下田昌克さん(左)と、『風の馬』に出演しているジャンパ・ケルサンさん
自身を「絵描き」と称する下田昌克氏は、言葉を補うかのように、旅先で絵を描く。そのほとんどが色鉛筆で描いた“人の顔”だ。笑顔を浮かべた人たちが、こちらをジッと見つめている絵。その中に、ネパールに暮らすチベット人の絵が多数ある。下田氏の「大好きな人たち」だ。
ネパールで暮らすチベットの子供たち(絵:下田昌克 2006.8)
下田氏は1994年、27歳の時に初めて海外旅行に出かけた。当初は、上海に行っておいしいものを食べてすぐ帰る予定だったのだが、その後、チベット、ネパール、インド、そしてヨーロッパを旅し、気付けば2年が過ぎていた。ネパールでの滞在でたくさんのチベット人の友人ができた。そのひとりが映画『風の馬』に兄ドルジェ役で出演しているジャンパ・ケルサンだった。
兄ドルジェ役のジャンパ・ケルサンさん(映画『風の馬』より)
「当時は普通にラサに行くことができました。まだ青蔵鉄道がなかった時期ですから、ボロボロのバスで30時間かかりましたね。ただそれも運が良い方で、吹雪に遭遇すると倍以上の時間がかかることもあるそうです。ちょうどその頃ラサで暴動が起きて長居ができず、結局1ヶ月余りでネパールに移動しました。ネパールでは、そこに暮らすチベット人と親しくなり、5ヶ月程カトマンズで過ごしました。その時に知り合い、今でも一番の友人が、ジャンパです」
1994年当時のチベットでは、街中でダライ・ラマ法王の写真を目にすることができたという。
「当時のラサは、チベットの民族衣装を着て、チベット語しか話せないコテコテのチベット人にたくさん会いました。監視の目もそれほど厳しくなく、今の近代化されたラサとは異なる雰囲気でしょう。一方、ネパールにいるジャンパや同年代の若者は、英語も上手で、僕らは同じような海外の映画や音楽を聴いて育っているので、ロックや映画の話で盛り上がりました(そのころだと映画『パルプフィクション』とか)。ごく普通の友人として付き合っており、彼らは日本人と感覚が近いように感じます。そして、礼儀正しくとても優しい」
ラサで出会ったチベット人(絵:下田昌克 1994.5)
ジャンパは98年製作の『風の馬』が映画初出演となる。下田氏が彼に出会った当時、ジャンパはミュージシャンをやっていた。
「ジャンパはバーなんかで演奏したり、僕は毎日ブラブラ絵を描きながら遊んでいて、ジャンパとたまたま将来の話をしていた時、僕がなんとなく、“絵描きになろーかな”と言ったら、ジャンパが“映画俳優になろーかな、でもネパールに映画ないしねー”と、冗談のように話したことを覚えています。その後、99年に再びネパールを訪れた時、ジャンパの家で『風の馬』をビデオで観せてもらいました。昔のことで、彼とどういった会話をしたのかあまり覚えていませんが、“命賭けで、隠し撮りのように撮った”と言っていたのは覚えています。僕は、友達が出演しているということもあり、チベットで起きていることも耳にしていたので、1本の映画というよりも、半分ドキュメンタリーのように受けとめました。映画の中のシーンと同じように、ラサで観光客のビデオが取り上げられたという話も聞きましたし、亡命者がチベットで経験した酷い話もたくさん聞きました。でも、家族がまだチベットにいる亡命者がほとんどで、雑誌などで紹介できなかった話もたくさんあります」
昨年5月、インドのダラムサラで「チベタン・オリンピック」の取材をした(『coyote』2008年8月号で掲載)。チベット問題で世界中が騒いでいた北京オリンピック前のこの時期に、ひっそりと手作り感あふれるチベット人のための祭典が行われていたのだ。
「チベットで何が起きているのか知りたくて4月にカトマンズを訪れた際、チベタン・オリンピックのことを教えてもらいました。雑誌の取材として早速ダラムサラに向かったところ、欧米からは大勢の記者が取材に来ていたのですが、日本からの取材は僕ひとりでした。チベタン・オリンピックは2週間かけて行う運動会のような祭典でした。男女それぞれ12人くらいの選手が、射撃、アーチェリー、マラソン、100メートル走、100メートルハードル、水泳など十種類の全種目を競いあい、総合得点で金銀銅を決めます。主催者がいろんな学校に声をかけたり、webなどで募集して集めた選手たちなのですが、皆ほとんど初めて行う種目なので、最初の1週間は練習、本番は2週目からといったユニークなスケジュールでした。例えば水泳は、山育ちのチベット人は泳げない選手がほとんどだったのですが、プールには風船を繋げてレーンを作ります。水泳本番、みんなで買ってきたロープにふくらませた風船をくくり付けていって、レーンを作ったのですが、ふと気になり“このプールは何メートル?”と尋ねると、実は選手も実行委員も知らなかった。後から図ってみたら19メートルと中途半端でしたが、彼らの中ではそんなこと重要ではないのです。村中の人々が観客として集まり、大きな運動会みたいに楽しんでいました」
チベットは、人権問題といった暗い部分の情報ばかり入ってきているが、チベット人の魅力だとか、文化をもっと多くの人々に知ってほしい、と下田氏は語る。
「色々な国を旅行してきましたが、僕が知っている民族の中で、チベット人が一番チャーミングな人たちだと思います。政治的なことはよくわかりませんし、善と悪といった境界線が自分の中で割り切れない。中国人の知人もいるし、彼らもとても親切な人たちですから。でも、悲惨な現実があることは実際に話を聞いて知っているので、僕にできることをしようと思っています。絵や本などの仕事を通してチベット人の魅力を伝えたい。そういう一面があるから人間として愛着が持てるのだと思います」
(取材・文:神田光栄)
下田昌克氏プロフィール
1967年7月24日生まれ。1994年から2年間、中国、チベット、ネパール、インド、そしてヨーロッパを旅行。その2年間に 会った人々のポートレイトを描き続け、1997年、日本に持ち帰った絵で週刊誌での連載を開始し、 本格的に絵の仕事を始め、現在に至る。著書に、2年間の海外旅行での絵と日記をまとめた「PRIVATE WORLD」(山と渓谷社)。ネパールでのスケッチブックをまとめた「ヒマラヤの下インドの上」(河出書房新社)など。
http://www.701-creative.com/shimoda/
『風の馬』
2009年4月11日(土)より渋谷アップリンク他、全国順次ロードショー
監督・脚本・編集:ポール・ワーグナー
出演:ダドゥン、ジャンパ・ケルサン、他
1998年/アメリカ/97分
配給・宣伝:アップリンク
公式サイト