骰子の眼

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2009-07-10 20:00


『マンガ漂流者(ドリフター)』第11回:真実から眼を背けることで想像力を掻き立てるマンガ家・鳩山郁子 vol.3

なぜ、鳩山郁子の作品は「少女マンガ」的ではないのか。影響を受けたマンガ家などから検証する。
『マンガ漂流者(ドリフター)』第11回:真実から眼を背けることで想像力を掻き立てるマンガ家・鳩山郁子 vol.3
(左より)ミニコミ誌「INTEREST」no.3、小冊子「まんがの森」vol.94 05年11月号

★vol.1はコチラから
http://www.webdice.jp/dice/detail/1688/
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http://www.webdice.jp/dice/detail/1710/


私がやまだ紫の回(http://www.webdice.jp/dice/detail/1568/)で明らかにしたのは少女マンガ「以外」のマンガの存在である。それは「COM」や「ガロ」から派生した一つの流れがある。すべての少女、女性向けマンガの源流を「少女マンガ」であるとして考え定義し、女性作家の描いた作品を「少女マンガ」という既存の枠組みに無理やり当てはめて語ろうとするのはいささか傲慢すぎる。鳩山の作品を指して「モノローグの混乱」「多層的なコマ割り」「詩(ポエム)」「独自の美学」など、表面的ともいえる少女マンガの要素を当てはめることもできるだろう。しかし、それだけではあまりにも見過ごすことが多すぎる。「少女マンガ」の枠組みで語られない作品への冷ややかな目線。語りやすい作品を語ることは誰でもできるだろう。少女マンガ「以外」の存在をどう語り位置づけていくかが、この連載の要といえる。

2005年6月に刊行されたミニコミ誌「INTEREST」や「まんがの森」に掲載されたインタビューで鳩山は少女マンガをすり抜けてきた過去を振り返っている。鳩山は物心がついたころには家にあった手塚治虫全集を読み、編集者だったという父の影響からつげ義春や水木しげるを読んでいた。また、少年マンガは秋田書店「少年チャンピオン」で『マカロニほうれん荘』『ブラックジャック』を読んでおり、いわゆる少女マンガの全盛期をリアルタイムに体験していないのだという。


その頃は女性が漫画家になるんだったら少女漫画の世界って……ラブコメとか、とかく恋愛モノ中心ですよね。もちろん当時からその限りではないと思いますが、ど~う考えても、どこを叩いても捻っても少女漫画の土俵で「描きたいモノ」が浮かんでこない。こ、これはどうしたものかと(笑)。そう思っていたときに出会ったのが雑誌の「ガロ」で。作風も、漫画にお約束の起承転結も関係ナシで、おもしろければ何でも掲載する。あぁこういうマンガ雑誌があるんだなぁと思って。そこから、いかにしてガロに入選するかという日々が始まりました。

(「INTEREST」鳩山郁子インタビューより)


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つまり、鳩山の作品は少女マンガからの影響を受けていない。したがって、少女マンガの文法では「読めない」のだ。まず、このことを頭の片隅においておき、再び作品を読むとコマ割りやモノローグの特徴が浮き彫りになってくる。鳩山の作品は映画のカメラアングルに近く、少女マンガにありがちな曖昧な描写や誤魔化しが、ない。また、読者に知らせたい感情を分かりやすく説明するため、主人公の表情をクローズアップは、しない。モノローグに「詩(ポエム)」はあるが、登場人物の「心の声(内語)」が、ない。そのため、登場人物の動機が詳らかにされることが、ない。少女マンガの定石がことごとく無視されているのだ。

写真右:見上げる子どものような老人の目の先で崩れていく団地。つい描きたくなる構図。大友克洋『童夢』より。

インタビューでも語られているが、これは水木しげるやつげ義春の作品が持つ感触に近い。また、「まんがの森」のインタビューでは、大友克洋の『童夢』を模写しこともあると語っているように、第1回で指摘した「背景に埋没する人物」という画は大友からの影響だと考えると合点がいく。さらに大友を筆頭とした70年半ばから80年にかけてのブーム「ニューウェイブ」と呼ばれたマンガ家の影響があるのは間違いないだろう。特に82~85年に「JUNE」や「小説JUNE」で活躍していた玉田富美の作品には衝撃を受けたと語っている。



【はみだしコラム】 謎の作家 玉田富美

1982年「小説JUNE」10月号でデビューした玉田富美は、同誌を中心に「JUNE」や徳間書店「SFアドベンチャー」で活躍。マンガやイラスト、小説の挿絵を描いていた。当時の「JUNE」や「小説JUNE」では、高野文子や杉浦日向子といった少女マンガ「以外」のいわゆる女性のニューウェイブ作家の活躍の場でもあった。

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ジョジョもびっくりな見事な「ジョジョ立ち」で現れたあんのじょう君。80'sテイストの画面構成にも注目してほしい。84年「小説JUNE」2月号、玉田富美『寒い朝にオレを舐めろ』より。

玉田の作品もニューウェイブであることは確かなのだが、特筆すべきは「センス」のみで一点突破を遂げているところだろう。84年に「小説JUNE」創刊号に発表した『寒い朝にオレを舐めろ』は、恋人が「サナギ」になってしまった会社員が人生相談に訪れるところからはじまる。その会社員が「貝柱たおる」、恋人の美貌のダンサーが「八針あんのじょう」、人生相談室「カエル」の担当者が「海野色」という名前である。このセンスは養って得られるものではない。画面構成はデザイン重視、物語の筋はまるで音楽、セリフは詩(ポエム)。それ故に荒唐無稽で意味が分からない作品ともいえるのだが、只者ではない魅力に溢れているのも確かだ。天才……という凡庸な評価を下したくなるような「ヤバさ」がある。残念ながら単行本化されていないため、簡単に読むことはできないが、玉田の影響力は無視できないものがある……。そもそも、玉田富美が好きだったという鳩山郁子のセンスも凄すぎるのだが。

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「キリンの目をありがとう。でも、この次はアフリカの土にしてください。シマウマのお尻をお墓に埋めます」という前衛詩のようなモノローグ!84年「小説JUNE」6月号、玉田富美『お誕生日』より。


おおよそ人間的な「感情」を剥奪された登場人物たち。彼らの行動原理が隠されることにより、物語に謎と緊張感が生まれる。前回、鳩山の作品は登場人物に「共感」を求める作品ではないと指摘したが、翻ってこれは「少女マンガ」ではない、という証にもなっている。


モノへの執着とその眼差し

鳩山郁子の「少女マンガ」らしくない特徴は他にもある。細部にわたって詳細に描写される「モノ」へのこだわりがそうだ。作品の世界に点在する「モノ」の描写は、決して手を抜かれることはない。結果、夥しい情報量が作品内に溢れ出している。それは世界をより真実らしく見せ、大胆に紡ぎだされる「嘘」を読者に信じ込ませる効果がある。特に『カストラチュラ』や『シューメイカー』などは、想像だけでは描けるものではない。資料や史実に当たらなければ描けない「本当らしさ」がある。そこに挿入される「嘘」、「フィクション」である。美しい嘘を煌々と浮かび上がらすためには、読者を「本当らしさ」で欺かなくてはならない。

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刺繍まで丁寧に描きこまれた纏足靴。01年に青林工藝舎「アックス」で連載された鳩山郁子『滴翠珠』より。

【はみだしコラム】
本物らしい世界を創り、大胆に嘘を混ぜる――「考証」する女性作家たち

「少女マンガ」的だと評されるときそこには「女コドモ」という蔑視が入り込むことがある。女性というのは「感覚的」であるから、ファンタジーを描くのが上手いというよくある評し方だ。これはファンタジーであるから整合性などは二の次で良いとして、作品自体を真っ向から読み解くことを諦めさせ、女は「共感」でしか作品を描くことができないし、読んでないという誤解を生んではいないだろうか。そんなことはない。なにも作品を描く際に当時の資料にあたり「考証」するのは男性だけではない。ここでは、そこからさらに踏み込んで歴史の見えざる裏側まで、「創造」してしまう大胆さを持った女性作家を紹介したい。

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杉浦日向子 『百日紅』

まず、第一に80年に「ガロ」でデビューし、江戸時代の研究家でもあった杉浦日向子の名を挙げたい。83~88年まで実業之日本社「漫画サンデー」にて連載された『百日紅』では、浮世絵師・葛飾北斎とその弟子たちの日常をまるで江戸にタイムスリップして見てきたかのようにいきいきと描いている。例えば、弟子のお栄が江戸の町に降り立った「龍」を捕まえるシーン。読者が杉浦の描く江戸の町並みに「嘘」を嗅ぎ取ってしまえば途端に白けてしまうだろう。そうした綻びを感じさせず、読者を物語に没頭させてくれる。


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山岸凉子 『日出処の天子』

80~84年に白泉社「LaLa」にて連載された『日出処の天子』は、厩戸王子(聖徳太子)という実在の人物を主人公に史実や逸話を元にしている。厩戸王子を主人公とする際に、超能力者という設定にしたことで聖徳太子の謎めいた人物像、不明瞭な逸話を山岸なりに解釈。歴史上では父の馬子に隠れ影の薄い蘇我毛人(蘇我蝦夷)をもう一人の主人公に据え、厩戸と毛人に同性愛という要素を持たせたことで、現実にはありえない大胆なストーリーになっている。


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こうの史代 『この世界の片隅に』

映画化もされた『夕凪の街 桜の国』で、自身の生まれた広島の原爆をテーマに描いたこうの史代。『この世界の片隅に』でもまた、絵を描くことが好きな少女が嫁ぎ先の広島に近い町で原爆を体験するまでの戦火の日常を綴っている。戦中にあっても、平凡で幸せな日常が「あった」という事実を描くことでラストの恐ろしいまでの残酷さが際立っている。戦争という忘れ去られていくだけの過去を現代に描き、残していこうとする姿勢はすばらしい。水木しげるが描いた「玉砕」、小林よりのりが描いたエリートの「美化した戦争」に対し、「平凡な一主婦の見た戦争」から学び取ることは多い。




思ったよりも長く書いてしまった!予定していた「視点」の話は、次回以降に繰り越したい。次回は鳩山郁子の「美学」からペヨトル工房の雑誌「夜想」「ur」「銀星倶楽部」などを紹介し、70年代後半から80年代にかけて登場したニューウェイブ作家の描いた作品とは何かを探っていきたい。

(文:吉田アミ)


【過去のコラム】
吉田アミの新連載コラム『マンガ漂流者(ドリフター) ~新感覚★コミック・ガイド~』がwebDICEでスタート!(2009.4.22)
『死と彼女とぼく』川口まどか(2009.5.2)
川口まどかにリンクするコミックはコレだ!【リンク編】(2009.5.8)
女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【前編】(2009.5.15)
女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【中編】(2009.5.22)
女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【後編】(2009.5.29)
「象徴」と「暗喩」を描くマンガ家・鈴木志保【前編】(2009.6.5)
「象徴」と「暗喩」を描くマンガ家・鈴木志保【中編】(2009.6.12)
「象徴」と「暗喩」を描くマンガ家・鈴木志保【後編】(2009.6.19)
真実から眼を背けることで想像力を掻き立てるマンガ家・鳩山郁子 vol.1(2009.6.26)
真実から眼を背けることで想像力を掻き立てるマンガ家・鳩山郁子 vol.2(2009.7.3)


吉田アミPROFILE

音楽・文筆・前衛家。1990年頃より音楽活動を開始。2003年にセルフプロデュースのよるソロアルバム「虎鶫」をリリース。同年、アルスエレクトロニカデジタル・ミュージック部門「astrotwin+cosmos」で2003年度、グランプリにあたるゴールデンニカを受賞。文筆家としても活躍し、カルチャー誌や文芸誌を中心に小説、レビューや論考を発表している。著書に自身の体験をつづったノンフィクション作品「サマースプリング」(太田出版)がある。2009年4月にアーストワイルより、中村としまると共作したCDアルバム「蕎麦と薔薇」をリリース。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売される予定。また、「このマンガを読め!」(フリースタイル)、「まんたんウェブ」(毎日新聞)、「ユリイカ」(青土社)、「野性時代」(角川書店)、「週刊ビジスタニュース」(ソフトバンク クリエイティブ)などにマンガ批評、コラムを発表するほか、ロクニシコージ「こぐまレンサ」(講談社BOX)の復刻に携わり、解説も担当している。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売された。近々、佐々木敦の主宰する私塾「ブレインズ」にて、マンガをテーマに講師を務める予定。
ブログ「日日ノ日キ」

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