骰子の眼

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2009-05-29 15:24


『マンガ漂流者(ドリフター)』第5回:女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【後編】

やまだ紫を前・中・後編にわたって吉田アミが大検証。ついに今回が最終章、やまだ紫とはどんなマンガ家だったのか?の結論を出す!
『マンガ漂流者(ドリフター)』第5回:女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【後編】
やまだ紫『出口』より。(c)やまだ紫

★【前編】はコチラから
http://www.webdice.jp/dice/detail/1568/
★【中編】はコチラから
http://www.webdice.jp/dice/detail/1596/


やまだ紫の描く「猫文学」

『鈍たちとやま猫』や本人の自画像といった例外もあるが、やまだ紫の描く猫は非常に写実的である。猫と暮らした経験のある人に違和感を与えないリアルさ。何故、やまだはリアルな猫を描くのだろうか?

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1979年「ガロ」2、3月号から11号にわたり発表された『性悪猫』シリーズより『おーい』。(c)やまだ紫

やまだ紫の描く猫と対極を成す作品として、こなみかなたの『チーズスイートホーム』に注目したい。主人公の子猫チーのモノローグでは、自分のことを「チー」と呼び「○○ら~」や「○○ちて」という舌っ足らずな幼児語で話す。絵柄もデフォルメされ、かわいらしさが強調されている。また、ミルクを飲んだりホットケーキを食べるシーンもある。野暮を承知で突っ込むと、猫の飼い方としては間違っている。(注1)

チーズスイートホーム

しかし、マンガとはフィクションである。フィクションの揚げ足をとっても仕方がない。もちろん現実には正しい飼い主ばかりなわけもなく、『チーズスイートホーム』ではそんなナーバスな問題を扱い、猫にとって好ましくない飼い主像を浮き彫りにすることが狙いのマンガではない。キャラクターがかわいらしいのは、読者にとっても魅力的だからに過ぎないだろう。ただ、このような表現方法に拒否反応を示してしまう愛猫家が少なからずいることも確か。そこには人間の傲慢さがあるからだ。その「傲慢さ」は、フィクションとしては、優れた点と捉えることもできる。「物語」と「現実」は切り離して考えるべきであり、また、現実も「正しさ」だけを求め均一の価値観で塗り変えるのは不可能だ。

画像:こなみかなたの『チーズスイートホーム』6巻。現在、講談社の「モーニング」にて連載中。アニメ化もされたヒット作だ。

やまだ紫の「猫マンガ」が、そうした猫のデフォルメやキャラの「かわいい」を優先させないで、リアルに描くことに注力を注ぐのは、作者の対象への謙虚さが表れているからではないだろうか。さらに突き進めれば、前回も指摘したとおり、やまだ紫の「作家性」の表れともいえる。登場人物との距離のとり方、表現の仕方は人だけに留まらず、人と同じように動物たちも平等に表現をしている。そう描くことは、「自分の思い込みで相手を規定したくない」という思考があるからだろう。対象を入念に「観察」し、対象の言いたい言葉を想像する。すべての、「自分」と「それ以外」。分からないものに対して、謙虚さを持って接するということ。自身も猫と暮らしていた作者だからこそ、猫たちの日常の「分かる」部分が豊かに表現できた。

しかし、やまだ紫は「私マンガ家」ではない。ただ、猫をリアルに描写しているだけではないのだ。『性悪猫』シリーズでは、猫と人との感情が交錯するという「嘘」が、巧みに描かれている。

一体、やまだの描く「猫」とは何者なのだろう。

※注1…人間の食べ物の多くは塩分や糖分など余分なモノが多すぎるため、猫の体にとっては負担になるそうです。

猫の「わたし」と人の「あなた」

女性から「女」という先入観を拭いたい。この気持ちが「女」だから表れる感情なのか、それとも「わたし」だからなのか。やまだ紫が「猫」に人の感情を託すのは、こんな思考実験を行っているからではないか。

猫の「わたし」と女の「あなた」のモノローグが交錯する『出口』では、猫の言葉なのか、女の言葉なのか、誰の言葉なのか分からないように描かれている。「ねえ わたし」と、自分の大きくなった子猫に対して語りかけるようにはじまるが、その言葉は「―あなたも」と、跨いだ子猫の先にいる飼い主らしき若い女性へと語りかけているようにも見える。

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猫と人、共鳴するモノローグ。『出口』より。(c)やまだ紫

ここまで、物語を素直に読むと、3つの答えが導き出される。

a.猫が女に語りかけている
b.女が猫に語りかけている
c.猫が自分の子猫に語りかけている


さらに、

d.「わたし」は、猫であり、女である
e.「あなた」は、女であり、子猫である


どれも正解であり、どれも不正解である。何故なら、

「『誰かの何処かが 自分と似ている』―――『―――まるでわたしだ』 と 時々あなたは言うね」

と、モノローグが続くからだ。この「わたし」と「あなた」は、混同しているということがわかる。「わたし」であり、「あなた」である。この物語で描かれているのは、「わたし」≒「あなた」という存在である。

最後のコマに唐突に男性が現れる。ここで、男性に向けて「わたし」はこう言う。「だいじょうぶ わたし あなたを困らせやしない ほら 出口はあそこ いつだって出口はあそこ」と、指差す女に猫は抱かれている。ここまで、「あなた」は猫であり、女であると思っていた読者はこの一コマで、はっと気づかされる。「あなた」は男のことでもあるということに。

f.「あなた」は、女であり、子猫であり、そして男である


この物語は、「あなた」や「わたし」を女や猫や子猫や男とキャラクターを分けて、読むこともできるだろう。しかし、『出口』が優れているのは、ここでキャラクターを分けなかったことに他ならない。立場が変わることで、さまざまな想像、可能性を読者に委ねたのだ。豊かな読書体験がここにはある。

やまだ紫はこのように、猫を変芸自在なキャラクターとして描く。人を描けば一目で女や男だとわかってしまうが、猫として描くことによって性差を感じさせず読者が本質を見つけやすくしている。大島弓子が『綿の国星』で、猫を少女として描いた手法とまったく正反対の方法である。この手法によって「人」の本質を見つめようとしている。猫に「あなた」や「わたし」を代入させることで、「あなた」だから残酷なのか、「わたし」だから悲しいのか、立場を代えてみても変わらぬ「真実」を浮かび上がらせた。

『性悪猫』シリーズでは、猫の、人の「本当の声」が語られている。そのとき、声の主は人であっても、猫であっても、読者であっても、誰であっても、良くなる。「真実だ」と思えれば、良いのだ。



「私」と「猫」でリンク!

私という猫

『私という猫』 イシデ電

やまだ紫の「猫マンガ」の進化系作品として、紹介したいのはイシデ電の『私という猫』だ。冒頭、「あーねこだ ねこはいいなあ 気楽で」「ねてばっかだもんねー ねこになりたいよー」と談笑するカップルの前を無言で横切る主人公である作者本人のモノローグはこうだ。「もしも 私が 猫だったらば とっくに死んでいる」と語り、主人公は「私」という性格を持った野良猫として描かれる。さらに物語が進むと「私」の視点だけでなく、他の猫たち「他者」の視点も描かれ、最後にはグローバルな視点を獲得し、「個」から「個の集合体」へと世界は広がる。「私」を獲得した猫たちは「猫らしく」は、在り続けることはできない。「猫」以外の何かに進化してしまう。あたかも『2001年宇宙の旅』でモノリスと出会った人のように……。「猫」「私」「個」が、一つになり訪れるクライマッスは鳥肌モノである。

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グーグーだって猫である

『グーグーだって猫である』 大島弓子

1978年から1987年にかけて白泉社の「月刊LaLa」にて、不定期連載された『綿の国星』は、子猫を少女の姿に擬人化させ、衝撃を与えた大島弓子の代表作だ。意外と知られていないが、作者がはじめて猫(「サバ」)を飼ったのは1983年7月頃のこと。作者は連載から最初の5年は猫の生態を知らずに描いていたのだ。当初、猫のリアリティには乏しく、少女マンガらしくファンタジーが強調されていたのはそのためだ。その後、『サバ』シリーズを経て、現在も続く『グーグー』シリーズは、「フィクション」の入り込む余地はまったくなく、日常の事実が淡々と綴られた彼女の生存報告書となっている。大島はインタビューでも猫についていろいろ答えているが、それを読むとやまだ紫のエッセイに書かれたものと同じ結論に至ることが分かる。



【はみだしコラム】
「猫の去勢と避妊、人間の傲慢」

動物を飼うということは命を預かることだ。良い飼い主とは、猫にとっての幸せを最優先させる人のこと。去勢や避妊手術、家から猫を出さないということを残酷だという人がいるが、猫にとっての一番幸せをと考えるならその義務から逃れることはできない。一体、どちらが残酷かといえば、何も対処しないことのほうがはるかに残酷である。「飼う」という選択をしたときにこの問題は必ず付き纏う。

2005年に小説家の坂東眞砂子が発表した「子猫殺し」というコラムでは、「(猫の避妊、去勢することは)その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つ」と表明し、「だったら自分の手を汚して、生まれてきた子猫を殺せばいい」というトンデモ説を語りネットを中心に論争になったことは記憶に新しい。フィクションであればそれも「あり」だ。しかし、エッセイとしてその文章が書かれたため、多くの人が嫌悪感を示した。分からないのであれば、相手を知るように努力すべきではないか。その手間も省き、一方的に「かわいそう」だ「残酷」だと決め付けて接することは、思考停止であり、とても怖いことである。その後、坂東はバッシング自体が「ファシズムの原型」という反論もしているが、「子猫殺し」とは、それ以前の問題ではないか。動物を飼うことに対し鈍感な人たちへ警鐘を鳴らしたいのであれば、もっと違う効果的な方法はあったと思う。

これは人間側の傲慢さが際立つ一例であったと思う。そこには「意思疎通の通じない猫の幸せは人間には分かるわけがない」という考えが通呈にあるのだろう。だが、そこで思考を停止せず、もう少し先まで考えてみて欲しい。意思疎通ができないからこそ、「観察」し、知る必要があるのではないだろうか。だとしたら自分の考えた「子猫殺し」のルールを遂行する前に、あらゆる方法を模索するべきだっただろう。残念でならない。



子供叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ 来た道悔やむな戻れぬ道じゃ

猫や他人……他者と自分との距離と融和を描く、やまだ紫。では、「一番近い他人」である親子は、どう描かれているのだろう。

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『くず湯』は、持病の胃痛に苦しみつつも、家族の世話を焼いている母親の心の内が語られる。家族は母親の体調を心配するが、母親はそれが煩わしい。体調の悪いときには、放っておいてほしいと思っている。家族が出かけたあと、そっと横になり苦痛に耐えていると夢の中で、14歳の時に死んだ母の夢を見る。そして、生前の病に苦しんだ母親が、彼女に癇癪を起こしたことを思い出し、「病の痛みが 母の人間性を おとしめたのだ」と気がつき、今の「自分」と「母親」が重なり合う。そして、母親を憎んだことを「お母さん 許して下さい……」と許しを乞う。

「自分」であり、「母親」である主人公の顔は、何故か浮世絵のように描かれている。疑問に感じながら読み進めると、最後にその理由が明らかになる。

画像:1993年「ガロ」2・3月号やまだ紫特集にて発表された『くず湯』。母親の特徴的な「顔」に注目して欲しい。(c)やまだ紫

『あれはわたしの』もまた、「母と娘」をテーマにした作品だ。長らく離れて暮らしていた母親が家に帰ってくる。その娘千代子には、お気に入りのざぶとんがあった。千代子にとって、ざぶとんは「わたしの赤ちゃん」であった。もちろん、ざぶとんだということは承知の上での「おままごと」。しかし、その様子を見た母親は、人形を買ってほしい当て付けのように感じて苛立ってしまう。千代子にとっての「ざぶとん」とは、そのまま「私」のことであり、その「私」を赤ちゃんのように可愛がる「母親」を自分自身で演じることによって、千代子は母から愛される自分を実感しているようにも読める。母親のことが好きなのにうまく甘えられない千代子、自分に懐かない千代子に対して癇癪をおこしてしまう母親、それを諭す祖母……と3人の立場の違いがよく描かれている。

こうして並べて解説してみると、『くず湯』と『あれはわたしの』は、子どもとの接し方が下手で癇癪を起こす「母親」と、本当は母親好きなのに好意を言葉で表せない「子」、それを嗜める「祖母」と、物語の構造がよく似ていることが、お分かりになるかと思う。

恋人、夫婦、親子など、さまざまな立場や関係、そして、人であれ、猫であれ、やまだ紫が伝えたかったのは、「他者」を「分かる」こと、そして「分かろう」とすることを描いているのではないか。そして、何故、自分以外の相手に抱く「共感」とは何か。そして、何故、相手のことは、「分からない」より、「分かった」ほうが良いのかの答えを持っている。この作者にとって他者と自分は、なるべくなら「分かった」ほうが、好ましい。何故なら、その方が相手に「優しく」できるからだ。そして、「他者」を分かろうとすることは、同時に「私」を知ることでもある。他人に優しくする一歩として、「私」は規定され、そこからさまざまに視点が広がり、融和していく。だから、やまだ紫の作品は、穏やかで優しいのだろう。


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「やまだ紫作品集4」に収録されている『あれは わたしの』。1969年に「COM」にて発表されたをリメイクしたもの。(c)やまだ紫


大人と子どもの関係でリンク!

鈴木先生

『鈴木先生』 武富健治

大人には大人の、子どもには子どもの言い分がある。大人とは、子どもの延長である。正しい大人を全うするのが、当然だとされる聖職者にいたっては、常に厳しい規範が求められる。だが、『鈴木先生』では、正しく在るべき先生の姿が愚かに滑稽に描かれている。生徒の前で理路整然と諭す、鈴木先生もその内面では苦悩や葛藤がある。子どもにとって大人とは、はじめ「神」に等しい存在だ。しかし、思春期になり大人の狡さも分かるようになると、「神」だと思っていた分、落胆は激しい。反抗期のはじまりだ。「神」にならないこと、「神」ではない面を見せることで、この作品は絶妙なバランスで「説教臭さ」を脱臭している。
やまだ紫の『コウノトリはもういない』でも、同じく娘に性教育をするシーンが描かれているのだが、『鈴木先生』における「鈴木裁判」に近い結論が導かれている。教育には、正解が必要だ。


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決然とした顔で語りかける母を見詰める娘たち。『コウノトリはもういない』より。(c)やまだ紫


食べ物がおいしそう!でリンク

きのう何食べた?

『きのう何食べた?』 よしながふみ

よしながふみの『きのう何食べた?』の「食べもの」描写とやまだ紫の食べ物描写は似ている!?
本稿の中で言及できなかったが、後から無理やりリンク! やまだ紫といえば食べ物がおいしそうに描かれている点も見逃せない。まず、下のコマをご覧いただきたい。



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85年より「COMIC ばく」で連載された『Second Hand Love』の3話目より(c)やまだ紫

この画像だけ見ると「何?」という感じだが、このコマに流れる前に「冷蔵庫には ろくなものがない」と冷蔵庫を開き、袋から取り出したスパゲティの絵「それをただ スパゲティをゆでて」、鍋でお湯を沸かし「ケチャップでいためただけのものが好物で あったりして」という3コマが入るだけで、印象が違う。料理を作る過程を見せることで、読み手が自分の経験と重ね合わせ「食べたことはないけくても、あのケチャップだけのスパゲティはうまかった」と共感するだろう。

『きのう何食べた?』でも食べ物を食べるシーンよりも、食材を選び、料理するところがクローズアップされている。同作の主人公は男性だが、内実は「おばさん」だ。作る料理のセンスがやまだ紫の描く料理とリンクしてしまうのはうなづける。と、些か強引にリンクさせてみた。しかし、こういった料理描写って、何故だか無条件で反応してしまう。あーお腹空いてきた……!

大航海、お疲れ様でした

さて、やまだ紫の作家性や特徴を検証しつつ、「女性マンガ」「ガロ」「猫マンガ」など、気分に任せて、キーワードからキーワードで漂流してきたが、これにて「やまだ紫」の回は終了だ。

今回、この原稿を書くことで分かったことは、やまだ紫の対象への謙虚な姿勢と、優れた作家性である。生真面目に対象を「観察」し、リアルに描き出す一方で、登場人物の心の内が融和してしまう。その一方で、現実ではありえない「嘘」を大胆に描き出す。そんなやまだの作品が今現在、絶版になっており(この原稿を書くまで知らなかった……)、手に入りにくいという現状は本気で何とかしてほしい! 名作はいつの時代も参照できるようにし続けることは、文化を継承していく上でも重要である。というか、まさか絶版……本気で在り得ない! いつでも、読めるもんだと思っていると大間違いだ! とはこのことかと、痛感させられた。こんなことにならないためにも、正しく作品を評価していく必要がある。

と、心構えも新たに!

次回は『薔薇のかたちのシ』が発売されたばかりの鈴木志保! 物語だけでなく、白と黒のコントラストの利いたあの絵柄のルーツとは? 上條敦士、多田由美、江口寿史から西島大介まで、リンクを広げていきます。

(文:吉田アミ)

【過去のコラム】
吉田アミの新連載コラム『マンガ漂流者(ドリフター) ~新感覚★コミック・ガイド~』がwebDICEでスタート!(2009.4.22)
『死と彼女とぼく』川口まどか(2009.5.2)
川口まどかにリンクするコミックはコレだ!【リンク編】(2009.5.8)
女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【前編】(2009.5.15)
女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【中編】(2009.5.22)


吉田アミPROFILE

音楽・文筆・前衛家。1990年頃より音楽活動を開始。2003年にセルフプロデュースのよるソロアルバム「虎鶫」をリリース。同年、アルスエレクトロニカデジタル・ミュージック部門「astrotwin+cosmos」で2003年度、グランプリにあたるゴールデンニカを受賞。文筆家としても活躍し、カルチャー誌や文芸誌を中心に小説、レビューや論考を発表している。著書に自身の体験をつづったノンフィクション作品「サマースプリング」(太田出版)がある。2009年4月にアーストワイルより、中村としまると共作したCDアルバム「蕎麦と薔薇」をリリース。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売される予定。また、「このマンガを読め!」(フリースタイル)、「まんたんウェブ」(毎日新聞)、「ユリイカ」(青土社)、「野性時代」(角川書店)、「週刊ビジスタニュース」(ソフトバンク クリエイティブ)などにマンガ批評、コラムを発表するほか、ロクニシコージ「こぐまレンサ」(講談社BOX)の復刻に携わり、解説も担当している。5月下旬より佐々木敦の主宰する私塾「ブレインズ」にて、マンガをテーマに講師を務める予定。
ブログ「日日ノ日キ」

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