骰子の眼

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2009-05-22 21:00


『マンガ漂流者(ドリフター)』第4回:女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【中編】

あまりにもやまだ紫に熱くなりすぎたおかげで、吉田アミの文章が1万字を軽く越えてしまった!というわけで、前・中・後編に分けてやまだ紫を読み解く!
『マンガ漂流者(ドリフター)』第4回:女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【中編】
やまだ紫『ゆらりうす色』(講談社/1984年)より

★【前編】はコチラから
http://www.webdice.jp/dice/detail/1568/

『ゆらりうす色』は「私マンガ」の雛形なのか?

1983年に「コミックモーニング」(講談社)にて連載された『ゆらりうす色』は、妻子ある男と不倫中の27歳独身女性が主人公の連作。

「ゆらゆらと 炎が燃える どうでもいい---と 青く燃えている」

主人公、笑美のモノローグはまるでポエムのようだ。劇的なドラマなど起こらぬ日常で、「仕事に行って帰ってきてベッドに寝転がる」そんな描写の中にぽっかりと、浮かぶ美しい文字列と、交わされる現実的なセリフとの乖離が、彼女の「気分」をよく表している。

本来モノローグとは、登場人物の独白の場合が多い。しかし、女性作家の作品では、たびたびモノローグがポエム化してしまうことがある。やまだ紫に限らず、少女マンガでは、よく見かける手法である。対外的な「セリフ」と、内省的な「モノローグ」。そのどちらにも属さない「気分」や「雰囲気」といった微妙な淡い表現をするときに「ポエム」は、とても効果的なのだ。それは白と黒のみのモノクロームな世界の中に鮮やかな彩を与える。

ヒロイン笑美の変えることのできない現状への諦めは、タイトルである『ゆらりうす色』の意味する「何もはっきりとしない曖昧なさま」という緩やかな絶望として、彼女を覆っている。笑美と名付けられたにも関わらず、物語の中で彼女は笑わない。口角を少し上げ、微笑むのみだ。

ゆらりうす色
『ゆらりうす色』。さりげない日常に浮かぶポエム的モノローグ。

「他者(世間)」と「私」、「理想」と「現実」とのギャップに苛まれつつも、彼女は「私」を貫き通す。何もかも自分の思い通りにならない現実の中で、「私」だけがくっきりと浮かび上がってくるのは、「私」という規範は「私」が決定することであり、「他者(世間)」が決めることではないという考えが彼女にあるからだろう。

内田春菊、松本充代、安彦真理絵、魚喃キリコ、南Q太などにも似た「雰囲気」がある。いや、「気分」と呼ぶべきだろうか。大島弓子の『8月に生まれる子供』のモノローグを借りれば「わたしはわたしの王女である そしてその民である」というわけだ。他者の意見を聞かなくとも自分に決定権がある女性……すなわち独立した「個」としての「女」だ。

彼女たちに共通するのは、「私小説」ならぬ「私マンガ」を描いている点である。作品では、笑いの要素や日常の瑣末なことに焦点をあてる「エッセイ」とは違い、ひりひりとした痛い心情が吐露されている。まるで、世界を楽しんだらいけないみたいに、ヒロインたちは無表情で深刻な問題に直面する。そんな「気分」をまとっている。

「私マンガ」と一口に言ってもいろんなタイプがあり定義に困るが、ここではひとまず「登場人物が作者の代弁者として存在する」タイプの作品を指すことにする。「作者」と「ヒロイン」の同一化だ。女性の社会的進出が当たり前のようになった現在では想像しにくいが、「男女雇用機会均等法」が成立したのは1985年である。80年代半ばから90年代にかけての時代の気分は「女」が語る「私」を無視できなくなっていた。彼女たちが一斉に「私(または個)」を語りだしたのは、そういう時代の気分があったことも見逃せない事実である。

「作者」=「ヒロイン」のかたちを売り出すべく、90年代の女性マンガ家たちは、作品と顔出しセットが常であった。当時、人気絶大だった岡崎京子、桜沢エリカ、内田春菊は「女の子エッチマンガ家」として、TVや雑誌だけでなくCMにも出演し、世間の「女のマンガ家は根暗なブス」という先入観を一新させた。マンガ家を「おしゃれ」で「ナウい」存在へと高めたのだった。

次第に「女」の「私」は過剰供給され、市場に「女」の「私」が溢れかえるようになる。当たり前だが、普及すれば希少価値は下がり、値崩れを起こす。「女」の「私」は語らなければならないものから、当たり前のものへと定着した。似たような作品が増えれば、飽きられるのは当然だ。その反動もあってか、現在「女」の「私」を語るだけの作品はあまり見かけなくなった。理由は過剰供給だけではない。今は「誰」が「私」を語るかが重要になっており、メタ的な視点のない作品には説得力が感じられないし、読者の幅を狭めるだけだ。

「私マンガ」の魅力とは、描かれた「私」への共感である。しかし、裏を返せば欠点でもある。この「私」の発見は、今では目新しいことではない。また、読者がその「私」と共感できれば良いが、この「私」に共感できない読者にとっては、「私」とは不愉快な、うっとうしい存在として映るだろう。ここに「他者」の「私」を俯瞰する視点があれば、「私」との距離感は保たれ、「私」を哀れむことも「私」を楽しむこともできる。しかし、かつて生まれたばかりの女の「私マンガ」には、逃げ場がないものが多かった。

健康不良の学生
「俊子ってもっと 頭のいい人だと 思ってた 自分の前に男をおかない人だと思ってた 絶対自己を守り 通す人だと 思っていたわ」という友人に心の中で反論する主人公。どうせ言っても無駄だという諦めがあるからか、声に出しては言わない。そんな主人公は男をバイブレーターのように弄ぶ。松本充代「肉欲」より。『健康不良の学生』収録。

誰とでもすぐにコミュニケートできてしまう現在。現実問題、価値観の多様化を受け入れなければならないのが常だ。「女」であるという価値一つだけでは、「私」への共感は引き起こせない。「私」が思い描いた「私」と、読者が感じる「私」の差異が限りなく、ゼロに近いのが「私マンガ」である。
だからこそ、それらの作品は強い共感を呼び、麻薬のような常習性を読者に与えることができた。このどんなに汚れていても、間違っていても丸ごと愛して、愛される価値が私にはあるの、という甘い幻想は気持ちが良い。その「私」に酔ってしまうのが楽しいのだ。「私マンガ」で描かれる「私」は凛として美しくなければならない。笑うことを忘れたヒロインの甘やかな絶望。それは、受動的に手に入れた幸せな人間よりも、選びとった者の持つ「優越」の色がある。

その一方で「私」を笑えない居心地の悪さが付きまとう。



「私マンガ」あるいは「私マンガ」的マンガへリンク!

ママはテンパリスト

『ママはテンパリスト』 東村アキコ

作者である東村アキコと愛息ごっちゃんの日常を綴ったエッセイマンガ『ママはテンパリスト』に「私マンガ」の進化形を見た! 作中で東村は「つわりサイトの妊娠中ハマった食べ物ランキング」を見て他の妊婦と違う珍現象を体験する自分のことを「フフ…あたし けっこう個性的? やっぱり人と違うってカンジ?(けっこうマジで調子こいてた)」と、うっとり自分に酔うが、実は知らなかっただけで自分の体験した珍現象はベスト2に入るありふれた現象だと知る。「凡人決定」「そういうわけで 私のつわりは ごくフツーの一般的なそれだったわけですよ」と気がつくのである。育児書を無視し、実践あるのみと独自の価値観を貫き「変わっている、それが私。それで良し!」とする内田春菊の『わたしたちは繁殖している』と対極を成す軽やかさだ。
また、東村はマイノリティをキャラ化し、笑いへと昇華させるのがうまいことにも注目したい。『ひまわりっ! 健一レジェンド』や『海月姫』では、奇天烈な登場人物がたくさん登場する。現実社会で、嫌悪されるタイプだった人をキャラとすることで、「キモイ」から「だから、面白い」に価値をスライドさせている。理解できない相手を殲滅していたらきりがない。だったら友達になっちゃえ★という、内田春菊の時代にはできなかった新たな戦法である。でも、作者には読者を洗脳しようなんていう意図は微塵もない(と思う)。だからこそ、有効。アキコ先生恐るべし。


パーマネント野ばら

『パーマネント野ばら』 西原理恵子

今でも変わらず人気がある西原理恵子の作品は「私マンガ」でありながらも、「ギャグ」という要素でその「私」を笑い、俯瞰する視点がある。そんなサイバラのマンガで、女のポエムが全開なのがこの『パーマネント野ばら』。あのサイバラが少女マンガしている!と驚くことウケアイ。少女マンガのヒロインには決してなれない、おばさんや老婆が「少女」として描かれている。「少女」というのは比喩である。どんな切ないモノローグであっても、そこにいるのは平凡な、とるにたらない、醜い「私」。見た目が変わっても、心の中では少女のままだ。年をとることがステキに思えてくる。



でも、やまだ紫は「私マンガ」家ではないよね

『ゆらりうす色』で、「私マンガ」に通じる「気分」を描いたやまだ紫であったが、はたしてやまだ自身は「私マンガ」家であったのだろうか。2004年に刊行された『愛のかたち』(PHP研究所)のエッセイの中でやまだは、「漫画家は作品に真実を描きません。日常の出来事にヒントを得ますが、それをそのまま表現することには抵抗があります」と答え、かつてインタビューで「私(自分)マンガ」と自身の作品が決め付けられたことに、困惑したエピソードを語っている。

やまだ紫の作品にはリアリティがある。作者が「わからない」部分を省略することで、整合性の是非や世界のほころびに気づかされることが少ない。作品がある種の説得力を持っているのは、この大胆な省略のセンスが冴えているからであろう。やまだ紫のマンガが、自身のことを描いている「私マンガ」だと誤解されてしまうのは、そのまま作品が優れていることに他ならない。読者をうまく騙せる、優れた作家だという証だ。

「私マンガ」に近いと感じる『ゆらりうす色』のような作品であってもヒロインが、愚かなままに描かれているところに、冷ややかな「他者」の視点を感じることができる。いくらヒロインが深刻ぶったところで、どこか可笑しみを感じ、そこがチャーミングにも映る。ラストのふんわりとした展開も、センスの良さが光る。フィニッシュをきれいに決めない。この先にも続くであろう物語を想像する自由を読者に与えてくれる。

やまだ紫の作品が古びないのは、「他者」の視点と、登場人物との絶妙な距離感が、どこかピンとした緊張感のもと、保たれているからであろう。



「私マンガ」あるいは「私マンガ」的マンガへリンク!

ブルー・ロージス

『ブルー・ロージス』 山岸凉子

やまだ紫からポエムを抜くと山岸凉子になる。山岸凉子もまた主婦や妙齢の女性といった大人の女性を主人公とした物語を多く描いている。この『ブルー・ロージス』では、イラストレーターという仕事に没頭するあまり男性と恋愛を経験しなかったヒロインが、編集者と恋に落ちる。しかし、相手には妻子がいて……!? 他の作品にも言えることだが、山岸は不幸の対処法を具体的に描く。どのように対処すれば幸せになり、どのように失敗すれば不幸になるのか。人生に迷ったら山岸作品で、人生の縮図を見よ!


アカシアの道

『アカシアの道』 近藤ようこ

山岸凉子の短編にも似た雰囲気を持つが、何処かシステマティックで、客観さが際立つ(そこが良い)山岸とは違った魅力がある。近藤がすさまじいのは、人の負の感情を描くとき。業深き人々をとても魅力的に描く。同作では、アルツハイマーに侵された母とその娘の葛藤の日々。母を憎む娘は親を許せるのだろうか? 杉浦日向子とともに、やまだ紫のアシスタントでもあった近藤は、やまだと杉浦と合わせて「ガロ三人娘」と呼ばれることもあった。そのため杉浦や近藤はやまだと同世代のような錯覚に陥るが実際、やまだは一世代上であり、彼女たちよりも先に頭角を現しているので、この名称は些か乱暴であった。
しかし、彼女たち3人は作風は違えども、精神は何処か似ていたし、二人ともやまだの影響下にあったのは紛れもない事実。ひとまとめにして売りやすくしたくなる気持ちもわかる。そもそも彼女たちの作品は、同時期に「ガロ」に掲載されていたわけである。ライバル視するなというほうが難しいわけで、他の2人と似ないようにと、杉浦が「江戸」を、近藤は「近代(から江戸にかけての作品も多い)」と「現代」という武器を手に入れ、個性を出していったのは言うまでもない。


イグアナの娘

『午後の日射し』 萩尾望都 ※『イグアナの娘』収録

「夫婦なんて他人だよ、結局。」長年、連れ添った夫に言われたことをきっかけに、夫との距離を感じてしまった妻。しかも夫は浮気もしているようで……!? 料理教室で出会った好青年、女として接する海部クンにヨロメキ加減な平凡な主婦がヒロインのお話。どうなっちゃうの!? 結局、夫婦ってただの他人でしかないの? SFやファンタジーや外国を舞台にした作品を多く描いている萩尾だが現代の日本を舞台にした『イグアナの娘』などの短編もおすすめ。まだ単行本化はされていないが、猫を主人公にした『レオ』くんシリーズも何処かやまだとのリンクを感じずにはをれない。しかし、女性マンガ家にとって猫の擬人化は避けては通れぬ試練の一つなのか? 大島弓子しかり、山岸凉子しかり。なんだかんだでみんな一度は猫を擬人化している。


夜、海へ還るバス

『夜、海へ還るバス』 森下裕美

女性とセックスする夢を見る主人公、夏子は自分がレズビアンなのではないかと悩んでいた。こんな気持ちのままでは、婚約者と結婚できないと思った夏子は、結婚前に女性と恋愛(もちろんセックス込み)を経験し、自分の気持ちを確かめることに。同じマンションに住む奥さん美波と関係を持つが……。「同性」「母性」「異性」、さまざまな「性」のかたちが描かれる本作。いずれ訪れる圧倒的な悲劇を描かず、その一歩前で退き、読者に複雑な読後感を与えた。『大阪ハムレット』で新境地に到達したと言われる森下の意欲作。そんな森下だが、以外にもデビューは「ガロ」である。やまだが活躍していた時期に彼女の作品も「ガロ」に掲載されていた。最近の作風はいきなり変化したものではなく、もともと彼女の内に秘められていたものだということが、初期の作品を読むとわかる。初志貫徹。



【はみだしコラム】
少女マンガ家ではない、女性マンガ家たちは何処で活躍していたのか?

まず、1967年に手塚治虫が創刊した「COM」の存在を上げておきたい。「COM」は、「まんがエリートのためのまんが専門誌」をキャッチコピーにしたマンガ雑誌で、少年・少女マンガにジャンル分けできない新しいマンガやマンガ評論が掲載され、マンガ文化の発展、向上に大きな役割を果たしていた。また、「COM」は、新人発掘や育成に力を注いでおり、当時「女流漫画家」と称された女性のマンガ家たちを高く評価。ライバル誌であった「ガロ」にはない特色を打ち出していた。

それを裏付けるように、1967年の「COM」12月号では、いち早く女性マンガ家の特集「女流新人まんが家競作集・木枯」を組んでいる。特集では、岡田史子、竹宮恵子、白石晶子、福田活子の4名を「四女流作品がみごとな力を発揮し、男性群をおさえてCOM誌上に躍りでた」と紹介している。ちなみに、当初の企画名は「新人まんが家競作集・木枯」であったが、選出されたマンガ家がすべて女性だったため、タイトルに「女流」をつけ変更したそうだ。この「女流マンガ家」という言葉、女性マンガ家の存在が珍しくなくなった現在では、ほとんど使われていない。当時はそれだけ女性が「少女マンガ」以外を描くこと自体、珍しく「女性」であることに価値が見出されていた証拠であろう。

こうしたいきさつがあったからだろう。「COM」はマンガ家を目指す女性にとって、魅力的な雑誌であった。やまだ紫もまた、1969年に「COM」にて『ひだり手の…』が入選し、めでたくデビューしたのであった。

しかし、当時はまだ、やまだ紫の描くような「大人の女性の心情」を描くマンガ家はいなかった。やまだのデビュー以前に活躍していた岡田史子(「COM」でデビュー)や、つくりたくにこ(「ガロ」でデビュー)の作品のように、前衛的であったり、少女マンガの延長であったり、SFであったりする作品はあったものの、やまだ紫のような作品は皆無であったと言ってしまっても良い。彼女のような作風は、今日の「ヤングレディース」と呼ばれるジャンルの作品に近い。この「ヤングレディース」のブームは1980年半ばからの流行であり、やまだの作風がいかに早かったのか、時系列に並べてみるとよくわかる。

【はみだしコラム】
「ヤングレディース」って何?

1986年に創刊された祥伝社の「フィール」(「FEEL YOUNG」の前身)、集英社の「セブンティーン」から発生した「YOUNG YOU」(2005廃刊。現在は「YOU」「コーラス」に引き継がれている)の2誌が「ヤングレディース」というジャンルを一般に広めたとされている。

1980年代後半から1990年代にかけて、女性マンガ家はひっぱりだこ。主戦場のヤングレディース誌、青年誌はもちろん、新たに創刊されるマンガ誌で多くの女性マンガ家が活躍していた。

これまでマンガ家の多くは、「賞を獲ってデビュー」という正統な道のりを経るのが順当であったが80年代半ばから、出色のマンガ家も受け入れられるようになる。その背景には「軽く副業をこなすカッコイイ私」「努力はダサい」「マジメ、カッコ悪い」という80年代っぽい価値観があったことと、バブルで雑誌をばんばん出しまくっていたため、マンガ界は常に人材不足であった。横道からちゃっかり無冠のデビューを果たした岡崎京子や桜沢エリカなど、前世代の少女マンガ家にはないラフな絵柄は「新しさ」として受け入れただけでなく、「量産」という点においても優れていた。あと、ヘタウマブームもあったんだよね。一方でスーパーリアルという大友克洋のような作風もちゃんと支持されていた。実はけっこうぐちゃぐちゃしていて、面白い時期であったのだ。

おっと、話が横道に逸れた。

話を戻すと、当時の女性マンガ家間で、シンプルな絵柄でコントラストを利かせたものが流行していた。少女マンガと差別化を図るべく導入された新テクニックとしては、「鼻の穴を描く」「横顔」「雑に貼るトーン」「雑な筆致」「艶なし髪」「瞳に光なし」「陰毛」「カジュアルなセックス描写」「煙草を吸う」「下唇」「厭世観」「他人とは違う自分の価値観を持つ自分にうっとり」など。羅列すると納得できる人も多いはずだ! これが、時代を熱狂させた「気分」。

1970年代、やまだ紫によって開発されたテクニックは、1990年代に入ると多くの女性マンガ家が用いるものとなった。しかし、今読み返してみると、1990年代の女性マンガとやまだ紫の作品の間には大きな隔たりがある。1990年代に多産された女性マンガは、今ちょうどノスタルジーがいい塩梅に熟成され、ちょっと気になる感じだ。しかし、やまだ紫の作品はそれがないため、古さを感じない。これは、やまだ紫の作品に、過剰な「女性性」「価値観」の押し付けがないからだろう。上品と下品の分かれ目がある。もちろん、どちらが上で下ということではない。1990年代の女性マンガについては、また詳しく別稿で詳しく触れてみたいと思う。

ちなみに、早くから女性マンガ家を誌面に登場させていた「ガロ」は、1994年6月号にて「ステキな女性作家」たちと称した特集を組んでいる。「女流の第一人者」として、やまだ紫が秋山亜由子と対談している他、表紙を飾った魚喃キリコ、鳩山郁子、みぎわパン、安彦麻理絵、友沢ミミヨ、松井雪子、土田とし子、杉浦日向子などが登場している。



思ったよりも長くなってしまった! 前回、予告していた「猫」「教育」「親子」については、次回に繰り越したい。気がつけば前、中、後編……。このイージーさこそが、「漂流者」たる所以。語っているうちに熱くなって長くなっても許容できるのが、本連載の良いところだ!

(文:吉田アミ)

【過去のコラム】
吉田アミの新連載コラム『マンガ漂流者(ドリフター) ~新感覚★コミック・ガイド~』がwebDICEでスタート!(2009.4.22)
『死と彼女とぼく』川口まどか(2009.5.2)
川口まどかにリンクするコミックはコレだ!【リンク編】(2009.5.8)
女性マンガ家の先駆け「やまだ紫」【前編】(2009.5.15)


吉田アミPROFILE

音楽・文筆・前衛家。1990年頃より音楽活動を開始。2003年にセルフプロデュースのよるソロアルバム「虎鶫」をリリース。同年、アルスエレクトロニカデジタル・ミュージック部門「astrotwin+cosmos」で2003年度、グランプリにあたるゴールデンニカを受賞。文筆家としても活躍し、カルチャー誌や文芸誌を中心に小説、レビューや論考を発表している。著書に自身の体験をつづったノンフィクション作品「サマースプリング」(太田出版)がある。2009年4月にアーストワイルより、中村としまると共作したCDアルバム「蕎麦と薔薇」をリリース。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売される予定。また、「このマンガを読め!」(フリースタイル)、「まんたんウェブ」(毎日新聞)、「ユリイカ」(青土社)、「野性時代」(角川書店)、「週刊ビジスタニュース」(ソフトバンク クリエイティブ)などにマンガ批評、コラムを発表するほか、ロクニシコージ「こぐまレンサ」(講談社BOX)の復刻に携わり、解説も担当している。5月下旬より佐々木敦の主宰する私塾「ブレインズ」にて、マンガをテーマに講師を務める予定。
ブログ「日日ノ日キ」

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