骰子の眼

cinema

東京都 渋谷区

2009-11-09 10:00


「見つめるアニメーション」大山慶の美しくも奇妙な世界を黒坂圭太氏、山村浩二氏が語る

気鋭のアニメーション作家の上映会で繰り広げられた濃密なトークショウ
「見つめるアニメーション」大山慶の美しくも奇妙な世界を黒坂圭太氏、山村浩二氏が語る
『HAND SOAP』(2008年)より

日常の中に潜むグロテスクな「生(性)」と、決して逃れる事のできない「死」を見つめ続け、オリジナリティの高い映像作品を発表してきた大山慶。国内外の映画祭などで高い評価を得ており、現在最も注目されている若手作家の上映会『大山慶のアニメーション kei oyama animation works』が10月22日(木)~25日(日)、渋谷アップリンク・ファクトリーにて開催された。学生時代のグループ制作作品『NAMI』から、最新作の『HAND SOAP』まで全8作品の上映に加え、豪華なゲストを迎えてのトークイベントも盛況。今回は黒坂圭太、山村浩二の両氏とのトークショウを誌上再現する。

想像している部分の情報量こそがすごい(黒坂圭太)

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22日の上映会に出演した黒坂圭太氏(右)

大山慶(以下、大山):(2006年の作品である、Dir en greyのミュージック・ビデオ「Agitated Screams of Maggots」のダイジェストの後に)このビデオはこれからがすごいんですよね。

黒坂圭太(以下、黒坂):11月28日にDVDが出るんです。ミュージック・クリップ集(『AVERAGE BLASPHEMY』)で、なんと世界17ヵ国同時発売なんですが、この曲だけはまずいところはカットされているバージョンなので。カバージャケットのデザインも私がやっているんです。

大山:CDのジャケットのほうも書き直したりされたんですよね。

黒坂:書き直したうえにさらにもやをかけられてしまって(笑)。

大山:いやでも、いまのでお客さん持っていかれたなっていう感じで、すごいですよね。やっぱり絵画科ご出身ということもあって、まず絵がうまい。このような作品で絵が下手だと、ただの悪趣味になってしまうんですけれど。僕は絵画科で最初に受験して挫折して東京造形大学に入っているので、本当にうらやましいというか悔しいというか。あぁやっておけばよかったと反省しています。

黒坂:ただ実は私、デッサンはあまり得意じゃなくて、昔から見て書くのが苦手なんです。

大山:いきなり聞きたいと思っていたことを聞いてしまうんですが、黒坂さんはああいった気持ち悪い作品をどういうつもりで、気持ち悪いということを理解したうえで作られているんですか?

黒坂:人のこと言えるんですか(笑)。

大山:そうなんですよ。そこもひとつ共通して、僕も気持ち悪いとか怖いと言われることがすごく多いんです。シーンによっては狙いで、怖くていいと思って怖くしている、そういうところもあるんですが。例えば『診察室』の保健室の先生の口がゆがんでいるのは、子供がちょっと保健室を怖がっている視点なので当然のデフォルメというか、子供の目から見た保健室を表現しているんです。

黒坂:(今回のメインビジュアルを見ながら)これね、なんのポスターかと思いました。ここまでインパクトの強いポスターはなかったんじゃないかな。

大山:これは、想像以上の反応に驚いているというのが正直なところで。ずっと作っていて麻痺している部分もあるんですけれど、そこまでかなっていう気持ちです。動いているときはわりとふわふわして、映像として見るとそこまで気持ち悪くなかったんですけれど、止めてしまうと気持ち悪いというのはあるかもしれないですね。

黒坂:僕もさっき映像で観て、ここまで気持ち悪かったかなぁと思って。今日改めてみたら、そういう感じじゃなかった。なんなんでしょうね。

大山:動画をフェードイン・フェードアウトを繰り返すように並べて、さらにあとで若干色味調整をしたり、息が出ていたりするので、それで白っぽくなって和らいでいるとは思うのですが。これ(ポスターで使用した絵)が原画で、実際に映像で使ったそのままなんです。

黒坂:重なってくると、細かい部分まで生々しくなってくる。そこがやっぱり映画の不思議さですね。

大山:この状態で映るのは、ほんとうに何十分の一秒間しかなくて、あとは前のコマと中間が重なっている状態なんです。

黒坂:それとこれはやっぱりスクリーンで観たかったんです。前にDVDでいただいてうちで事前に拝見しましたけれど、今日のほうが全然いいですね。普通の家の液晶テレビで観ていると、綺麗すぎてしまって。エッジが妙にパキパキに出たり、黒のコントラストがつきすぎて、いまいち気持ち悪いんですねそれが今日観ると、やっぱり投影されているから、白がいい感じにしっとりいくので、いいですね。

大山:今回はハイビジョン上映だったせいもありますが、モニターとスクリーンでは全然印象が違いますよね。液晶だと急にエッジが妙にデジタルっぽくなるのはありますよね。「ブラウン管から液晶になってきれいになります」みたいな宣伝文句があるけれど、どうもきれいになっている気がしないんですよ。あれが世の中でいうきれいなんですかね?

黒坂:わからない。今の世の中のハードの常識だと、解像度が高くなってクリアになることが情報量が多くなることだって言ってるじゃないですか。ただ、僕は逆のような気がして。不鮮明な、よく見えないなかに想像で見えている部分の情報量ってやっぱりすごいなって。映画ってそこが魅力なんだけれど、そこがぜんぶ見えすぎちゃうとちょっと違う。

大山:わかります。『ゆきちゃん』以降で、あえていちど作り終えた作品に微妙にデジタル上で汚しを入れたり、微妙なぼかしを入れたりしているんですよ。それはデジタルでコラージュで作っているので、パキッとしたエッジがすごくいやで。フィルムで実写を撮るとぜったいぼやっとしているじゃないですか。自然にノイズとぼかしが入っている。

黒坂:そうなんだ。

大山:そういう普通はノイズと言われてしまうようなものって大事だと思います。いまコンピューターが普及してアニメーションを作る学生がものすごく増えているんですけれど、そのときにキーフレームを打って、ひとつの素材をここからここまで動かしてもらうことをやると、だいたい失敗しますよね。

黒坂:例えばドアがピシャって閉まるという動きのはずなんだけれど、すごくきれいにすーっといくんだけれど、ただの平面物の移動になってしまうんですよね。表示されているX軸、Y軸の間で計算されているだけみたいな。

大山:『いつもの日曜日』は平面ではじめて作った作品で、その当時なんにも作り方が解らなくて、いちどトレーシングペーパーで動画を描いて、それをスキャンして画用紙に薄くプリントアウトして、そこにアクリル絵の具を塗ってまたスキャンして、背景を切り取るとか、すごい手間のかかるやり方をして。途中からもしかしたら、コンピューターで絵の具を再現するツールがあるので、それでもいいんじゃないかって、実は混ざっているんです。それ以降、『ゆきどけ』は鉛筆とコラージュを使って、それ以降はずっとフルデジタルというかアナログの要素を入れずに作っているんですが、今の時代だからこそできる表現はやっぱりしたいと思って、中途半端にアナログにしがみつくんじゃなくて、フルデジタルでフルデジタルくさくないものを作ろうというのはすごく意識しました。だから、なるべくコンピューターの計算によるつまらない動きは作らないようにしようと心がけています。

いつもの日曜日
『いつもの日曜日』上映バージョン(2003年)より

黒坂:大山さんの作品を観ていると、僕は「短編映画」という感じがする。特に今回の『HAND SOAP』を観て、あっ映画を観たなっていう印象がある。それで実写と一瞬区別がつかないみたいなフルCDで作った映画を予告編で観ても、ぼんやり観ていて実写と間違うって、それってどんな意味があるのかとすごく不思議なんです。

大山:3Dの世界はまだ発展途上なので、いかに細部を作り込んで実写に近づけるかという方向を目指している作品が多くて。CGでクレイアニメ風のものを作る際に、粘土についた指の跡をCG上で再現したりしているようなリアリズムですよね。でもCGでやる以上は実写に近づけているだけだと意味ないと思うんです。

黒坂:だからこの話をするといつも自問自答して頭がおかしくなってくるんだけど、ちょっと話が戻るんだけれど、『NAMI』っていうのが唯一のフィルム作品ですよね。これ僕今回はじめて観たんですけれど、これはぶっとんだ、すごい面白かった。

NAMI
『NAMI』(2000年)より

大山:ありがとうございます。今にして思えばよく作ったなと思います。イメージフォーラムという学校は最初に必ず8ミリフィルムで作らせるんですけれど、これがいい経験で、必要な勉強になったと思います。今アニメーションを作るときって、実写でもそうなんですけれど、ビデオがだいたいピントを合わせてくれるし、どうやっても綺麗に撮れてしまうのが、フィルムだと必ず計算して光量を測って対象物からカメラまでの距離を測ってピント合わせてってやらないと、ボケボケだったり暗かったり、ただ正常に絵が撮れただけで嬉しいっていうものじゃないですか。だから8ミリを経験すると、すごくそのあたりもデリケートに考えるようになる。アニメーションを作る際もプレビューがいくらでもできちゃうので、とりあえず書いてプレビューして違ったら直すということができてしまうんですが、8ミリだと一発勝負なのでしっかり計画を立ててから撮らないと理想の動きが作れない。そういうことをこれですごく学んだ気がしますね。

黒坂:今はイメージフォーラムで先生をされていますよね。今もフィルムでやっているんですか?

大山:そうみたいですよ。最初はカメラ内編集だけで短編を作るという課題を最初に出すらしいです。この『NAMI』というのはグループ制作で、その前に8ミリのワンロールのカメラ内編集だけで一本作れというのが最初の作品なんですが、それは確かアクリルの透明な板に小さい虫を載せてつぶすと、虫がつぶれる様子が見られる様子をひたすら一匹つぶして二匹つぶして三匹つぶしてっていうのをずっとやっていって、だんだん虫の数とつぶすテンポが早くなっていって、そのうちうじゃうじゃ増えていって動きが生まれていくというのを作りました。考えたらあれが最初のアニメーション作品と言っていいかもしれない。

黒坂:それを作っているところのドキュメンタリーのほうがすごいかもしれない(笑)。

大山:いまパソコンだったらビデオでぜんぶ撮っておいて編集でテンポってできるんですけれど、全部計算して表を書いて、一匹で何秒でしょ、みたいに設定して(笑)、何十匹のフルフレームのコマ撮りになるようにして、友達に手伝ってもらって、ライトをつけて熱いなか「じゃあ次は3匹だから……」ってやりました(笑)。

黒坂:フィルムって素材があってそれを何コマで取り込むかなんだけれど、いまのやりかたって、まず入れておいてそれを何フレームで繋ぐかという話なので、だから取り込むときは決定じゃなくて「とりあえず」なんです。だからそこの一瞬の……。

大山:撮影時の緊張感が違ってくるような気がしますね。

黒坂:僕もフォトショップを覚えてから、ほとんど素材を取り込むのにただ使っているだけなんですけれど、この前手作業で絵を作画していて、寝ぼけていてビャっと線を引いてしまって、「あしまった、ヒストリー」と言ってしまって(笑)。これはまずいと思って。

大山:そうですよね、フルデジタルでいちばん怖いのはそこなんですよ。アナログの作品を作ってみたいという願望があって、試しに書こうとしてみたんですけれど、書けないんですよ、怖くて、間違えたら取り返しがつかないというプレッシャーで手が止まってしまって。やっぱり間違えるとコマンドZのキーボードをふと探してしまうんです。

大山慶のアニメは「青春映画」

大山:先ほどうまくはぐらかされてしまったんですが、黒坂さんは気持ち悪いということは意識されているんですか?人に見せたときに解ってはいるんですか、気持ち悪がるということを。それともギャグのつもりでやってるんですか?

黒坂:けっこう確信犯的な部分があって、さっきの虫の話じゃないんだけれど、ただそこがひとつだけ違うと思ったのは、僕は虫とかかわいそうでだめなんです。だから廊下でごきぶりがいたりすると、ほっておくとかみさんが殺しそうなので、そっと「あっちいって」ってしたり。なので、若いころ作ったある作品で、女の子が果てしなく芋虫を踏んづけるシーンがあるんですけれど、あれも全部クレイアニメで作って。

大山:ほんとはやさしい黒坂さんなんですが(笑)、作品を作るときというのは、インパクトを与える、驚かすという感じの確信犯ということなんですか?

黒坂:そうですね、基本的に観てもらう人にリアクションしてもらうのがすごく大好きな子供だった。幼稚園くらいに自分で紙芝居を作って、近所の子供を呼んで紙芝居大会をやったんです。結局観てびっくりさせることが好きだった。

大山:記憶違いだったら申し訳ないんですけれど、昔の話で、ミュージック・クリップで気持ち悪い虫を殺すときは、自分の大嫌いな人を思い浮かべて「死ねばいいんだ」ということをぶつぶつとつぶやきながら作ってるって話を聞いたんですけれど……(笑)。

黒坂:それは、記憶違いですよ。『海の唄』ですね。ただ結果的には気持ち悪いものではなくて。たぶん気持ち悪いものというのは、虫とか殺されたりするのはかわいそうでトラウマになっているんです。それで、思い出したくないものや、自分のなかで怖いもの、だからあまり考えるのもいやなことってあるじゃないですか、でもそういう考えってどんどん起こるし、そのままそういうものに押しつぶされて、気が変になってしまうから、作品のなかで定期的に出すようにしているんです。

大山:僕にとってもまさに同じことが言えると思うんですけれど、死ぬのが怖くて。けっこう勘違いされがちなのが、そういうものが好きなんでしょ?と思われがちなんですけれど。僕もみみずをつついている作品がありますけれど、プライベートでは、女の子みたいに悲鳴を上げてしまうくらい苦手なんです。触りたくもないし見たくもないんだけれど、無関心ではいられないというか、大好きなものと同じくらい大嫌いなものに関心があってほっておけないんです。

黒坂:やっぱり深いところで愛なのかね。

大山:それはどうなんでしょう(笑)。

黒坂:僕はこのポスターを見て連想したのは、警視庁の交番の掲示板にかかっている、復元写真ってあるじゃないですか。

大山:あれはいやですよね、なんてことないぼやけた写真なのに、なんであんなに怖いんだろうって。不穏な空気があって。

黒坂:たぶん微妙に温度差はあるんだけれど、感覚的に価値観というか、恐れているものがすごく近いところにあるんでしょうね。

大山:それから医学書の医学写真というのも怖くて、なんてことはない、ちょっと怪我があるくらいで他のところはなんてことないはずなのに、怖く見えてくる。そういうことは意識していて。この主人公の男の子の顔のキャラクターデザインも、何冊かの医学書から「誰かいいやついないかなぁ」と思って選んでコラージュしたんです。

黒坂:前から気になっていたんですけれど、大山さんの映画はモデルはいるんですか?

大山:普段はあまりモデルというほどの顔を作っていないのでなんとも言えないんですけれど、『HAND SOAP』に関してはすべてモデルがいて。それは知り合いとかではなく、インターネットで調べたり。この少年は手元にあった医学書のなかから選んだんです。その他のキャラクターもいろんな事件の犯人をモデルにしています。事件らしい事件は起きないんだけれど、いつそういうことが起きてもおかしくない緊張感を感じさせたいと思って意識的に調べて。

黒坂:社会派っぽいですね(笑)。だいぶ誤解していた。大山さんってすごくある意味自己ドキュメントじゃないけれど、すごく個人の世界の極みみたいな方だと思っていて。失礼ながら顔が造形的に似ているということじゃないんですけれど、内面的な自画像なのかなと。

大山:『HAND SOAP』に関しては、今までの『ゆきちゃん』『ゆきどけ』『診察室』というのはわりと自分の記憶から発展させて作っているんですけれど、幼少時の似たような経験から発展させて作っている。

黒坂:『ゆきちゃん』のカメラ側の主観のその視線は大山さん自身ですよね。それはすごく解ったし、診察室で診察される男の子もそうですよね。

大山:自分の記憶を元に作っていることがほとんどだったんですが、『HAND SOAP』に関しては一切自分の記憶や経験は元にしていなくて、見た目も家族構成も起こる出来事も全て自分とは全く違う人間を描きながらも、それでも紛れもなくかつての自分だと思えるものを作ろうと決めていたんです。

黒坂:完全なフィクションなんですね。そのせいだ、確かに技法や表現方法としては今までの集大成だけれど、作品から受ける印象はすごい極端に違ったんです。作者名を知らないで見ると、大山作品だと解らなかったかもしれない。だから、一般的な意味で、僕はこういう言い方嫌いなんだけれど、便宜上で言うと、それ以前の作品は無理やり分けると実験映像とか実験アニメの文脈にある。ただ、『HAND SOAP』は実験という言葉のつかない、映画という感じがします。劇映画、物語性、ドラマ性が強いですよね。どちらかというとすごく怖い記憶の断片みたいなものが夢みたいに繋ぎ合わさって、接続詞の部分は描かれないで、その現象だけがポツリポツリときて、だからまさに夢ですよね。そういう感じがしたんだけれど、『HAND SOAP』は〈てにおは〉の接続詞の部分がちゃんと映画的に演出されていている。いわゆる映画的なアップとか、ロングとか、ある意味非常にオーソドックスな文法を使っている。そのへんのところはどうなんですか?

大山:答えになっているかは解らないですが、今回の『HAND SOAP』を作るときはなるべく非現実的なインパクトのある出来事やシーンを入れないように作りたいというのを考えていました。ほんとうに日常のどこにでもあるような出来事だけを、それも若干引いた目で作ろうというのは意識していましたね。第三者の視点でひとつの家族を描くというふうに作ろうと思ったので、だから、それがまさに劇映画に近づいたんだと思います。

黒坂:今回『HAND SOAP』を見て、はじめて大山慶という作家がやっとちゃんと理解できた気がする。勝手な解釈なんですけれど、結論を言わせてもらうと、今までの作品はぜんぶそこにいくと思うんだけれど、基本的には「青春映画」ですよね。

大山:……はい!

黒坂:だから『HAND SOAP』というのは、『中学生日記』の大山バージョンということですね。『裏・中学生日記』というか。

大山:『放課後』のほうがオリジナルの『中学生日記』にちょっと近いかもしれない。

黒坂:『HAND SOAP』『放課後』は似たテーマを両面から捉えた映画ということですね、それは面白いです。

大山:『ゆきどけ』『診察室』『ゆきちゃん』は十歳前後の男の子の視点の作品が多かったので、やっぱり今の自分ってまだ描けないですね、まだ。ちょっと間をおかないと恥ずかしくなって、冷静には描けない。自分がだんだん四十代、五十代になって二十歳前後の人間を描けるようになるのかなという気がします。

黒坂:(メイキングを観た後に)いろんなことを考えながら観ていたんだけれど、アニメでも漫画でもそうなんだけれど、こういうことって実写じゃ絶対起こらないです。かたちって普通は、輪郭的な形、どこに目鼻がついてということを思うじゃないですか。そこで人の美醜みたいなことを考えたり、怖い顔とかそうでない顔というのがあるんだけれど、やっぱり大山さんの作品のいちばんの魅力として、今日すごくびっくりしたのは、最初の線画の状態はぜんぜん毒がないんですよね。このまま普通に少年ジャンプに出てきても違和感ない。例えばこれをスクリーントーンを貼ったら普通に読める青春コメディになってしまうのが、表面のテクスチャーが違うだけでこんなに変わるって。不思議ですよね。

大山:普通のテレビアニメは、デフォルメの仕方が簡単にしてくようなアウトラインにしてもスミにしてもベタ塗りにしたり、単純化していく方のデフォルメ。でもそうじゃなくて、生々しいものをより生々しく見せるほうの、過剰にする方のデフォルメで作ってみたいというのが、まずこの技法をやるときにあって。それでも現実の実際の人間を見たときの生々しさや美しさにはかなわない。これだけやっても、まだ実物のほうが生々しくて美しいよなって感じながら作っています。

黒坂:最近テレビで人間そっくりのロボットが出てくると目を背けてしまうんです。あの気持ち悪さはなんなのかというと、確かにすごくリアルに異様に計算して表情筋とかやってるはずなんだけれど、だけど結局人間の表情の持つ情報量ってそんなものの何倍もあるっていうことだと思うんです。だからたぶん今僕が大山さんと話をしていても、無意識のなかで大山さんの顔の細胞の数を勘定していると思うんです。お互いそういうことをやっていることが固有性を認識しているので、そっくり人形だったら一発で解るし、ぼけた映像でも解る。たかが皮膚一枚というんだけれど、その皮膚一枚の恐ろしさって、そういうものを、メイキングを見ながら感じました。今日のテーマと違うかな?皮膚感覚と一口に言うけども、その情報量ってすごいんだなって。これは確かに、手描きの絵で同じことをやってもだめなんですよね。

大山:そうですね。

[2009年10月22日、渋谷アップリンクファクトリーにて]

黒坂圭太 プロフィール

抽象絵画を経て1984 年からアニメーション映画を作り始める。映像作家・松本俊夫に師事。PFF'85で入選。主要な作品は、国内外のコンクール等で受賞を重ね、数多くの映画祭や美術展などに招待出品されている。MTVステーションIDコンテスト'96優秀賞の『パパが飛んだ朝』は、全世界で放映され、アヌシー、オタワの二大国際アニメ映画祭で連続受賞。最近では講談社モーニングの新人賞を受賞し、漫画家としても活動を開始。


自分を語ろうとしているものを持っている(山村浩二)

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23日の上映会で語る山村浩二氏(右)

大山:山村さんには僕の全作品解説をやってほしいと思っているのですが、というのもたびたび山村さんがブログなどで僕の作品を取り上げていただくことが多くてありがたく拝見させていただいているのですが、たぶん今日来ていただいているお客さんのなかには、なんで山村さんはこんなのを褒めるんだといまいち納得いってない方もなかにはいらっしゃるんじゃないかと思っていまして、そのあたりのことを解説していただきたいと思うんです。それでこの僕の作品をずっと観てきてくださって、しっかり語ることのできる方は山村さんくらいしかいないという気もしているので。

山村浩二(以下、山村):ふたりの経緯から言うと、『ゆきどけ』ができたばかりの頃に僕が東京造形大学の客員教授だったんです。大山くんが学生のときに講評会があってはじめて観て、びっくりしたというかこんな学生がいるんだと思って。

大山:当時『ゆきどけ』はいろんなコンペに出していたものの、一次落ちが続いている状況があったので、翌日大学に行くといろんな人から山村さんが褒めていたよということを聞いて、いったいこの人は何をいいと思ってくれているんだという疑問があったんです。当時もうアカデミー賞にノミネートされていたり(2003年アカデミー賞ノミネートの『頭山』)をすごく有名なアニメーション作家の方がなにをそんなに褒めてくださっているのかが気になって、思いきってホームページでメールアドレスを調べて勇気を出して「『ゆきどけ』のどこを評価してくださって、どこが弱点なのでしょうか」というメールを送ったんです。そうしたらすごく丁寧な返事をいただいて、褒めてくださっている部分はもちろん嬉しいんですが、最後に質感が変わるところがあまりうまくいっていないとか、もう少しこうしたらいいという指摘の部分がすごく自分が感じていた部分そのままだったので、こんなに自分の作品を理解してくれる人が有名人でいるんだということにすごく感動しました。ありがとうございます。

ゆきどけ
『ゆきどけ』(2004年)より

山村:そうなんだよね、そこでいちばんまず惹かれたところは、これは大山くんの作品ぜんぶに共通するんだけれど、すごくグラフィックの力があって、フォルムがどれもおもしろいですよね。一見、最近の『HAND SOAP』とかはちょっとリアル路線というか、まるで実写をベースにしているような印象を持つ人もいるんだけれど、全部作りあげたかたちで成り立たせている。で、画面の構成力が他の学生とぜんぜん違ったので、そこに目がいって。だから最初はグラフィック・デザインの人なのかなと思っていたんですよ。イラストレーションを勉強している人ではないかという印象があって。僕がどういう作品に惹かれるかというと、そのひとつにちゃんと映像でなにかを語ろうとしている人というのがある。その〈何か〉というのは別にテーマやストーリーという意味ではなくて、心や精神のなかにある解らない形を、きちんと時間の流れに添って映像で語っていく、人に伝えようとしている力があるものにすごく敏感なんだと思うんです。そういうものが〈作品〉と呼べるものなんじゃないかと思います。これは勘違いしないでほしいんですけれど、私小説的な意味ではなくて、映像とその人自身とすごく距離が近いところがある。これが語り方や伝え方の点で、デザインやエンターテイメントに寄っていくと、もうちょっとその距離が離れていって、その作品をすごく客観視しすぎて冷たくなっていくんです。絵柄が冷たかったり暖かかったりということではなくて。でも大山くんのはすごく距離がグッと近いというか、それがすごく迫ってくるものがあった。学生だとまだそういうところに行っていなくて、まだ自分が何をやりたいということがぼんやりしていて、とりあえず目先のことやっているということが多いなかで、確かにちゃんと自分を語ろうとしているものを持っているなっていうのが『ゆきどけ』を観たときにすぐ思ったんですね。

大山:ありがとうございます。

山村:もちろんちゃんと講評しなきゃと思ったので、問題点も確かに荒削りな部分はたくさんあって、特に後半の部分。たぶん他の先生方と意見が変わっていたと思う。

大山:その後半部分のところで、自分の狙いを解ってくれたうえで言ってくれてる人にはじめてであったので、この人に付いていこうというか(笑)。当時は映像科だったので、『ゆきどけ』を作る前、『いつもの日曜日』作ってる頃はまだ実写映像を撮っていたんですよ。

山村:今日上映した『NAMI』しか観ていないんだけれど、この他にも挑戦していたんですね?

大山:アニメーションではなく、リアルタイムの実写作品で。ただ実写だと映る対象物の人間がいたり、録音・照明・カメラさんと大勢のスタッフがいないときびしいなというところと、どうしても自分が持っている民生のデジタルカメラにどうしても納得いかないところがあって。プロとアマチュアの、自分の努力ではぜったいにどうしようもない差がついてしまうというところに限界を感じてしまっていて。その頃はあまり映画のほうには興味が薄れてきてしまっていて写真のほうを一生懸命撮っていた時期だったんですよ。その時期に『いつもの日曜日』をグループ展で書きアニメとしてはじめて挑戦してみて。

山村:共同で制作された平田優さんとの分担は?

大山:彼女の絵画作品がわりとこれに近い、もっと崩れている絵があって、これを動かすかというところで始まって。たいしてなにも起こらないものを時間をかけて作るというのがやりたいねという話からこれができたんです。

山村:こっちも講評会の際に展示用のバージョンを見ときからグラフィックの力があるなと思っていて、今回編集版を拝見して、そういう経緯を知らずにみなさん見ていると思うのですが、すごく3つの部屋の関係性を探してしまうというか。切り返しなのか、日にちが入れ替わっているのか、過去と未来なのかとか、かえって想像をさせるところが、たぶん自分がそれほど狙っていないところでうまくいっているなぁと思って。

大山:大学は映像専攻だったので諏訪(敦彦)さんが教授でいらして、諏訪さんに3つモニターを並べて見せたときも同じようなことを言われました。過去なのか未来なのか、どうにでもとれるところが面白いということを。

山村:展示映像で観てもそういう印象を受けるんだね。

大山:若干ティッシュを投げて隣でトロフィーが落ちるとか、本当は順番があるんですが、そのあたりはあまり。いったりきたりという面白さでみせるのはやめようという話はしていたので。わりとあいまいに作っていたんです。これを平田さんと共同作業で作っていなかったら、『ゆきどけ』以降の作品もなかったかもしれないなと。

山村:このときの動画は大山さんが作ったんですか?

大山:このキャラクターがいろんなポーズをとったときにどういうかたちになるのかよく解らなかったので、原画に当たるようなものを書いてもらって。当時は動画用紙の存在もよく解っていなかったので、とにかく透けなきゃいけないと思ってぜんぶトレーシングペーパーに鉛筆で動画を描いた動画をスキャナーで読み込んで、薄い線で画用紙に印刷して、そこにアクリルでマチエールをいっぱいつけながら、ものすごい手間をかけているんです。実際並べてみたら、ものすごい人が小さくなってしまって、ぜんぜんマチエールなんて見えないじゃんって。

山村:伝統的な手書きアニメーションをやったんですね、このときは。

大山:背景はパソコンでやってますね。絵の具で作ったマチエールをパソコン上で壁とかの影をつけているんです。

山村:『ゆきどけ』もパソコンで仕上げはしているんですか?

大山:鉛筆で描いたアナログと写真をコマ撮りしたものをパソコン上で重ねています。『NAMI』はイメージフォーラム付属映像研究所在籍時に8ミリフィルムカメラで撮影したものです。いまだに8ミリで最初に作品を撮らせることをやっている学校で、8ミリでの経験はやってよかったなと思って。露出計でしっかり光を測ってピントと距離を測って合わせるという当たり前のことをいまビデオがやってくれるけれど、それが大切なことなんだということ。ビデオとかパソコンだったらいくらでも編集がきくのが、8ミリでやると撮り直しがぜんぜんきかないという。

山村:編集もインターネガとかとればいいんだけれど、ここで切るぞっていうのはすごく慎重になる。

大山:だから撮影前にすごく入念に計画を立ててやるということを学びました。

山村:ここでのコマ撮りがだんだんアニメーションのほうへ行くきっかけになったと。

大山:そうかもしれないですね。アニメーションということはまったく意識せずに映像作品を作るという意識でコマ撮りをかなり好きで使っていましたね。

山村:実写というのはずっと気になっているんだけど、何度か完成はさせているんですか?

大山:微妙に完成しそうというところでほっておいてしまっているという感じで(笑)。

山村:でも映像をやりたくて映像科に入ったんですよね、そこの動機も知りたいんです。

大山:もともと僕は油絵科で芸大一本でがんばるぞって浪人を重ねていて、油絵をずっと描いていたんですが、所詮は受験のためじゃないですか。それがすごくイヤになってしまって、どういうところかも解らずに休憩のためにイメージフォーラムに入って。そこで撮った『NAMI』とか他の作品を撮ると、みんな講師の先生がほめてくれるんです。「こんなに好き勝手やってこんなに褒めてくれるんだったら居心地がいいぞ」と思って、そこで担当されていた先生方がたくさん教えている造形大学を受けてみようということで。

山村:そういう繋がりだったんですね。でも、デヴィッド・リンチとか好きじゃないですか。そういう憧れの監督がいてというきっかけではなかったんですね。

大山:映像作品を作ってみたいという興味はあったんですけれど、それも、リンチにしても(ピーター・)グリーナウェイにしても、絵画科出身で撮っている監督になにか面白い作品が多いと気づいて、映像をやるにもまず絵画をやらなければいけないという、勝手な思い込みがあったんです。だから映像科行ってるヤツの映画はたいしたことないって決めつけていて。

自分のなかから映像という表現を通して語らなければいけないものを持っている人

山村:なるほど、では次へ行きましょう。『ANIZO』は?

大山:『ANIZO』という造形大の上映会のためにアイキャッチとして。ほんとうはここでやりたかったのは、絵の具の中からじわーっと自然にこういう実写のテクスチャーがにじみ出てくるような。頭の中ではなんとなくできるんですけれど、それを実現しようとして、自分の中では失敗作で。いつかまた絵の具っぽいタッチと実写が折り混ざってぐっちゃぐちゃになったようなものをいつか作ってみたいなといまだに思っています。

ANIZO
『ANIZO』(2006年)より

山村:これがはじめてだよね、全部皮膚をテクスチャーとして貼り付けているのは。

大山:『ゆきどけ』の頃は、まだ動画用紙をよく解っていなくて、角合わせでコピー用紙に鉛筆で動画を描いて、ライトテーブルを買っていなくて、アクリルの箱に懐中電灯を入れて描いていましたね。『診察室』でも下絵はそう描いていました。(ライトテーブルを持っていなかったのは)アニメーションでやっていくぞという覚悟がまったくできていなかったので。スキャンの作業がとにかく面倒くさくて、もう二度とスキャンしたくないというのもあって、作った直後には本当はアニメーションを止めようと思っていたんですが、山村さんとお会いして、卒業制作を『ゆきどけ』でできなかったものをしっかりやろうという意思のもと、『診察室』を作ったんです。

診察室
『診察室』(2005年)より

山村:これがすごく成功してね。たぶん数回ぐらいしか指導らしい指導はしていないんだけれど。

大山:中間講評みたいなかたちで山村さんに来ていただいたときに、ほんとうは保健室のテクスチャーのところを最初は立体でやろうとしていたんですよ。

山村:あれはびっくりしたよ。人形アニメーションと手書きと、あらゆるアニメーションのテクニックを駆使してシーンごとに変えるという話を聞いて、これは失敗するなと思って。止めて良かったなあって。

大山:卒業したら二度と好き勝手に作れないと思っていたので、全部やっておこうと思って。で全部人形も背景も作って撮影したんですよ。で照明を当てて一枚写真を撮った瞬間に「あぁこれはダメだ、失敗する」ってあまりのしょぼさに思いました(笑)。山村さんにそう言っていただいたこともあって、この技法で通そうというのは、すごく背中を押してもらえました。

山村:ここでひとつの大山くんの語り方が固まりはじめたというか、これが『HAND SOAP』に繋がっているというのはすごく思うんですよね。『診察室』自体もすごく完成度が高くて、『ゆきどけ』のときからそういう予感は解っていたつもりだったんですけれど、ちゃんと距離を置いた、自分に近いところでものを作るという、それでアニメーションを作るという人、自分が思い描くような短編のアニメーションを作る人がそれほどいなかったんで、僕と同世代の人で比較的寂しい思いをしていたんです。昨日ゲストにいらした黒坂さんは一緒に80年代に自主上映会をやったりしていたんですけれど。インディペンデントで広がりのある作品がなかなか現れなかったので、大学に来て映像を勉強しはじめている人たちのなかに、ぽつぽつと大山くんをはじめいろんなちゃんと作品を作ろうという意識のある人がいるんだなというのがすごく嬉しかったんですよね。

大山:今はもっと若い面白い学生たちが出てきてますよね。

山村:だけど、ついこの前もイタリアで日本のインディペンデントのプログラムを組んでほしいということで、できれば2006年以降の新しい作品で、1時間強のプログラムをふたつ組んでほしいと。最初は面白い人がいっぱいいるからできると思って安請け合いをしたら、意外といないんですよ。それは僕の価値基準のなかではまるという意味なんですけれど、そういった作品と呼べるようなものを作っている作家ってなると。映像を作っている人はいっぱいいる。すぐ仕事になりそうなうまい人たちは若い人でも山ほど出てきているし、実際仕事でも活躍している人はいるんだけれど、ほんとうに作品と呼べるものを作っている人を取り上げていこうと思うと、これだけたくさん作る人の人口が増えてきたのに、少ないんだなって。それでも選んでみて久しぶりにいまの20代30代の人たちの日本の現状を見つめ直してみると、やっぱり面白い状況だと思うんです。

大山:だって下の世代が怖くてしょうがないですもん。面白くてうまい人がいっぱい出てきていて。僕は決して動画はうまいほうではないので、ある種コンプレックスを抱いているので。

山村:それは動画だけじゃないと思うんだよね。大山くんのって、ある意味動いていないんだよね。

大山:そうなんです。

山村:でもそれがすごい特徴というか、これはどの作品にも言えるんだけれど、大山くんのは〈見つめるアニメーション〉だと思っています。じーっと細部を観察する見つめ方でもないんだよね、ある種放心的に世界を受け止めようとしている感じがすごくしていて、それはアクティブな世界ではなくて、静止しかけている世界という印象があって。それを見つめている。『ゆきどけ』ですごく印象的だったのは、毛根をじっと見つめるシーン、あれを観たときすごいと思った。『いつもの日曜日』はなんにも起こらないことがやはりすごいなと思って、大山くんのすごいなと思うところは、なにかをじっと見つめているようなとき、『HAND SOAP』は全編そういうのがすごく溢れていて。

大山:それから『ゆきちゃん』はオムニバス映画の『TOKYO LOOP』という16人の作家が5分ずつ東京というテーマで制作するというオムニバスの一環として作ったものなのですが、これは山村さんも参加されていて、試写会で『Fig(無花果)』をはじめて拝見したときに「アニメーションとはこれですよ」と言われたような気がして、すごい落ち込みました。でも今ではこの作品はだいぶ好きになりました。

ゆきちゃん
『ゆきちゃん』(2006年)より

山村:ほぼふたつのシーンだけで成り立たせているのがすごく実験的だね。

大山:ワンカットで行きたかったんですよ。5分だったらいけるだろうと思って、ずっと手持ちカメラのような感じで主人公の主観でしかないというものを作りたいと思っていて。これは実は『TOKYO LOOP』のお話をいただく前に既にミミズの部分は作ってあって、その先や前がどうなるか解らないけど、とにかく男の子がミミズを突いているというシーンだけは作りたいと思って。最初はミミズだけ5分突いていようと思ったんですけれど、なにかをくっつけようと思ったときに、自然とああいうシーンが出てきたんです。

山村:そのあたりが、作家と呼べる人が少ないなと思っているのは、大山くんは誰に言われたわけでもないのに放っておいてもミミズの映像を訳もなく作り始める、そういう人こそが作家だと思う。自分のなかから映像という表現を通して語らなければいけないものを持っている人。そういうのを感じる人ってほんと少ないんですよ。だからつくづく貴重な存在だなと思います。

大山:『放課後』は次回作のためのパイロットバージョンというかたちで本日上映させていただきました。なのでこれが完成というわけではなくて、今できている部分も全部使うとは限らないし、どうなるか解らないけれど、このコンセプトと内容で行きたいなと取り組んでいる作品です。

放課後
『放課後』パイロットバージョン(2008年)より

山村:Animationsを2006年からスタートさせて、若い人たちのなかにすごく才能を感じる人たちが見え始めて、同世代とはまた違った希望というか、そのなかでもう少し日本の作家や作品がレベルアップしてほしいなというおこがましい思いもあって、勉強会をしてみんなが成長していけるような場ができないかと思って、自分が気になる人たちに声をかけて、で大山くんも参加してもらって。どういう風にアニメーションを考えるかということをやりはじめたんです。そのうちに、今度はEIZONEでイベントをやろうということになって、じゃあ「アニメーションズ」の新作を上映しようということになって。

大山:『HAND SOAP』はもともと大学院の修了制作として『ゆきちゃん』のミミズのシーンを作ったときに、もしかしたら物語に始まりがあって終わりがなくても、ずっとミミズを作っているのがループになっているような、もっともっとミミズを見てほしいという気持ちがどこかであって、いつまででも見ていられる、なんてことないシーンというのがたくさん展示してあるようなインスタレーションが作れないかなと思って。そこでいざ展示をしてみたら、どうしても一本にしてみたくなってしようがなくなってしまって、それでどうにか形にということで『HAND SOAP』という作品になったんです。

山村:ちょうどAnimationsのときにそれを作品にしたいという話をしていて、卒業をしてから、またしつこく短編にしようと3年くらいかかって作っていて、なかなか完成しなかったんだよね。

大山:16分と長いんですけれど、かなり時間のかかる作り方をしているというところもあるんですが、かなりボツになっているシーンもいっぱいあったり、他のいろいろなこともあるなかで、『放課後』のEIZONEでみんなで作ろうという話をいただいたので、正直無理だという感じでしたね。でも結果的にこのパイロット版を作れたことはすごく良かったと思っていて。

山村:まだ映像もできていないときに、コンセプトの相談ということでいろいろ見せてもらって、これは面白いなと思って、発想がぜんぜん違うところから出ている人だと思ったんです。

大山:わりとテーマとしては『HAND SOAP』とほとんど同じことを実は描こうとしているんですが、まったくアプローチの仕方は変えて、観たときの印象もまったく違うんだけど同じテーマを扱ってるものになるかなと、すごく楽しみにしています。

山村:この2作品がどちらかというと思春期シリーズという感じだね。

大山:それまでは、十歳前後の男の子の設定が多かったので、だんだん成長していってる。

山村:幼児期から次の段階の映像にきているのかな。さすがに四十になると思春期の頃のリアルな感じって忘れてきちゃうので、ある時期にしかできないものというのはあると思う。

大山:あんまり年齢が近すぎても作れない。客観的に見たときの滑稽さは見えてこないので、ちょっと前の出来事が自分としてはいちばん扱いやすいのかな。『HAND SOAP』に対して山村さんが「瑞々しさをたたえた美しさを持っています」と書いてくださって。その美しいというのが僕すごく嬉しくて。

山村:そういう作品だと思いますよ。観た人からだいたい「気持ち悪い」という声しか聞いていなかったし、それまでの作品も別に気持ち悪いと思ったことなかったので、観たら、空気感を一生懸命映像のなかで作ろうとしていて、思春期のあるときに感じた空気感を、こんなことを大山くんは一生懸命やってるんだと、そこがいちばん惹かれたというのかな。

大山:誤解されがちなんですけれど、何も気持ち悪いもの、インパクトのあるものを作って驚かせたいというわけではなくて、そんな風には見えないよと思われるかもしれないですけれど、自分としては美しい作品を作りたいと思ってずっと作っているので。

山村:明らかに美意識が一貫としてあって、それもかさぶたとかディティールをとると、気持ち悪い作家みたいになるんだけれど、できあがったものはそういうものを狙っている映像じゃぜんぜんないんだよね。デヴィッド・リンチとかクローネンバーグとか好きな作家は、どちらかというとどろっとしたものを作っている人が多いんだけど、大山くんの作品から受けるのってまた違った印象があって、もちろん影響はあるにしてもグロテスクさや不思議さでなにかを見せるというよりは、もう少し正統な映画を目指しているのかなという印象があります。

大山:そういう風に捉えて、しっかりそこを的確に言ってくれたのは山村さんとクリス・ロビンソン(オタワ国際アニメーションフェスティバルのディレクター)さんだけじゃないかなと思います。

山村:なかなか理解されないんだと思います。僕もずっと作ってきているけれど、ほんとうに自分がやろうとしている芯のところをきちんと言葉にしてくれる人ってほとんどいないですから。やっぱり表層的な部分で受け取られて、すごいと思ってくれても、それ以上どこがどうすごいのか具体的に本質的なことを言葉にしてもらっていない。どうしてもアニメーションって要素が多いじゃない、グラフィックの要素もあるし、動きも、音の要素の音楽、ナレーション、セリフ、効果音、どれも作為的にあとで作られたものだし。映像のどこを切っても創作されたものだから、観るひとはいろんな部分に引っかかってしまって、そこの先で思考が止まって、印象論で流されてしまう。そこを超えたところで映像の奥にあるものをちゃんと観られるようになるのってある程度アニメーションをたくさん観てこないといけない。ある程度蓄積がないと、初見でその作品を評価するのってすごく難しいと思う。短編は何度でも観てほしいし、観られるものだし、観るたびに実はもっと裏側にあるものに気づいていくものだと思う。

大山:僕も山村さんの作品を何度も観ていますけれど、土居(伸彰)さんの文章を読むと目から鱗というか、そこに自分は感動していたんだって、言葉にしてはじめてしっかり認識できる部分は大きいです。

山村:だからそういう風に、アニメーションを理解する助けをする人たちも出てこないと浸透しづらい分野なのかなというのは二十数年やってきて痛感しています。それもあって「アニメーションズ」という活動をはじめて、大山くんにも手伝ってもらったんですけどね。

[2009年10月23日、渋谷アップリンクファクトリーにて]
(文・構成:駒井憲嗣)

山村浩二 プロフィール

1964 年、名古屋市生まれ。東京造形大学絵画科卒業。多彩な技法で短編アニメーションを制作。『頭山』がアヌシー、ザグレブ、広島をはじめ6つのグランプリを受賞、第75回アカデミー賞にノミネートされる。また『カフカ田舎医者』がオタワ、シュトゥットガルトほか7つのグランプリ受賞。国際的な受賞は60を越える。代表作は他に『カロとピヨブプト』『パクシ』『ジュビリー』『年をとった鰐』など。世界各地で回顧上映、審査員、講演多数。ヤマムラアニメーション代表、Acme Filmworks契約監督、国際アニメーションフィルム協会日本支部理事、日本アニメーション協会副会長、東京造形大学客員教授、東京藝術大学大学院教授。

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大山慶 プロフィール

1978年、東京生まれ。 2005年、東京造形大学卒業。卒業制作『診察室』がBACA-JA最優秀賞、学生CGコンテスト、アルスエレクトロニカ佳作などを受賞。 カンヌ国際映画祭監督週間をはじめ、多くの海外映画祭に招待上映される。 2006年、アニメーションによるオムニバス映画『TOKYO LOOP』に参加。 2007年、東京造形大学大学院修士課程修了。 2008年、愛知芸術文化センターによるオリジナル映像作品として『HAND SOAP』を制作。ヨコハマ国際映像祭にて優秀賞を受賞。阿佐ヶ谷美術専門学校非常勤講師、イメージフォーラム付属映像研究所講師。日本アニメーション協会会員。

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