりヒラクくんの活動は都市空間のものなんじゃないですか。

鈴木:土自体は、都市のいろんなところにあるでしょ。新宿のでかい道路の中央分離帯にもあるけど、それが昔からあったかっていったらそうじゃない。秩父なんかからトラックに乗せられて運ばれて来ている、ある意味〈名前のない自然〉というか〈浮遊している自然〉〈住所不定の自然〉だよね。そこにシンパシーとは違うんだけれど、惹かれる。「それ使っていいんだ」という感じがする。

五所:アボリジニの土を使うことに対する禁忌の感覚って、表現に対する誠実さであり、現代的な自然観の鋭さだと思う。土って、今やるとどうしてもエコロジーの方に引っ張られてしまうじゃない? ヒラクくんはぜったいそこには行かないし。さっき言った、一足飛びに宇宙に真実があるみたいな方向でも、ライフスタイルに回収していくのでもない。自然回帰でもエコロジーの方でもない。やっぱり現代の、特に都市空間の自然観を考えようとしたときに、アボリジニじゃなくて、住所不定の土にシンパシーを感じるっていうのはきわめて「ただしい」という気がするんです。それがヒラクくんの誠実な態度であり、現代の人間としての感覚的な鋭さなんじゃないかなと思いますよ。

鈴木:それは嬉しいな。誠実さといかがわしさみたいなことはけっこう大事だなと思っていて。

五所:ほんといかがわしいよね(笑)。

(インタビュー・文:駒井憲嗣 構成:倉持政晴)
webdice_suzukihiraku_06
The Passage (2004) installation view at Karl Jjohans Torg (Stockholm, Sweden) (c)Hiraku Suzuki

鈴木ヒラク プロフィール

1978年生まれ。アーティスト。東京芸術大学大学院美術研究科修了。日常のささやかな場や現象に潜在する形・記憶・リズム・素材を利用したシンプルなドローイングをベースに、壁画・インスタレーション・映像・ライブペイン ティングなど多岐にわたる活動を展開。国内外で多数の展覧会に参加し、ドローイングの領域を拡張し続けている。主な個展に「NEW CAVE」トーキョーワンダーサイト渋谷 / 東京(2008年)、「dig」ギャラリードゥジュー ル / パリ(2006)など。主なグループ展に「六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?」森美術館 / 東京(2010年)、「愛についての100の物語」(2009年)金沢21世紀美術館 / 石川、「VOCA展」上野の森美術館 / 東京(2009年)、「House of Art」Hotel Central / サンパウロ(2009年)、「Between Site & Space」ARTSPACE / シドニー(2009年)など。2010年6月3日よりギャラリードゥジュール(パリ)にて二度目の個展を開催予定。
http://www.wordpublic.com/hiraku/


五所純子 プロフィール

1979年生まれ。文筆業。エッセイと批評と創作のあいだをぬうような言語で雑誌・書籍に寄稿多数。2010年にBCCKS〈天然文庫〉シリーズより『スカトロジー・フルーツ』を発表。
http://d.hatena.ne.jp/goshojunko/




鈴木ヒラク『GENGA』

発売中
仕様:文庫版(105×149×60mm)
1008ページ / ボックス仕様
価格:2,940円(本体2,800円)
ISBN:978-4-309-25526-2
発行:河出書房新社
鈴木ヒラク作品集「GENGA」公式HP
河出書房新社HP



グループ展 「六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?」
2010年7月4日(日)まで開催

会場:森美術館(東京)
開館時間:10:00-22:00(火曜のみ17:00まで)
※入館は閉館時間の30分前まで
※会期中無休
参加予定アーティスト:
相川勝、青山悟、雨宮庸介、宇治野宗輝、加藤翼、小金沢健人、コンタクトゴンゾ、志賀理江子、鈴木ヒラク、高嶺格、ダムタイプ、Chim↑Pom、照屋勇賢、HITOTZUKI(Kami+Sasu)、森村泰昌、八幡亜樹、横溝静、米田知子、ログズギャラリー、ほか
キュレーター:木ノ下 智恵子(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任講師)、窪田 研二(インディペンデントキュレーター)、近藤 健一(森美術館アソシエイト・キュレーター)
六本木クロッシング2010展公式HP


『日曜日のうた』発売記念イベント
HMV臨時特番「うたの時間」

2010年5月22日(土)15:00より
トーク:JOJO広重(非常階段/アルケミーレコード)、五所純子(文筆家)
ライブ:見汐麻衣(埋火)
会場:渋谷HMV3階「ボルヘスを殺せ!」コーナー前
http://www.hmv.co.jp/store/shb
入場無料
主催:UPLINK
協力:HMV渋谷


恋の虜 ─ JOJO広重
『みさちゃんのこと JOJO広重ブログ2008~2010』刊行記念トーク&?イベント

2010年5月22日(土)18:30開場 / 19:00開演
出演:JOJO広重(非常階段/アルケミーレコード)、五所純子(文筆家)、松村正人(編集者)
会場:アップリンク・ファクトリー
(東京都渋谷区宇多川町37-18トツネビル1F)[地図を表示]
料金:1,800円
予約方法はこちらをご参照下さい




『日曜日のうた』

発売中
ULR-020
¥2,100(税込)
解説:JOJO広重、五所純子
UPLINK RECORDS
★ご購入はこちら



DVD『インサイド/アウトサイド』

発売中
ULD-398
¥2,625(税込)
監督:アンドレアス・ジョンセン、ニス・ボイ・モラー・ラスムッセン
出演:ゼウス、スウーン、KR、イアスノット、オス・ジェメオス、ピグメウス、アダムス&イッツォ、ロン・イングリッシュ
UPLINK
★ご購入はこちら


レビュー(0)


コメント(0)