(左から)ECD、地引雄一
「NO WAVE」の流れを汲んで誕生したニューヨークの破戒映画(Cinema of Transgression)のシーン。そのドキュメンタリー映画『NO NEW YORK 1984-91』が現在アップリンクXでレイトショー上映されている。4月27日(月)には先行上映会がおこなわれ、トークゲストに80年代インディーズシーンの当事者である地引雄一(『ストリート・キングダム』著者)とECD(ラッパー)が登場。地引氏が、フリクション結成以前のレックが参加したTeenage Jesus & The Jerksの貴重なシングル盤と、NO WAVEを代表するアーティストたちのオムニバス盤『NO NEW YORK』のレコードを持参し、それをもとにニューヨークにおける「NO WAVE」と、同時発生的に誕生したパンクロック・ムーブメント「東京ロッカーズ」を読み解く。
アルバム『NO NEW YORK』を聴いたら、他の音楽を聴けなくなるほどの影響力だった
地引雄一(以下、地引):映画『NO NEW YORK 1984-91』を観る前は、音楽シーンのドキュメンタリーだと思っていたんですが、実は当時の映像におけるシーンについてなんですよね。
ECD:僕も映像のリチャード・カーンやニック・ゼッドのことはよく知らなくて。たぶん、当時日本にはあまり紹介されていなかったと思います。でも、劇中の音楽はほぼ全て聴いてきましたね。今でもD.N.Aはカッコイイ。
写真:リチャード・カーン作品『XイズY』より
地引:僕が語れるのも音楽のシーンについてなんだけどね。「NO WAVE」を確立した、この『NO NEW YORK』のレコードに参加しているジェームズ・チャンス率いるCONTORTIONS、リディア・ランチを含む Teenage Jesus & The Jerks、アート・リンゼイやモリイクエによる D.N.A。彼らの作った新しいシーンが映像により表現されていたのが、この映画だと思います。
ECD:ここから1980年代に向けて、新しいシーンが生まれてきたんですよね。
地引:そうですね。実は、日本にあるパンクや現在まで繋がっているライブシーンというのは、すべてがここに辿りつくのではないかと思っています。なぜかというと、リディア・ランチが参加していたバンドTeenage Jesus & The Jerksでは後にフリクションを結成するレックがベースを、ジェームズ・チャンスのCONTORTIONSではチコ・ヒゲがドラムを担当していたんですね。
ECD:そうなんですよね。
地引:レックやヒゲから聞いた話では、バンドを作ろうとしてアメリカに向かっていったわけではないらしい。ニューヨークのライブハウス「CBGB」に遊びに行くと、自然に「お前何か楽器やっているのか」と声を掛けられて、「一緒にやろう」と始まったんですね。
写真:オムニバスアルバム『NO NEW YORK』ジャケット
ECD:いま、こういう音を出しているバンドってたくさんいるけど、当時は本当にどれに似ているとかの話ではなかったですよね。
地引:このレコードを聴くのは30年ぶりくらいかな。僕は初めて聴いた時には、もう二度と聴けないというくらいの恐怖を感じた。これを評価してしまったらロックがすべて終わっちゃうのではないかと、すべてぶち壊すくらいのインパクトを感じました。
ECD:そういう意味ではピストルズとかクラッシュは、わりとまともなロックンロールで、パンクって概念を本当に体現しているのは「NO WAVE」だと思いましたね。
地引:当時、日本のミュージシャンはすごく影響を受けていましたね。フォークからパンクロックへと移行した遠藤ミチロウもそう言っていたし、じゃがたらの江戸アケミは、このCONTORTIONSでのジェームズ・チャンスの真似をして、ステージで人を殴って暴れていたって話してました。
ECD:どんな人がこの音楽をやっているんだろうって、当時この『NO NEW YORK』の裏ジャケを見て、「おー!」となったんですよ。ジェームズ・チャンスの写真が、いま地引さんが言われた通り、顔に青タンを作っていて。
地引:ジェームズ・チャンスがステージ上で客に喧嘩を売って殴りかかって、逆に2~3メートルは吹き飛ばされたらしい。
ECD:このジャケット写真には、モリイクエさんが違和感なく写っている。東洋人がロックのレコードのジャケット写真にいるのをしっかり見たのは、これが初めてだった気がします。
地引:モリイクエさんはミュージシャンではなくて、アート畑の人だったそうです。それがD.N.Aに誘われて最後までやった形になった。ただ、ジェームズ・チャンスはちゃんと楽器を弾けて、実は音楽教育を受けているという話もあります。
ECD:あっ、そうなんですね。確かに、ジェームズ・チャンスはでたらめに弾いているように思いますが、ちゃんと聴くとすごいキレイな音ですよね。
地引:でも、喧嘩の話もイクエさんの話もそうだけど、いわゆるバンドマンの持っているような技術とは全く違うところ。それで集まった人たちという感じが僕にはしますね。
ECD:パンクという概念が輸入された時には「楽器が出来なくても」みたいな感じが好きだったんだけど、ロンドンパンクでは意外にみんなちゃんと弾けているというのを感じました。これは当時の僕としては、ちょっと失望する原因でしたね。でも「NO WAVE」を聴いた時に、アート・リンゼイのギターとかで初めてグッときたんです。
地引:演奏力というのは技術だけじゃないんだよね。
ECD:今聴くと当時の印象より洗練されて聴こえますが。本当にマイナーだった人たちのレコードとしては、当時に随分と話題になったと思います。
地引:後のことまで考えても、相当多くの人に影響を与えている。とても破壊的であり、これを聴いたら他の音楽を聴けなくなるようなものだったと思います。
もしこれが違う決断だったら、今の日本のロックシーンがなかったかもしれない
ECD:日本でも、「NO WAVE」はその前のシーンとは切れているんですよね。
地引:うん。聞いた話では、日本にもレックやチコ・ヒゲのやっていた3/3というバンドはいたんだけど、客がどんどん少なくなって2~3人くらいしか入らなくなって、アンダーグラウンドのシーン自体が消滅しかけていたみたい。それで、彼らは何とかしなくちゃいけないという焦りからニューヨークへ行ったんです。同じ時期にはS-KENとかも「CBGB」へ行っていて、紹介されて出会ったんですね。
ECD:それじゃあ、ニューヨークにあったシーンの本当のやり方を、日本に持ち込んだということですよね。
地引:S-KENの話では「CBGB」という場自体にもとても鮮烈な印象を受けたということです。誰がミュージシャンで誰がお客さんかという境もなく、そこいる全員が動いていてザワザワとする雰囲気があった。その中でレックやS-KENは多くを吸収していて。でもレックとヒゲは、この『NO NEW YORK』のアルバムが企画された時に、そのままニューヨークで音楽活動に専念するか、日本に帰るかどうかを決断したそうなんです。そして悩んだ結果として「日本に帰ってやろう」と。もしこれが違う決断だったら今の日本のロックシーンがなかったと言えるかもしれない。
ECD:あのライブハウスの独特な空間が生まれなかったかもしれないということですよね。
地引:パンク文化は1978年に東京ロッカーズという形で日本でも始まったんだけど、それは実際はレックたちがニューヨークの、「CBGB」のやり方をそのままに持ち込むことで、日本のロック文化の礎を築くことになったんじゃないかなと思うんですね。方法論としては、同じ方向性を持ったバンドが集まっライブをやったりとか、チラシをコピーして配ったりとか。その意味では、日本のライブ・シーンもその原点は『NO NEW YORK』につながっていると言えるわけです。
ECD:そして、日本でのシーンが「東京ロッカーズ」。僕もこれを見に行ったのが、初めてのライブハウス体験でしたね。それこそ「新宿ロフト」に足を運びました。
地引:それまでは都内でちゃんとロックの出来るライブハウスというのは、渋谷のセンター街の方にあった「屋根裏」くらいだったかな。一件きりだったんだよね、ほとんど日本にライブハウス文化みたいなものはない状況で。
ECD:あとは「吉祥寺マイナー」くらいで。僕も「東京ロッカーズ」で、初めてパンクのライブは短くていいんだっていうことを知りましたね。それは「CBGB」の特徴としてあったみたいですね。ライブは1バンドで20分か30分でというのを日本に取り入れたんだと思います。
地引:「東京ロッカーズ」の頃って、一晩に4~5バンド出ていて、一バンド20分か長くても30分だった。MCとか一切無しで、ひたすら演奏をし続ける。それもやっぱり「CBGB」のスタイルだったんですね。
ECD:そう思うと僕達が今でも当たり前のようにやっている、大体1バンド30分くらいという持ち時間で、なるべくたくさんバンドが出れるようにして、一個一個のバンドに集客力がなくても損をしない形はその頃から同じなんですよね。
地引:それまではバンドの組み合わせはライブハウスが決めていた。こういうのって今も残っていることでもあるかもしれないけど、やっぱり大きな変化を生み出したんだって思いますね。
ECD:売れるとワンマンライブとかやったりするけど、そうならずにずっとその形をアンダーグラウンドでやっている人たちはいますしね。
地引:今のライブハウスの形態ができあがったそのきっかけは、パンクが入ってきたところからなんですね。
自分がやらなくちゃいけなんだという意識がパンク以降にはあった
地引:実はECDさんとは今回初対面なんですが、でも同じ現場にいたことは30年前から何度もあったんです。
ECD:僕も「あれが地引さんだ」というのはお顔を拝見すれば分かっていました。地引さんが必ずライブに行って、写真を撮影していたから当たり前なんですけど。
地引:ECDさんの本『いるべき場所』を読んで、渋谷の「屋根裏」だけでなくて「吉祥寺マイナー」にまで出入りしていたんだってびっくりしました。その前にはロッキング・オンのライターだった岩谷宏という人の作った劇団キラキラ社に、10代の頃から所属していたということも驚きでした。実は「東京ロッカーズ」が始まる前に、その舞台も見に行っていたことがあった。いろいろな場所でシーンを共有してきたんですよね。
ECD:岩谷宏はどうだったか分からないですけど、劇団自体がパンクに触発されて何かしたいって想いで集まったりしたところがありました。何でしょうかね、パンクの影響というのは地引さんが思うには?
地引:その劇団の中には、後にガセネタというバンドを作る山崎春美やギタリストの窪田春男とかが一緒にいたんですよね。
ECD:なんかやらなくちゃいけないんだという意識がパンク以降強くありました。
地引:ECDさんは劇団に入る時には、やっぱりもうパンクとか聞いていたの?
ECD:そうですね。毎週パンクの新譜を入荷していた「新宿レコード」で店員をやっていた友達がいて、彼にバンドをしようかって誘われた時に劇団に入る方を選んだので。もしそこで選択が違えば、また別の人生だったかもしれない。
地引:そうなんだ。ECDさんの本には『平凡パンチ』の話とかも出てきて、すごく近い現場にいたなと。僕も「新宿レコード」に行っていたしね。
ECD:知り合いとかも共通していて、でも劇団で山﨑春美にも会えたわけで、そっちの選択の方が普通にバンドやるよりは刺激的だった(笑)。
地引:やっぱり「東京ロッカーズ」の頃って必然的な出会いとか一つの流れみたいなものが出来上がっていて、どんどん新しいものが出来上がっていく時だった。それで80年代の後半からはECDさんはHIP HOPへ向かうんだけど、その時代ってバンドブームもあったけど、どうしてHIP HOPだったのかな?すごくいい選択をしたなと思うけど。
ECD:80年代にはニューヨークでHIP HOPが始まっているわけで、ニューウェーブとの接点も結構あったのでそこから入ったんですよね。そのころから一人で何をやれないかという想いが強くなっていて。劇団はお金がかかるばっかりで、一人でできてちょっとでもいいからお金になるようなことがしたかった。ラップだったらそれが出来るんじゃないかなと考えました。
地引:じゃあバンド形式で何かをやったりしたことは?
ECD:楽器は出来なかったですからね。ちょっとだけ、劇団の活動も中途半端になってきた時にビデオアーティストの人たちとバンドを組んだことはありましたが。でもHIP HOPをやろうと決めてから、シーン自体がまだ日本になかった。スクラッチひとつ例にとっても家にあるプレイヤーじゃ、レコードで聴くような音が出ない。そんな時に、劇団で音響をやっていた小沢靖さんという方が詳しくて。もう亡くなってしまった方なんですが、彼は灰野敬二さんのバンドである不失者のベーシストだったんです。「ターンテーブルは何を買えばいいですかね」って相談したらテクニクスのSL-1500って即答で教えてくれたんですよ。
地引:それが日本でのHIP HOPのシーンの始まりだって事だね。あとすれ違っていた話で思い出したんだけど、僕が撮影したS-KENのライブ写真を見返していると、ステージ前でぶつかりそうなくらい前のめりで暴れているスキンヘッドの少年が写っていたんです。今考えるとあれはそんな当時のECDだったのかなーって、いま顔見てつくづく思う。
ECD:S-kenは大好きでした。写真は、うーん、どうなんですかね?当時の写真で僕らしきものが写っているのを見たことありますけど。
地引:あの頃は色んな所から同時発生的に勢いのあるバンドが生まれて、それが同じ場所を目指すかのように集まって作られてきた。それで見に来てくれる人と一緒に、自然と出来上がっていったもので、あのシーンをもう一度作ろうとしてもそれは絶対無理ですね。
ECD:分かります。作ろうとして作れるものではない。今は昔に比べて一度レールから外れたら最低限の生活もままならないという恐怖が支配してる。でもライブハウスにはドロップアウトしてもなんとかやってるような人が今でもいる、だから自分もやっていけるように思うんです。
■地引雄一 PROFILE
1978年に巻き起こった日本のパンクロック・ムーブメント「東京ロッカーズ」の当初から、カメラマン、マネージャーなどの立場でシーンと深く関わり、翌年にはリザードらを中心としたレーベル「ジャンク・コネクション」に参加。81年に自ら「テレグラフ・レコード」を設立する。有限会社テレグラフ・ファクトリーとして、雑誌『イーター』も発行、会社の代表と雑誌の編集長を務め、初期インディー・シーンの形成に多大な功績を残した。08年12月、8年間にわたって体験してきたストリート・ロック・シーンの記録『ストリート・キングダム―東京ロッカーズと80’sインディーズ・シーン』(K&Bパブリッシャーズ)を刊行。
■ECD PROFILE
1960年生まれ、ラッパー。1982年にジョン・ライドンのインタビューでグランドマスター・フラッシュの名前を知り、ヒップホップと出会う。1986年にRUN-D.M.C.の来日公演を体感したことを機に、ラッパーになることを決意。1990年にシングル「Picocurie」でデビューを果たす。1992年には1stアルバム『ECD』を発表し、独自のスタイルを確立。自主レーベル「FINAL JUNKY」を運営。2009年7月15日に最新作『天国よりマシなパンの耳』リリース、著書に『失点イン・ザ・パーク』(太田出版)、『ECDIARY』(レディメイド・インターナショナル)、『いるべき場所』(メディア総合研究所)。
・MySpace-ECD
★イベント『DRIVE TO 2010』 2009年10月~11月開催予定
「東京ロッカーズ」の流れを受けて、日本のライブハウス・カルチャーを確立へと導いたイベント『DRIVE TO 80s』。1999年の「DRIVE TO 2000」に続いて、三度目のシリーズ開催決定。多様なジャンルへと枝葉を広げたロックシーンの原点であるライブハウス本来の熱気と創造的な場としての力が老舗・新宿ロフトで巻き起こる。ECDも参加予定!
会場:新宿ロフト(東京都新宿区歌舞伎町1-12-9 タテハナビルB2)
企画:清水寛、地引雄一、サエキけんぞう
プロデューサー:サミー前田、石戸圭一、森早起子、小野島大、マツモトキノコ
主催:ロフト・プロジェクト、ストリート・サバイバー2010
『NO NEW YORK 1984-91』
渋谷アップリンクXにて5月22日(金)まで20:50レイトショー
監督・撮影・編集:アンジェリーク・ボジオ
出演:リチャード・カーン、ニック・ゼッド、ジョー・コールマン、リチャード・ヘル、リディア・ランチ、サーストン・ムーア、ブルース・ラ・ブルース、他
2007年/フランス/70分
配給・宣伝:アップリンク
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公式サイト