鳩山郁子『カストラチュラ』(左)、『ダゲレオタイピスト―銀板写真師―』(右)
鳩山郁子(はとやま・いくこ)
神奈川県横浜市出身。1987年「ガロ」に入選した『もようのある卵』が10月号に掲載されデビュー。以降、『月に開く襟』や『スパングル』など、繊細なタッチで少年たちの成長と喪失を描いた短編を「ガロ」や「June」に発表。95年に描き下ろしされた『カストラチュラ』で、新境地を拓く。豆本、ポストカード、グッズ、マルチプル作品、限定版BOX描き下ろしコミックなどを発売している。09年3月、青林工藝舎より『ダゲレオタイピスト―銀板写真師―』が発売されたばかり。・鳩山郁子 公式サイト
傑作である。
だが、そう言ってみても、私にはまだ言葉が足らないように思える。
完璧である。
ためらいながらそうつぶやいてみて、ようやく落ち着いた気持ちになる。
(沢木耕太郎 / 世界は「使われなかった人生」であふれてる 『飛び立つ鳩を見送って』より)
鳩山郁子の『カストラチュラ』を読むと「完璧」という言葉が頭をよぎる。しかし、たったその二文字で片付けてしまえるほど、このマンガは容易いものではない。
同作は著者初の長編描き下ろし作品で、1995年作品社より刊行された。帯には映画『カストラート』の告知がなされているが、映画をコミカライズしたものではない。
物語の舞台は王朝制度が終焉し、革命により民主化を手に入れた中国。かつて宮廷に仕えるために去勢され、纏足を施された最後のカストラート(去勢歌手)と肉食を否定する新興勢世代の学校に通う少年の出会い。旧王朝の末裔である貴族の少年と寄宿舎の厨房で働く少年との肉を巡る取り引き。纏足、人工美、人肉食、自殺幇助、あちこちで駆け引きされるグロテスクな罠を綱渡り、やがて訪れる戦慄のラスト。中国の三大奇習と呼ばれる「去勢」「纏足」「人肉食」といった甘美な装飾に惑わされると本質を見誤るが実はこの作品、少年の成長と喪失という普遍的なテーマを描いたものである。
『カストラチュラ』より。物語の導入部。
しかし、このマンガは手強い。一読してみて意味が分からずお手上げとなってしまう人も多いだろう。大島弓子の『バナナブレッドのプディング』とはまた別の読みにくさがある。
何故、鳩山郁子の作品、特に『カストラチュラ』が、読みにくいのだろうかを考えてみたい。
鳩山郁子作品を読み解くには
まず、登場人物のキャラが立っていない点が指摘できる。王道の少年マンガや近年の萌えに特化し、何が何でもキャラ化されてしまうようなマンガに慣れていると、鳩山作品のようなキャラの立たないマンガを読むのは骨が折れるはずだ。はっきり言おう。この作品は、キャラクターに共感して楽しむものではない。練り上げられた世界を俯瞰し、むしろ共感できなさ、理解できなさ加減を楽しむものなのだ。
2005年に「月刊まんがの森」vol.94に掲載されたインタビューで鳩山は「自分の描く人物(少年)はジオラマの中のモノや風景、建物と同等のモノであり、逆に自分の琴線に引っかかるモノ、風景、建物は全て人物(少年)と同次元的なエレメントであると言えるかもしれません」と答えている。この主張を裏付けるように、普通なら白い線などで人物を縁取り背景に人物が埋没しないように境界線を引くのだが、鳩山の作品ではむしろ背景に人物が埋没するように描かれている。
背景と同じ筆致で描かれる人物。『シュガーヒカップ』より。
次に独特な美学に裏打ちされたテキストが上げられるだろうか。暑暇を「ショージア」、厨房を「チューファン」と読ませるなど、音を読ませることを目的にしたルビがある。本来、ルビとは意味を求め、読み易くするために正しく機能するはずなのだが、このルビはそういった定石から外れるものである。これは鳩山が敬愛する稲垣足穂や内田百閒からの影響もあるのだろう。初期の作品より一貫して用いられている手法でもあるのだが、『カストラチュラ』では、さらにその手法が洗練され、中国語の音の美しさを際立たせることに成功している。人はテキストを脳で読むのだが、声を出さずとも喉のかたちは恰も読んでいる時と一致した形状になるという。口に出して気持ちが良いテキストを読むとき、人は快楽を感じる。例にあげたように厨房を「チューボー」と間抜けに読むよりも、「チューファン」と読むほうが、はるかに気持ちが良い。
並べられた文字の美しさと音による快楽を堪能せよ。『カストラチュラ』より。
そして、最後にコマ割りの問題である。鳩山のほかの作品に比べても『カストラチュラ』は、分かりにくいコマ割りが多用されており、常に真実から視線が外されてしまう。このため画面で何が起こっているのか全容がつかみにくい。重要な部分は省略されるので、急な展開に頭が追いつかなくなるだろう。これが分かりにくさの要因となっている。
しかし、これには意味がある。真実を描かないことで、コマとコマの間に想像の余地を残しているのだ。こういった全容を説明しきらないというのは、ホラーなどではよくあるのだが、鳩山はその演出を使い読者を一番残酷なことや、生々しさから目を背けさせている。鳩山作品にある種の静謐さと美しさを兼ね備わっているのはそのためだ。
ネクタイを緩めながら迫ってくる男との会話のあと、列車のショットがあり、不貞腐れている人物。二人の間に何があったのか妄想は膨らむばかり。『カストラチュラ』より。
また、少年の鎖骨や腕、指といった部分<パーツ>を凝視するショットが話の筋とは関係なく、些か唐突に挿入される箇所がある。これは、無意味なカットではない。その人物の視点である。真面目な話をしていようがいまいが、気になる部分を凝視してしまうという、フェティシズムの発露である。一体、その人物が何を見て興奮したのかを読むことで、登場人物の人工美への執着といったグロテスクさが伝わってくるだけでなく、その部分の美しさやエロティシズムを発見させられる。
腕に流れる一粒の汗を凝視するアングル。エロスの窓が開く瞬間だ。『カストラチュラ』より。
このようなマンガの王道から外れた楽しみもまた、マンガの醍醐味である。マンガにはいろいろあって良いのだ。それが許されないほど、マンガというジャンルは狭いものではない。
あたかも幻想小説を読むように、分からなくてもとりあえずその世界に入ってしまえばいい。とにかく、最期のページまでページを繰ること。そして、何度も読み直すこと。私たちの日常から乖離した理解し難い世界観を理解するには、訓練と努力が必要なのだ。その過程を経れば、次第に世界は色づきはじめ、恐ろしい中毒性と他では代え難い幸福な読書体験を与えてくれるだろう。
開かれた背がまるで天使の羽根のように見える“解剖学の天使”といった目を瞠るキャラクター造形も魅力!『カストラチュラ』より。
次回は鳩山郁子のターニングポイントとなった『カストラクチュラ』までの初期作品を紹介しつつ、その作風の変化に注目したい。
(文:吉田アミ)
【過去のコラム】
・吉田アミの新連載コラム『マンガ漂流者(ドリフター) ~新感覚★コミック・ガイド~』がwebDICEでスタート!(2009.4.22)
・『死と彼女とぼく』川口まどか(2009.5.2)
・川口まどかにリンクするコミックはコレだ!【リンク編】(2009.5.8)
・女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【前編】(2009.5.15)
・女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【中編】(2009.5.22)
・女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【後編】(2009.5.29)
・「象徴」と「暗喩」を描くマンガ家・鈴木志保【前編】(2009.6.5)
・「象徴」と「暗喩」を描くマンガ家・鈴木志保【中編】(2009.6.12)
・「象徴」と「暗喩」を描くマンガ家・鈴木志保【後編】(2009.6.19)
■吉田アミPROFILE
音楽・文筆・前衛家。1990年頃より音楽活動を開始。2003年にセルフプロデュースのよるソロアルバム「虎鶫」をリリース。同年、アルスエレクトロニカデジタル・ミュージック部門「astrotwin+cosmos」で2003年度、グランプリにあたるゴールデンニカを受賞。文筆家としても活躍し、カルチャー誌や文芸誌を中心に小説、レビューや論考を発表している。著書に自身の体験をつづったノンフィクション作品「サマースプリング」(太田出版)がある。2009年4月にアーストワイルより、中村としまると共作したCDアルバム「蕎麦と薔薇」をリリース。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売される予定。また、「このマンガを読め!」(フリースタイル)、「まんたんウェブ」(毎日新聞)、「ユリイカ」(青土社)、「野性時代」(角川書店)、「週刊ビジスタニュース」(ソフトバンク クリエイティブ)などにマンガ批評、コラムを発表するほか、ロクニシコージ「こぐまレンサ」(講談社BOX)の復刻に携わり、解説も担当している。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売された。近々、佐々木敦の主宰する私塾「ブレインズ」にて、マンガをテーマに講師を務める予定。
・ブログ「日日ノ日キ」