骰子の眼

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東京都 渋谷区

2008-12-30 23:00


現代建築の怪物「レム・コールハース」の実態とは?五十嵐太郎×藤村龍至

建築家がメディアを持つときの理由や意味があるとすれば、大きく言って二つあると思います。建築的思考を持って編集をやるのか、編集的思考を持って建築をやるのか
現代建築の怪物「レム・コールハース」の実態とは?五十嵐太郎×藤村龍至
五十嵐太郎氏(左)と藤村龍至氏

DVD『レム・コールハース:ア・カインド・オブ・アーキテクト』の発売を記念した12月24日にアップリンク・ファクトリーで行われたトークショーをレポート

映像作品『レム・コールハース:ア・カインド・オブ・アーキテクト』

──最初に映画を観た感想を伺いたいと思います。

五十嵐太郎

五十嵐:今回の作品は1月にアップリンクからDVDが出ますが、実は以前、別のところから、この作品を観てコメントをくださいと言われたんですね。そのときに初めて観て、絶対にDVD化すべきだと言ったんです。というのも、これがコールハースの初期の活動から最新の北京のCCTVのプロジェクトまで網羅的に、且つ、ある意味で教科書的であると言えるかもしれないですが、非常にコールハースの全体像を捉えていて、良く知らない人でも知ってる人でも楽しめるように作ってあるからです。

写真:五十嵐太郎

作品ではコールハースの初期の仕事に関する部分が出てくるのですが、脚本家、ジャーナリスト、映画関係のことをやっていたのは彼のプロフィールを読んで知っていました。でも具体的にどんなことをやっていたのかというのは僕も正直よく知らなかったし、彼が当時関わっていたレアな映像作品も観れたし、彼がジャーナリストとして活動し始めていたときのシチュアショニストのコンスタントのインタビューなんかに影響を受けたという話も入っていて、この初期の話は僕も非常に勉強になりました。

──藤村さんはいかがでしたか?

藤村:コールハースというのは私にとって最大のロールモデルというか、目指すべき目標ですね。ジャーナリストであり建築家であり、教育者であるという建築家像が凄く興味深いです。印象的なポイントとしては、初期の映画を作っていた頃にフランス映画の作家主義に対する批判的な姿勢というのがありましたけども、コールハースの非作家的なところというのが映画制作の頃から一貫してあることと、「ファック・コンテクスト」と言っているところがあって、両義的な意味で非場所的な場所性というのを建築によって再構築する。建築を用いて場所を作っていて、、その2点が非常に興味深かったです。

五十嵐:この映像は異常に情報密度が高いですよね。いろんな建築家のドキュメンタリーはありますが、僕は3回観てもまだ足りないというか、そういう意味では是非DVDを買って何度でも観て頂きたいです。その高密度の情報というのがコールハースのドキュメントにはふさわしいという感じがするんですね。

建物の空間をなめまわして、ちゃんと見せているのはベルリンのオランダ大使館くらいで、あとはわりとすごく高速度にコンセプトを紹介していくという仕方にならざるを得ないのか。僕は監督のことはよく知りませんが、見せ方自体がコールハース、OMA、AMOが持っている情報を圧縮してそれを編集してという…個々のシーンも色々と手わざが多いですよね。背景をいろいろと動かしたりしていて。普通、建築のドキュメントではゆっくりした映像で、実際にその空間に行けないから代わりに映像で空間を追体験させるというタイプが多いと思いますけど、そういう意味ではコールハースが一般の建築家のモデルと違うところが反映されてると思いましたね。

メディア・アーキテクト

──先ほどのお話に繋がる質問ですが、今回、DVDの字幕監修と解説を書いてくださった浅田彰さんが解説の中で「メディア・アーキテクト」という言葉を使われているんですが、出版も含めたコールハースのそういう色々な活動をお二人はどうのように見ておられるのかお聞きしたいと思います。藤村さん自身も「ラウンド・アバウト・ジャーナル」という建築のフリーペーパーを作ってらっしゃると思うのですが。

藤村龍至

藤村:建築家がメディアを持つときの理由や意味があるとすれば、大きく言って二つあると思います。建築的思考を持って編集をやるのか、編集的思考を持って建築をやるのか。コールハースが編集者のように建築をやるという姿勢は面白いと思いました。通常、建築家がメディアをやるというときはプロモーション的な印象があると思うんですけど、それとは違うという感じでしたね。

写真:藤村龍至

──文章を書くことを本業とされている五十嵐さんから見て、そういう「メディア・アーキテクト」というのは新しい建築家像の一つとしてあるのでしょうか?


五十嵐:「メディア・アーキテクト」ということだけであれば、もちろんコールハースも凄く意識しているであろう、ル・コルビュジエも20世紀の前半に出てきて初期の頃は建物一つ作るたびに4冊本出していると揶揄されたくらい、彼も沢山著作を出していました。『建築をめざして』(鹿島出版会)という本は写真の使い方がすごく上手くて、有名なパルテノン神殿と最新のスポーツカーのツーショットのページなんかは殆どエディトリアル・デザインの世界だと思うんです。あと、普通は本文の注釈のように挿絵が入るんだけども、直接は関係ない機械のカタログのサンプルからとったような画像が断続的に入ったりする。そういう意味ではコルビュジエがやったことをある意味では正しく正統的に20世紀の後半に引き継いでいると言えるし、元を正せばパラディオくらいまで戻ると思うんですよ。

建築書で自分の建物の図版を初めて入れたのはパラディオなんです。その前にアルベルティとかは一般論は書いてるんですけども、自分の建物の紹介は自分の本でしてない。そういう意味では、そこまで戻ることは出来るんですが、ただやっぱりコールハースは文章が凄く上手いと思っています。藤村さんに聞きたいんですけども、最初にコールハースをすごいなぁと思ったキッカケはいつなんですか?僕らだと学部のときに既に『a+u』(新建築社)ではコールハースの作品紹介はあったんですね。卒業設計ではリベスキンドのコピーやチュミなんかのコピーが多かったんですが、既に情報としては入っていて、ただ何が本当に凄いかっていうのは当時、学部生の頃は良く分からなかったんです。大学院のときにエディフィカーレという同人誌をやっていて、都市を考えようということで、都市論の勉強会を開いたんですね。

その成果は『建築文化』(彰国社)でも2回ほど都市の特集をさせて頂いたんですが、その過程で今は翻訳されて文庫でも読めるようになった『錯乱のニューヨーク』(筑摩書房)。当時は英語でも再版されていなくて、なかなか入手しづらい状況でした。英語の本は、読書会で1章ずつ読むというのはやったことがあったんですが、最初から最後まで建築の本でちゃんと読んだのはたぶん「Delirious New York」なんじゃないかなと改めて思います。でも、凄く読みやすく、センテンスが短くて割とテーゼが次々に展開していくし、個々の文章の切れ方とかも上手くって、そんなに英語で建築の本を読むのに慣れていない段階でも、ある意味ではメッセージが凄くストレートに伝わっていく主張の強さみたいなのを感じたんです。そういう意味で文章の力というのが最初にインパクトがありましたね。こんな風にメッセージをどんどんドライブさせて、ある論を展開する方法というのがあるんだと。それで英語で再版が出て、筑摩書房から翻訳が出て、さらに文庫本が出て、大変読みやすくなったんですけども、最初の出会いがそれだったので僕にとってはコールハースというのは凄い人だなぁと思ったのは良く憶えているんですが、藤村さんにとってコールハースの体験というのはどんな感じですか?

藤村:端的に言えば、伊東豊雄さんと妹島和世さんとアトリエ・ワンを通じて知りました。例えばマルチメディア工房(妹島和世+西沢立衛設計)が凄いと思って良く見ていくと、その先にクンスタル(レム・コールハース設計)が見えてくる。八代の消防署(八代消防署、伊東豊雄設計)のストライプのプランが凄いと思って見ていると、ラ・ヴィレットパークのコンペ案が見えてくる。そういう関係で間接的にコールハースという人が浮かび上がってきたという感じでした。そうやって身近な人を介して知って行く、半分歴史化したような人としてのコールハースと、半分潰れかかったOMAが『S,M,L,XL』(Monacelli Pr; Subsequent版)を出して復活して、その辺りから私は建築を勉強し始めたので、OMAが商業主義を味方にして復活してくる過程と、その二つが関わりがあるような気がしますね。

ちなみに私がオランダに行った2002年というのは、CCTVのコンペをOMAが取った直後で、OMAのビルにあった伊東ヨーロッパという伊東豊雄さんの事務所のブランチにずっとバイトに行ってたんです。そこでOMAに中国人が沢山いて、OMAの少数のスタッフが怒鳴りながらコントロールしてるような、まさに渦中ですね。アンビルドの不遇の時代があって、その後復活してとても活気がある2000年以降のOMAは、とてもリアリティがあります。

オランダ建築事情

──それでは藤村さんがオランダに留学されていた頃の話をもう少し詳しく聞かせていただけますか?オランダに留学する学生は少数だと思うのですが、オランダを選んだ理由も含めて教えてください。

五十嵐太郎×藤村龍至

藤村:当時オランダ派とスイス派に分かれていたんですね、言い換えればダイアグラム派とマテリアル派なんですけども、素材とプロポーションとディテールを重視する即物主義的な人はスイスを選び、情報を編集して、それを社会の中でどうコミットさせていくかかというジャーナリスティックな人がオランダを選ぶという印象がありました。90年代の建築の流れがそう分かれたような印象があって、コールハース自身もダイアグラマティック・クラーリティーとスパイシャル・エクサイトメント、図式的明瞭性と空間的刺激と言ってましたけど、1990年代の情報革命の後、情報空間の図式的明瞭性と実空間の空間的刺激をどう関係づけるか、と問題が整理されて、オランダとスイスはそれぞれに対応していたと思うんですね。僕はオランダ建築に憧れがあって、オランダに留学するっていうのは目標として何となくずっとありました。


──オランダにいた頃はOMAにも出入りされていて、その中にある伊東さんの事務所のブランチで働かれていたんですか?

藤村:そうですね。映画の中にも出てきてたんですけど、ロッテルダムの駅の裏にある凄くジェネリックなビルがあって、その7階がOMAなんです。CCTVのコンペが取れたというので1階もOMAになって、そこに伊東事務所とNOXが入っていたんですね。日本にいた頃から伊東事務所にちょくちょくバイトで行っていたので、CCTVのコンペとかも留学前に手伝っていました。

伊東さんのCCTVのコンペ案というのは、平べったい円形の建物で上にグリーンが乗っている。それを僕はずっと手伝っていて、それが終わってどうやらOMAに負けたらしいという頃にオランダに行ったら、そのOMAでちょうどコンペを取ったばっかりで、僕のルームメイトだった日本人の方がOMAに勤めていてそのコンペの担当だったんですよ。それでその方がCCTVの現場の荒波に揉まれていたのをずっと聞いていたという感じです。

五十嵐:オランダにおけるコールハースってどれぐらい偉い感じなんですか?日本国内における磯崎さんや丹下さんとか、オランダではどんな感じなんですか?

藤村:自分の印象ですけど、磯崎さんのような感じだと思います。オーガナイザーで議論を仕切っているような。ベルラーヘ(ベルラーヘ・インスティテュート)はその時、アレハンドロ・ザエラ・ポロが学長で、エリア・ゼンゲリスも教えていて、コールハースの師匠と弟子がいたという感じでした。

五十嵐:コールハースより偉いオランダの中の重鎮って誰かいるの?

藤村:エリア・ゼンゲリスじゃないですか?

五十嵐:ゼンゲリスはそんな歳違うの?

藤村:一応、コールハースの先生ですよね。

五十嵐:あ、そうなんだ。

藤村:と、僕は認識しているんですけど。

五十嵐:オランダの中の文脈で後はいないの?チーム10の頃の人とかは、そんなに影響はないんですか?

藤村:そうですね。あんまり見たことはなかったですが、ただコールハースはインターナショナルな人だったのでドメスティックにはもう少し目立っている人は他にいるという印象ですけども。

資本主義と建築

──特典映像に収録されているディルク・ベッカーという社会学者との対話の中でコールハースが言っていたんですが、建築というのが資本主義社会の恩恵を受けていないと。つまりどれだけ素晴らしい建築物を設計して、沢山の人が訪れ賞賛しても、書籍や映画のように大ヒットがお金に繋がらないということなんですが、そういう意識はコールハース特有のものなのでしょうか?

藤村:この資本主義社会の恩恵を受けていないという言い方は、コールハースが本当に資本主義社会の中で対峙しているのか、という疑問がそもそもあるんですね。オランダ大使館にしても、CCTVにしても、プラダにしても、トップダウンの意思決定が働く特殊なコンテクストでしか建築が実現していません。お金につながらないというのは、もう少し社会の中の構造的な問題で、つまり社会の中で建築家がどう位置づいているかということだと思います。このディルク・ベッカーという社会学者の印象が、あまりいけてない。

藤村:正直、あまりシャープじゃないんですね。パブリックとプライベートとか中と外というのは、それこそミースの時代からずっとやっていることであって、今重要なのはアイコンとアーキテクチャーの関係、表層と深層の関係ですね。社会の表層と深層の中で建築をどこに位置づけるかっていう話こそが重要で、それを表層のアイコンメーカーに位置づけている内は確かにお金にならないんですね。それをどれだけインフラに関われるかによって、おそらく影響力というものが変わってくるであろうと。

五十嵐:この特典映像は1時間くらいディルク・ベッカーがコールハースと対話していて、やりとりが結構面白いんですよ。大体コールハースがやっていることについて人文系の良識的な人は怒るんですね(笑)。怒るっていうか、それでも人間が守るべきものはあるよっていう価値観だったりするんですが、それに対してコールハースは、それをあざ笑うっていうのも何ですけど、自分はクライアントがいる仕事なんで、とか言いながらどんどん相手が怒ってくるような感じになる(笑)。しかも、途中から逆インタビューしてるんですよね。ディルク・ベッカーに、「ところでお前の専門は何だ?」とかって(笑)。内容はベッカーさんがコールハースにインタビューしてるはずなのに、逆に問い詰めていくような感じになって、その辺のコールハースの人とのふれ合い方というか、インタビューされても目の前に何か奪えるものがあったら奪おうとしてるのかなと思いました。それと資本主義の話で言うと、この辺の世代もそうですし、さっきのシチュアショニストのコンスタントのインタビューの話が最初の方に出てくるんですけども、元々シチュアショニストはシュルレアリスムの影響を受けながら20世紀の前半よりの半ばに、反資本主義的なアクティビスト的な動きをしたわけですよね。

それでコンスタントは画家って紹介されましたけど、建築よりの活動をしてまして、途中で除名されるんです。基本的には今ある社会に対しての意義申し立てという、それ自体はとても60年代の反体制であったり、資本主義に対して一つの流れにも繋がるんですけども、そういうものに影響を受けつつ、ところがある種反転しているような。コールハースが資本主義を全面的に受け入れるとまでは言わないまでも、微妙にそうじゃない立場でそういうことを語る。アイロニーというか、二面性みたいなものをある意味で上手く活用している。だから良識派の人からは、つい文句を言いたくなるという感じがあるのかな。

──どこか自分を売り出しているところがあるというか、演出してるような部分があるんですか?

五十嵐:演出というか素でそういうキャラもあるのかなぁと思うんですけどね。例えばインドネシアに行った体験とかは、カオティックなものに対してよく出来た物語だと思うんだけども。同じくシチュアショニストの影響を受けている中でも、チュミなんかはやっぱり正しく役に立たないことを言ってるんですよね。コールハースの場合は資本主義のドライブをさせていくような感じがあって、ただ小さく乗るっていうよりも古い価値観をあざ笑いながら、そこに君臨している。すごく絶妙のポジショニングだなと思いますね。

藤村:書籍や映画のような大ヒットという話がありましたが、結局コンテンツメーカーというのはどれだけヒットしたところでたいした事はない。それよりも影響力があったり、儲かるのはアーキテクチャーのデザイナー、つまりインフラのデザイナーですね。現代で言えば、googleをデザインした人が一番強いわけです。だからコールハースが資本主義の恩恵を受けていないと問題提起をするときに、それに対する答えは何かと言えば、「google的建築家」になるということだと思うんです。それが何かと考えることが、これからの課題だと思います。おそらくそれをするためにやらなければいけないことは三つあると思っていて、一つは建築組織の再編成ですね。今のアトリエと組織の対立のあり方では難しい。もう一つは、建築ジャーナリズムの再編成。単純に紙媒体の有効性もありますが、建築家の作家像が変われれば、当然その伝え方も変わる。もう一つは、建築教育。今までの作家主義的な作家を育てる為の建築とは違うやり方を開発しなければいけないと。コールハースはある程度その三つをやっていると思います。

『コールハース・ハウスライフ』

──『レム・コールハース:ア・カインド・オブ・アーキテクト』と併せて、『コールハウス・ハウスライフ』という作品をさきほどさわりだけ上映しました。これはコールハースの「ボルドーの家」という非常に有名な住宅建築を、実際そこで働く家政婦の視点で映像にした作品です。五十嵐さんは既にご覧になっていたんですよね?

五十嵐:ええ。今年のベネチア・ビエンナーレのイタリア館でも上映されてて、凄く人気がありましたね。コールハースが人の動きをコレオグラフィ、何か振り付けすると言ってましたが、今の音楽に乗った家政婦の動きを見ているとそれを思い出しました。しかも家政婦が、「まったくしょうがないわね」とか「よっこいしょ」とか「この坂はジグザグに上ると楽なのよ」とかって言うのが面白いですね(笑)。それを見ながら思い出したのが、ロッテルダムのクンストハルを見に行ったときに、守衛のおじさんが建物の中を隅々まで案内してくれるんだけど、いちいち悪口を言うわけ(笑)。悪口を言いながらも愛している感じがあって、それが何かOMAの建物に合っているというか。例えば村野藤吾の建築なんかだと、使っている人がいかに素晴らしいかということを言ったりするんだけど、コールハースというかOMAの建物は悪口いいながら好きだって表現してる、その二重性が凄く彼の建物に合ってるような感じがしました。

藤村:これは素晴らしい映画だと思うんですけども、この「視点を変えて難しい建物をやさしく見せよう」というアプローチは実は僕はあまり好きではなくて、そういうやり方だとコールハースのことは分からないし、さきほど言った「google的建築家」像といったものに近づかないと思うんですね。だからよく言われる、「建築家の言うことは難しいから言葉を簡単にしよう」というアプローチだけでは意味がないと思っています。そもそもこの建築は何を目的として、どう作られているのか、ということに対してもっと向き合っていかなければいけないという意味において、この映画はすごくアイロニカルだなと思いました。

五十嵐:じゃあ、建築家はどういった言語を使えばいいの?

藤村:徹底的に建築的に、かつオープンにしていけばいいと思いますね。

五十嵐:それは論理がしっかりしていれば伝わるということなんですかね。

藤村:そうですね。狙いがしっかりしていて手続きがしっかりしていれば普通に伝わるんじゃないかと僕は思います。


■五十嵐太郎PROFILE

1967年パリ(フランス)生まれ。東北大学大学院工学研究科准教、博士(工学)、建築史・建築批評家。90年東京大学工学部建築学科卒業、92年 東京大学大学院修士課程修了。第11回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示コミッショナーを務める。主な著書に、『終わりの建築/始まりの建築』(INAX出版)、『近代の神々と建築』(廣済堂出版)、『戦争と建築』(晶文社)、『現代建築のパースペク ティブ』(光文社)、『美しい都市・醜い都市』(中公新書ラクレ)、『現代建築に関する16章』(講談社現代新書)、『新編 新宗教と巨大建築』(筑摩書房)、『「結婚式教会」の誕生』(春秋社)等、他多数。
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■藤村龍至PROFILE

1976年東京生まれ。建築家、有限会社藤村龍至建築設計事務所代表取締役、東京理科大学非常勤講師、ブリティッシュ・コロンビア大学非常勤講師。2000年東京工業大学工学部社会工学科卒業、02年東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了、02〜03年ベルラーヘ・インスティテュート(オランダ)、02〜05年ISSHO建築設計事務所共同主宰、03〜08年東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻博士課程、05年藤村龍至建築設計事務所設立。他には、ウェブサイト「 round about journal 」共同主宰、フリーペーパー「ROUND ABOUT JOURNAL」制作・発行、イベント「LIVE ROUND ABOUT JOURNAL」企画・制作もおこなっている。


DVD『レム・コールハース:ア・カインド・オブ・アーキテクト』
アップリンクより2009年1月9日(金)発売

コールハースBOX

建築家レム・コールハースが「自分についての映画で、唯一好きな作品」と評するドキュメンタリー。コールハース自身が幼少期や建築家としての人生を選んだ理由、独自の思想などについて熱く語る一方、彼を取り巻く人々のインタビューを通じて多角的に建築界の異端児の人物像に迫る。

監督:マーカス・ハイディングスフェルダー、ミン・テシュ
出演:レム・コールハース
字幕監修・エッセー:浅田彰
ドイツ/本編97分+特典/ドイツ語、英語/日本語字幕
価格:6,090円(税込)

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