2009年10月3日(土)より渋谷アップリンクで公開される映画『ウイグルからきた少年』は、カザフスタン映画『ラストホリデー』(アミール・カラクーロフ監督)などのプロデューサーとして知られる現役自衛官の佐野伸寿監督が、カザフスタンやイラクに滞在した経験をヒントに中央アジアの現状とそこに生きる人々の生活を描いた作品だ。
「忘れ去られてしまいかねないウイグルの存在を知ってほしい」という想いを込め、新疆ウイグル自治区からカザフスタンのアルマトイに逃げてきたウイグル人の少年が、大人の思惑により自爆攻撃者に仕立て上げられていくフィクション作品である。
民族も言葉も異なるウイグル、ロシア、カザフスタンの3人の子供たちの、純粋で無垢ゆえの破滅への道のりを、そこに彼らが生きている息吹を確認するかのように、カメラは静かに見つめている。
佐野伸寿監督メッセージ
今回の作品を撮るにあたって、私には3つのアイデアがありました。1つは現在のカザフスタンの人々の生活であり、また1つは自爆攻撃を行う人々、そして、もう1つがウイグルの文化です。
私が映画を撮るのは、人はどう生きるかに興味があるからです。映画は例え1分に満たない短編であっても、そこに人が生きている息吹、人生のリアリズムが無ければならないと考えています。今回の映画も、現在のカザフスタンの人々を描きたいという欲求からスタートしました。カザフスタンはソ連が崩壊して独立国となりました。それは自らの国家を戦争や革命といった手段を使わずに、ある日、子供が母親からおもちゃを渡されるように突然、国家が成立したのです。
当初は経済的にも苦しく混乱を伴っていましたが、9.11以降アメリカが、カザフ人と同じイスラム教を信じるアフガニスタンやイラクでの戦争を始めることによって、石油価格が高騰し、資源国家であるカザフスタンは一気に経済成長し豊かな国になりました。この国の人々の生活はおしなべて良くなりましたが、取り残される人たちも当然いました。しかも、この繁栄は、ある意味でイスラムの犠牲の上に成り立つ脆弱なものと言えなくもありません。その危うい豊かさによってはじき出される人々を描きたいという思いを持ちました。しかし、そういった中央アジアの複雑な状況を表現できるシチュエーションをどうするかが問題でした。
そんな時、全く別のアイデアが浮かびました。それは、自爆攻撃を行う人々です。私はイラクの人々と関わりを持つことになり、その中でイラク南部の市場での少女による自爆攻撃の話をイラクのシーア派の人から聞き、衝撃を受けました。イラクの人々と話をすると、自爆攻撃を行う人が狂信的な人ではなく、西洋的な教養を持つインテリで、多くの人はイラク戦争で自分の能力を活かせる仕事が無く、様々な理由から絶望し、絶望の中から救済を求めている人たちではないかと思うようになりました。
私はイラクの人々の話を聞いて、かつて霞ヶ浦に太平洋戦争中の予科練記念館を訪ねた時のことを思い出しました。そこに展示されている特攻をして亡くなった少年飛行兵が書いた手紙を読んでいるうちに、突然1つのイメージが私の目の前に現れ、私をとらえたのです。そのイメージとは、記念館のそばの海岸を白い運動服を着た幼さの残る若い兵士が楽しそうにたくさん走って来て、海に飛び込んでいったのです。そのイメージが浮かんだ瞬間、予科練に集まっていたのは日本でも優秀な少年たちで、最近の保守主義者の様な主義主張を声高に叫ぶことは無く、子供らしい純粋さをもった人たちで、ここには彼らの悲劇性とは違った喜びや笑いがあったのだと私は悟りました。自爆攻撃を行う人たちも、政治的環境や主義主張よりも、無垢な純粋さがあり、それだからこそ自爆攻撃を行う人、そして自爆攻撃により被害を被る人々の悲劇性、人が殺し合うことの愚かさがあるのではないかと考え、そのような視点で自爆攻撃を描けるのではないかと確信しました。一切の主義主張を語り合うことなく、一切のハリウッド的な説明もなく、静かに自爆攻撃が行われていく場面は、恐らく映画史上類を見ないリアルなものになるだろうと思いました。
もう1つ、今回の映画で柱となるアイデアがありました。それはウイグルの文化です。私はかつてカザフスタンにいた頃、多くのウイグル系の人々と知り合うことができました。私がプロデュースした『3人兄弟』のセリック・アプリモフ監督の奥さんであったグルミラの母方はウイグル系で、日本への留学を世話した学生もウイグルでした。そしてカザフスタンでは本当に多くのウイグル人が色々な分野で活躍しています。
そんな中、カザフスタン時代に私が愛してやまない料理がありました。それはラグマンというウイグル料理で、麺類の元祖とも呼べる食物です。元来麺類は遊牧民の生活から生まれたもので、麺は一度作っておけば保存食としていつでも手軽に食べられる食品だったのです。正直これを食べると日本のラーメンではもの足らなくなります。私はこのラグマンを通してウイグルの人々へのシンパシーをより強く持ち、次第にウイグルの歴史、東トルキスタンについても興味を抱くようになりました。しかし、この頃の私のウイグルの人々に対する印象は、頭が良く、商売に長けていて、独自の教育や文化を大事にしていて、さすがかつて東トルキスタンという国を持っていた民族だといった程度のものでした。
ところが、1997年に日本に帰って、数年経ったある日、都内百貨店のショーウインドウに、ウイグル自治区の雄大な大地が写った写真が使われた広告が掲げられていたのを見て驚きました。大地の上に立っているのは、ウイグル民族ではなく、漢民族の子供たちだったのです。恐らく、百貨店の人も広告代理店の人もウイグルのことを知らず、中国政府の派遣したガイドから言われるまま写真を撮ったのかも知れませんが、私はこれは大変なことだなと思いました。ウイグルという民族の歴史が地上から消されていこうとしているのではないかと危惧し、ウイグルをテーマにいつかは映画を作りたいと思うようになりました。しかし、どうやっていいのかは分からず、ウイグル料理のラグマンに焦点を当てたドキュメンタリーというアイデアを温めていました。
そんな時、カザフスタンの映画監督で1998年にカンヌ国際映画祭ある視点部門でグランプリを取ったダルジャン・オミルバエフと私が持っていた映画のアイデアについて語り合ったことがあり、彼から「ラグマンのドキュメンタリーより、多少のリスクを冒しても自爆攻撃の映画を作った方が、カザフスタンの今日を表現できるのではないか。」と助言を受けました。私はこの3つのアイデアを1つの映画にしてみようとこの時初めて思い、シナリオの構想を練り始めました。確かにストーリーに展開してみると、国を持たないウイグル人との対比によってよりカザフスタンの現状が表現できるし、カザフスタンで未だ起きたことのない自爆攻撃をテーマとすることで、複雑で微妙なバランスの上にある中央アジアが見えてきます。