左上から、広島市上空に描かれた「ピカッ」の文字=10月21日午前11時20分、広島市西区から撮影(読者提供)、被爆者団体の代表に謝罪するChim↑Pomリーダーの卯城さん(左端)、原爆ドーム後方上空に黒色花火を打ち上げるアートを見守る市民たち(撮影・坂田一浩) ※写真はすべて中国新聞より引用
2008年11月1日より広島市現代美術館ミュージアムスタジオで開催される予定だったChim↑Pomの個展「Chim↑Pom―ひろしま展」が中止となった。映画『靖国』が一部の映画館で上映中止に追い込まれたように、これは表現の自由の問題に発展する問題なのか、それとも違うのか。
原爆ドーム上空に「ピカッ」の飛行機雲が描かれた4日後、ツァイ・グオチャンが黒い花火を打ち上げた。こちらは何も問題がなく作品として認められたとしたら、事前に告知したかしなかったのかの違いが問題なのか。それとも「ピカッ」と言う文字が問題なのか。
webDICEでは、この問題を検証し考える事が「アート」を考える上で非常に重要な事だと思い特集を組む事にしました。その第1弾として、様々な方に以下の質問を送り、アンケートに答えてもらいました。
【質問1】
Chim↑Pomは謝罪するべきだったのか?するべきではなかったのか?【質問2】
質問1で回答した理由を教えてください。【質問3】
中国人現代美術家・蔡國強(ツァイ・グオチャン)の作品「黒い花火」と、Chim↑Pomの今回の作品「ピカッ」との違いはあると思いますか?【質問4】
質問3で回答した理由を教えてください。
上記の質問は昨年の11月に編集部が選んだ方々に送り答えてもらいましたが、12月に入り、Chim↑Pom卯城竜太氏と広島市現代美術館から編集部の質問に答えてもらう事ができました。そこで、一度アンケートに答えてもらった方に再度、アーティストと美術館の答えを送り、アンケートの回答に手を加えたい方は直してくださいというお願いしました。そして、何人かの方が以前の回答に手を加え再度答えを寄越してくれたのが以下のアンケート結果です。
まず、事実関係を整理するために中国新聞の報道を元にまとめました。もちろん、新聞報道が客観的で正しいとは思っていませんが、一応こちらでまとめたものをChim↑Pom、美術館にも送り、決定的な間違いがあれば指摘をお願いしました。この件では指摘は特にありませんでした。ただ、Chim↑Pom卯城竜太氏は中国新聞は市や美術館への監視という立場で報道をしており、中国新聞に添って問題を整理すると自動的に作家と美術館の対立を煽る事になる、というコメントは添えられていました。
まず、先に美術館から回答が来たので、Chim↑Pom卯城竜太氏へは、美術館への質問と回答を送り、編集部の質問を送り回答をもらいました。
■10月21日
午前、広島市上空に飛行機雲で原爆の閃光をイメージさせる「ピカッ」の白い文字が描かれた。Chim↑Pomが独自にチャーターした飛行機は午前七時半から正午まで断続的に上空を飛行し、五回にわたり「ピカッ」と描いた。平和記念公園から、原爆ドームと文字を一緒に収める構図で写真とビデオを撮影した。平和を訴える作品制作として原爆を意味する言葉を表現したというが、市民や被爆者からは「不快だ」「気持ち悪い」といった声が上がった。
■10月22日
現場に広島市現代美術館の学芸員が立ち会っていたことに対して、美術館の原田康夫館長は「学芸員が知っていながら止めなかった。おわびしたい」と陳謝。市、美術館を管理する市文化財団、美術館がこの日の朝、対応を協議。市民局長と財団理事長が、美術館の学芸担当課長に「被爆者への感情への配慮が必要だった」と口頭で注意した。近く被爆者団体に謝罪する方針も決めた。この後、Chim↑Pomtと美術館は話し合いを続け、リーダーの卯城さんは「自分たちなりに時間をかけて(方法を)考えたい」と話した。
美術館では、展覧会に展示を予定していた作品「リアル千羽鶴」は児童、生徒が作った折り鶴を使った新作であり、「ピカッ」とは異なる内容だが彼らの作品が市民に素直に受け入れられるかどうかを勘案し、開催是非を判断する考えでいた。市や中国新聞社には苦情や問い合わせが寄せられていた。 10月23日、謝った言葉が伝えられないようにとChim↑Pomは謝罪文をまとめ美術館に提出、自粛の意向が示された。■10月24日
市が被爆者7団体に声を掛け会見の場を持つ。卯城さんは市役所で被爆者七団体のうち五団体の代表と面談し謝罪。これに先立ち、市と現代美術館も謝罪。この後の記者会見で、卯城さんが「事前に被爆者の方々と話しをしてイメージを膨らませたかったが、学芸員にゲリラ(的手法)でやるのがいいと言われた」ということを話した。しかし、学芸担当課長は「その事は知らなかった。(学芸員に)確認したい」と述べた。
担当学芸員は、「広島では「ピカツ」は認められない。やるならばゲリラでやるしかなくなってしまう」、と忠告した言葉を、ゲリラでやればいいと受け止めた誤解によると、後に担当とChim↑Pomの間で確認した。
21日におこなったとき、美術館の学芸員も撮影現場の平和記念公園に立ち会った。一方で、学芸担当課長は美術館ではChim↑Pomから1月末に提案のあった空を光らせるプランについては再考を促し、続く4月末再提案のあった3つのプランから「折り鶴」に関する新作展示を選び準備を進めていたことから「当初からこの作品(ピカッの文字を空に描く)を展示する計画はなかった」と積極関与を否定しており、Chim↑Pomの説明との食い違いがあった。
Chim↑Pomは個展を自粛し中止する考えを示したが、作品は完成させ公表すると述べた。今回の表現行為は、「ピカッ」の文字と原爆ドームを一緒にビデオに収めた作品を個展に出したいと期待していた創作活動だった。
■10月25日
Chim↑Pomが謝罪した翌日、中国人現代美術家の蔡國強(ツァイ・グオチャン)が原爆ドーム付近の河岸で黒い花火を打ち上げるプロジェクトを行った。第7回ヒロシマ賞受賞記念展が広島市現代美術館ではじまるにあたっての作品だった。「原爆の犠牲者への哀悼と鎮魂の意が込められている、平和への願いを表現する」というもので、全国ニュースで報じられた。
(蔡國強氏のプロジェクトは、美術館とアーティストが以前から展覧会の出品作品として実現に向けて話し合いを続け、法的(消防・警察)にも許可を取り、市民、周辺住民にも説明を続けてきたものです。チンポムのプロジェクトとは全く別に10月25日の花火プロジェクトは予定されていましたので、展覧会の中止とは関係ありません)
広島市現代美術館 広報/後藤明子氏への質問と回答
── 展覧会の自粛について。「美術館と市民団の協議を行い、Chim↑Pomも合意して展覧会の中止に至った」と報道されていますが、実際Chim↑Pomから先に自粛の申し入れがあったのか、もしくは、その前に中止の話し合いが行われChim↑Pomが自粛したのか、どちらなのでしょうか?
広島市現代美術館:10月23日、チンポムから自身の意見が誤って伝えられないようにと文章にまとめられた謝罪文が館に提出されました。展覧会の自粛はその際文中でチンポム自身から提案がありました。その文章は同月24日、チンポムが記者会見で読み上げたのと同じものです。
── 周りから美術館に対して抗議の意見はありましたか?意見が寄せられていたのであれば、どのような意見があったのでしょうか?
広島市現代美術館:様々なご意見をいただきました。そしてそれぞれご質問やご意見をいただいた皆さんとやり取りしてきました。そのすべてを簡略化しては誤解を生むばかりだと思います。
── もしChim↑Pomが自粛をしなかった場合、美術館側は展覧会を開催する可能性はあったのでしょうか?
広島市現代美術館:もし、という事態はお話ししても意味を持たないでしょう。美術館は春に複数提案されたチンポムの新作プランの中から、「リアル千羽鶴」を選びその展示に向けて7万羽の千羽鶴を生徒や市民の皆さんに折ってもらい協力いただきながら準備しておりました。「ピカッ」はそれとは異なる作品なので、本来美術館が展示しようと準備していた「千羽鶴」作品の展覧会を予定通り行う方か、それがただのスキャンダルになってしまうのか、真偽様々な報道が錯綜する中で決定するのは大変な悩みでした。 アーティストとも様々な話を交わし、結果自粛するという意見が彼らから提案され、それを受けて検討を重ねた上で中止するという決定に至りました。その決定により、多くの皆さんにご協力いただいた7万羽の千羽鶴に対する思いをどうするか、私たちは大きな課題をまだ抱えています。
Chim↑Pom卯城竜太氏への質問と回答
── 展覧会が中止になったのは、Chim↑Pom自身が自粛を申し入れて中止になったのでしょうか?もしくは、その前に美術館、広島市、団体等と話し合いをし、中止をうながされて自粛したのでしょうか?
Chim↑Pom:まず美術館と話し合いをしました。そこで館長と副館長から、謝罪と展示の中止(若しくは延期?)についての私見がありました。「ここは一度身を引いて、又出直そう」といった旨でした。 「ピカッ」の映像展示は勿論不可能でしたし、鶴をモチーフにした作品展示のために市内の学校に協力してもらっていた千羽鶴も、残念ながら理解を得て使える状況ではありませんでした。不完全すぎる形での展示では、理解や批判など、様々な感情や意見を生む事は出来ないだろうという判断のもと、次の日にChim↑Pomが自粛を決定をしました。
── 市民や団体等周りからChim↑Pomに対して抗議の意見はありましたか?意見が寄せられていたのであれば、どのような意見があったのでしょうか?自粛されたのは、抗議の意見があったからでしょうか?
Chim↑Pom:自粛したのは、展示を構成する物が使える状況になかったからですが、その理解を得られなかったのは、やはり抗議の声が大きかった事によります。意見、抗議は多数ありました。美術館、無人島プロダクションの他、Chim↑Pomを取り扱う書店や映画館等にも寄せられました。内容は様々ですので、1例を挙げるという事は出来ませんが、団体というより個人からが殆どだったと思います。
── 作品は未完成ということですが、それはいつ頃、どのような形で発表される予定でしょうか?
Chim↑Pom:現在検討中です。
各氏のアンケート回答(あいうえお順)
会田 誠(美術家)
【質問1】【質問2】
僕は「アーチストは安易に謝罪するべきではない」と、一般論として思っている。なので、記者会見の前日にリーダーに電話でそう伝えた。しかし現場では複雑に絡み合った事情があるようで、色々と考えた結果「謝罪する部分は謝罪し、謝罪しない部分は謝罪しない」という事に決めているらしかった。
【質問3】【質問4】
とにかく今回のチンポムへの反応に、ヒステリックで不当なものが多く含まれていることは確かでしょう。う~ん、どうも4問とも答えにくい質問で・・・。「星星峡」という文芸誌の12月号に、今回の件に関してエッセイを書いたので、そちらを読んでください。
遠藤 水城(キュレーター)
【質問1】
どちらでもありません。
【質問2】
そこにある程度の強制があろうとなかろうと、アーティストが最終的に判断して謝罪したという事実がある以上、それは「するべき」ことでも「するべきではなかった」ことでもないと考えます。Chim↑Pomはそうした、ということですよね。これはこれでガッツのいることだと思います。
むしろ本当に「するべきではなかった」ことは謝罪ではなくて、作品の制作を打ち切ること、その発表の機会を奪うこと、展覧会の中止を求めること、展覧会を自粛すること、などChim↑Pom本人たちおよびその周辺で起こった(らしい)一連の「表現そのものの軽視」だと思います。
【質問3】
これもどちらでもありません。
【質問4】
表現内容は全然違います。歴然と違いがあります。どうみても全然違うと思うんだけど。
どちらも芸術作品と考えられる「べきであるか」という質問であれば、べきです。原則的に。
大橋 可也(振付家/大橋可也&ダンサーズ主宰)
【質問1】
するべき。
【質問2】
人が意識的におこなった行為によって、傷ついた人がいるのであれば、その人に対して謝罪するべきであるのは、人として当然の振る舞いであると考えるから。
Chim↑Pomと美術館側の主張を辿るに、どちらも言った、言わないの水掛け論で、あまりにレベルが低い。今回の問題に限らず、デリケートな事柄、責任の所在を明確にすべき事柄については、打ち合わせを録音するなり、議事録を作成し双方が了承した上で物事を進めるのは、一般社会の常識である。1人のアーティストとして、現代美術の最先端を進んでいるはずの現場が、このような低次元の問題意識しかないということに非常に失望を覚える。作品の内容以前に、Chim↑Pomと広島市現代美術館に今回の企画に関わる資格はなかったと思う。
【質問3】
わかりません。
【質問4】
どちらも作品を作品として見ているわけではない(二次情報しかない)ので、評価できないから。
岡田 聡(magical, ART ROOM代表)
【質問1】
この質問を今回の謝罪会見についての事後的評価という意味と理解した上で返答します。
私が知っている限られた情報(主におざきさん情報)では、卯城くんはこの会見では事前のコミュニケーション不足に対してのみ謝罪したのであって、自分たちの表現行為についてはそれを貫いていくと「ピカッ」の表現そのものについては謝罪はしなかったものと理解しています。
多分用意されたフレームは彼らの表現行為そのものに対する謝罪の場だったんだと思いますが、結果は彼個人(彼ら)の倫理観(人間性)を背景とした会見に終わったということだったのではないでしょうか?
簡単に言えば、自分たちの表現は正しいと信じているが、結果としてそれによって嫌な思いをした人がいるのなら一人の個人(グループ)として謝りたいというものにすぎなかったんだと思います。そうなると今回の謝罪会見(のようなもの)の評価については本質的には卯城くん(チンポム)以外の他者がとやかく言う問題ではなく、あくまで個人的な倫理観(人間性)に還元されていく問題ということになります。
従って、質問にもどればこの卯城くんのステイトメントのために用意された謝罪会見について、するべきだったかするべきではなかったかは、卯城くん(チンポム)が決めること以上でも以下でもなく、残念ながらこの謝罪会見自体は美術界に大きな論争を産むようなものではなかったんだと思います。
ただ、今の話しのレイアーから離れてこの事態を俯瞰して見れば、結果的に卯城くん(チンポム)にとっても会見に臨んだ被害者団体の方たちにとっても、「やって良かったんじゃないの」とシンプルに思いました。
【質問2】
質問1の返答のなかでご理解ください。
【質問3】
あると思います。
【質問4】
それは単純に作家も異なれば、作品の内容も異なるからです。
蛇足ですが3次元の空間を利用したことや広島(いろんな意味で)という共通点はあるものの、それは作家の背景やコンセプトの違いなど無限に近い差異性から比べれば、ほとんど作品の共通点は無いのも等しいのではないでしょうか?それぞれの作品の評価は、本質的にはそれを鑑賞する者に委ねられるべき問題だと思います。
純粋に美学的見地以外にも政治的、倫理的評価から単純に好き嫌いとか品があるとかないとかなど個人的な生理にもとづく評価まで含めて。そしてそれら鑑賞者の評価の総和が時間を経て美術史を作っていくものと信じたいと思うのです。
小崎 哲哉(ART iT/REALTOKYO発行人兼編集長)
質問のすべてに関して、事実に基づかず、臆断と思いこみによる回答が多数寄せられることを危惧しています(設問自体にも問題があると思います)。REALTOKYOに、取材に基づいた拙文を掲載しました。皆さんにぜひ読んでいただければ幸甚です。
http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_198/
工藤 キキ(アートライター)
【質問1】
するべきではなかった。
【質問2】
「物語」とか「世界」で括られやすそうなのに、いつもギリギリですり抜けてきたChim↑Pomがとても好きなんですが、良識のある大人が喜ぶような物語に突入してしまったこの感じは、もう……ジャッカスじゃないよ!
【質問3】
ない。
【質問4】
「原爆」を'ネタ'として選んだ時点で一緒?
公立美術館 学芸員(匿名希望)
【質問1】
事前のコンセンサスがなかったと言う事に限っては謝罪するべきだと思われますが、自分たちの表現に関しては謝罪の必要はないでしょう。
【質問2】
芸術の質の是非が問われるのは常に事後であり、それが事前に了承される必要性は全くないからです。もちろん、それに対するあらゆるよ事後の誹謗中傷を一手に引き受ける覚悟があってのことですが。彼らが美術史を紡ぐに足る作品を創りえたかどうかは、事後にあらゆる側面から様々な価値基準が判断するのです。
ただし、今回の件に関しては結局広島現美とアーティストの「言った」「言わない」という責任のなすり付け合いになっている気がします。つまり、当事者同士ですらコンセンサスが取れていなかったことの現れで、それは公立美術館(指定管理者ですが)として完全に職務怠慢でしょう。また、そうした公立美術館という立場を考えるならば、広く市民感情を考慮するのは当然のことで、事前の説明会などがなかったことの非は、むしろ美術館(展覧会担当者&学芸責任者)にあると思われます。
【質問3】
もちろん表現としては完全に差異があります。
【質問4】
作品としては当然同じものなど世の中にはありません。おそらくお尋ねになりたいのはその受容のされ方、プロセスに関してでしょうが、蔡國強が事前にコンセンサスを経て、ある許容を得た上で自らの作品を発表している以上、現時点で我々がその作品の質を問うのは間違いだと思います。
五所純子(文筆業)
【質問1】
積極的にどちらとも言えない。
【質問2】
犯罪行為はおろか、迷惑者を家族にもつこと、不倫、傷病、悪い噂まで、騒動の種という種が世間という名のネガティブチェック症候群的公衆の面前で「申し訳ありませんでした」と恐縮アティチュードを求められる現在、得体の知れない謝罪が重ねられる不快に耐えかねている者としては「痛みに耐えて頑張ってほしかった!(謝罪するべきではなかったの意)」などと声を張りそうにもなるのだが、そういった気勢のよさもまた、闇雲な過激さを真理と見誤る一気コール的時流の煽り文句のようで気が進まない。あたしは抗議の内容を知らない。それは公表されていないし、事実説明にもすれ違いがある。あいかわらず得体の知れないまま、Chim↑Pomが謝罪すべきだったかすべきでなかったかは判断できない。
【質問3】
ある。
【質問4】
ふたつは決して同じではない。固有の動機をもち、固有の経過をたどり、固有に結実された、それぞれに固有の「上演作品」である。作品自体に対する評価は個別になされなくてはならない。しかし「上演作品である」という点においてふたつは共通し公平である。一方の動機や経緯だけが故なく糾弾され、さらに完成すら妨害されたのであれば、それは個別の作品に対する批判ではなく表現活動への抑圧だろう。
──ヒロシマを正当に名乗る者は誰なのか。
──原爆の記憶は誰のものなのか。
かえって検閲の厳しい聖域の存在を浮き彫りにし、死者の声をめぐって覇権争いをしているようにも見える。
祈りの作法は様々にあると思うのだが。
渋谷 慶一郎(音楽家)
【質問1】
どちらでもいいでしょう。
【質問2】
謝罪したり経緯を作品にするなりはしたいようにすればいいでしょう。ただ今回の件に関してゲリラ的なんていう形容が使われるのは不適当というか笑ってしまいます。
【質問3】
ある。
【質問4】
まずこのような議論が発生するわけだから。「ピカッ」が問題になっているのはネットの報道がきっかけであって、実際には気づかれないほどの、または画像で見る限り非常に中途半端な印象の「作品」です。これらが意図的かどうかはともかくとして、マテリアル/作品の強度といった言わば古典的な、しかし強力な判断基準は、こうした「政治的」な文脈でも有効に作用するわけで、むしろ政治的な文脈と美術作品という極上に古典的な関係性の中でマテリアルが文脈を超えることは稀だとは思います。しかし仮に「ピカッ」がそれを超えるような圧倒的なマテリアルと方法で提示された場合の反応はどうだったろうか、ということには興味はあります。「黒い花火」はその水準をクリアしていたと考えるべきでしょうが、まあ最初の問いに戻って違いはありますか、という質問にはどう見ても違うでしょ?としか言いようがないですね。
杉浦 太一(CINRA)
【質問1】
どちらでもよかった。
【質問2】
正直、謝罪をするべきだったかどうかは、どちらでもよかったと思う。本人が申し訳ないと思ったのなら素直に「ごめんなさい」と言えばいいし、思わないなら言わなければいい。それは、「表現者だから」とかいう治外法権的な理由の前に人として当たり前のことだし、他人がとやかく言う問題じゃないんじゃないかと思う。メディアのズサンな報道は、この一件で解決に向かうほど特殊な出来事ではないし。
話しをすり替えるわけじゃないが、この一件を知って「テレビのニュースみたいだな」という印象はあった。いや、報道ではなく、作品の印象が、である。テレビのニュースが不幸なことばかりやるのは、「人の不幸は蜜の味」的な感性が悲しいかな、ぼくらにはあるわけで、それは視聴率をとるための心理戦でしかない。その心理術を使うこと自体には全く反対していないし、それを使ったことで広げるべきものが広がるのであれば、むしろいいことだと思う。
ちょっと寂しいのは、少なからず人の不幸に接触して何かを表現しようとしたこの一件から、何を伝えたいのかが見えなかったということで、これは明らかに話しがずれておせっかい極まりないけれども、実際どうなんだろうか。もしも「平和ボケした世代にも、あの悲劇を想像する力を!」という提言なのだとすれば、「ピカッ」を広島の空で見た人々に、もしくはまさに平和の象徴である真っ白な美術館の壁でその作品に直面する人々に、何かを届けることができたのだろうか?
人の感性にスルっと入り込める、パワフルで希有な素晴らしい作家だからこそ、この作品を自分の目で見られないのがくやしい。
【質問3】
ある。
【質問4】
キムタクが「この服マジかっけぇ」って言うのと、こちらが同じことを言うのとでは、その言葉の意味も違えば、世界に対する影響力なんてもう圧倒的に「違う」。作品が本質的に違うのは別の作家がつくっているから当然だろうし、その作品をとりまく環境なんて言ったら、キムタクとぼくほどではないにせよ、もっとわかりやすく「違う」んじゃないだろうか?そこを否定してからスタートしちゃうと、もう出家するか、ヒモになるしか道は残されていない気がする…。
住友 文彦(東京都現代美術館学芸員、AIT)
【質問1】
するべきではなかった。
【質問2】
非難の声が上がることは当然想定すべきことと考えられるので、それに対してなぜこういう作品を発表するのかを説得的に述べられないのなら、そもそも発表すべきではない。どのような謝罪だったかについては、Uplinkの担当者から提供されたウェブサイト「Real Tokyo」の記事のみを参考にしているが、アーティストは100%自分の表現に対する責任があり、展示するかしないかは自分たちとは別問題という考えは間違っている。
ただ、作品を作る意図については謝罪をしているのではなく、あくまでも作品を完成させると述べているとしたら、発表を控えるべき作品とは考えていないのだろう。その場合は、以後、被爆者団体と交流している、だけでは物足りない。「配慮を欠いている」という指摘に対しても、どのように説明をしているのか、そのプロセスを知りたいところである。
【質問3】
ある。
【質問4】
作品がそれだけで自律的に機能し、意味を発すると考えるのは素朴すぎる。したがって、その作品がどういった文脈で、そのような交渉によって発表されるかが重要になる。見た目が似ているだけで、両作品が同じようなものだとは言えない。
高田 彩(ビルド・フルーガス代表)
【質問1】
するべき。
【質問2】
本件は、現代美術上、一概に答えをだすのは難しい内容ですが、謝罪に関しては、意を表すべく謝罪は必要だったと思います。現代美術作家は作品を制作・発表する上で、概念を提示する責任があり、また作品の外側の関係にも責任を持つ必要があると思います。
Chim↑Pomが本来意図とする作品を完成させるためにも、また、題材がセンシティブだからこそ、あらゆる関係者、市民への説明は不可欠だったのではないでしょうか。
【質問3】
ある。
【質問4】
広島、原爆、世界平和というモチーフや背景は同じかもしれませんが、作家性、概念、アプローチが異なるため、一概に「同じ」であるとはいいがたいものです。 特に、作家性に関しては、本件を左右している要素とも捉えられます。あくまでも、本件を新聞記事等で伺っているため、意見を述べるのが難しいのですが、Chim↑Pomの作家性から誤解を生じてしまったことも一理あると思います。
現代美術家は、常に内外的に社会や取り巻く環境と向き合いながら概念を表現していると思います。Chim↑Pomはその中でも、現代社会や若者文化をより投影・反映しながら、刺激的で挑戦的な表現活動をしていると思います。今となっては、美術関係者を含むオーディエンスも彼らに作品概念以上の「何か」やタレント性を求め始めているのかもしれません。それゆえ、誤解が生じたり、新たな現代美術への問いが生まれたのではないかと思います。
それはともあれ、彼らの意向を受け止め、オーディエンスの一員として、なにより作品の完成を待ちたいと思います。現代美術のオーディエンスとしても責任を持って鑑賞し、作品による問題提起を「きっかけ」や「リアライゼーション」に繋げていきたいものです。
野崎 昌弘(ナディッフ)
【質問1】
するべき、という判断で彼らは謝罪したのだろう。わかりません。
【質問2】
いずれにしても、彼らの主旨や目的であるところの「作品」が出来上がらずに公開もされない情況のなかでは、なんともわかりません。ただ、知見が不足していてストラテジーが構築できていなかったのでは、と思います。(この部分で「現場に立ち会っていた」という美術館のバックアップはどうだったのでしょうか。)
彼らの「表現」がおうおうにして、思いつきだけの「悪ふざけ」と切り捨てられるにしても、その「思いつき」を極限までつきつめること(=「表現」に転化する可能性)においては、真摯さがあるし、その都度社会にたいして様々な問いをつきつけているとは思う。ただし、この件はそもそも「表現」として「発表」できずにいる、ということも含めて、わかりません。
【質問3】
ある。
【質問4】
これは美術作品であるという共通の土壌を持つことが出来ていたか、いなかったか。もちろん、上述のようなものの言い方は本質を覆い隠してしまう。だが、「美術」の「作品」として告知され受容されたということがほぼ=だから素晴らしい、とされる一方、そのようなフレームの受容がないまま、むしろ「美術の名を騙る」集団として封殺されようとしている現状。色々な意味で残念だと思う。
また、被爆者や遺族にとっては、丁寧で周到な用意をもって、諸々が昇華されるような「物語」があるような形での発表とそうでないのとでは、受容の仕方も当然違うとも思います。かつて彼らの展示をしたことがあるナディッフとしては、ネット上や電話での多分に誤解に基づく非難の声が届いている。聞くべきことは丁寧に聞いてきたつもりです。また、営業店舗の立場からも当然、慎重に対応していかなければならない(燃やされては困るので)。
上記は、公式な回答ではなく、あくまで展示担当者の個人的な私見として受け取っていただきたい。
付記:
最初の締め切りにとりあえずの返答を上記のようにしてから、あらためて資料を送付いただき加筆修正の有無の問合せが来ました。編集サイドはとても丁寧な姿勢でこの問題に取り組んでいると感じられました。
基本的には自分の理解と考えは変わらないと思いました。つまり、わからないところはわからないままでした。そのこと自体、広島で突然の「ピカッ」に心が凍りつく思いをされた方たちからはあまりに「遠い」という難詰は免れないとも思います。また最後に、Chim↑Pomのスタイルや意思の目指すものがどこにあるのかないのかは別にして、アートが社会変革をうながし切り開くことは、無いと個人的には考えます。ただし、アートは確実に当の社会状況を反映しています。そこにある価値を見出すのは受けてであり、その千差万別な感受性です。その個別の感受性は、ともすると感性の集団的なマジョリティに糾合されていきます。これは一般論であって、今回の経緯をただしく言い当てているのかどうかも、わからないといえばわかりません。…まとまらなくなりそうなので、この辺で。
八谷 和彦(メディア・アーティスト)
【質問1】
「・・・べき」という質問には答えられません。当事者じゃないし、全ての事情を知っているわけではないし。
ただ、僕はChim↑Pomが不快になった人たちに謝罪したのは、正しいと思います。あのとき、現実的に謝罪以外の選択肢があったとは考えにくいです。
【質問2】
「作品を見る気もないのに見せられて不快になった人たち」に対し「実行者として」謝るのは、人として正しい判断だと思います。「謝らない」という判断もあり得るかとは思いますが、僕は芸術がそこまで特権的なモノだとは思ってませんし、社会的にも芸術がそんなに特別なモノだとは思われてはいないでしょう。それに、今回は芸術としてどうこうではなく、社会的な問題である、と言うのが僕の認識です。
現代美術の作品として「人が見て不快に思うような作品」も実際多いですしそれを作ることももちろんアリです。ですが、それは前提として「鑑賞者がそれを前提に美術館で観る」からです。そういう意味で、今回のは作品として完成する前に、不特定多数の目に触れて、このような大騒ぎになってしまったことが残念でなりません。そしてその原因には「作家に配慮や思慮が欠けていた」のは事実だと思います。(しかし、その「考えナシに行動」というのがChim↑Pomの持ち味でもあったわけですが)
ただ、もうひとつ思ったのは「果たして何人の被爆者や家族の方が、直接空を見て不快な気持ちになったのだろうか?」という素朴な疑問です。
空中にスモークで描いた文字は、風ですぐに消えてしまいます。だから想像でしかありませんが、直接「ピカッ」の文字を空で見た人はそう多くないはずで、中国新聞や、ニュースサイトや、blogに出た写真・・・それはChim↑Pomの作品ではなく、読者投稿とされる一枚の写真なのですが・・・を見て、不快になった人たちのほうが、圧倒的に多いのではないかと推測します。
「なんか知らないけど、上空にピカッって書いてあった」と直接見た人のコメントや、あるいはあの「読者投稿の写真」以外の写真を、自分がwebで見た範囲では、見つけられませんでした。
あの写真は確かにある種の不真面目さを感じさせ、被爆者の方には不快感を感じさせるような写真ではあるのですが、本来すぐ消えるものを、多くの人があのような形で見ることになったのは、作家の不用意さのみが問題だったのだろうか?とは今も思います。あのように、騒ぎが大きくなり、知る気のなかった人までそれを知ることになる(そしてその前提には、良心や善意があったりもします)そのこと自体が、ある種の津波のような不条理さも感じます。
とにかく、Chim↑Pomに落ち度があったにせよ、個人的にはあの投稿写真一枚だけをベースに話が大きくなり、皆が不快な気持ちになっているのが、なんか変な気がしてならないのです。
そして、そういう「情報を流通させた人たち」の態度や責任とかが、今回問われないのも本当はなんか変だよな、とかも思うのです。それが正義感であったにせよ好奇心であったにせよblogのネタであったにせよ生活の糧であったにせよ。
だから、本心から言うと、本当はあの写真を流通させた人たちは実は同じように謝るべきなのかもしれない、とも思うのです。「僕の記事やリンクで新たに傷つく人もいるかもしれない。ごめんなさい」と。そしてここにまたあの投稿写真が載せられるのであれば、新たに傷つくかもしれない被爆者の方に対して、本当は僕もこのサイトの人たちもまず心の中で謝るべきだと思うんです。
【質問3】
Chim↑Pomのはまだ作品じゃないですし、繰り返しますがあの写真も本人達のじゃないですよ。読者投稿だったはず。(だから、極論するとある種の加工の可能性すらあるわけで・・・)という指摘はともかく、両者にはもちろん違いはあります。
【質問4】
蔡國強さんの作品は、もともと予定されていた展覧会の企画の一部であり、あそこまで大規模なものであるからには、関係各所への根回しや被爆者団体の方との事前の対話はあったと想像します。
一方、Chim↑Pomのほうは、そういう機会と時間がなかった。そもそもこれが不幸の始まりだと思うのですが、これは双方のアーティストの過去の経験の差もさることながら、実際にはふたつの企画が「美術館の公式の展覧会企画だった」というのと「公募展の大賞受賞者に与えられた新人発掘企画的な展示だった」という差が大きかったように思います。
美術館が展覧会を企画する際は、通常1年くらい前から準備に入ります。一方、Chim↑Pomのほうは、前年に別の作品で賞を取り、「来年のこの時期に展覧会やりますからがんばって準備してくださいね」くらいの感じでしかなかったと思われます。
今回の騒ぎの中で、展覧会の担当学芸員や学芸課長を非難する意見もあって、まあ話の流れ的にはそういう意見が出ることも理解できますが、はっきり言って同時期にこんな大変なことになるとは、美術館側は全然想定していなかったはずです。そもそも、その学芸課長は、賞の選出にはなんら関わっていなかったはずで。
僕はChim↑Pomと同じ展覧会に出たこともあるし、ギャラリーも一緒だしで、結構作品を好きだったりもするのですが、彼らが「現在、最も取り扱い注意な作家」であることは確かだとは思います。だから、彼らの展示を企画するのであれば、学芸員には相当の勇気と覚悟が必要だとは思うのですが、実際のところそういう状況ではなかった。だから、二つの作品には、制作過程や条件にそもそも大きな違いがあったというのが僕の認識です。
そして余談ですが、実は飛行機でスモーク文字を書くことが出来る会社は、日本にはそんなないため、制作費も相当高額(たぶん数百万のレベル)だったと思うのです。例えば、あのように空中に文字を書くためにはそれが出来る数少ないパイロットと機体を広島まで移動させる必要があるはずで、それを考えると新人の展覧会の制作費では、当然まかなえていないはずです。たぶん、今回の展示のために彼らは自腹切って大借金したのだと思うのだけど(そしてそれは全く裏目に出てしまったわけだけど)、その覚悟と根性自体は、僕はすごいもんだと思っていたりします。
原田 優輝(Public/image)
【質問1】
するべきだった。
【質問2】
「アート」と「ヒューマニズム」の問題を、同じ土俵に上げて考えるべきか否かは別として、彼らの行為が被爆者団体に不快な思いをさせたことは事実だから。
ただ、表現者としての彼らにとって最も重要なことは、謝罪することよりも、今回の一連の出来事をどのように着地させるかということだと思う。
【質問3】
わからない。
【質問4】
Chim↑Pomの作品はまだ完成されていないため、判断することができない。
HIKO(GAUZE/ドラマー)
【質問1】
(展示可能なハコが無くなったんなら物理的に展覧会中止は止む無しだが…)してしまったじゃん。
【質問2】
てか、するくらいなら表現すんな!
【質問3】
ない。
【質問4】
同じ表現活動(として、なら)。
三田 格(ライター)
【質問1】
するべきではなかった。
【質問2】
正確なところも内部事情もわかりませんが、「謝罪した」というより「謝罪させられた」か、もしくは「謝罪することに同意した」と受け取れるような感じでしたから、今後も広島(の特定の美術館)にこだわりたいのならばともかくとして、広島以外なら彼らには作品を発表する機会はあったと思うので。
【質問3】
ある。
【質問4】
「原爆を投下すること」と、それが「広島であったこと」は、厳密にいえば分けられる案件のはずで、たとえば「黒い花火」と「ピカッ」を京都や仙台の上空でもやっていたら、その違いはよくわかったと思います(「黒い花火」は火事とか爆発のような不穏なムードをどこでも呼び起こしたのではないかと思えるし、「ピカッ」は「空がピーカンに晴れていた」という意味かな~とか、そんな風にしか受け取られなかったのではないかと思うから)。
また、その意味するところが広く知れ渡ったいま、改めて東京や札幌の上空で「ピカッ」とやってみれば、広島の人たちの気持ちが他のエリアの人たちにも多少は想像できたかもしれないと思うと、広島の人たちは大きなアピールのチャンスを自ら潰してしまったとも考えられる。
三潴 末雄(ディレクター)
【質問1】
するべきではなかった。
【質問2】
正確な情報を持っていないので、あくまでも仄聞からの判断であるので、謝罪すべきであったかどうか、正直な処わからない。謝罪する側が「悪」で謝罪される側が「善」である二者択一式的発想が嫌いなので「するべきでない」とした。
このチンポム報道に接し、以下の感想を持った。
いくつかの悪意が存在すると思った。地元の公立美術館に対する日頃の活動への不満を持つ層の存在、チンポムという制作集団への反発と反感、こうした鬱積していた感情が悪意となって噴出した。マスコミ報道と2チャンネルグループの内容を一緒には出来ないが、「うさん臭い嫌われ者」として確信犯的に活動するチンポムの「毒」がお気に召さないお上品な方々が、薄っぺらな「社会正義」を振りかざして「いじめ」を行っているように見えた。
【質問3】
ない。
【質問4】
まだ作品を完成していないチンポムの制作途上の出来事とツァイ・グオチャンの黒い花火の作品を比較して違いがあるかどうか判断できない。しかしながら美術界に関わる者の一人として、まずチンポムの作品の展覧会を広島美術館は開催すべきであったと思う。臭いものにふたをする、事なかれ主義はいただけない。その発表の場を奪ってしまっては「ヒロシマ」問題に取り組んだチンポムの制作の意図や真意が広島市民に伝える事が出来ず、アートが不在となり、歪んだ情報だけが残り後味が悪い。
ツァイ・グオチャンは尊敬するアーティストの一人ではあるが、「鎮魂」と名うたわれた黒い花火の方が、チンポムの青空に描かれた「ピカッ」より、はるかに悲惨な事件を思い起こされ、不快の念になった方がおられたのではと心配するのは私の思い過ごしであろうか。それとも、広島賞を受賞した外国人アーティストのアート作品にはクレームを付けられない植民地根性で遠慮したのであろうか。
浅井 隆(webDICE編集長)
【質問1】
謝罪すべきではなかった。
【質問2】
原爆ドームの上に「ピカッ」と描けば大きな反響が起こるのは想像できたはずだし、抗議がくるのは想定すべきだったと思います。そして当然ながら広島は被爆者やその家族が生活している場だという事はわかっているはず。ならば、不快に思う人が現れるというのは想像できたはずだし、その場合、謝罪ではなく説明することを準備しておくべきだったのでは。相手が最終的に納得しなくても、理解しなくても、徹底的になぜ原爆ドームの上の空に「ピカッ」を描く必要があったのかを説明する事が大事だったのではと思います。そして、Chim↑Pomは完成させた作品を展示すべきだったと思います。もし、美術館サイドが展示を断ったとしたらどこかのギャラリーで展示すべきだったと思います。作品を完成させて展示する事がアーティストとしての最大の説明だと思います。
今後Chim↑Pomは過去の作品をどう扱うのでしょうか、気になります。彼らの作品は、それを見る者、それは僕自身も含めて自分が持っている“良識”を後ろから膝かっくんをされているようなものでした。そこに非常に屈折した痛快さを見いだしていました。でも今後、例えば、渋谷センター街で捕獲したドブネズミをピカチュウの剥製にした『スーパー☆ラット』などを展示する際に、ピカチュウのファンからの抗議が来たらどうするのでしょうか。ピカチュウファンの子供から1000名の署名が集まっても展示をするのでしょうか。するなと言っているのではなく、抗議に対して、これはアートだと言いきることこそがアートだと思うのですが。
最後に明らかにして欲しいことは、抗議が実際どのような抗議だったのか、展覧会の中止を求める抗議なのか、それとも脅かしなのか、誹謗中傷なのかそこがよくわかりませんので知りたいところです。以前女子高生コンクリート詰め殺人事件の映画『コンクリート』が銀座シネパトスに抗議が来たため、劇場側が観客の安全を考慮して上映を中止しました。それを聞いてすぐに目に見えないネットの抗議で映画が上映中止に追い込まれてはならないと憤り、その後アップリンクで上映を行うことを決めました。アップリンクは、なぜ上映をするのかの声明をネットにアップしました。そうすると、2ちゃんねるを中心に書き込みが一気に爆発しました。観客、スタッフの安全を考え、ガードマンを配置し上映を行いました。期間中、ネットで書き込みをした人に話し合いを呼びかけトークショーを催しましたが、映画関係者以外では数人がやってきただけでネットで騒いだ人は誰も来ませんでした。 ただ、その時は会社のメールサーバーがストップし業務に支障が出たり、ネット上に「浅井死ね」と書き込まれたりし、上映の安全を確保する責任者としては精神的に追い込まれた記憶があります。事実はわかりませんが今回の件を知って当時の自分の体験を思い出しました。
【質問3】
違いがある部分とない部分がある。
【質問4】
原爆をテーマに空に表現するという行為は同じだと思います。ただ、片方は完成された作品、片方は作品の素材とだという違いがあるし、もちろん全然違うアーティストの行為です。そもそも「ピカッ」という文字ではなく「8.6」という数字だったらどうだったのか。あるいは「ぴ〜す?」だったら抗議がこなかったのかと考えます。