2014-03-17

『明日ママ』が通した筋 このエントリーを含むはてなブックマーク 

物議をかもした『明日、ママがいない』が先週で終わった。
まずはとにかく、言われるままに途中で打ち切りなんかにならなかったことをよかったと思う。

確かに児童養護施設の運営に携わる人たちや、子供を預かっている里親たちからしたら、
こんなシチュエーションはあり得ない、とか、こんな誤解を与えるような描き方をされたら困る、とか言いたくなる気持ちもわかるのだけれど、
やはりこれはあくまでもフィクションなのであって、
フィクションならばなにをしても許される、という意味ではなく、
メリハリをつけるための誇張や演出は、物語を作るうえではどうしてもついて回るもの。
必要以上に怖過ぎる(でも、根はやさしい)施設長なんて実に古典的なキャラクターだったし、
随所に見られたそういったわざとらしさが、かえってこれが「劇」なんだということをわかりやすくし、なんだか人と人との距離がもっと近かった昭和30~40年代のまんがみたいで、
涙を誘うシーンがありながらも、私には少人数のホームでの子供たちの集団生活の描写が十分楽しめた
(特に、ポストとぴあ美の恋のさや当てとか。ま、これはほとんどはぴあ美のひとり相撲だったけれど)。

それに、いささか力み過ぎのせりふやその後の展開から、
おそらくはクレームに応じて多少の脚本の書き換えはせざるを得なかっただろうことが推察はされるものの、
その割りには最初から最後まで、ドラマの主張したいことは揺るがなかったと思う。

そのひとつが、家族になるのに実際の血縁は関係ない、ということ。

これは、第1話から、母親に捨てられたドンキにポストがはっぱをかけるために投げつけた言葉に示されていて、

「血のつながりに頼って、すがって、(親の)都合の悪い顔は見ないふり(か?)。
 どんなにいいコにしたってママは戻らない(よ)!」

というせりふは、親の勝手でふり回されるくらいなら、親なんて相手にするな、といったような意味であって、
それがいささかセンセーショナルなキャッチコピーの

「捨てられたんじゃない、わたしたちが捨てたんだ」

の意味するものでもあり、
別の女の子ボンビも、実子にこだわって不妊治療に苦しむ夫婦に、
血のつながった子供でなければ育てる気になれないのか、という問いかけをぶつけるし、
おそらく最終回より盛り上がった第8話での、肉親と養親とを目の前にしたドンキの最終的な選択につながっていく。

あの、「私はコウノトリです」のシーンは、言われたほうにとってはすごいいやみでしかなく、屈辱的だとは思うけれど、それだけに自分の非を思い知らされるものでもあって、後々の改心を引き起こさせるものとなり得るかも知れない。

もちろん現実はこんなに簡単なものではない。
肉親をふり切ることなどそうたやすくできるはずもなく、
仮にふり切ることができたとしたら、その子はその後もずっと罪悪感や不安感に悩まされることになるのかも知れない。
しかしこれはそういったリアリティを追求したドラマではなく、
群像劇で困難に見舞われた子たちの生き残る道や、ほかの可能性を示しているものなのであって、
好き勝手ばかりしていたら親のほうだって捨てられることがあるんだよ、ということを、親世代の視聴者によく示していたと思う。
それに、たまたまこれを見ていた肉親との問題を抱える子供がいたとしたら、その子にもいざとなったら親をふり払うことができる、という解決策を提示することになったかも知れない。

おかげで私は、もう40年以上も前に見たテレビドラマの、解せなかった結末に今頃やっと納得がいきました。
それは、NHKの少年ドラマシリーズの『とべたら本こ』で、
原作は山中恒による同名の児童文学であり、
あれも児童虐待に苦しむ少年が、最後には確か鬼ババのような母親から逃げ出して、別の家の子供になることで救われるのだけれど、
当時、まさにまだ子供でしかなかった私は、そんなに簡単によその家の子になれるものだろうかということが心に引っかかった。
でも、『明日ママ』で親の身勝手ぶりを見せられると、その正当性が実によくわかる。
そして、何人かの人があちこちで書き込んでいるとおり、現実に子供たちが直面させられている問題はこのドラマどころではないだろう。

その『とべたら本こ』も、もう50年以上も昔のことなのに、出版当時は家庭崩壊や少年の陰惨な心理を描いたということで、子供に読ませるものではない、と問題になったそうだ。
確かにその物語には夢もへったくれもなく、動物を虐待するシーンも出てくるので、私が子供の時に原作を読んでいたらきっと好きにはなれなかったと思う。
それでも、作者は子供たちに現実で起きていることを考えてもらいたくて、
敢えてそのような物語を書いたことを、後書きで読者である子供たちに向かって明かしている。

『明日、ママがいない』もそのようなもので、娯楽作よりの演出ながらも、十分社会での問題を考えてもらえるドラマになっていたと思う。
しかもどちらかと言うと、子どもたちに向けてというよりも、親世代に向けてのものになっていた。
もし、子供がほしいと思いながらも、養子縁組をすることに二の足を踏んでいるような夫婦がいたら、
このドラマは養子縁組という選択肢を身近なものとすることにも、それなりに役立ったのではないだろうか。
よくも悪くも血のつながりにこだわり過ぎると、人は幸せになれない。
家族の形態に対する人々の認識が徐々に変わっていくことが、
児童養護施設団体や里親の会などが危惧していた、
養護施設にいる子供たちへの偏見や差別をむしろ少なくし、傷つく目に遭う機会を減らしていくのではないだろうか。

放映の中止や内容の変更を要請した人たちは、
日々、心身に傷を負った子供たちに寄り添っているからこそそう思ったのだろうとは思いたいが、
このドラマがわざと子供たちをたくましく描こうとしたように、
はれものにさわるように接することだけが、子供を守ることにはならないのではないかと思う。

要請に負けてテレビ局がドラマを中止していたら、おそらく世の中にとってこのドラマの存在はなんの足しにもならなかっただろう。
ともかく、話を曲げずに最後まで放送してくれてよかった。

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Reiko.A/東 玲子

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“human/cat also known as Nyanko A 人間/ねこ。またの名をにゃんこA”


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