2013-08-12

『わたしはロランス』クロスレビュー:求めあうもののために葛藤する姿の美しさ このエントリーを含むはてなブックマーク 

これを単なる「トランスセクシュアルの男性とその彼女の鍛錬の日々」を描いた映画であると解釈しては勿体ない。
男も女も「アブノーマルな自分」を選択して生きている。そういう自分を肯定し、満足して生活していた。しかし女は受け入れられなかった。愛する彼が「女になりたい。」という気持ちを抱いていることを。そしてそう振る舞うことを。
つまりそれまで彼らが認識していた「アブノーマル」とは、社会で認識されている普遍性からわずかに跳躍する程度のことであった。「普通」という安定した環境のなかで自由に跳躍したつもりでいたのが冒頭のロランスとフレッドであった。しかしその根底に敷かれている「普通」という概念を覆す人物を人々は忌避の対象とする。そういう社会の中でもがく恋人たちの姿が多種多様な手法によって表現されたのがこの映画だ。
色彩の豊かさばかりが目立つように感じるが、これが観客を単に傍観者にすることはない。
このはじけるような色彩の移り変わりがシーンの移り変わりに独特のリズムを生み出し、そのリズムが登場人物たちの一触即発の心理状態に重なって観客の感情を高ぶらせている。作品中に使用されている音楽も多様で一見何の脈絡もないようだがこれも同様の働きをしている。カメラワークも特徴的で、無駄がない。余計な外観を取り入れることなく人物の表情をスクリーンいっぱいに映し出す。こういった斬新で挑戦的な手法をとりながらも人物の繊細さを引き出す作品を生みだしたドラン監督に脱帽である。

30代、40代あるいはそれ以上の大人を描いているが、これは現代の若者にも匹敵する。
爆発的だが繊細で傷つきやすく葛藤が絶えない。「普通ではない」ことに憧れるが同時に「普通であること」から大きく跳躍することを過剰に恐れている。そういう常に綱渡り状態の若者たちの姿がロランスとフレッドの関係性に重なる。

168分は決して長くない。性同一性障害の話だとか、やたらカラフルで非現実的だとか、余計な先入観を捨てて観てほしい。真に夢中になるもののために足掻く姿は美しいものなのだ。

キーワード:


コメント(0)


Ayuka Ikado

ゲストブロガー

Ayuka Ikado

“「リアル」な映画を求めて。”


月別アーカイブ