骰子の眼

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2010-03-27 17:16


東知世子の南米旅行記「アルゼンチン片思い」Vol.8:インディオ、そしてマテ茶の魅力

高地を猛スピードで駆け抜けるバスツアーによるアルゼンチン本来の原住民・インディオとの出会い、そして虜になったマテ茶の大量買い!
東知世子の南米旅行記「アルゼンチン片思い」Vol.8:インディオ、そしてマテ茶の魅力
手編みの帽子などを売りに来た陽気なインディオのおばちゃん

天才ガイドと謎の通訳、そしてインディオ

そもそも関西人はどこへ行っても声をかけられやすいんかもしれん。特に私の場合はそうらしい。大体世界中どこへ行ってもナンパではなく、あくまで世間話のような目的の対象となりやすいみたいや。そんなわけで、残念ながら若くて男前のお兄ちゃんに声をかけられることは少ないが、おっちゃんだけはどこからでも声をかけてくる。ただ日本国内の場合、圧倒的におばちゃん率が高い。ところが外国へ行くと、なぜかおっちゃんへと比率が逆転する。

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ブエノスアイレスの空港はなかなか清潔で開放的な雰囲気

といっても、いきなり向こうから歩いてきた人が話しかけてくることはそんなにない。いくらおっちゃんといえども、何かのきっかけは必要や。そんなわけで、たいていは車の中とか電車の中とかバスの中とか、何か強引なきっかけでも掴んだら離さない。そんな一種の粘りが、アルゼンチンのおっちゃんたちの強みや。まるでスッポンパワー!

その代表選手ともいえるのが、長距離バスの従業員で、よう太ったおっちゃんやった。この人は自分が運転していない時間は、一種の車内ウェイターみたいな仕事をしててん。それで乗客に飲み物や食事を配ったりしていた。どうやら、最初から珍しい奴が乗っているということで私に目をつけていたらしい。なんか最初に乗車するときから「後でマテ茶を持っていくわ」とかいっていた。で、結局は運転席まで呼び出しておいて、自分の名前を、私に漢字で書かせて大喜びの大騒ぎ。なんであんなにうれしいのかというくらいのはしゃぎぶりで、バスが揺れそうやった。しかも一緒にいて運転中のドライバーも便乗してきて、ハンドルを平気で離したりしてるもんやから、ええ加減こっちが焦ったわ。しかし、どうもこのおっちゃんら、まさに北部アルゼンチン人の典型的なタイプの一例やってん。

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窓の下にいた謎のおじさん。都会にはほんとにいろんな人がおるわ

サルサからバスツアーで出発

前回もちらっと触れたサルタという北部の都市からは、さまざまな自然環境を周遊するバスツアーが開催されている。それで私もいっぺん野生のアルパカとか見てみたいし参加することにした。そうすると、これが早朝に出発ということでまだ暗いうちにホテルを出てマイクロバスに乗り込んだ。どうやら私のいたホテルが最初の乗車場所だったらしくて、それからグルグル、グルグルといろんなホテルを回ってお客を集めなあかんかった。それからだんだんと町を外れて、どんどんハイウェイを北上していく。おっと、このツアーには比較的多国籍の人が参加していて、マイクロバスに最終的に10人前後の人が乗り込んできて、結構満員であった。

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「雲の列車」が走っていた鉄橋も今はただ眺めるだけの日が多い

そして、このバスツアーのガイドをしてくれた男性がサルタの北部にあるフフイというところに住む小柄な運転手。ほんまにバズーカー砲のような早口。しかも相当難易度の高いと思われる標高4000メートル級の山々まで続く道を猛スピードで走っているときですら、ギャグを連発して解説を続け、ときには高山病予防の生のコカの葉などを乗客に回したりしながら、自分は休憩時間にちょいとマテ茶を飲んでいる程度で全然楽勝の様子であった。

4000メートル級の山を駆け抜ける、運転手のエネルギー

それにしても、このツアーはかなり盛りだくさんで、最初にフフイの北にあるウマワカ渓谷という写真のまんまのカラフルな鉱物の色がグラデーションみたいになった地帯を走っていく。それから、インディオが地元特産のアルパカの毛などから編んだ物産を売っている小さい町(たしか、カチというところ)で休憩して、それからどんどん走って4000メートル級の山の山頂近くまで行って記念撮影。それから今度はそこをどんどん下って、今度は塩が固まってできた湖まで大平原を突っ切って走り抜けていく。

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アルゼンチン北部の山岳地帯は地層がとってもカラフルなのだ!

途中の草原みたいなところでは、時々アルパカの群れに出会ったりするねん。そのたびに適宜解説を入れてくれる。それにしても、南米の日差しというのは半端ちゃうねん。これが乗り物の中にまで、容赦なく差し込んでくる。しかも空気もかなり乾燥しているので、相当過酷な自然状況なのである。やわな外人はマイクロバスに揺られているだけでバテてきてるのに、この運転手のエネルギーはまるで無尽蔵や。

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観光客相手に土産物を売る集落があって、アルパカセーターとかいっぱい売っていた

最後のスポットである「雲の列車」と呼ばれる最高所4230m近いところを列車が入っていた線路跡の近くまで行くのだが、ここがまた絶壁に次ぐ絶壁。以前はチリと結ばれていて、それなりの頻度で運行されていたらしい。でも経営権が外国の企業に移ったとかなんとかで、最近はほとんど走らなくなってしまったという。話によると、数年前にはポーランドからの団体客がこの辺りで土砂崩れかなんかに巻き込まれて相当数死者が出たとか。それだけ聞いても、なんか地理的にもかなり厳しいところやと分かるやん。

丸々半日近いツアーの後に、インディオと出会う

そんなところまで来て既に半分日が暮れかけているのに、そこからまだサルタまで戻らなあかんねんで! こっちの方が気が遠くなりそうやったわ。ほんま丸々半日近い時間のツアーなので乗っている方も最後には疲れて、さすがに乗客も静かやった。ここになぜかフランスからのツアー客が数人いて彼らのためにフランス語通訳の謎のハンサム青年が乗っていて、ときどき彼が英語でガイドの解説をイスラエル人に通訳してくれたので便乗して聞いていた。しかし、このイスラエル人の彼女と友達になって結果的にその一日後に二人でバスに乗ってイグアスの滝まで行くことになろうとは…まったく世の中分からんもんやで。

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これは塩の結晶の湖は展望が素晴らしく、まさに足元の塩がこんな状態

それにしても、インディオというのはここまで来てやっと出会えた、いわゆるアルゼンチン本来の原住民なのだが、彼らの忍耐強い生活態度には恐れいった。なんせ標高何千メートル級の山まで来て土産物を売ったりしているのだが、一体どこをどう上ってここまで来たのか? その交通手段もよく分からん感じな上に、あまりにも商売気がなくて淡々としてるねん。まあ、灼熱の太陽で日焼けした顔の風貌のせいで、愛想笑いしても表情がよく見えんからかもしれん。でも表情はあまり変わらないまま、淡々と同じ場所に居続けている。

淡々としたインディオたちの商売

それから、塩が結晶してできた湖の上にたくさん自動車で観光客が来るねんけど、そこでひたすら薄べったい石にアルパカの絵を刻んで売るインディオのお兄ちゃんたち。3人か4人くらいいたか。彼らはどの人も同じようなものを作って、同じ値段で売っている。あまりやる気もなさそうだし、でもとりあえず継続して作業も続けている。石には穴が一応空けてあって、壁に掛けたりはできそうだ。でも、それ以上の工夫は特にしてなさそうやねん。昔日本の漫画でもあった「石を売る人」みたいなもんか。

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サボテンしか生えてない山。本当に人間よりはるかに大きいサボテンばっかり

まるで世の中の「効率よく生きる」なんて概念から程遠い生活みたいなのにもかかわらず、彼らはどこか堂々としていて、まるで揺らぎがない態度で存在していた。しかもその瞳が実に何かこちらが見えないものが見えるような輝きをしている。それがなんか凄く印象に残った。思わず一枚石の絵を買ったら、新聞紙で丁寧に包んでくれた。

インディオの人々は心が静かというか、まず佇まい自体が静寂の中にある感じやったなあ。そしてその存在感がなんとなく環境の中に完全に溶け込んで、違和感がまるでないねん。あんな人間を圧倒してしまうような大自然の偉大な光景の中でも当たり前に生きるだけというか。まるでアルパカと変わらないくらいに自然な感じで。怖いくらいに澄み切った青い空と、360度広がる大自然のパノラマの見渡せる真っ白い塩が固まった湖の上で、ひたすら淡々と石に刻み続けるインディオたち。その姿に何かアルゼンチンの原点を見た気がした。

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塩の湖にたたずむインディオの気配は、完全に自然界に溶け込んでいる

マテ茶がないと生きていけない

正直なところ、もともと私は紅茶党であった。幼稚園の頃、母が実家の喫茶店から持って帰るコーヒーの匂いが車の中に充満するのが嫌で嫌で仕方なかった。それくらいコーヒーの香りが嫌いだったこともある。なのに、今ではその両方を楽しませてもらっている。実は数年前にロシアにいる間もほとんど紅茶ばかりであった。それにもかかわらず、アルゼンチンではこれがマテ茶に変わるとは! なんという変貌ぶりか。とにかく、やっぱり食文化というのは現地に行って楽しまないとどんなものでも「本物」を味わうことはほぼ不可能かもしれん。特にこのマテ茶というのは曲者やねん。まあ、そもそもコーヒーや紅茶くらいなら、いまや全世界どこでも一応は似たようなものが飲めるはずなのだ。(細かいところをいえば、軟水や硬水で味が変わってしまったりはするが)しかし、マテ茶の場合は日本の茶道ほど高度ではないものの、それなりの道具立てが必要となってくる。そう、丸っこい器と金属のストローみたいなものがなければ、正統なマテ茶を飲んだ感じがしない。

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マテ茶は専用の容器グァンバと金属製のストロー、ボンビージャで飲むのが一般的

とはいうものの、私もマテ茶に夢中になるのは途中からであった。最初飲んだときは何かこう、抹茶が野生的になったような味がするので「きつい」と正直なところ思った。ところが、マテ茶というのにも種類がいろいろある。ブラジル産とか、茶葉が細かいの大きいの、それにオレンジやレモンの香りがついたものなど。スーパーマーケットへ行くとそのあまりの種類と値段の安さに驚かされてしまうくらいやねん。とはいっても、ブエノスアイレスではそれほどに「マテ茶がないと生きていけない」感じの人は多くないようだった。ただ、ブエノスアイレスの対岸にあるウルグアイという国へ行くと、もう一日何杯も飲まなければやってられんような人がいっぱいいるらしいと聞いていた。実際、私が見た『ガウチョ』というアルゼンチン独特のカウボーイのような職業の荒馬を扱う男たちの映画では、やはり主人公の男たちが黙々とマテ茶を飲んでいた。ほんまに「ガウチョにマテ茶」はさまになっていた。なんでも、牧畜業をしているようなアルゼンチンの人たちにとって、マテ茶はビタミンやその他の栄養素を補うことができる、野菜代わりの飲み物みたいなもんらしい。しかも、かなりパンチのある「緑っぽい味」なばかりでなく、脳に刺激を与えて活性化するらしいという結構効き目抜群なドリンクなわけですわ。

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マテ茶はどこのスーパーマーケットでも選び放題

しかし、アルゼンチンの北部に行くと親子で観光している人たちの中に、マイポットにぬるめのお湯を持ってきて、ちゃんとマテ茶用品一式を持参して家族で同じひとつの器を廻して飲んでいる人をよく見かけた。まあ、こういう儀式(?)が友情とか愛情の証という面もあるらしいので、マテ茶を廻し飲みできる仲というのはなんかええことらしいで。

マテ茶を愛好する気持ちを理解してくれたアルゼンチン人

しかし、困ったことにマテ茶というのはあくまで一般的に家庭で飲むもので、あまりフォーマルな場所だとか、カフェやレストランでは扱っていないみたいなのだ。というわけで旅に出てからというもの、私はまったくマテ茶にありつけない生活をしていた。そんなわけで近くにおいしそうに飲んでいる人たちを見ると、非常に飲みたくなってくるやん。それでドライブインみたいなところで偶然見つけた「インスタントマテ茶」のようなものを買って、飲んでみてんけど…これが全然おいしないねん。ほんま、わざわざ買ったのにさっぱりわやくちゃやった。茶葉も安物やったのもあるけど、やっぱり湯加減が悪かったみたいやねん。そしてなんといってもプラスチックでは味が引き立たない。やっぱり、器というのは大事やわ。そして多分、あの金属製のストローというのも味噌やな。そして、あまり何回も飲みすぎないで気持ちよく捨ててしまう茶葉はかなりの量やねんけど、あの辺りの豪快さもアルゼンチン的で爽快な技というか。

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御土産としてもよく売られていた具グァンバも元を正せば、ひょうたんかカボチャが原料らしい

ついに日本に帰国する直前に、スーパーマーケットで大量にマテ茶を買い込んで、トランクに4個くらい詰めていたら、それが原因で重量オーバーになってしまった。このときばかりはさすがに焦った。しかし、さすがはアルゼンチン人。私のマテ茶を愛好する気持ちを理解してくれたのだろう。スーツケースのマテ茶2、3個を他の荷物に移すだけで、超過料金も取られずに済んだ。やっぱり、アルゼンチンの人だけあって、日本に帰ってもマテ茶がなきゃ寂しいという気持ちを分かちあえたんかなあ。やっぱり、マテ茶はアルゼンチン生活になくてはならないもんなんや。生意気にそれが味わえるような生活をさせてもらっててんな~と思うと、マテ茶のありがたさをしみじみと感じたのであった。

(写真・文:東知世子)

【関連記事】

■アルゼンチン片思い

これまでの連載はこちら
http://www.webdice.jp/dice/series/21/


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■東知世子 プロフィール

神戸生まれ。ロシア語の通訳・翻訳を最近の職にしているが、実はロシアでは演劇学の学士でテアトロベード(演劇批評家)と呼ばれている。学生時代に「チベット仏教」に関心を持ち、反抗期にはマヤコフスキーに革命的反骨精神を叩き込まれ、イタリア未来派のマリネッティの描いた機械の織り成す輝ける未来に憧れて、京都の仏教系大学に進学。大学在学中にレンフィルム祭で、蓮見重彦のロシア語通訳とロシア人映画監督が舞台から客席に喧嘩を売る姿に深い感銘を受ける。


その後、神戸南京町より海側の小さな事務所で、Vladivostok(「東を侵略せよ!」という露語の地名)から来るロシア人たちを迎えうっているうちに、あまりにも面白い人たちが多くて露語を始めすっかりツボにはまる。2年後モスクワへ留学。ここですっかり第2の故郷と慣れ親しんで、毎晩劇場に通いつめるうちに、ゴーゴリの「死せる魂」を上演していたフォメンコ工房と運命的な出会いを果たし、GITIS(ロシア国立演劇大学)の大学院入りを決める。帰国後、アップリンクでの募集を見てロシア語通訳に応募。憧れのセルゲイ・ボドロフ監督のアカデミー賞ノミネート映画『モンゴル』に参加し、さまざまな国籍の人々との交流を深める。その後バスク人の友人に会うためサンセバスチャンを訪問し、バスクと日本の強い関係を確信。いろいろと調べるうちに南米・ブエノスアイレスにたどり着き、なにがなんでも南米に行くことを決意。

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