アート批判と書いたけど、その周辺のお話です。
その前に前回書いたデザインについて、「おや」と気付いたことがあったので、それを書いておく。
前回、日本の美大のデザインを学ぶ学科に通い感じた違和感を、「この国の現在の思想なきデザインが指南するのは、消費者への伝達効率を作り手の良心に由来する最良のものとして扱い、しかし、その評価は売り上げによってのみ決まる、つまり、単に『考えるな、買え』という行為を、商品の中身に関わらず促せ、ということであり、それは矛盾である」としてまとめた。「思想なき」デザインというのは、かつての西洋でなされた社会設計のツールとしてのデザインの側面というか、それがそもそもの本質なのではないかと思うけど、そういった視点の欠如がこの国で顕著であるということ。
そこで気付いたのだけど、その「設計」という観点から考えると、大手、例えばヤフオクのサイトとか、楽天のサイトとかは、情報が散らかっていてすごく見づらく、手続きも煩雑だ。オークションでもeBayなんかはもう少しスマートに見えるし、支払いやその他の連絡事項もPayPalの情報とシンクロしていて自動でできる。そうするとこれって、やっぱりデザインの問題だけじゃないのかもしれない。例えばそれは、社会が各個人が自らの関わりの総体としてあるという当事者意識と主体性の希薄さの表れなのではないだろうか。それはつまり、この場合、普遍的なユーザビリティーに対する観念や想像力が稀薄だということなのかなと。僕自身もそれが欠けていることは認めるし、どうするべきか悩んでいる。
以下の本題は、上の話題とも関わってくる。
サブカルチャーをはじめ文化全般についての批評というか総論のような文章に触れる度に、「ポストモダン」という便利な言葉が出てきて、それぞれの現象の行動原理というか必然性の欠如をなんとか補填しようとしているような印象で、それって本当にそうなの?違うんじゃないの?っていう違和感をすごく感じる。
ポストモダンの前提としてのモダニズム=近代という時代区分が、西洋でいえば宗教を基盤とした万人に共通の価値観が崩れたことに由来する、個人が世界と対峙することを求められた時期 — 遡ると市民革命とか産業革命とか自然科学の成立とかがその端緒 — とするならば、日本にそれを単純に当てはめるのって無理なんじゃないだろうか、と思ってしまう。その証拠に、この国では今なお個人が確立せずに空気に流され、あらゆる局面で他力本願でありはしないだろうか。震災後の振る舞いをみても具体的な方策についての議論が必要なはずなのに「絆」とか情緒的な連帯感を煽るような空気が支配的で、その延長で「強い日本」を求めている。そのなんとなくの国に対する思い入れがナショナリズムとして動員されつつあるなと、すごく危険を感じてしまう。
話がそれたけれど、他力本願という点について、強い自戒の意味も込めて書くけれど、文化的な面でいえば、アンダーグラウンドな表現やマイナーなサブカルチャーにおいてさえも、インディペンデントな態度に欠け、少数の人々が例えば音楽レーベルや出版レーベルをつくったとしても、追随する者がいないために、文化の厚みとしての積み重ねができないでいると思う。その少数の気概ある人々の活動が止まると、生きた歴史として認識されずにある種のファンタジーのように伝説として語られる。その歴史性の欠如によって文脈を問わない特殊な表現が生まれるのは、それ自体は面白い現象だと思うけれど、それは別にポストモダンなんかじゃないでしょと思う。そういう立場って、自分たちを世界に共通の現象の一部のように語ることで、実は共通言語を持っていないという事実から逃げてるだけなんじゃないの、とも思う。
僕自身は全く興味のない分野だけど(だからこそそれに対する違和感をきちんと言語化しておきたい)、この国固有のアニメとかマンガとかその他のものに国際的な影響力があるとしたら、それは結局は大昔にジャポニスムとして流行したような、エキゾチシズム的な観点から異国の「工芸品」を愛でるような数ある中のひとつのオプションとしての受容であって、そこに何か普遍性があるからじゃないでしょと言いたい。すこし議論は飛躍するけど、その辺の現象を論点とする限りは、当時にもそうだったように、現在だって西洋のハイカルチャーに対するクリティカルなポジションの獲得にはなり得ないはずなのに、村上隆なんかは、その辺についての海外の人々の無理解があったからこそ、それを巧みに利用した理論武装で成功したのかなという気がする。別に日本のサブカルに依拠しなくたって美術は可能なのになと強く思う。
それはさておいても、クールジャパンだなんだとか言って文化の輸出が貧弱なキャラクタービジネスみたいになっているけど、そういうのは、何かに依拠してるんじゃなくそれ自体が主体であるサンリオのキャラクタービジネスに任せておけばいい。オタク周辺の活況に共感を持つ人々の肥大した自意識はサンリオに負けを認めるべき。
仮に現在の日本の文化がポストモダンの条件を満たしているとして、サンリオ抜きで議論をしないで欲しい。カルチュラル・スタディーズ然とした巧みなこじつけ論に最も相応しい題材だと思うけど。
もうちょっとアートよりのことも書こうと思ったけど、長くなるのでまた次回にします。
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※画像は去年10月に香港で行った個展で発表した作品。全ての要素を数字の組み合わせのみで構成し、かつ元の画像データの配列と、実際の紙とインクと印刷の関係を、空間的、時間的に相互に否定性を持たせるという試みです。ここに僕個人の審美的な判断は、考えられる限り介在していません。つまりひとつの自己否定でもあります。