さすがにアルゼンチン・ナショナルチームの応援は盛り上がり方が凄かった
ブエノスアイレスで出会ったアルメニア人
今の時代、世界中どこでも行こうと思えば行ける。にも関わらず、私はいまだにアルメニアに足を踏み入れたことがない。おかしな話なのだが、この行ったこともない国がときどき懐かしくなることがある。ときどきデジャヴみたいに、まるで自分の前世がそこにあったかのようにアルメニアのことを想うのだ。そして、そんなアルメニアの人たちにブエノスアイレスで出会おうとは。まったく予想外のことであった。
まず最初に、このアルメニアの洗礼を受けたのは高校時代のこと。当時、三宮の北側にあった小規模な地下に入っていく映画館の閉館前の最終上映のとき。それまでやった映画のポスターがずらりと並んでいた。どの映画を紹介するポスターも芸術的で、まさにミニシアターでしか有り得ないような個性の強い作品が多かった。そんな中でも、ひときわ目立ってどぎついものがあった。これがアルメニア人映画監督、パラジャーノフの映画のポスターやってん。その印象は独特のものだった。東洋ともイスラムともつかぬ「未知の文化圏」がこの世に存在が、こっちに向かって強烈にアピールしていた。今になるとまるで、私に衝撃を与えることを目的として密かにそこに佇んでいたみたいに思える。でも、その時はそこまで理解してなかってんけど。ただ、無意識にそういう方向に自分が引っ張られていくことになる、ひとつの分岐点だったような気がする。
洒落たブティックの立ち並ぶアルメニア通り
それから、どのくらい経ったか。北の果ての都市モスクワで、再びアルメニアとの出会いを果たすなんて、ほんま夢にも思ってなかった。ただ、後になってアルメニアのことを知るにつれて、いろんな意味でこの国とこの国の輩出してきた芸術家の偉大さに驚かされるねん。そして、私にはなんだかアルメニアが巨大な王国のように思えてくる(実際に歴史上そういう時期もあったらしい)。とにかく、ひとことで言えばアルメニア人が作った芸術が、もう全体的に自分の好みにピタッとくるものばかりなのだ。しかも、私がロシアで出会った民族の中で最も自分の親戚に近い感覚で付き合えた人たちがアルメニア人。彼らが両手を開いて受け止めてくれたからこそ、ほとんど寂しい思いもせずに暮らせたような気もするくらいだ。不思議なことながら、初対面から懐かしい人々って世の中にいると思うねん。私にとってのそれが、まさにアルメニア人やってん。
亡命アルメニア人の子孫、シャンソン歌手シャルル・アズナブール
さらに、彼らに親近感を持つきっかけになったのが、シャルル・アズナブールの存在。なんとなく、母の影響で聞き始めていた60年代のフランス・シャンソンの歌手の中でも一番のお気に入りだった人。この人が亡命アルメニア人の子孫だなんて、ロシアに行くまで知らなかった。まったくの偶然でモスクワのアパートの隣人がアルメニア人だった。この人がアズナブールと同じように、ジェノサイドの災難から逃れ、幼少期を両親と共に亡命先のフランスで過ごしていた。この隣人の影響は大きかった。自分のことを「実の孫」のように可愛がってくれた人たちから生で聞いたアルメニアの話は、なんともいえず情熱的で愛と郷愁に溢れていた。いつしか私にとっても、アルメニアのエレバンは故郷のように思える場所となっていった。そんな生粋のアルメニア人の間でも、アズナブールは祖国を離れても常に何か起これば、アルメニアを救うために立ち上がることのできる、真の「男の中の男」と褒め称えられていた。
とにかく、その音楽性だけを取っても、アズナブールの歌はフランス語の分からないロシア人の間でも大変な人気で、当時のモスクワ市内の劇場4つくらいでBGMに使われるほどのポピュラーだった。他にも、アルメニア系の音楽家といえば、クラシックの世界では「剣の舞」などで日本でも有名なハチャトリヤン、ちょっと民族音楽方向へ行けば、「アルメニアの父」と呼ばれるジバン・ガスパリャンも独特の民族楽器(笛のような)でハリウッドの世界からもお声がかかるらしい。その他、美術の世界でも演劇の世界でもありとあらゆる芸術関係でアルメニア系の活躍が目立っていた。そして、どの芸術においても彼らのセンスは独特のものがあり、追随を許さない崇高さがあった。
アルメニア教会の建物は屋根の部分が少し他の教会と異なるようだ
しかも、ロシアだけでなく世界的に見ても、アルメニア人というのはユダヤ人に並ぶとも劣らぬ商売の才能を持っていて、億万長者になって美術館を開いた人もおれば、いろいろと各国各地でアルメニア人街なるものがアラブ諸国でもあるらしく、結構世界中にそのネットワークを張り巡らせているらしい! てなわけで、アルゼンチンにまでもアルメニアネットワークが広がっていたのだ。これにはさすがの関西人も驚いた。まあ、ユダヤ人のシナゴーグほどの権威は感じられなかったものの、なかなかブエノスアイレスの高級ブティックなどが立ち並ぶパレルモハリウッドと呼ばれる辺りの一帯に、レストランやアルメニア文化センターやアルメニア教会や劇場など、小規模ながらちゃんと立派にまとまっていたのである。
アルメニア料理のレストランもなかなか繁盛している
アルメニア人街の復活祭
偶然にも、この場所に行き着いたのは復活祭の日だった。それもあって、ちょうどアルメニア教会には多くの信者とその家族が集まっていた。同じブエノスアイレスといっても、あのロシア聖教の教会に比べて、立地条件も良ければ、集まっているアルメニア人も裕福そうに見えるのは気のせいか。いや、多分気のせいではない。復活祭ということもあるにしても、近くのアルメニア文化会館みたいな前では、アルメニア風の手作り菓子などを売っており、全体としてのまとまり方が違う。なんとなく結束力があるのだ。しかも、レストランで一緒になったアルメニア人の家族を見ていても、一族と見られる10人前後で入ってきても小さな子供に至るまで、ちゃんと自然にマナーも身についている。見ているだけで、多分習慣的に会食しているんだろうなということを伺わせる。しかも、漂っている雰囲気がやっぱり富裕層という感じやねん。しかも神によって祝福された後の人たちと同席するだけで、なんかこっちも晴れ晴れした気分になってきた。やっぱり、信仰心の強さのせいか? それともたまに親族が揃うということに対して、重要性を置いているアルメニア人の意識がそこ此処に溢れ出していたのを、偶然感じたのか。よくわからんけど、関西人にはとにかく居心地のいい空間なのだった。まあ、中にはアルメニア人じゃないヨーロッパ系の顔の客もいて、明らかに浮いている様子でちょっと気の毒だった。彼は料理や何もかもに馴染めずに戸惑っているようだった。たしかに、このアルメニアという世界はヨーロッパとも違うし、ロシアとも違う。そして、当然アルゼンチン風でもない。だからこそ、私は好きやねんけど。
通りからも目立つアルメニアレストランの看板
レストランの外に出ると、早速アルメニアのお菓子を売っている場所へ戻った。モスクワ以来、かなり長く食べたことのない「パフラヴァ」が売られているのを、さっき通ったときに目ざとく見つけていたのだ。売り子をしているのは、アルメニア人婦人会みたいな様子の女性たちだった。いろんな種類のお菓子やパンの類が売られていたけれど、私が一直線にパフラヴァに向かっていったので、その熱意が通じたのか、「負けてあげる。今日は特別」と言って、頼んでもいないのに少し安くしてくれた。なんか小さなことではあるが、とてもうれしかった。明らかに自分たちと違う人種の日本人が買いにきたからサービスしてくれたのか、それとも単なる気まぐれか、その辺りはわからない。それでもやっぱり、世界のどこに行っても、アルメニア人とどことなく通じるもんがあるんかなあと、なんとなく復活祭の幸せをお裾分けしてもらった気分になれた。
私の大好物、アルメニアの伝統的なお菓子パフラヴァ
「アルゼンチンVSベネズエラ」
南米といえば、アルゼンチンに限らず、サッカーが熱狂的に愛されているイメージがあるやん。特にブラジルでは、ペレが大統領にでも推薦されそうなほどの国民の尊敬を集めているらしいし、アルゼンチンでも当然マラドーナ人気はいまだに凄い。サッカーファンでない私のような者ですら、マラドーナが現役時代にワールドカップで優勝に導いた時期のことが、印象に残ってるくらいやもん。日本ではサッカーの試合など見たこともないのに、是非ブエノスアイレスにいる間に、一回くらい復活したマラドーナが監督として活躍する姿が見たくなるのも自然な成り行きやった。
誇らしくそこら中でアルゼンチンのブルーカラーの国旗が翻っていた
それにしても、こちらのサッカーは欧州と同様にファンが熱狂的で、ときには一部の人が暴れたりするので危険らしい。特にボカ地区はサッカーファンの聖地みたいなところらしいのだが、治安の悪さが半端でないという話もあり、戦々恐々としていた。ただ、実際にマラドーナが監督しているのは今のところナショナルチームなので、ボカというチームではないらしい。よって試合の場所も、比較的治安も悪くない郊外にある大きなスタジアムということで、それほど心配することはなかったようだ。この日は「アルゼンチンVSベネズエラ」の試合ということで観客も家族連れが多く、比較的健全な雰囲気やった。
しかし、周囲の交通規制や入場時のボディーチェックが異常に細かい。私の場合、愚かにもうっかりバックの中に入れていた日焼け止めクリームまで液体だということで没収されてしまった! 正直事前にそういう情報はまったく聞いてなかったものの、たしかに入ってみると中の人の熱気や雰囲気で色々規制があるのも仕方ないかという気になった。それにしても、巨大なスタジアムに近付くにつれて、その周辺からだんだんと路上でアルゼンチン国旗や応援グッズ、飲み物を売る人々の数がどんどん増えていく。会場の外から熱気がすごい。しかし、彼ら商売をする人たちは場内には入れないようで、中では契約企業の商品販売しかできない。これがかなり不便やった。喉が渇いても、ペプシしか売ってない。しかも無闇な大きさで、値段は通常の3倍は軽く取る。外ではあんなに水のペットボトルも見かけたのに。なんだか、かなり業者との結託がきついねんなあという感じであった。
それにしてもさすがにナショナルチームの試合となると凄い。スタジアムの9割くらいがアルゼンチンの応援団なのではないかという埋め尽くし方。そして、方々から巨大な国旗や応援の横断幕がはためいて、どよめきの中からどこからともなく応援歌が巻き起こる。一階部分は座席がついているのだが、二階以上は段差が大きめの階段があるだけなので、ほとんどの人が立ち見応援。当然こっちの方が安いので、応援している人たちも庶民的というか、もう始まる前から熱気のあまり上半身裸の兄ちゃんだらけ。中にはアルゼンチン国旗を体に巻きつけている猛者もいる。さらには、足の踏み場もないところに平気でどんどんゴミを捨てていくので、まるで雑踏の中にいるような雰囲気。まあ、ゴミ箱というものを見かけないので、仕方ないか。そんなこんなで、最初からかなり無秩序な感じ。
意外にも礼儀正しく応援する観客たち
しかし、試合が始まってみると思っていたよりずっと、みんな礼儀正しいねん。どうしたんかと思うほど、まともに応援をしてるしマナーもええやん。格好はともかく、応援に関しては意外と「決まりごと」が多いみたいで、このときの観客はそれなりにちゃんとルールに従って応援しているらしい。なんか不思議な感じ。正直言うと、サッカーのファンといえば、もっとみんな自分勝手に荒れたイメージがあるやん。しかも、ええなあと思ったのが、スタジアムのどこからか歌が始まると、別の方向から同じ歌を歌いだし、歌のこだまみたいになっていく独特の雰囲気。アルゼンチンの人らも「空気読んでる」んかなあ。
そして、選手がゴールを決めようとしてボールを蹴ると、もうとたんに観客が「オーレ!」と叫ぶねん。これは凄いで。ほんまにボールがゴールに入ろうと外そうと構ってへんねん。なんか男も女も大人も子供も一斉砲撃や。こっちから見ると闘牛のときにしか使わへん掛け声かと思ってた「オーレ!」をあんまりにも連発するので、最初びっくりやった。 仮にボールが外れても、絶対にその健闘を称えて拍手するとこなんかも、めっちゃ礼儀正しいやん。正直言うと、これには意外な思いやった。ただ、相手側には容赦ないねん。なんか、選手同士が絡んだりすると、警戒音のような口笛がそこらじゅうから鳴り響く。ボールを取りにいって強引に倒したときなんて、結構ギャーギャー叫んでたりしたけど、それでも思ったよりずっとおとなしい抗議やった。
ボカにあるマラドーナ人形。どうやら隣はエビータか?
マラドーナ監督とアルゼンチンの国家的サッカー熱
それにしても、実際に遠くから見てもやっぱりマラドーナはかなり小柄というか、背の低さが際立っていた。よう考えたら、あんなちっちゃい体で広大なスタジアムを走り回って、ほかにボールを譲らんと駆け抜けて何人も抜いたなんて本当に凄いと思う。しかもあれだけ有名人なのに、アディダスかなんかのジャージやで。ほとんど選手と変わらないような格好。態度なんかも、まるで格好をつけたところがない。しかも、この「中学校の体育の先生」みたいなジャージを着て、さらに後ろで腕を組んで、うろうろしてじっとしてられへん様子やねん。ちょっとでも屋根の下に入って座っていることがなく、ずっと檻の中のトラみたいにあっち行きこっち行きしながら、一生懸命指示を出していた。それに対して、ベネズエラの監督は背広姿で、いかにも雇われ監督という風情。だからどうも全然選手との間に親近感がなさそうに見えた。マラドーナを神と崇める人がいる母国の中で、この本人の様子は極めて自然体のように思えた。
試合の前半はアルゼンチンが、熱狂的な応援に押されて、何度ゴールしようと頑張ってみてもうまくいかず、随分やきもきしててんけど、後半に入ってみると何が起きたのかと思うくらいにドンドンゴールが入ってしまって、もうお祭り騒ぎのような熱気の中で7点くらい入れて一方的に勝利。なんか魔法がかかったみたいな試合やった。それから後、ワールドカップの予選ではあんまり芳しくない結果で、なんとかアルゼンチンも出場枠に入ったみたいやけど苦戦は苦戦やったみたい。たしかに、私が見たときはアルゼンチンの秘蔵っ子で、第二のマラドーナとの異名を持つバルセロナチームで活躍中のメッシがいなかったので、どのくらいほんまに強いチームなのかは、いまいちわからんところもあった。しかも、マラドーナの采配もどの程度なのか素人の私にはわからんけど、とりあえずアルゼンチンの人たちに与える心理的効果の方がずっと大きそうや。
カフェに飾ってあった歴代のサッカー名選手の中に若かりし日のマラドーナが
ここ数年はアルゼンチンでも、決してマラドーナの評判はよくなかったらしい。そもそも引退後、長年薬物中毒に苦しんでいたとも聞く。それで、だんだん色々と問題を起こすばかりのトラブルメーカーみたいになってたみたいや。その上、随分体重も増えて見かけも悪くなったけど、有名人なもんでテレビ番組には頻繁に出てたみたいで、往年を知る人たちにはがっかりか。そんなこともあって、2年ほど前、アルゼンチン代表チームの監督に就任することになったときも全体的には必ずしも歓迎ムードではなかったらしい。いまだに監督としての実力も国内で疑問視されていたみたいやし。
でも、そんなマラドーナがスコットランド戦、監督就任の初戦で、アルゼンチン代表を率いて海外で初勝利。そのときのインタビューは非常に好感が持てた。彼はその中で「自分はお金なんていらないから、とにかくアルゼンチン代表の監督がしたかった。今のアルゼンチンチームは古いメルセデスベンツみたいなもんや。磨けば光るのにまだ磨ききれてない。だから自分が選手と一緒に走って、一緒に強くしていきたい」と述べていた。なんだか、あんまりマラドーナ個人のことは知らんかってんけど、なんだか素朴で率直な言葉に、マラドーナがほんまに監督業に挑戦しようとしている強い決意を感じた。
貧民街からのサクセスストーリー
さらに、アルゼンチンにいるとき、ほかにも感じることがあった。当然ながら、マラドーナはあくまで「天才的なサッカー選手」やったからこそ、人種の壁を越えて活躍することができた。でも、現実的に有色系の現地人たちがどんな生活をしているか? やっとこの国へ来て、この社会の現実を見て実感した。マラドーナ自身が貧しい地区の出身と聞く。はっきりとした人種血統は知らない。それでも、貧民街で育った人たちのうちで、ホワイトカラーの仕事に就く人すらほとんどいないだろう。ラッキーな方で飲食店の従業員や、各種商店の店員など。物乞いや路上に風呂敷みたいなのを広げて売っているような人々に、白人はほとんどいないが、マラドーナと同じような顔立ちの人たちが非常に多い。やはり、こういった人たちは背も低い。体の大きさもまた社会的身分を示すひとつの基準なのかもしれない。そんな悪条件をものともせず、また有名になればなるほど妬みや僻み、そして裏切りも多く体験した彼が、それでも尚アルゼンチンの誇りとしてあり続けられるかどうか。マラドーナの存在の意味というのは、サッカーという限られたスポーツの分野だけでなく、このアルゼンチン社会で貧民街からのサクセスストーリーが本当に可能かどうかという、ひとつの挑戦にも思えてくるねん。
既にお土産屋では、チェ・ゲバラと同じ扱いのマラドーナ。やはり国民的英雄
おそらく、白人が南米大陸にきてから歴史的に色々な変遷はあったんやろうと思う。実際に白人の側でも現地人との平等な生活を目指した人々(私の尊敬するシモン・ボリバル、チェ・ゲバラなどを代表として)もいるわけで、決して白人すべてが差別的だということはないと思う。でも現実の貧富の差においては、人種の間の格差は昔とそれほど変わっていないようにも見える。支配階級というのが確実に存在する国家だという感じがあるねん。 もちろん、どんな国でも多少はそういう階層はあるかもしれない。しかし、ここまで人種的な外見だけでも分かる違いで、社会的な地位や立場があまりにもはっきり分かれてしまうと、なんだか違和感があるのだ。そんな中で体躯のいい白人の有力者と堂々と肩を並べて歩けるような成功者は、はっきり言ってマラドーナをおいて他にいないだろう。たとえそれがスポーツの世界の成功だろうと、どんな境遇に生まれても、人種の問題があっても、ここまで上り詰めるチャンスがアルゼンチンという国でも有り得るという勇気を与え続けることには、意味があると思う。そうでなければアルゼンチンで恵まれない境遇に生まれたら最後、自分の人生を諦めて夢を見るのすら難しくなるんちゃうかな。だからやっぱりマラドーナはどうしても必要なんやと思う。
これから、マラドーナがどんな活躍をしてくれるのか、アルゼンチンチームの先行きはまったく予測もつかない。それでもこの国の人たちがマラドーナに一筋の希望を見出している限り、私も応援し続けたい。どんなスキャンダルや問題があろうと、それでもやっぱりアルゼンチンにはこの人しかおらん! と思うから。
(文:東知世子)
【関連記事】
■アルゼンチン片思い
これまでの連載はこちら
http://www.webdice.jp/dice/series/21/
■東知世子 プロフィール
神戸生まれ。ロシア語の通訳・翻訳を最近の職にしているが、実はロシアでは演劇学の学士でテアトロベード(演劇批評家)と呼ばれている。学生時代に「チベット仏教」に関心を持ち、反抗期にはマヤコフスキーに革命的反骨精神を叩き込まれ、イタリア未来派のマリネッティの描いた機械の織り成す輝ける未来に憧れて、京都の仏教系大学に進学。大学在学中にレンフィルム祭で、蓮見重彦のロシア語通訳とロシア人映画監督が舞台から客席に喧嘩を売る姿に深い感銘を受ける。
その後、神戸南京町より海側の小さな事務所で、Vladivostok(「東を侵略せよ!」という露語の地名)から来るロシア人たちを迎えうっているうちに、あまりにも面白い人たちが多くて露語を始めすっかりツボにはまる。2年後モスクワへ留学。ここですっかり第2の故郷と慣れ親しんで、毎晩劇場に通いつめるうちに、ゴーゴリの「死せる魂」を上演していたフォメンコ工房と運命的な出会いを果たし、GITIS(ロシア国立演劇大学)の大学院入りを決める。帰国後、アップリンクでの募集を見てロシア語通訳に応募。憧れのセルゲイ・ボドロフ監督のアカデミー賞ノミネート映画『モンゴル』に参加し、さまざまな国籍の人々との交流を深める。その後バスク人の友人に会うためサンセバスチャンを訪問し、バスクと日本の強い関係を確信。いろいろと調べるうちに南米・ブエノスアイレスにたどり着き、なにがなんでも南米に行くことを決意。