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ドキュメンタリー映画『精神』は、これまでタブーとされてきた精神科にカメラを入れ、その世界を虚心坦懐に観察。現代に生きる日本人の精神のありようを克明に描いた。同時に、心に負った深い傷はどうしたら癒されるのか、正面から問いかける。
本作の監督・撮影・録音・編集・製作を一手に担ったのは、自民党による選挙運動の舞台裏を赤裸々に描き、世界200カ国近くで上映・テレビ放映された『選挙』を監督した映画作家・想田和弘。『選挙』に続く観察映画第2弾として、ナレーションや説明テロップ、音楽を使用しない独特の映像スタイルで、本作を完成。観客ひとりひとりが、スクリーン上で起こることを自由に観察し、考え、解釈できる作品に仕上げた。
■観察映画第2弾『精神』について ~監督からのメッセージ~
僕の前作『選挙』(観察映画第1弾)に、ボランティアたちが選挙事務所でチラシを折りながら、事務所の外に立っている「気が触れた女」について噂話をして、奇妙に盛り上がるシーンがある。
「あそこに立ってる人、ほら。気が触れちゃってるの。正気なころはさ、こんな髪の毛でこんなボインでね、土橋のマリリン・モンローだなんて、気取ってこの坂上がってた」
「あの人ちょっと飛んじゃってるの、いま?」
「全然。あの人、一時先生に熱上げちゃってさあ。おかしかったのよ、頭が。先生はいい迷惑」
この噂話にみられるように、「気が触れた人たち」は、健常と呼ばれる人たちによってしばしば、好奇と興奮と軽蔑を交えて語られる。彼らは時折自分たちの世界にふと顔を出す異界の存在であり、同じ空気を吸っている人間とは見られていない。健常者と精神障害者たちの間は見えないカーテンで遮られており、多くの健常者たちは、カーテンの向こう側にいる精神障害者たちの世界を、自分たちには関係のないものとして処理してしまっている。
僕はかねてから、このような状況に違和感を感じ続けて来た。僕自身も大学時代、精神的に追いつめられて自ら精神科に飛び込み、燃え尽き症候群と診断されたことがあるし、それから回復した後も、過度のストレスから幾度となく病気すれすれの状態に陥ったことがある。自分の周辺を見渡してみても、実際に心の病気になってしまった友人や、それが元で自殺してしまった友人や恩人がいる。そもそも、現代社会は閉塞感や孤独感、プレッシャーやストレスに満ちており、われわれは誰もが心の病になる危険性と隣り合わせで生活しているような気がしてならない。にもかかわらず、一般社会にとって精神疾患がタブーであり続け、健康な人々が目をそらし続けている状況に、僕は一種の危うさを感じている。
写真:想田和弘監督
したがって、僕が『精神』で行ったのは、この見えざるカーテンを取り払う作業である。固定概念や先入観を極力捨てて、患者や障害者を「弱者」とも「危険な存在」とも決めつけず、かといって賛美もせず、虚心坦懐に彼らの世界を見つめることを第一義とした。そのため、『選挙』のときと同様、撮影前にシノプシスや構成表を一切書かず、事前のリサーチも最小限にとどめた。また、撮影前に極力セットアップをせず、行き当たりばったりでカメラを回す手法に徹した。
編集では、ナレーションやテロップによる説明、音楽を一切使わず、複雑怪奇な現実をなるべく複雑なまま提示し、紋切り型の単純化を避けるよう努力した。また、構築した映画世界が観客の能動性と観察眼を刺激し、それぞれが自分なりの解釈を自由に行えるよう、余白を残すよう努めた。同時に、映画を観ることで、あたかも診療所を訪れ、そこにいる人々と出会い、言葉を交わしたかのような臨場感を得られるよう、時間の流れと空間の再現に腐心した。
『精神』にはいわゆる「言いたいこと=メッセージ」も、明確な結論もない。むしろ、映画を単純なメッセージに還元するプロパガンダ的な姿勢から、最も遠いところで作品を作ることを目指した。観客が作品を通じて、なるべく「す」の状態で精神科の世界を観察し、あれこれ考えたり疑問を持ったり刺激を受けたりできれば、作者として幸せである。
(文:想田和弘)
『精神』
2009年6月13日(土)より、シアター・イメージフォーラム他、全国順次ロードショー
監督・撮影・録音・編集・製作:想田和弘
出演:「こらーる岡山」のみなさん、他
2008年/アメリカ・日本/135分
配給・宣伝:アステア
公式サイト