骰子の眼

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2010-02-28 11:30


東知世子の南米旅行記「アルゼンチン片思い」Vol.6:バスクセンターでバスク語を習う

バスク語学習者が一番多いアルゼンチンでのバスク人との交流、そして“ナチスの残党がいると思しき山村”へ。
東知世子の南米旅行記「アルゼンチン片思い」Vol.6:バスクセンターでバスク語を習う
バスク学校の生徒さんたちの息の合ったダンス

革命と南米

今更こんなところで告白するのもなんだが、私はおそらく「革命という言葉に血が騒ぐ」タイプの人間だと思う。正直なところ、そういう自分の傾向に気付いたのは小学校高学年になってからだ。あのとき、地下室で岩波文庫の『一日一言』でマヤコフスキーの革命を賛美する詩に出会っていなかったら、なんか絶対自分の人生は違ってた気がするねん。もしかすると、ただの気のせいかもしれんけど。あれ以来、ずっと自分の生活のどこかに「革命的な匂い」に憧れる気持ちがあってん。だから、ロシアへ向かったのも表向きには「演劇好きが嵩じた」ことにしときながら、どっかに「革命の欠片」を探す気持ちがあったんちゃうかと今更ながら思う。

それとバスクと何の関係があるねん?と言うかもしれんけど、これが大有りなんですわ。まあ、ロシアの革命家と呼ばれる人の中でも誰でもええというわけではなくて、私の中では絶対「マヤコフスキー」に次いで「トロツキー」が来る。レーニンやスターリンはあかんねん。まあ理由はいろいろあるけど、このトロツキーという人は実は最終的に政敵のスターリンに半分追放という形で南米に逃げてきている。そして、結局はソ連の刺客にアイスピックかなんかで見事暗殺されるねんけど、あれはたしかメキシコやったかな。革命家にして芸術にも造詣の深い人で、恋愛沙汰でもしっかり名を残してるし、なかなかやるで。

とはいっても、彼は直接にバスクと何の関係もない。ただ、トロツキーが南米に来たり、有名なセルゲイ・エイゼンシュテインというソ連時代初期の映画監督で伝説的映画『戦艦ポチョムキン』を撮った人なんかも南米に来たり、いろいろと南米は革命の火種に近い人がうろうろしとったことで、間接的に影響したのか、キューバ革命なんかが起きたような気もするんやわ。そのときに関わってたのが、今やその髭面で世界的に知られるようになったアルゼンチンの生んだ革命家「チェ・ゲバラ」や。そういうわけで革命と南米はなんか繋がっていくように勝手に解釈してる。

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よく見ると山中の植物までヨーロッパからの移植なのだが、景観にマッチしていた

でも、実はそのゲバラが愛した南米生粋の革命家はバスク人の「シモン・ボリバル」やったということは、日本じゃあんまり知られていないと思うねん。でも、南米ではシモン・ボリバルの名前は各地に残っていて、ボリビアという国名もそもそも彼の名から来ていると聞く。南米の北、ベネズエラ辺りから大陸の北半分くらいをスペイン軍と戦って開放した男ボリバル。彼は全財産も自分の人生もすべてを革命のために捨てたようなもんやった。決して彼の人生がその革命の御蔭で幸せなものになったわけではなさそうだけど、ある意味、スペイン本土の権威の象徴であった王族・貴族たちと、南米に根を下ろし人種を超えた平等主義に目覚めたボリバルのような二世現地バスク人との戦いやったんかな。

バスク語学習者が一番多いアルゼンチン

ブエノスアイレスで出会ったあるベネズエラ人は私に「俺たちにとって、ボリバルはキリスト以上に神のような存在やねん」と語った。でもほんまにそれくらい凄い人なんやと思う。有色人種の彼が言うと実感がこもってる気がした。祖先が被征服民でなければわからない本音かもしれん。今も南米での「解放者」であるボリバルの存在を知ってからというもの、「絶対に南米のバスク人に会いたい」という強烈な思いになっていくねん。たしかに、アルゼンチンはボリバルの故郷ではない。でも、南米全体で見たときに、フランコ政権下で国を追われたバスク人が流入したので、数としては多いようだ。とにかく、今もバスク人がいて活躍しているところを見たかったので、迷わずにバスク語学習者が一番多い南米のアルゼンチンが候補に上がったのだった。また、革命フリークの私が近年数本公開されたゲバラ関連の映画を見たりして、彼の自伝で読んだアルゼンチンという国のことも知りたいと思った部分もある。

そこでバスク語を教えているところを探してみると、意外と簡単に見つかった。しかもさすがに南米最大級の都市だけあって、ブエノスアイレスではバスク関連の組織がしっかりしているようだと確認できた。しかも、ちょうど最初のアパートから十分くらいのところに「バスクセンター」という感じの立派な建物があって、その一階にはバスク料理のレストランまで併設されていた。ここは、かなり中心部の大きな通りに面しており、そこからさらに十分くらいのところにスペイン語学校があったのでまさに一挙両得。

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なかなか立派なバスクセンターの建物はブエノスアイレス中心部にある

さらに、驚いたことにはこのセンター内のレストランは、建物の奥深くに入っていくような構造の御蔭で、昼間の街の喧騒からは考えられないほど静かなのだ。そして壁には不思議な石器時代の壁画の模写のような模様が描かれていて、なぜかとても落ち着く空間となっている。入って正面の中央にはガラス張りの部分があって、ここから巨木がすっくと伸びている。これこそまさに、祖国バスクの聖地ゲルニカで空襲にも負けず生き残った一本の木から挿し木されて大事に大事に育てられた彼らにとっての聖なる木。ほんまに、ゲルニカに行かずして、ブエノスアイレスであの憧れの木と出会うとは。この運命の凄い偶然に思わず、心打たれた!しかし、ブエノスアイレスに到着して数日後、バスクセンターからメールのお知らせがきて、なんとかこのスペイン語を解読する。そこにはどうも「来月からバスク語初級コースがはじまります。月謝と入会金のお支払いは・・・」と書いてあるようだ。私は意を決して、この支払日にバスクセンターの未知の上階へと向かうことにする。

南米のバスク人との交流

南米ではじめてバスク人に会うとき、やはり緊張した。おそらくセンターとしてはあくまで「バスク人子孫対象」で行っている教室だろうし、そんなところにノコノコ出掛けていってほんまに入れて貰えるんやろか。内心やや不安もあった。しかし、そんな不安を吹き飛ばす、南米の太陽のようなバスク人救世主が現れたのだ!それがマリア・ブランカその人だった。彼女は私の下手糞なスペイン語による「なぜバスク語を習いたいか」という説明に頷きつつも、両手を広げて抱きしめて「じゃあ、みんなと一緒に頑張りましょう!」と受けとめてくれた。アルゼンチンでは当然ながら男女でもキスが挨拶で、腕を広げて他人を抱き締めることだって、それほど大袈裟ではない面もある。それでも初対面でここまで受け入れてくれる人は初めてだった。そこにいた周りの人たちも、なんとなくいい雰囲気を出しており、なんとなく暖かい雰囲気だった。さらに、「何か困ったことがあったら、私が英語で説明してあげるから」という親切な英語ができるバスク人まで現れて、まずは最初から感動的だった。

そして、初回の授業。全員の自己紹介をしていく。本当に年齢もさまざまで、最年少は小学生から最高齢は70くらいの方までいらっしゃる。全員で20名くらいか。大体の人が先祖がバスクだったり、配偶者がバスク人だったり、なんらかの形でバスク語を知りたいと思って来たのだ。夕方から授業が始まるので、会社帰りという感じのネクタイをしたビジネスマン風の人も数名。顔かたちだけを見ても、一見してバスク人とすぐに分かるような人はむしろ少ない。やはり、それだけ混血が進んでいるということだろう。でも全体的にいえることは、バスク語を学ぼうという人たちだけあって年齢問わず、知的な感じの人たちが多いことか。なんとなく、和気藹々としていて居心地がいい。

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バスクセンターの図書館司書の女性もなかなか親切だった

バスク語という言葉自体は、スペイン語とも何の関係もなければ、インド・ヨーロッパ語族にも属さない特殊な言葉なので、一部の後から付け加えた新しい単語がスペイン語と共通する以外、なにものにも「似ても似つかぬ」といった感じだ。それで教える先生としても、あまり最初から飛ばし過ぎないように、かなりゆっくりしたペースで、できるだけ参加している人たち全員の関心を逸らさないように工夫しながら教えて下さった。私にとっては、言葉以上に彼らがバスク本土にどういう感情を持っているのか、伝統的な意識は受け継がれているのかとか、そういう点に関心があったのだが、しばらく参加するうちにだんだん全貌としてブエノスアイレスのバスク社会が見えてきた。

比較的結束が強い、バスクコミュニティ

この街の中でも、バスク社会というのは比較的結束が強かったらしい。だから、街のかなりいい場所にこうやって建物を維持して、ちゃんと年中行事をいくつかこなしながら、郊外にもバスク人学校を経営しているようだった。とはいえ、年配者の話によると昔に比べると「バスク記念日」への参加人数も減っていたり、明らかに「バスク独立支持」という風に大手を振って言うバスク人ばかりではなくなってきているらしい。多少はスペイン本土のバスク組織との交流があるにはあるものの、それほど強い支援を受けているわけではない様子だった。ただ、バスク社会というのは、アルゼンチンだけでなくほかの南米諸国や、アメリカ合衆国内にもそれなりの規模で存在するので、バスク語ができれば、そういうネットワークと繋がっていくことも可能らしい。私が知り合いになった女性は長年アメリカのバスクコミュニティで暮らしていたらしい。また、アルゼンチンでもどちらかというと放牧などを行う地方都市にも、中小規模でバスク人が住んでいる地域もあり、そういう場所でもやはりバスク国旗のデザインを見かけたり、バスクの地名を使ったお店があったり、それなりに自分たちの祖国に対する意識を持ち続けているようだった。

まったく偶然にも、私の滞在中にスペイン本土で「王冠カップ」というサッカーのスペインリーグ決勝戦があり、これにバスク代表の「ビルバオ」チームが勝ち進んでいた。このチームというのが、他のスペイン国内のチームと根本的に異なっている点がある。なんと「選手はすべてバスク人」ということ。そんなわけで、当然アルゼンチンのバスクセンターでも彼らを応援して実況中継のテレビ生放送を囲む会があった。それにしても、運命の皮肉というかこの試合の相手チームは「バルセロナ(バルサ)」で、このチームの要として注目されていたのがアルゼンチン出身の若手メッシー。試合はかなり五分五分な感じもあったが、それでもやはり有名選手を集めたバルサを前に、ビルバオは苦戦し、結局勝利はならなかった。でも、このとき語学クラスには来ないタイプのちょっと柄の悪い、生意気不良少年みたいな層のバスク人のサッカーファンが結構来ていた。バスク人でも、やっぱりこういう人らもおるねんな~と観察していて面白かったが、語学教室とちがって、見事に女性参加者がほとんどいない男性一色の世界だった。若者の間でも、サッカー応援という形でバスクへの愛国心を持つ人もいるのだな~ということを感じた。

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バスク語教室の仲間たちと。最後に皆が寄せ書きしてくれて大感激!

南米で触れる、バスク人の心意気

それから、バスク人の小説家の講演会にも参加してみた。発表者の話を聞いていてバスク社会のアルゼンチンでの現状がかなりよく分かった。このときには、相当インテリ層のバスク系の人々がいたし、ちょうど同時に本の博覧会をやっていてバスク語書籍のブースもあった。これの宣伝のために、スペイン本土のバスク人男性がやってきていて、いろいろと彼の話を聞けて面白かった。印象としてはやはり、バスク人とひとつにまとめて言ってもスペイン側とフランス側で現在分かれていることもあって、そのどちらに住んでいるかでかなり様子が違うようだ。私の友人はスペイン側でしかもサンセバスチャンなので、海側のバスク人を最初に知ったわけだが、内陸の山バスクというのは基本的に「絶壁の羊飼い」みたいな感じで険しい山岳地帯で放牧中心の生活をしていたりするらしい。

ちょっと話は逸れるが、ヘミングウェイという作家が『日はまた昇る』の舞台として描いた世界的に有名な「牛追い祭」をやっているバスクの街パンプローナがあって、ここの叔父さんたちなんかはまさに山バスクの風格だった。彼らには、「せっかく来るんやったら、次は牛追い祭のときにおいでや~」と言われたけど、まだ行ってない。あんな狭い通りを闘牛が人間を追っかけて駆け抜けるなんて、どんな感じやろう?まさに勇壮な山バスクの人たちのやりそうなことだ。

それにしても、アルゼンチンにいる間にいろんな人に出会ったが、バスクの末裔たちとの交流ができたことが最高に幸せやったなあ。全体的に彼らと付き合うことによってバスクの誇りを感じ、南米解放者ボリバルの流れが受け継がれている気がした。まあ、ボリバルのように実際に今も戦っているわけではないけれど、バスクという地球上の小さな地方から七つの海を乗り越えて世界に散らばっていったバスク人。その勇猛果敢な過去と、これから目指していく未来。どんな大海原が待ち受けていても、きっと彼らは乗り越えていくんやろうなあ。そんなバスク人の心意気に感化された私もまた、七つの海を越えてどんな世界でも通用するような人間になりたいと強く思いましてん。

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愛玩用でない、実用的なお馬さん。平気で空き地に放っておいても大丈夫なのか

苦手な相手、それはドイツ人

子供の頃からどうも好き嫌いが激しかったらしいねんけど、それは今も変わってないらしい。どんな人でもたいていは、苦手な相手がいるかもしれん。私の場合、どうもドイツ人が苦手やねん。あんまり大きな声で言ったら今もおるねんけど、実家のマンションで下の階に住んでるドイツ人がこれがまたなんともいえん人で。まあ、その人は特にややこしい人やったみたいで、廃品回収のおっちゃんにまで「瞑想中ですから静かにして下さい」とか言いにいって顰蹙買っててんけど最近静からしい。

それでも、むしろ嫌いな相手からの方が学ぶことは多いかもしれん。ロシア人なんかは自分と似て、「好きなことしかせーへん怠け者」が多いので一緒に駄弁っていて楽しいけど、一流の芸術家以外からはあんまり学ぶべきところがなかったりする。しかし、どうも苦手なドイツ人に関しては「なんか嫌いやねんけど、もしかすると凄いんかもしれんな~」と常々思わされることがある。極端な話をすると、有名な芸術関係のドイツ人なんかは、まさにこのドイツ気質な人が多いやん。「フルトベングラー」というヒトラー総統時代のベルリンフィルで指揮をしていた人。この人なんかは嫌になるほど身のこなしからして、もの凄いドイツ的やと思う。それと同じ時代の女流映画監督のレニ・リーフェンシュタインだとか、マレーネ・デイトリッヒなんかも、絶対ドイツ人やないと有り得んよなあ。(多分、時代も時代なのでいまどきのドイツ人とはだいぶ違うやろうけど)

単にこういう有名人だけじゃなくて、「ほんま、ドイツ人の根性ってとことん座ってんなあ」と思ったのは、ソ連がナチスドイツの軍に侵攻された「スターリングラード(現在のボルゴグラード)」の特集番組をロシアで見ていたときのこと。インタビューを受けていた当時子供だったロシア人は戦争中のことを思い出しても「ドイツ人の軍人さんはスポーツマンみたいで格好良かった」とか暢気なもんや。他のロシア人たちもそれぞれ大変やったにちがいないが、今となっては別にドイツに対してなんら復讐心もあらへん。これに対して、ドイツ人の元軍人は全然ちゃうねん。何年経とうと負け戦の悔しさは絶対に忘れてへん。「あの戦いはヒトラーの命令系統がまずかったんや。もっとまともな指揮官がいたら勝てていたはず。もう一度やり直せたら絶対勝てる自信あるで」みたいなことをノタマッテおられたのだ。

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ドイツの山小屋を思わせる見事な作りのホテルが立ち並んでいた

もう、これは感動を通り越えて、ひたすらこのドイツ人のプライドの高さに「感心」した。それも今はもう老齢のドイツ人であっても、過去の過ちを悔いもせず、むしろいまだに諦めてないねん。そこまで勝ち負けに「執着」し、「起死回生」を「汚名返上」を望んでいるなんて普通は考えにくい。でもある意味、本物のドイツ人にとっては当然のことなのかもしれない。ほとんど「愛国心」なんてレベルで説明つかんような現象。ほんまにこの根性のええこと。とにかく、私が付いていけないレベルの凄さであることは間違いない。まあ、好きでもない相手のドイツ人なわりには、こうやっていろいろと「どうでもええ」ようなことまで観察しているわけである。そうしているうちに、なにやらアルゼンチンとか中南米には「ナチスドイツ時代の残党が逃げてきている」なんて話もあるらしいと小耳に挟んでん。

やっぱりしっかりしているドイツ人の開拓地

しかし、たしかにアルゼンチンのガイド本に「ナチスの残党がいると思しき山村」とか書いてるけど、そんなんほんまかいな。まあ山の中らしいし、コルドバという大学がある中規模の都市からバス二台乗り継がなければ行けないような僻地の「ラ・クンプレシータ」なんて誰が行くと思うかもしれんけど、私はやっぱりこの「ドイツ魂」が山中でどう花開いているか、この目で見てみたくなってん。それにしても、やっぱりドイツとは相性が悪いのか、最初から見事に「邪魔」が入った。よりによって私が出発するその朝、コルドバのバスターミナルの前で一部の労働者が「ストライキ」を勃発させたらしい。何がしたいのか、とにかくターミナル内に入ろうとするバスを片っ端から阻止!(でも一部はなぜか入ってきていた)この事情は後でテレビニュースを見て分かったこと。

早朝からターミナル内で待っていた私には何のアナウンスも聞こえなかったし、時間を過ぎてもバスが来ないので不思議に思って尋ねに行くと、「そのバスは外で客を乗せてもう行ってしまってん。次のバスは近くの市場前の停留所から出るからそっちへ行って」と言うやんか。まったく、これには参ったで。まだ次のバスがあっただけよかったということにして自分を慰めるしかなかった。でも、なんとか次のバスには乗れた。乗客は最初私と二人くらいだけやってんけど、途中から少しだけ増えてきた。どんどん田舎道に入っていって、ちょっと大丈夫かと思うほど曲がりくねった山道を抜けると、風光明媚な湖が見えてきた。しかし、ここは目指す終着点ではなくて乗換え地点やねん。のんび~りした田舎のバスターミナルでしばらく客待ちしていると小学生くらいの子供たちがぞろぞろ乗ってくる。そしてバスが走り出すと、運転手とみんなは友達みたいな感じで、引率の先生みたいな人がいちいち道の傍らの何にもないようなところで子供たちを見送って、またバスは走り出す。まさに舗装もされていないような道もところどころあって、パンクしないかと思うくらい石もゴロゴロしている。でもそんな道を炎天下の中、運転手は余裕でラジオを聴きながら走っていく。どんどん人も降りていくし、ほんまに目的地に向かっているのかと、なんとなく不安に。でも最後にちゃんと村のホテルの立派な看板が見えてきてほっとした。

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途中下車した近くの町にも地ビールを飲ませてくれる店が何軒もあった

それにしても、到着してみると意外とちゃんとしたところでびっくり。途中はぽつりぽつりと宿泊施設や農業関係で生計を立てていそうな小さな家がある程度だったのに、このドイツ村に来ると、まるで京都の太秦映画村みたいに完璧ドイツの雰囲気になっている。こんな人里離れた山中にいきなりこんな完成度の高い村が出現するのには驚く。資材を運ぶだけでもえらい労力やと思うねんけど。なんでわざわざこんなところに… まあ、たしかに規模こそ小さいが整然とした様子で山道沿いに何軒ものチロル風の山小屋が立ち並ぶ。なんでもヨーロッパで一番美しいドイツの村、アルプバッハというらしいが、そこの山小屋にも劣ることない見事忠実な建築方法。しかも、村の入口までで乗用車はストップ。そこから先は徒歩か馬に乗るしかない。わざとそういう風にして自然保護する精神なんかも、多分アルゼンチンでは考えにくい発想。

早速どこで泊まるか決めるためにあちこち歩き回るが、残念ながら閉まっているところが多かった。ちょうど平日でしかもシーズンが微妙に夏の終わりだったので観光客はほとんどいなくてひっそりしていて。とりあえず入口から近く設備の良さそうなホテルに荷物を置かせてもらう。食事ができるところもあまり開いてなかったけど、伝統的なドイツ料理を出すという川沿いのオープンカフェへ向かった。既に二名裕福そうな叔母様たちが何やら、ブエノスアイレスの物価が高いことについて会話していた。とりあえず、私は早速昼間からビールとドイツ風ソーセージの盛り合わせを注文。それにしても、ここのソーセージのふわっとした美味しさと量のどっさりあることには驚いた!これが本場の量ということやな。ビールも一本頼むと1リットル瓶が当然のように出てくる。まあしゃあないから飲み干してしまう。というか、あまりの暑さに何か飲まずにいられないほど喉も乾いてたので、一本丸々飲んでもそれほど酔いもこなかった。それにしても、フサフサの毛のよく太った猫たちが足元でうろうろして、近くには木に繋がれたロバがいて、なんと平和なことかいな。なんだか浮世をすっかり離れた気分やわ。

アルゼンチンで堪能するドイツビール

ところでスペイン語で書いてある現地で貰った案内図の説明によると、どうやらこの村の始まりはナチスドイツの残党とはほとんど何の関係もないらしかった。なんでも20世紀初頭にやってきた(ポーランド系と思しき)ドイツ人学者がこの場所の地形や自然環境をいたく気に入って、アルゼンチン政府から相当な広さの土地を買い取って、家族で開墾したのだとか。そして、故郷から取り寄せた植物を植樹するなどして徐々に村を広げていった。いわばナショナルトラストの先駆けみたいなもんだったらしい。それにしても見事に村の隅々まで手入れされていて、ゴミのひとつも落ちていない。ほんま、やっぱりドイツ人の徹底ぶりが感じられる村やわ。

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本格派のドイツソーセージとビールで昼間から一杯

しかも、こんな僻地の村にも関わらず、ちゃんと夜は夜で丘の上にあるレストランで夕食を予約すると、特別にホテルの前までジープで送迎してくれるというので早速予約する。同じホテルから他のお客さんと一緒にジープに乗ると、ドイツ系の美青年が迎えに来てくれた。すっかり暗闇に包まれた舗装もされていない凸凹山道を、本格派のジープで走るのは短い時間でもなかなかスリルがある。お店もなかなか洒落たつくりになっていて、当然お料理はドイツ料理。なんやかんや言って昼間はソーセージを食べ過ぎたので、夜は鱒料理にしてみる。この近くの川かどっかで取れた鱒だという。味つけも三種類くらいから選べて、それほど値段も高くない。しかも地ビールまであったので、またしても思わずビールに手が出てしまう。もうアルゼンチンではビールと水の値段が変わらないところが多くて、飲み過ぎ警報発令せんかったらいくらでも飲めてしまうのが怖い。

それにしても、お味の方もなかなかであった。こんなかなり奥地にいながら、これだけドイツ的な生活を維持していくというのは並大抵のことではないと思うけど、ブエノスアイレスのような都会とは違う意味で十分に魅力的な場所ではあった。あまりの空気の美味しさと呑み過ぎたビールのせいか、その日はぐっすり快眠。それにしても、翌日は爽やかな朝の空気と小鳥のさえずり、なんかほんまにアルゼンチンじゃなくて、ヨーロッパの森の中にいるみたいな気分に。たまには、南米にいながらにしてこういう気分を味わうのも贅沢でええな。ちょうど帰りが週末に当たっており、私と入れ違いにたくさん観光客がこの村の安らぎを求めて走っていくのとすれ違った。まあさすがにドイツ人は口だけやなくて、やることもやるから凄いなあと改めて勉強になったわ。ほんまにアルゼンチンはアルゼンチンでも、こんなドイツの森を絵に描いたような場所があるとは!やっぱり移民国家は懐が深いわ。

(写真・文:東知世子)

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■アルゼンチン片思い

これまでの連載はこちら
http://www.webdice.jp/dice/series/21/


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■東知世子 プロフィール

神戸生まれ。ロシア語の通訳・翻訳を最近の職にしているが、実はロシアでは演劇学の学士でテアトロベード(演劇批評家)と呼ばれている。学生時代に「チベット仏教」に関心を持ち、反抗期にはマヤコフスキーに革命的反骨精神を叩き込まれ、イタリア未来派のマリネッティの描いた機械の織り成す輝ける未来に憧れて、京都の仏教系大学に進学。大学在学中にレンフィルム祭で、蓮見重彦のロシア語通訳とロシア人映画監督が舞台から客席に喧嘩を売る姿に深い感銘を受ける。


その後、神戸南京町より海側の小さな事務所で、Vladivostok(「東を侵略せよ!」という露語の地名)から来るロシア人たちを迎えうっているうちに、あまりにも面白い人たちが多くて露語を始めすっかりツボにはまる。2年後モスクワへ留学。ここですっかり第2の故郷と慣れ親しんで、毎晩劇場に通いつめるうちに、ゴーゴリの「死せる魂」を上演していたフォメンコ工房と運命的な出会いを果たし、GITIS(ロシア国立演劇大学)の大学院入りを決める。帰国後、アップリンクでの募集を見てロシア語通訳に応募。憧れのセルゲイ・ボドロフ監督のアカデミー賞ノミネート映画『モンゴル』に参加し、さまざまな国籍の人々との交流を深める。その後バスク人の友人に会うためサンセバスチャンを訪問し、バスクと日本の強い関係を確信。いろいろと調べるうちに南米・ブエノスアイレスにたどり着き、なにがなんでも南米に行くことを決意。

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